第七四話 ~最高に幸せな日々のおしまい~
「それじゃあ、行ってくるわ。
みんな、私がいない間は山波村をよろしくね」
「ええ、お気を付けて。
もっとも、それだけの護衛があれば何の心配もしておりませぬがね」
「ふふん」
「こっち見んな」
山波村の北の出口。
村長であるナルミが、村の外まで出向くのはかなり珍しいことだ。
側近の源辺綱を筆頭に、お屋敷の使用人達が総出でお見送りである。
ナルミの旅立ちに同行するのは、雷神巫女のアンズに加え、先日のイナリ姫護送で八面六臂の大活躍であったコナツ。
そして、普段は山波村の警邏の長を務める武士、浦部武季。
アンズにタケおじさんと呼ばれて親しまれる彼は、一線を退いた今も尚、京でも未だその武勇が忘れ去られぬ傑物である。
たった三人の護衛だが、ナベツナが何の懸念もしておらぬとおり、山波国でも指折りの頼もしさを誇る者が、三人も揃い踏みした絵図なのだ。
どうだ私ここまで言われるほど凄いんだぞ、と、コナツに得意顔で胸を張るアンズの行為に、とりあえずやっておこうじゃねえよとコナツも呆れ顔。
「是非とも満喫した旅を。
そうそうある機会ではないですぞ?」
「ええ、ありがとう。
それじゃあ行ってくるわ」
お上品に手を振って、村を出る方へと歩を進めていくナルミ。
その左右にアンズとコナツが並び、タケスエがその後方を歩く。
前と左右を若く勘の良い二人が目を配り、後方をタケスエが護る並びだ。
万が一もあってはならぬ貴人を、目的地まで安全に届けるための構えとして、最低限かつ上等な少数精鋭、盤石の布陣である。
「嫌になっちゃうわ、一人の女が村を出るだけであんな大仰な。
人目を惹いて恥ずかしいったらありゃしない」
「それはほら、お母さんって偉い人だから。
私だって、お母さんが村を出発するってなったら見送りには来るよ?」
「それはあなたと私だからっていうだけでしょ。
ついでに見送るだけじゃなく、ついて来たがる姿が目に浮かぶわ」
「今日はついて来れてる~!
わくわくとうきうきが止まんないですが!」
「もう~……」
均されて広い、歩きやすい北向かいの道を進む中は、楽しいお喋りの時間がずっと続くのみ。
ただでさえお喋りなアンズが、大好きなお母さんとの旅行ということで、浮かれ気分も最高潮で普段以上に饒舌。
大袈裟な見送りに若干お疲れ気分であったナルミも、自分と一緒だというだけでこんなに喜ぶ愛娘の笑顔を前にすると、毒気を抜かれて顔も弛む。
楽しい楽しい家族旅行は始まったばかりだが、満たされた時間がずっと続く予感しかしない。
「ナルミ様って御貴人なのはそうなんでしょうけど、あれだけお慕いされるのって、やっぱ人徳あるんですね。
みんな忙しいだろうに、一人も面倒そうな顔するどころか、心から楽しんできて下さいって感情が溢れ出てましたし」
「や、やめてよぉ、コナツ君……
そんな言われ方するほど私、大層なものじゃないわ……」
「むっ、コナツ今日は随分と普通に話すじゃないか。
昨日お母さんと喋ってた時は緊張してたくせに」
「今でもちょっとは緊張してるよ、凄く偉い人なのはわかってるし。
でも話しやすいんだよ、流石はお前を育てたお母さんだわ」
「え、それ私も褒められてる?
やるじゃないかコナツ、その御機嫌取りの上手さはもてるぞ」
「お前のじゃじゃ馬っぷり見てるとお母さん苦労してそうだけどな」
「なにおー!?」
食って掛かりたいアンズだが、ナルミが間に挟まってるから手が届かない。歩きながらでは母の邪魔になる。
コナツはその辺りも計算済みだよとばかりに、ふへっとばかりに手を出せぬアンズを眺めている。
顎をちょっと上げて見下すかのように。挑発もお上手。
「そうなのよ~、苦労するのよ~。
向こう見ずだし、日頃から心配で心配で……」
「ね~、そうっすよね~。
俺もこいつと一緒に行動してる時、たまに気が気でないですもん」
「こるぁコナツぅ!
な~にをお母さんに取り入ろうとしてんだっ!」
「してねぇよ、仲良くなってお前の弱味とか聞けたら面白いかもなとはちょっと思ってるけど」
「あら、そんなことでいいならいくらでも教えてあげるわよ?
この子、好き嫌いしないけど茄子だけは……」
「待って待って待って!?
お母さんなに普通に喋っちゃってんの!?」
「おいおいアンズそれ本当か?
お前クマリに好き嫌いするなって言ってんの見たことあるぞ?」
「だまれっ!!」
「それにこの子……」
「だまってくださいっ!!」
「アンズ邪魔すんな、ナルミ様、続きを……」
「だまれーーーーー!!」
獣や賊を呼びかねない、うるせえ女の喚き声。優秀な護衛とは何ぞや。
何が来ても怖くない表れと余裕である。妖が来てもしばき返せる二人。
アンズとコナツの武勇を知るナルミは、そうでなければもう少し静かにね、と咎めもするであろうが、この二人ならば好きなようにさせるのみ。
厄介を呼び寄せぬよう、人里の外はなるべく静かにすべしという旅路の鉄則を破ることも厭わぬのは、それだけ信頼しているという証である。
貴人の立場で、そうは経験すること叶わぬ賑やかな旅。
顔を真っ赤にして声を荒げるアンズと、そんな彼女を指差して悪い笑いを浮かべるコナツに挟まれて、若い二人の楽しげなやりとりと共に歩く旅。
振り返らずともわかる。寡黙で無表情なタケスエが、幼い大人の顔になった二人を眺めて微笑ましい想いでいることが。
一応、振り返ってみた。タケスエの顔はやはり無表情であった。
付き合いも長いんだから私にはわかるわよ、とタケスエに微笑みかけるナルミに、顔こそ変えぬもタケスエは、お察しのとおりだと小さく頷いてみせた。
なるほど、確かに無言でも通じ合える、長き主従の間柄だ。
「京に来るのも久々だなぁ。
昔は賊やらとっ捕まえて、引き渡しに何度か来たこともあったけど」
「あ、だからか。
コナツきょろきょろして物珍しそうにしてたもんね」
「誰が田舎もんだ」
「田舎者でしょ。
ちなみに私も田舎者だけど」
「先に言って予防線張ってやがる。
さすが小賢しい田舎もんだぜ」
「ふふん、怒らないぞ。
山波国の田舎者はおおらかなのだ」
ナルミの歩幅に合わせたゆっくりとした旅路の末、アンズ達は山波京に到着していた。
ナルミは今、タケスエと共に皇居へ御挨拶に参じており、二人は京を練り歩いているところである。
京は広くて華やかだ。
田舎者括りなど抜きにしても、摂泉村のような都育ちの者であろうと、物見しながら歩くだけでも楽しい雅さを擁するのが京である。
その華やかさを語るにあたっては、道行く人の着物の鮮やかな色合いであったり、朱塗りの高級店が華を添えるなど、論えるものは沢山あろう。
しかし、何気なくして最も京の美しさを象徴するのは、極めて精緻な均整を以って建物の並びと、いずれも綺麗に直角に交わる道。
空から見ずとも、碁盤の目の如く綺麗に並ぶ街並みは、地上で見通しても京の美しさを物語るには充分だ。
円や正方形といった、完璧な図形を道具を使わず綺麗に描くことが出来ると、なんとなく嬉しい感覚を覚えたことは無いだろうか。
美しい幾何にはただそれだけで、人の心に美を伝える魅力がある。京の街並みは、その完成度のみで以って人々の心に美を感じさせるものがある。
「今日は平気そうに歩いてるな、アンズ。
前に大奈村を歩いた時のあの感じじゃねえんだな」
「前もって気構えが出来てればね。
いや、恥ずかしいんだよ? だから指摘しないで、意識したくはないから」
『いい加減に慣れんかね?』
(即刻廃止を求めます。ずっと求めてますけど)
そしてアンズは、やはりこうした人の多い場所を歩けば人目を惹いてしまう。
慣れた顔して平気なふりをしても、本音を言えば慣れてなどいない。
こちらから見渡しても、二の腕より上まで、太ももの上まで肌を晒して往来を歩く女性はいない。アンズの巫女服はどうしたって相当に奇抜なのだ。
いつ女衒に声をかけられやしないか、声をかけられたらどのように断ろうかとは、余所の大きな人里に訪れるたびアンズが常に危惧する悩みである。
「それにしてもナルミ様も大変だな。
遊びに行くだけなのに、実家にわざわざお伺いが欠かせないなんてさ」
「"詠開き"はちょっと特殊だからね。
招かれたい人は京にこそいっぱいいるから。
断りを入れておかないと後で揉めかねないんだよねぇ」
山波村から山波京は比較的近いのだが、それでもここへ寄らざるを得ないこの旅路で、一日を使うことになるのは大きな寄り道。
それでもナルミは、京に寄らぬわけにはいかなかったのだ。
政治的な話である。コナツもアンズも、気苦労察するばかりである。
"詠開き"とは、庶民も詩を楽しんでみよう、という趣向ありきのお祭りめいたものだが、詩を詠み慣れていない庶民には敷居が高い。
となれば、お手本を見せられる歌人が必要となる。
それにうってつけなのが、普段から詩を詠んでいらっしゃる、京の御貴族様こそ筆頭。
武芸を習うなら武士様に、という認識に等しく、詩を詠み慣れた御貴族様はそれに相当する先人ということだ。
であるからして、近き隣国で詠開きなるものが開催されるとなれば、御貴族の皆様も色めき立つというものだ。
自分の作ったものをお披露目できる好機。しかも、詩をあまり知らない庶民に、これが詩というものなんだと感心の目を向けられることが約束されている。
有り体に言えば、たいそうちやほやされる。日頃からの趣味で楽しんでいる知見を、披露するだけで持て囃されるということだ。そりゃたまらんわな。
そんなところに、今年の詠開きに招待されるという栄誉を授かったのは、京の御貴族様ですらないナルミという話。
これはやっかまれる。御貴族様は自尊心も強いから若干めんどくさい。
籍を抜いたとはいえ元皇族様のナルミに対して、異論まで唱える者はいないのだが、燻ったものは残るだろう。
里帰りついでに、皇族や上級貴族を前にして、出来の良い詩を詠み、腕が錆び付いていないことを示していく手間が必要なのだ。
流石に元皇族、その手の教養には事欠かぬ上、才覚にも恵まれたナルミである。
どうせなら私を招待してくれれば良い詩を披露したのに、と拗ねる貴族を黙らせるには、彼女の詩を残していくことが何よりの説得材料となるそうな。
そうして、やはりこの人が招待されるのは妥当であり、私達もまだまだ敵わないなと思わせることで、後の禍根をも断つことが出来るという。
京の現役御貴族様を招待することをしなかった近滋国の顔を立てる意味でも、これだけは欠かせない。
単に隣国の催し事に赴くだけの旅のようでいて、あるいは大きな催し事ほど、その水面下では色々と大変なのだという好例である。
「詩と言えば、イナリ姫様いらっしゃるでしょ。
あのお方も、詩を詠んだら大人顔負けの句を作るんだよ。
元旦のお母さんの里帰りでイナリ姫様の詩を聞いたけど、私でもわかるぐらい風流だったからさ」
「私でも、ってことはアンズはあまり詩はわかんねえ口か」
「私は駄目だねぇ。芸術は全般的に駄目。
自分で言うのもなんだけど、神事以外に興味持てなさすぎて育ちません」
『あぁ~、嘆かわしい。
詩は良いものだぞ。良いものなのに。
お前とは生涯その愉しみを共有できんのだわ。主神は寂しいぞ』
(もう勘弁して下さい……
頑張って何とかしようとした時期もあったでしょ……)
「素人なりに詠んでみたりしてくれねえの?」
「私の詠む詩?
……どーせコナツ、わかんないでしょ」
「その逃げ方、ほんとに不得意なんだな」
「死んでも詠まないからね。
何言ってんだこいつ、って目で見られるのは本当につらいんだよ……」
子供達に絵を描いて見せたら馬鹿笑いされる、詩を詠んだら意味不明で白けられる。アンズは芸の才はからっきしである。
自分が心から興味を持つこと以外、どう頑張っても芽が出ない子なのだろう。
現にそれだけ芸術は駄目駄目でも、太鼓だけは完璧に打てる。彼女が胸を張れる唯一の芸は、神事に絡めた音楽というところ。
「イナリ姫様のことはまだ苦手なのか?
こないだ、すげぇ怖がってたけど」
「あ~、うん、それは多分一生治らないと思う……
色々あるんだよ、ちょっと因縁あってね。
とはいえ、イナリ姫様は悪くないし、私も悪くないとは思ってるんだけど……」
「それ、何があったのか興味あっても俺が聞いてもいい話?」
「あ、あぁ~……問題は、無いと思うけど……
皇族様も関わってる話だから、私の口からは話しづらいかな……」
「そっか、わかった。
じゃあナルミ様かタケスエさんにでも聞くよ」
「……別に私は聞かれても困らないけど、そんな気になる?」
「友達がなんかすげぇしんどそうにしてんだぞ。
何があったのかなって気にはなるだろ」
「…………も~、コナツってばそういうとこがさぁ」
「いや、まあ、僭越かもしれないけどさ」
そうではない。褒めたのだが。
とはいえ、アンズも敢えては訂正しない。
今のは今まででも胸に刺さった方なので、アンズもコナツのそういう所が好きなんだよとは、なんだか妙に言いづらくなってしまったようだ。
こういう時は話題を変えてしまうに限る。今の感情はなんとなく察せられたくない。
「詠開きではお母さんがお手本の詩を詠んでくれるからそっちを楽しんで。
上手な素人じゃなくて、正真正銘本職の逸品のはずだからさ」
「はず、ってことは自分の感性ではよくわかんねえってことじゃん」
「わかんないよ?
何か文句ある?」
「わかったわかった、悪かったよ。
流石にいじり過ぎた」
「串焼き奢って」
「はいはい」
膨れっ面のふりするアンズのおねだりに、コナツも苦笑いで財布を出す。
空気は一新できた。顔に出やすくてわかりやすい奴と言われやすいアンズだが、その上でなお、本当に隠したいことは隠しきる巧みさは案外たいしたものだ。
「あ、美味しい。
コナツも食べる?」
「奢って貰ったもん差し出してくるのは気前いいんだかどうなんだか」
「そんなこと言うとあげないぞ?」
「ごめんって、いただきます」
目についた串焼きを売る店で一本奢ってやれば、半分だけ食べて残りをコナツに返してくれるアンズである。
コナツも何一つ意識せず、アンズが串を持ったまま差し出してくるものを齧る。
口をつけたものを男女間でやり取りして、照れもしない。そういう概念がまだ無いのだからしょうがない。
「それより、クマリの奴は誘わなかったんだな。
お前だったらこういう旅行、俺より先にあいつ誘いそうなのに」
「あ~、クマリはこないだ摂泉村に一人だけ連れて行ったからお預け。
桑原村の子供達の中で、あの子だけ贔屓目にするのも限度ってあるから。
ほんとは一緒に来たかったけど、今回の話はしてないよ」
「なるほどな。
みんなに優しくする立場ってのも色々あるんだな」
「特に子供達に対してはね。
私とクマリの特別な関係のことはみんなわかってくれてるけど、あんまりそれに甘えてばっかりも良くないからさ」
何気ない話を、どれだけ話題が変わっても、途絶えさせることなく京を歩く二人。
お母さんと一緒に旅行が出来るだけでも楽しいのに、こんなにいくらでも気兼ねなく話せる友達もいる。
絶対、ずっと楽しい。コナツと談笑しながら歩くアンズは、もう周りの目なんか気にならない。
今だけでなく、明日以降もこんな時間がずっと続くんだと思ったら、アンズの心が躍るのも当然というものである。
その夜、アンズとコナツは京の宿にて一夜を過ごす。
ナルミとタケスエは内裏に泊まるのだが、流石に二人も同じ場所で寝泊りは出来ないから。
アンズがこの旅行で不満に思う時があるとすれば、この夜のように一人になった時だけだ。
当然コナツとは別部屋なのだが、襦袢に着替えて布団を敷いて、そばに誰もいない静かな夜が、なんだかちょっと寂しくて。
お母さんと笑い合った時間、コナツと一緒に晩ご飯を食べた時間ばかりが脳裏を駆け、一人の夜がこんなに寂しいのも久しぶりな気がする。
察して下さったのか、テンジン様が少しの間は話し相手になってくれたりもして、それでかえって贅沢になった自分を自覚したりもする。
両親を喪って、寂しくてたまらなかったあの日のような、気を抜けばじわりと目が潤む、あの日のような夜はもう無い。みんながそうしてくれたのだ。
大丈夫、寂しくない。
明日も、明後日も、そのまた明日もナルミやコナツ、タケスエさんと一緒。
私は、天下無双の幸せ者。つくづくアンズは、そう思う。
「あ、あのぅ……お母さん……?
これは、何の騒ぎでしょうか……?」
さて、翌朝。
京を出発しようとしたアンズだったが、西へ京を出る門の前に、七人の武士様と三人の陰陽師が集っている。
アンズにとっては妙な既視感を覚える光景。コナツもだ。
こんなに腕っぷしの立ちそうな武士様が、こんなに京の出口に集まっている動機など、大きく分けて二つしかない。
出征か、護送待ちか。
前者にしては人数が少ない。
しかも、その十人の中に、アンズもコナツも一度親しくさせてしまった人物がいるので、それを見ると後者の予感しかしない。
「……私も知らないところで、話が進んでたみたい」
「なにが?
ね、ねえ、なにが?」
「すぐにわかるわ……」
ナルミも頭を抱えるかのように、額に手を当てて下を向く。
なんだかアンズに詫びているかのようにすら見える。
そんなお母さんの反応も併せて、アンズの背筋がぞわぞわし始める。
「あの~、コガラシのおっさんとユキタダの兄さん。
これはだいたい、お察しのとおりだと思っていいんですかね」
「ユキタダは兄さんで俺はおっさんか。
お前のそういう忌憚の無い物言いは好きだぞ」
「いててて、頭がしがしすんのやめて下さい」
「……巫女の少女には気の毒だが、お察しのとおりだよ」
そして、アンズがきょどきょどし始めたその矢先、決定的なものがこちらへ進んでくるのが見えた。
人足に担がれた籠。中に誰かがおわすのは明らか。空っぽなはずがない。
その籠からは、アンズの嗅覚がびしばし感じ取ってならぬ、危険な匂いがぷんぷんする。
いや待って、嘘でしょ、なんで? と、籠の中の人物が誰かも確かめぬまま、不思議な確信のあるアンズが凍り付いている。
そしてその籠が、アンズ達のそばまで辿り着いたところで地に足を着け、周りの武士と陰陽師が跪き、年長者コガラシが籠の垂れを人足が上げる。
顔を見せた皇族は、籠の前に置かれた草鞋を履きながら土を踏み、お淑やかな所作、足取り。
ナルミもコナツも相手が相手だけに跪くが、アンズは膝を付くべきその場面で、未だがちがちに固まりっぱなしで棒立ちだ。
「お姉さま、お立ち下さい。
貴女にそのように傅かれると、あまりに恐縮で息苦しゅうございます」
姿を見せた皇族様は、敬愛してやまぬナルミに真っ先に近付いて、自ら姫様の衣の両膝に砂をまみれさせてでも低く座る。
真の皇族にそう仰られては、ナルミも困った顔をしながらも、芍薬のように気品のある立ちずまいを見せる。
頭を垂れて改めて一礼するナルミに、その皇族様もまた、勿体無い所作ですとばかりに同じように頭を垂れていた。
つくづく、こうして見ればアンズ以外対しては、本当に皇族様らしく華のような振る舞いを見せるお方である。
だが、それが立ち上がってアンズへはっきりと向き直り、ぎらりとした眼差しに豹変した瞬間、それはもはや別人と化す。
幼き少女のような風貌でありながら、憎き相手を眼光だけで恫喝する姿は、地位を鑑みずとも大人でも寒気を覚えるほど恐ろしい。
実年齢は十五歳、風体は十歳ほどに見え、しかしアンズに差し向ける気魄だけは、かの大商人ソウサイにすら劣らない。
「……その頭の高さ、妾のことを見くびっておるのか?」
「ひっ!?!?!?
も、も、ももも、申し訳ございまへん、っ……!」
高いはずの地声で、底冷えするほど低い声。
その一撃で凍り付いた身体が一瞬で溶け、ぶわりと脂汗を流したアンズは、もはや自らを地面に叩きつけにいくほどの速度で平伏した。
両膝をつき、背を丸め、両手を前に地面に置いて、額にまで砂を塗って。
土下座にも等しいその姿に至りながら発した声は、震えていて裏返っていて、恐怖のあまり渇き過ぎた喉のせいで掠れてすらいた。
「よいよい、赦そう。
これよりしばし、そなたと共に過ごせる数日間を思えば、少々の無礼にも目を瞑る度量は欠かせぬであろうからのう」
一瞬で追い詰められたアンズの姿を見下して、たいそう機嫌を良くしたイナリ姫の声が、アンズの耳から入って頭の中で反響する。
これよりしばし――そう仰るイナリ姫の言葉は、近滋国へと向かうアンズ達の旅に、イナリ姫が共にするということ。
いったいどうしてこうなった。
そんな当たり前の疑問すら、頭が真っ白になったアンズの脳裏には一文字も駆けなかった。




