第七二話 ~化け始めた桑原村~
「ね? 凄いでしょう?
成果は上々ですよ」
「いや本当……ここまでとは……
子供が吸収早いのはわかったつもりでしたけど……」
ある日の桑原村、山を挟んだ山波村の隣村でのこと。
馴染みの商人、カムロと共に桑原村を訪れ、クマリをはじめとしたこの村の子供達に会いにきたアンズであったのだが。
今日は、たいそうびっくりした。これほどこの子達に驚かされたのは初めて。
唖然とするアンズの頭上に座るテンジンは、思いがけぬほどの"成果"に、たいそう嬉しそうに手を叩くばかりであった。
きっかけは、カムロから桑原村への護送依頼が舞い込んできたことだった。
最近、護送依頼が増えに増えて引く手あまたのアンズであったが、久しぶりの旧知の商人の依頼を優先し、今日は彼を桑原村まで連れてきた。
その気になれば、カムロは自前の護衛と共に桑原村へ赴くことも出来るはずなのだが、ゆえにこそ敢えての依頼には、何らかの他意が感じられた。
興味を感じたアンズが、今日はこの依頼を選んだということである。
すっかり流通するようになり、安く仕入れて安く売れるようになった平独楽を、桑原村に沢山持っていくというカムロの提案が魅力的だったのもあるが。
何ヵ月か前に、カムロの桑原村への護送をきっかけに大変な出来事に至ったことなど、とうに過去のことかつ、あれは偽物と信じられるので懸念も無い。
さて、気前が良い上にはるばる隣国から訪れてくれて、様々なものを仕入れさせてくれるカムロの評判は、桑原村において非常に高いのだが。
そんな定評とは無関係の儀式みたいなものが、毎回カムロを迎え入れるらしい。
「こんにちは~」
「どうも~。
禿げ商人です~」
「!!
アンズお姉ちゃん……と、カムロだっ!!」
「カムロさんだーーーーー!!
カムロさんが来たぞーーーーー!!」
「クマリ隊長ーーーーー!!
カムロさんが来たぞーーーーー!!」
アンズと共に、牛車を連れて入村したカムロを目撃するや否や、子供達がでっけぇ声でクマリを呼ぶ。
最近かなり人数を増やしている、桑原村自警団の子供達だ。ごっこ遊びが随分流行っているようで。
まるで賊が現れたかのような騒ぎぶりだが、子供達の表情に怖いものを見た色は無い。むしろ楽しそうですらある。
カムロが来たらクマリ隊長を必ず呼ぶ、という自警団の決まり事を守り、大声出せることを楽しんでいるだけのご様子。
たちまちクマリが駆けつけてきた。
すっごい速度で畑を横切ってまで。
しかもカムロを迎える時専用の、えらく物騒な武器を両手で抱えての登場だ。
「かえれ! はげ!」
「クマリ、まだあの時のこと引きずってる……?
というか、随分とえぐい武装だねぇ……」
「まあまあ、そう仰らずに。
今日もいいものを仕入れてきたんですよ。
美味しいものも沢山ありますよ?」
「あっ、ちかよるなっ! さわるなっ!
おまえのめつきがきにくわないっ!」
慣れたやり取りなのか、カムロは特に動揺することもなく、腰を曲げて手もみしながらクマリに歩み寄る。
クマリは後ずさり、両手で抱えた殺傷能力の高い武器を、ぶんぶん振り回して近寄るなと警告する。
女の子が持つには少し大きい、梁のような四角く長い角材の先端に、乱雑に釘を何本も打ち立てた凶器である。
これで人を殴ったら大変なことになる。凄まじい裂傷と流血が確定する。
和大国全土を見渡しても、未だ誰も思い付いて形にしていないような発明品だが、誰が考え出したのだろうか。
クマリだとしたらやはり彼女は天才かもしれない。時代を先取りし過ぎ。
「水飴、ありますよぉ?
ふふふふ、農民の皆様にはなかなか手の出ない逸品でしょう?
今日は皆さんに一つずつ配ろうと思っているのになぁ」
「ううっ……きたないおとなめ……!
かんみでろうらくとはひきょうな……!」
「あなた本当どこでそんな難しい言葉仕入れてきてるのよ」
ふしゃーっと興奮した猫のような形相でカムロを威嚇するクマリだが、気迫を出そうとしても可愛さが勝つので何の威力も無い。
甘味をちらつかされて怯んだら尚更である。釘角材も降ろしてしまう。
ただ、改めてカムロが歩み寄ろうとしたらまた角材を振り上げ、触れられることだけは断固拒否。
かつてアンズお姉ちゃんを追い詰めた偽カムロの記憶とは関係無しに、うへへへとにやにやした顔で寄ってくるこのおっさんは、生理的に受け付けないらしい。
年下好きのカムロであることは知っているアンズだが、クマリを見つめるカムロの横顔を見ると、クマリの反応も宜なるかなとも思う。
可愛い幼女が姦言に屈服する姿に興奮しているようにも見えるのだもの。アンズの中でカムロの点数が下がった。
「しかたない、とおっていいぞ……!
あめをよこせ! みかじめりょうだっ!」
「はい、どうぞ」
「れいは言う! ありがとう!」
アンズはクマリに難しい言葉を教えているのは主にカムロな気がしてきた。
みかじめ料とはまさに、ソウサイやヤシマといった最強の後ろ盾が幅を利かせる摂泉村でこそ飛び交う単語であり、カムロもよく支払っているはずである。
牛車と共に村の真ん中へ向けて進んでいくカムロを、クマリは見送りもせず水飴をもぐもぐ。
甘くて美味しい。機嫌は一瞬で直った。
ちなみに水飴は御貴族様への献上品としても通用するほどの超高級品だ。
こんなものを子供達に、銭も頂かずに配るなど、カムロの太っ腹ぶりは損得に敏感な商人のそれを超越しているとさえ断言できる。
村の大人達ですら、二十年遅く生まれていればなぁと羨むほどの品であろう。
満面の笑みを眺めるためなら大赤字をも厭わない、カムロの人の良さが垣間見えるほんの一幕だ。
現にクマリの横を通る際、甘味に幸せそうなクマリの横顔を一瞥するカムロの表情は、下心一つ無く、幸福な子供を微笑ましく見守る大人の顔に過ぎなかった。
「ねえクマリ、それで人を殴っちゃ駄目だよ?
いくらなんでも残酷過ぎることになっちゃうよ」
「だいじょうぶ。
これでひとをなぐるようなげどうは、むらはちぶにするときまっている」
「ああ、そうなんだ。じゃあいいよ。
いいけど、それはそれで何のためにこんなもの作ったの」
「さんぞくが村をおそったらようしゃなくぶちころす。
あいつらはひとじゃない」
「そっか~。
ちなみに、その釘角材を最初に作ったのは誰?」
「わたし。
おとなもじえいのためにりょうさんしてる」
「こっわ……」
釘の林を頭に持つこの角材の残酷さは、子供達ですら理解しているようだ。
ただし、人の形をしているだけのけだものには、容赦なくこれでいくらしい。
凶賊を人間と見做さない価値観は、アンズも共感するところである。
いつ訪れるかわからぬ飢饉や貧困で命を落とすかも知れぬ運命に怯えながら、作物や財産を築く者の懐に、刃をかざして手を突っ込む奴なんて人間やめてる。
アンズは偸盗に対してかなり厳しい価値観を示すが、農民の皆様はもっとである。
泥棒は基本的に死罪まっしぐらなのだ。出来心など一切通用致しません。
桑原村は、クマリの革新的な発明により高威力の武装を入手したようだ。
釘はどこから仕入れているのだろうか。十中八九カムロな気もするが。
なんだか最近、桑原村が変な意味で先進的になってきた気がするアンズ。
だが、先進的という言葉で飾るなら、そんなものはまだ序の口だ。
アンズが心底びっくりしたというのはこの後の話である。
「番号!
壱番、へこすか!」
「弐番、はみみん~」
「……参番、あままらま」
「二人とも元気ねーぞ!
号令だぞ!? 俺達がしっかりしなきゃ……」
「うるせーのよあんた、えらそうに」
「……へこすかは黙ってて」
「いててて!?
なんで副隊長にこんな仕打ち!?」
カムロが大人達との商談に臨んでいる間、暇なアンズのそばには子供達が寄ってくる。
桑原村の子供達の中で、最も人望を集めるクマリが敬愛するアンズお姉ちゃんというのが、この村においてもアンズが名高くなる最大の根拠だ。
アンズ相手の幼い言動からは少し想像しづらいが、クマリはそもそも面倒見も良く、村の中ではみんなのお姉ちゃんとして慕われる立場である。
両親もいないのに独りで過ごし、遺された畑をちゃんと自分で耕し、余った時間は隣人の畑の手伝いも厭わない。
滅私奉公を旨とする巫女アンズの生き様を模倣したと言える様ではあるが、十歳でそれが出来ていれば大人にも一目置かれて妥当であろう。
そんなクマリの師匠とも言えるアンズへと群がる子供達。
調子乗りの へこすか が、はみみん と あままらま にげしげし蹴られる光景は、多少乱暴だが気の置けぬやり取りとして微笑ましくもある。
ただ、アンズを前にして集まった団員で点呼を取るだけのこの一幕の時点で、アンズは既にやや驚きの顔が出始めてもいる。
「肆番、ぺんたりむです!!!!!」
「伍番、めけもこ!」
「陸番、けもちです……」
「漆番、さかまろすだよー!」
「捌番、おけけけ……ふぁぁ、ねむいよぅ……」
「玖番、がぎげろがです」
この後も自己紹介めいた団員らの点呼が続くのだが、変な名前が多いのは大きな問題ではない。
子供が普通に数字を口にしている。順番を理解した上でだ。
そうした教養を山波村に浸透させるため、筆場を開いたアンズをして、隣村でこんな革新的なことが起こっているのは青天の霹靂である。
神様であるテンジンですらアンズの頭の上で、ほうほうこれは……と、ここまで至った経緯に興味津々な程。
「あの、へこすか君……?」
「あっ、待って下さいね、アンズ大師匠!
ここからもっと大事な儀式が始まるんです!」
「だ、大師匠? なにそれ?」
「隊長クマリちゃんの師だから大師匠なんですって」
「き、気にしないで下さい……言ってるの、へこすかだけなんで……」
数字の浸透について尋ねようとしたアンズだったが、へこすかから妙に大仰な肩書きで呼ばれて怯む。
呆れ気味の はみみん と あままらま に説明は賜ったが、驚くべきはここからであった。
「俺とめけもこを足すと!?」
「はいっ!」
「おっ、さすが ぺんたりむ だな! 早いぞ!」
「けもち!」
「正解だ!」
「足し算してる!?」
『ほぉ~、もしやクマリ辺りが算術を持ち帰ったか?』
団員番号一番、へこすか。団員番号五番、めけもこ。団員番号六番、けもち。
数字そのものは使っていないが、挙手した回答者が足し算が出来ていることは明白だ。
学問を教えてくれる者もおらず、親は家業を継ぐ教えで手一杯の農村の子供が、算術を扱える光景は相当に異質である。
「じゃあ、がぎげろが から さかまろす を引くと!?」
「……はいっ」
「こらこら、がぎげろが。
たまには年下に譲ってやれって言ってるだろ。
まあいいや、答えてみろっ!」
「あ、そうか……えっと、はみみんです」
「いいんだいいんだ、正解なんだから!
やっぱりお前はよく勉強してるよな! 早いのはいいことだぞ!」
九番、へこすか。七番、さかまろす。二番、はみみん。
引き算は足し算より遥かに難しい。当たり前のように出来るようになると忘れることだが、覚えたての頃のことを忘れてはいけない。
アンズはそれを忘れていないから、引き算すらやってみせる年下の農村の子供達を見て、もはや絶句すらしている。
筆場に通っている子供達が相手なら、単に手を叩いて褒めてあげただろう。自分が教えてきたのだから。
関わりの無い子供達が、いつの間にかこんな教養の芽を吹かせていることには、ここは別世界かとすら感じるほど。
師のいない農村で、読み書きそろばんが出来る子供など育つはずが無いのだ。育つとしたらそれは天才で、それが九人もいるとなれば確かに異世界。
裏を返せば、どこかに師がいるはずということでもあるが。
「待って、へこすか君。
算術、誰に教わったの? クマリ?」
「隊長もそうですけど、殆どは あままらま ですよ。
クマリ隊長に文字や数字を教わって、それをみんなに教えてくれてるんです」
「あ、あの、私そんなには……
うまく教えられないこともいっぱいあるし……」
筆場に通っていたクマリは、その教養を友達にも分け与えていた。
その中でも、あままらま と呼ばれる女の子、お三がそれに意義を感じ取り、村の子供達にそれを教える立場となっている。
彼女自身も、クマリに教えて貰って知識を身に付けるには努力もしたはずだ。
それに留まらず、教養が広がることがどれほど未来を広げるか、理解してかせずか広めることへと臨んだこととは、どれほど価値のある敢行であろう。
アンズも思わず身震いするほど、子供達の吸収力と、純真な想いからくる行動力は、大人の想像を超えている。
「……ねえ、お三ちゃん。
今度、筆場に来て貰えない?
私と一緒に、筆場のみんなに数字を教えようよ」
「えっ!?
ででで、でもでも、私なんかが……」
「いいじゃん、あままらま!
私も一緒に行くから! 文字を教えるのは私に任せて!
ねっ、アンズさん。いいでしょ?」
「ちょ、ちょっと、はみみんまで……」
「も、文字教えてるの!?
え、えぇと、それならお林ちゃんもいつかは……」
「凄いでしょ、桑原村自警団!
クマリ隊長がアンズ大師匠から得た教えをこの村に……」
「偉そうにすんな! へこすか!」
「なんにもしてないくせに、うるさい……」
「あだだだっ!?
い、いいじゃんかよぉ~! 一応俺が集めた自警団なんだぞぉ~!?」
勝手に得意げな へこすか が、また はみみん と あままらま にげしげしと蹴られる。
文字を教えられるから私も筆場に、と訴えたのは はみみん である。
読み書きとそろばんの教え役を、年は二つ離れているが仲良しの女の子二人で分担し、村の子供達に教養を広めているという。
この二人も団員番号が、二と三という若さから察せられるとおり、恐らく自警団発足の初期勢なのだろう。
副団長にも手足で文句が言える辺り、この古株で発言力の強い二人には、へこすかも頭が上がらぬようである。
しかしながら、大人のアンズから見れば、今は情けなく女の子に許しを請う へこすか も、上っ面だけ見て甘く見られたものではない。
お調子者なのは確かでろうが、なんだかんだでこんな集まりを結成するきっかけを作り、この人材が躍動する土台を築いたのは彼なのだ。
秀才二人の女の子に毒舌叩かれながらも、決して嫌われてはいなさそうだし。
そもそも先のやり取りを見ても、よく学んできた年下を、叱りもしながら褒めもする。それも、極めて自然体に。
彼が声をかけて、これだけの子供達が集まったことには納得すらするのだ。
なんなら彼が完璧に教養を身に付ければ、ものを教える立場としては大成するのではないかという、そんな予感をアンズは抱かずにいられない。
まるで実績無きお飾りの副隊長の如く、親しい女の子二人に軽んじる口を利かれながらも、怒りもせずわいきゃい受け入れる器も決して侮れまい。
女の子に蹴られて逃げ惑う男子という、子供達の間では馬鹿にされそうな姿でありながら、団員ら誰一人として蔑む目もなく笑うのが良い証拠であろう。
隊長に祀り上げられたクマリがこの自警団に無興味なことを踏まえれば、彼こそがこの自警団の、実質的な隊長と表現しても何ら差し支えあるまい。
それに値するだけの、人を纏める気質が彼にはある。素晴らしい才覚だ。
『歴史に名を残すことなど決して無い、無名の雑草の中にも傑物は在るものよ。
それが、後の世に語られるほどの偉業を為すことが無くともだ。
その者のそばに寄り添う者にとっては、顔も知らぬどんな偉人よりも忘れられぬほどにな』
(……ええ、存じてます。
一生を畑を耕すのみで生涯を終える農夫でも、我が子にとっては一生忘れ得ぬ父であるように。
名が残るほどの人物であるかどうかで生涯の価値を語るのは、己が生きる現代を過ごす者として寂しいことですから)
『名を残したがること、生きる意味を求める気持ちはわかる。
それに等しいほど大切なことは、身近なところにこそ溢れていることもあるということだな』
神様の御言葉である。
あくまで、見解の一つである。真理ではない。断じて真理ではないのだ。
だからこそテンジンも、~~ということもある、という言い回しで、自分の考えが正しいものとは限らぬという表現も用いている。
(……私には、わかりませんけどね)
『む、そうか?
お前は巫女だから名を広めてなんぼというものだが、それを抜きにして歴史に名を残したいと思ったことぐらいはあろう?』
アンズは忌憚無い。
たとえ主神の御言葉であろうと、納得に至るには足りぬと思えば反意をも示す。
巫女としては失格だろうか。いや、それでいい。テンジンはそう考える。
思考停止で主に従うのではなく、取り入れた声を自意識を以って取捨することが出来る、そんな者にしか掴めない未来こそ貴いと知っているからだ。
ナルミが母ならテンジンは父。アンズを最も育ててきたのはテンジンだ。
(己が生きる意味を考えるだとか、生きた証を残そうだとか、そんなこと考える余裕があるのは生まれが裕福な人だけですよ。
みんな、今日を生きることに必死で、来年の今はもう命が無いかもしれない、そんな恐怖と面した現実と戦い続けるばかりなんですから)
『……そうだな。
私は神となる前から、ずっと恵まれた生まれと立場にあった。
詩を詠み、書を読み、人の世の何たるかを考察し、優雅に過ごしていたあの日々は、農家を営む者達には手の届かぬ浄土であったろうな……』
(誰もがそんな哲学を、暇を持て余して考えられるような日々が、いつか訪れるといいですよね。
決して皮肉などではなく、本当の意味で、心から)
『ああ、間違いない。
来年の命も保証されているような、楽園のような世にあってしか叶わぬのだがな。
皇族や貴族のみならず、平民ですらそう在れる日が訪れるとすれば、きっとそれは泰平の世と言い表して同義であろう』
(諦めてませんよ?)
『当然、私もだ。
たとえお前が天寿を全うするまでにそんな時代を迎えられずとも、必ずいつかはそんな世に至れるよう心魂を尽くすつもりだよ。
だから、頼むぞ? 私が長く、この世に留まれるようにな?』
(ふふっ、お任せ下さいませ!)
千年も経てば、二人が願い望む人の世も、訪れる日が来るかもしれない。
だが、今はまだ遠い。台風一つで幾千もの人が命を失う時代。風によってではなく、嵐によって農作物を駄目にされ、飢えて死ぬ者を含めてだ。
だから今の世には、神様が必要なのだ。
仮に本当に人々が神様の力など無くとも幸福に生きていける時代が訪れるなら、信仰を完全に失った己が世を去ることさえ、肯定的に捉えられるテンジン様。
まだまだそんな日は訪れぬことをわかっているテンジンだから、頼むぞという言葉が出るのである。
たとえ自分がどれほどの快挙を幾多に重ねても、自分が生きている世代の中で、そんな世を叶えることが出来ないこともアンズはわかっている。
だから、未来を繋ぐためにも。
父を喪いたくないという想いが個人的なものなら、神を存続させることは巫女として人の世の未来を照らすための使命。
アンズの強さの根源がどこにあるかと問うならば、きっとこれが答えなのだろう。
理でも情でもその双方により、己の為すべき道を突き進む者は、迷うことなく不屈にして、命果てるまで生涯を突き進むことが出来る。
ともすれば時代によっては、そんな生き方が出来ればどれほどいいことやら、とさえ蔑みと羨みを以って評される人生観。
それがたとえ、アンズの言う哲学に遊ぶ余裕の出来た時代に、眩しがられる生き様であったとしても。
そうすることでしか生きられぬ、生まれに全てを縛られたその時代というものは、真の意味で恵まれた者が羨めるようなものでは決してないはずだ。
(でも、テンジン様)
『ん?』
(もしも、今が時代の変わり目だとすれば、それを目の当たりに出来た私達は、すごく幸せなんでしょうね)
『ふふ、違いないな』
わいきゃい騒いで遊ぶ、教養を身に付け始めた子供達を、微笑ましさで演じた表情を浮かべながら、アンズはそれ以上に満たされた想いを胸に抱く。
主神は信じている。アンズも共感している。
学問は、人の世を豊かにする。二人が夢物語として口にする、生きていくためにはつまらぬ"はず"のことを誰もが考えられる、余裕ある社会を築き得るほどに。
無邪気に遊ぶ中、それでいて形無き財産を既に手にしている子供達は、まさしく明るい未来を夢見させてくれる光そのものだ。
筆場を作った根源的理念。それは思わぬ形で隣村に波及し、後にカムロが言うとおり、主神と巫女が望んだ未来の第一歩足り得る結実として輝いている。
学問が定着し、さらに発展し、人の世が今の想像を超える理想郷となるまで、何百年の時を要するだろうか。
いくらかかってもいい。いつか叶えばそれでいい。
人生五十年の世に生きて尚、百年でも叶えられぬ理想郷への夢を捨てられぬ者が抱く大望は、受け継がれ絶えぬ限り繋がっていく。
そうである限り、長い時の果て、彼ら彼女が望んだものは、大志の原点が世を去った遥か未来、必ずいつかは叶えられるはず。
何千年という時の果て、かつてよりも遥かに栄えた山波国こそがその証だ。
「――アンズさん?」
「あっ、ごめんなさい、カムロさん。
ちょっと、ぼーっとしてました」
時は夕暮れ。
アンズは間もなく雲に乗り、山波神社へひとっ飛びで帰ろうという頃合いである。
今宵は村の宿に泊まるというカムロに見送られる立場として、村の出口で少々お喋りしていたところだ。
冒頭、村の子供達の"成果"、すなわち遠因に山波村の筆場があることを語ったカムロは、それが見せたくてアンズと共にこの村に来たのだろう。
ただ、それにしみじみとした返答をするアンズが、上の空になっていたことに、カムロが声をかけたところである。
カムロとしては、筆場を作ったと言われるアンズが、この結実を誇って嬉しがる顔を見たかったのだが、ある意味ではそれ以上のものが見られたとも思う。
感極まるとまでは言わないが、若き世代が学問に異議を見出し、自ら故郷でもそれを身に付けんとしていることが、嬉しくて堪らない静かな表情。
ぼーっとしていたとアンズは言ったが、それは正しく言い換えるなら、感慨に耽っていたと言う方が適切だ。
「改めて申し上げますが、成果は出ていますよ。
クマリさんを通して、桑原村にも、その精神はゆっくりと伝わっているのですから」
「う、う~ん……誇らしくはありますけど……
私はやっぱり、あの子達が自分で掴んだものだと断じたいな」
「筆場の功績は、そう仰らずに自慢してもいい程のものですがねぇ」
アンズが作った山波村の筆場は、幼い世代に教養を根付かせることを最たる目的としたものであり、クマリを通じて明確に結果も出ている。
それを太鼓持ちになって偉業だと褒めてくれるカムロに対し、いえいえ私なんて、と謙遜全幅の即答が出来た方が、聖人君子の巫女らしくて格好も付きそうだ。
むず痒そうに頬をかいて、嬉しそうに笑ってしまうアンズは、やはりその若さでその境地には至れていないということだろう。
彼女自身も六日に一度、筆場に赴き、その日のために前の日から色々考えて当日に臨んできた実績があるのだから、誇らしさが無いなんて嘘はつけなかろう。
「でも、あの子達はとっくに私の想像を超えてますよ。
それで私達のおかげだなんては、やっぱり言いにくいですもん。
みんなが頑張ったからこその結実と言うべきなんじゃないかな、って思うんです」
「ふふ、そうですか。
単に型に嵌めた謙虚ではなく、改めて実状を見つめ直しての判断とあれば、尚のことそれがきっと真実に近しいのでしょうな」
評価すら含めた見返りをも顧みぬ、理想的な高潔たる聖職者の域には至れずとも、その高尚な思想に近い結論を導くには理屈でも届く。
自分が誰よりも知る己の為してきたことだけでなく、他者の積み重ねてきた行動を想像で補えばいいだけだ。
自分が一年間、何かしらのことを頑張ってきたことは当然知っているが、他人もその一年間で何かを頑張ってきたはず。ごく当たり前のことだ。
やってきたのは俺だけだ、という妄言に捕われることさえなければ、他人が享受している努力の結果を見れば、その裏にあった努力も想像に及べるはず。
よく出来た大人は、ありがとう、おかげさま、という言葉を挨拶代わりかと思うほどよく使うものだ。
己もどこかで必ず、知らぬうちにであっても誰かに助けられて今ここにいる、ということを重々理解していれば自ずとそうなる。
今を必死に生きているのも、誰かのために尽くせるのも、自分だけではない。
成功者の輝かしい姿のみ、成し遂げられた結果のみでしか"努力"を確認できなくなってしまうと忘れがちなことである。
「本当は、ああした筆場のような場所がもっと増えればいいのですけどね。
学問の普及は、社会の発展に間違いなく寄与しますから」
「ん~、でもほら、あればいいというものでもないですしね。
子供って、やれと言われることなんてやりたがらないでしょ。
実家の畑のお手伝いだって、やらなきゃいけないから仕方なくやってるだけで」
「ですよねぇ。
結局、まずは泰平ということでしょうな」
「みんながみんな、御貴族様のように、暇潰しに筆を握れる時代が来ればいいですよね」
「そんな言い草、怒られますよ?」
「ちょちょちょ、やめて下さいよ?
私がこんなこと言ってたって誰かに話すのは」
「くふふ、当然、当然」
神様の知恵を借りて始めてみた筆場がたまたま成功しているだけで、アンズは学問の伝道師などでは断じてない。
彼女の本職は信仰を広める巫女であり、悪しき妖魔を退ける調伏師。
神職としてのそれら本業が無い日でも、彼女が身を尽くすのは、安全な旅を叶えさせる護送や、地元の畑のお手伝い。
すべて、人の世の泰平のために巫女として務めるもの。
子供好きなアンズが、子供を集めて一緒に遊び、そのついでに文字や数字を教えていることなど、彼女に言わせれば所詮は道楽である。
たとえそれが、子供達の明るい未来に繋がっていき得るものであったとしてもだ。
筆場のような学問施設が、各国にいくつも設立され、教養を広める下地として浸透する日が訪れるなら、それは多大な社会発展の礎となろう。
休み無く働いても天災一つですべて駄目になり、来年には世帯はおろか村すら死に絶えることも何ら珍しくない世相で?
何の罪も無い人が、獣や山賊や妖魔に襲われて非業の死を迎えることなど日常茶飯事の現代で?
大人になったらきっと役立つからという理由で、仕方なく手伝う畑仕事の合間にようやく出来た、友達と遊べる時間を犠牲にしてまで学び舎に?
みんなそれどころじゃない。筆を買うための財はおろか、半年後にも生きていられるかわからぬほど、畑と備蓄を毎日のように気にする日常なのに。
そもそも農業からして、幼い頃から年寄りになるまで、何十年も努めてなお誰一人、確実な実りを得られるよう極めること叶わぬ"学問"なのに。
親の背を見て誰よりもそれを知る農民の子供が、いつどんな形で役立つかもわからぬ読み書きを、志を以って学びに通うなど期待する方が絵空事だ。
災い無ければ大人になるまでは生きていけるであろうと、そう信頼される社会が成熟しない限り、大人だって可愛い子供達にそんな幼少期を強いられまい。
役に立つかもわからんことを学ぶぐらいなら畑を手伝え、という乱暴にも聞こえる農民の躾は、その実我が子の成人を心から願う親心の証に他ならないのだ。
今世、筆を最も取るのは御貴族様だ。
幼い頃から字を学び、歌を詠むことを覚え、風流と趣に魅力を見出し、人によっては文学を綴りもする。
それは、幼い彼ら彼女らが、働かなくても飢えないから。余した暇で、学び、読んで、書いて、遊べるだけ。
そんな彼ら彼女らが書いたものが、千年後まで残るなら、時を越えた人の営みがあった情景を映す、歴史的遺産となるのであろうけど。
冷静にその内容だけ見て、もしも同じことを隣人が書いていたとしたらと思えば、たいしたことなんて書いてないものは、案外、そして山ほどある。
暇でなければ、その習得に決して短くない時間を費やさねばならぬ学問など個々には培えないし、であればその発展など尚のこと望めやしない。
学問の価値が認められ、子供さえにその修学が推奨されるような、社会そのものに大いなる余裕がある時代など、アンズ達にしてみれば夢のまた夢である。
「ゆっくりでいいんですよ、きっと。
手が届く限りで、そばにいる誰かの未来を含む幸せを祈り、そのために動く。
世のためだなんて大層な目的を有能な誰か一人が抱くより、そんな考えで行動できる人が何人もいる方が、よほど世のためであるんですから」
「ふふ、仰るとおり。
私は商人、あなたには出来ぬことを為す。
あなたは巫女、私には果たせぬことを成し遂げる。
しかし、目指すものに共通点など無くとも、きっとその道の果てにあるものは、私達にも目の届かぬ彼方で交わっている」
「山波村のみんなが、クマリが、コナツが、縁あった人みんなが好きです」
「摂泉村の方々が、妻が、師匠が、出会えた人々すべてが好きです」
「よーし、明日も頑張るぞ~!」
「うははっ、死ぬまで頑張るぞ~!」
大好きな人達を喜ばせたい。世の中の人みんなを幸せにしたいわけじゃない。
たったそれだけの想い一つで、たとえ薄曇りの空からでも一筋の光が差す。
それが増えれば増えるだけ、あまねくこの世は光に包まれる。
泰平の世を目指すにあたって求められるのは、決して偉業でも奇跡でもない。
ほんの小さなありふれた祈りと、それを胸に抱く人が増えていく程度のことのみである。
明日も来月も来年も張り切っていこう、と手をぱちんと打ち鳴らして笑うアンズとカムロは、地に足を着けて理想を追う求道者。
神様は実在する。
自らを助く者達を微笑ましく見守り、そんな者達を助くべく、巫女を介して神力をこの世に顕してくれる、アンズが愛する主神様がまさにそうなのだから。
これほどまでに、理不尽と死が常に人々と隣り合わせの世界が長く続きながら、人は絶えるどころか繁栄し、かつてよりも遥かに栄えた社会を現存させている。
不思議なほどだろうか。いや、不思議がることはない。
天は自らを助く者を助く。途絶えぬ人類史が物語る真理の一つである。




