第七一話 ~最高に幸せな日々のはじまり~
山波村は雨季を迎えた。勿論、大陸全土にも言えることではあるが。
昼間は暑く、夜は涼しい春の末を過ぎ去って、いよいよ夜ですら暑苦しく、みなの寝付きが悪くなってくる季節だ。
田んぼに群生する数多の蛙が、夜長にげげげげごごごと合唱を重ねることもあり、それを風流と感じられない層にはうるさくてたまらん時季でもある。
もっとも、多くの農民にとってはまだ過ごしやすい季節。代わる代わるの熱射と台風で人々が喘ぐ来月と比べれば、穏やかで過ごしやすい頃だ。
災害級の大雨は稀有にして、しとしととしたしぶとい雨が多くの日に降り注ぐこの雨季は、農作物に対する大いなる恵みの季節として崇められすらする。
降らぬ日とて高い湿り気が、上昇傾向にある気温と併せて、すこぶる不快な蒸し暑さをも生み出すが、農民にとってはそれも些事。
雨が降らない方が困るのだ。収穫が足りないと冬に死ぬ。
じっとりとした夜長に眠りづらい不快感はあるが、それも所詮は、俺の私のはたらきぶりが足りぬと豊穣の神様の御叱りなのだろうと自戒すらする。
雨に晒されて折れそうな農作物の保護も含め、農業に全身全霊を捧げて疲れ果てていれば、寝苦しかろうが落ちられるという理屈である。
とりわけこの時期は、農民の尽力が秋の収穫を左右する大事な時期なので、普段以上に頑張ろうぜという心がけも強く含まれているのだろう。
人の手はおろか神様にすら左右しようのない大自然の顔から、己の振る舞いを顧みようとする教訓は、人類史の黎明期によくあって長く根付いたものでもある。
それを労働の精神的活力にさえ昇華できるとなれば、なかなか馬鹿に出来たものでもあるまい。
さて、それはともかくとしてこの季節頃から、アンズにとってはとてもつらい。
寝汗が凄いのだ。汗臭い身体で人前に出ることがなんとなく嫌な彼女にとって、朝風呂が欠かせない時期でもある。
寝る前にも、日中にかいた汗のせいでべとべとする身体では嫌で、夕食後に風呂に入るほどだ。つまり一日に二度湯浴みする。
雨季に汗を多くかくと、湿度のせいもあって非常にべたつく。
神社に帰る前の夕前には毎日その不快感が嫌で、普段からの各畑の手伝いも、先月よりも切り上げるのが早いぐらい。
元より彼女は暑がりで、発汗しやすい体質でもあるため、来月のからっとした猛暑よりもこの雨季の蒸し暑さの方が余程に嫌なのだ。
雨に降られると薄布の服が濡れて裸体が透けるし、農民にとっては恵みの季節であるのを重々承知した上で、彼女にとっては最も苦手な時季である。
今日も山波村には、さぁさぁとした雨が長く降り注いでいた。
寝起き前から降り続け、小雨と言うには若干強く、空いっぱいの曇天の雲が枯れるほどにはなさそうな、いかにも経験上しつこそうな雨。
稲を折るには至らぬほどゆえ、農民の一部は天に畑の水やりを任せ、我が家で家族との団欒や趣味に勤しむ、文字どおり降って湧いた休日でもある。
商人にとっては頭の痛い日でもあるが。村人の外出が少ないと売り上げがやばい。丁稚はともかく退屈な店番は店主の焦燥感が凄い。
たまの畑仕事も休みだし、傘を差して我が子と共に訪れてくれる客に対しては、よく今日来てくれましたと嬉しげな店主の接客が一段階良くもなる。
商人以外の庶民にとって、雨の日は濡れるのを我慢さえすれば、どこに行っても普段以上にもてなされるというのは定説でもある。
季節というのは人間社会の習慣にすら、大きな影響を持つ。
季節感による風流というものが意識されない時代が訪れるとすれば、昔の人はやたらと季節に対して句を詠むものだなぁと不思議がりもするかもしれない。
それはきっと、気温や雨で一日の生活ががらりと左右される時代と、そうではなくなった時代では価値観が違うことに依るのだろう。
趣という言葉が生まれた源泉の一つはここにあるかもしれない。知らねど人生においてわざわざ損をすることはないが、想像で補えば面白みも出るだろう。
「そんな……嘘でしょう……?
勝手に私を、隣国に売り飛ばすなんて……」
そんな雨の日、山波村の一番のお屋敷、玉依御殿。
村長ナルミが客人を一対一で迎える、敷居の高い謁見の間にて、一人の豪商が堂々とした姿で貴人ナルミと対峙して談笑している。
生まれは皇族、今はその縁から自ら距離を取ったとはいえ、帝の親族たる玉依鳴御は、いち商人が肩の力を抜いて語れる相手ではない。
しかしナルミと対峙する人物は、貴人を少し高い位置にある上座に見上げながら、胡坐座りで顎を上げた怖いもの知らずの姿勢である。
「せいぜい気取った男連中の、舐めるような視線に晒されてきな。
いや、野心溢れた奴らはあんたを見定めるどころか、あんたの熟れた肢体を目当てに狼の牙をあらわにもするだろうさ。
あぁ~、楽しみだ。名高き玉依鳴御さまが、下卑た連中に犯される恥辱に晒されるんだ。
恥辱にまみれたあんたの顔を想像するだけで飯が三杯は食えるよ」
「ひどい……ひどいわ……
私はこれまで守り抜いてきたものを、あなたのせいで、しかも異国にて散らすことになるのね……」
袖を目元に当て、よよよと涙を拭う仕草を見せるナルミ。
膝を叩いてげらげら笑う、摂泉国からはるばる参じたソウサイ。
商売上ではばちばちに対立することもある両者だが、我が国や和が村の利益を最優先とし、それを果たすための精神に富む両者は互いに敬意を払い合う関係。
そんな両者間で、今のやりとりを文字通りに受け取ったような現実が本当に叶うわけがない。
すなわち、茶番の匂いがぷんぷんするんですな。
「まあ若干強引にねじ込ませてもらったが、あんたも詩は好きだろう?
今夏、お隣の近滋国で初めて執り行われる詩詠みの催しに、あんたをごり押してやったまでさ。
あんたならびに山波村には、先日かなりお世話になったからね。
その返礼だと思って気兼ねなく楽しんでおいで」
「そうは仰るけど、それなりにかかるものもあったんじゃないの?
流石に気が引けるわ……摂泉村の復興には、ものもお金もいくらあっても足りないでしょうに……」
茶番終了。普通の顔と声での会話が始まった。
切り替えの早いお偉い様どもである。
「なぁに、あたしの捨てようにも捨て場に困る私財から出した程度のものさ。
それとも気が引けるなら、今後の取り引きで気を遣ってくれてもいいんだぜ?
まあ、それも嫌だって言うなら招待を突っぱねてもいいが」
「えぇ~、そんなの厭よ。
……内心では、やっぱり参じてみたいもの」
「あたしのような隠居混じりの婆と違って、あんたはそうも自由には動けん立場だろ?
せっかく場を整えてやったんだ、甘えて存分に楽しんできな」
二人の会話の内容とは、両者が面白がって卑猥さを醸し出す言葉遣いを嗜んでいたものとはまったくの別物。
ナルミにとっては魅力的な話をソウサイが勝手に進めていて、それが今日はじめて明確にナルミの耳に届いただけである。
ナルミは既に数日後のことが楽しみになっており、ソウサイがこの配慮は正解だったと微笑ましく思うほど。
「アンズの奴も誘って楽しんできなよ。
たまには家族水入らずでの旅行ってのも、あんたにも、あの子にもあっていいはずだ」
「ふふ、嬉しい。ありがとう、ソウサイさん。
あなたいっつも強引で私を困らせるけど、時にはそれが頼もしくて嬉しいわ」
「くははっ、一言多いっつーんだよ」
雨の日に朗報。
ナルミの上品な笑いと、ソウサイの庶民的かつ豪快な笑い声が、両者の間で交わされる。
どちらも、取引の多い山波と摂泉の両国間において、国内いちの大きな村を実質的に支配する大物同士。
仕事の上では対立することも多く、お互い相手の気持ちもわかるから折れ合いが必要で、商談ともなれば極めて神経を遣う相手同士でもある。
そんな二人でもありながら、仕事の枠を離れた会話の上では、敬意を払い合える相手との、説明無き冗談をも自然と交わし合える間柄。
結局、どちらも大物だから。
同じだけ高い位と器を持ち合う、高度な対人関係というものは、多くをわざわざ共有し合わずとも通じ合えるということだ。
「ほれ、さっさとアンズを呼び出して家族旅行の日取りでも伝えてやりな。
あの子がこの上なく喜ぶ姿が、あたしの目にも浮かぶわ」
「えぇ、えぇ、そうするつもり。
本当にありがとうね、ソウサイさん。私、今とても幸せよ」
「なぁに、過剰に感謝などしなさんな。
あたしも、摂泉村の連中も、あんたに受けた恩は忘れてねぇさ」
たとえ対立することが多くとも、相手が病気になったり不幸に見舞われることを望むことは無い。
むしろ、恩の一つもあればそれを返すだけに留まらず、その末に相手が充分な幸を得ることをも心から望む。
ナルミもソウサイも、そんな人物だからこそ大物なのだろう。
己の利を害し得る者に対し、排斥や不幸を望むばかりの者には掴めぬものというのは実在するのである。
「玉依鳴御さま。
畏れ多くも、御招致に預かり賜った身分とし参じ……」
「知れ者が!
妾を誰と……」
「おかあさ~ん」
「はぁい、いらっしゃ~い」
茶番おかわり。
ナルミの呼び出しを受けたアンズは、傘を差して非常に速やかにナルミの元へ馳せ参じた。
謁見の間の襖の前、跪いて厳かな御挨拶をするアンズに対してナルミの怒号が響き、厳かではない言葉を向ければふにゃけた歓迎の言葉が返ってくる。
何ヵ月か前にやったやり取り。知れたこと。
ナルミはこのやり取りがなぜか気に入っており、茶番好きなお母さんの好みはわかっているアンズなので、機会があれば自ら付き合っている。
「なんだかあなたに会うのも久しぶりな気がしちゃうわ。
最近、村にいないことの方が多いでしょ」
「なんか忙しいんだよね、巫女としてのお仕事が。
ありがたいことなんだけど、仕事が急に増えすぎて戸惑ってる」
「あなたの優秀さが周知されてきた証拠よ。
やっぱり先月、摂泉村の火を鎮めた立役者であることが大きなきっかけになってると思うわよ」
「あ~、それはちょっと思ってたけど……
こども祭り以降、明らかに摂泉から山波に来た人が、帰りの護送を依頼してくることが多くなったもん」
本題に入る前に、お仕事の話を抜きにした、母と娘の世間話。
アンズが山波村発の護送を請け負うのは昔からやってきたことだが、ここ一ヶ月は明らかにその仕事が増えた。
それはやはり、オオムカデを調伏した一番の立役者であるアンズのことが、摂泉村で大きく話題になったことに由来するのだろう。
当時は大火に見舞われた摂泉村を、慈雨によって救ってくれた水神様に慮り、自身の活躍を一切広めなかったアンズだが、日が経てば隠しきれる話でもない。
ちょうどこども祭りが執り行われた日付頃には、隣国山波の巫女による活躍があったことなど、復興で忙しい人々の明るい話題として千里を駆けたものだ。
懸念されたのは水神様の偉業が薄れることだが、この話題も独り勝ちの初動で広く知られたため、かの地の神社に参拝する人が減る結果には繋がっていない。
どうやらオオムカデ調伏という偉業は、アンズと水神様の功績の双方が、食い合うこともなく広く知れ渡るという最良の展開で落ち着いたようだ。
となればそれ以降、摂泉国から山波村へ訪れる機会を得られた者、特に財ある商人が、帰り道は噂の巫女に護送を頼んでみようという運びにも多く見られた。
若くて可憐な女性であり、山波村の者に人物像を尋ねても、進んで魅力を推す者ばかりなのだから、一目見てみたくもなるだろう。
摂泉の商人達による、山波村との交流そのものは非常に多いため、連日、複数の、アンズへの帰路護送依頼が舞い込むほどであった。
なにしろ、摂泉村で店を複数構えるような大旦那ですら、わざわざ山波村まで来て帰り道の護送を頼む、道楽的な依頼すらあったほどだ。
地元でじっとしているだけで一生安泰の商人は、往路で賊や獣、妖に襲われてせっかくの成功人生を終わらせるような、危ない橋を渡ることはまず無い。
護送依頼という形で、噂の可愛い巫女との会話を楽しんでみたい、あわよくば今後も続く縁を結べればという目当てが明らかである。
つまり、腕を信頼されての護送依頼の増加も確かだが、アンズに対する好奇心を持つ者すら、あの日以降は隣国に急増したということだ。
毎日かなりの数の希望者が集まるため、選別しなければならなかったのは、アンズにとって初めてで困惑の一番種ですらあった。
もっとも、その辺りは人を見る目のあるナルミの協力もあって、あらかじめ選別して依頼人と巡り合わせてくれるので、苦労はしなかったのだが。
六日に一度の大安の日、筆場を仕切る日以外は殆ど、護送で村を離れる一ヶ月だったアンズは、ナルミの言うとおり殆ど顔を合わせる機会が無かった。
摂泉村までの護送は丸一日かかる。夜に目的地に到着して、雲に乗っての日帰りとなれば、神社で湯浴みして寝る以外のことをする時間が残らない。
今ほど護送依頼の無かった頃、暇な日中は畑の手伝いやらしながら山波の村人と交流していたアンズが、ここ一ヶ月は村にすら不在の時間の方が多かったのだ。
なんかこども祭り以降あの子を見かけないね、と、かつて毎日のようにみんなの目を惹く巫女が消えたことを、逆の意味で山波村では話題になりつつあった。
「大変だけど、嬉しいことよね。
あなたの神様の力、広く信じられつつあるんだから」
「あはは、どうだろ?
幸いなことに、多くの道中では何も起こらないし、御力を披露する機会もあんまり無いからさ」
「あらあら、そうなの。
でも、何か起こった方があなたの活躍に繋がるのに、なんて不謹慎なことは言えないもんね」
「いいのいいの、なんにも起こらないのが一番だよ。
神様の力も必要の無いほど人々が幸に溢れる時代が訪れ、それを見送りすべての神が世を去る日を迎えるなら、それこそが神様にとって最高の天寿。
他ならぬ、テンジン様がそう仰ってるぐらいなんだから」
「ふふ、そうなんだ。
あなたの大好きな神様って、本当にお優しくて素敵な人格者なのね」
真の意味で神への信仰が必要の無い時代というのは、父の存在を喪いかねない意味でアンズが最も恐れることだが、神様にとっては本望だ。
人の世の安寧を望み、そのために神力を授け、齎し、この世に顕す。
その必要すらない泰平の世であれば、それこそが神様の望むところである。
少なくとも向こう百年はそんな泰平期が訪れることなど考えられないから、まだまだテンジンも世を去るを本意とまでは思えないのだが。
神の天寿という言葉でテンジンが語ったこの話は、あくまで理想論、あるいは机上の空論を逸していない極端な例に過ぎない。
「さて、本題に入りましょうか。
ねえアンズ、近々近滋国で"詠開き"が開かれることは知ってる?」
「うん、知ってる。
今からだったら、え~っと……五日後ぐらいになるんだっけ」
「あら、そこまで知ってるの?
誰から聞いたのよ」
「摂泉村まで護送する中で何人かの商人さんが話題にしてくれたよ。
かなり大々的にやるらしいから、遠くなければ観に行ってみたいのにって仰る人がかなり多かった」
「あぁ、流石だわうちの子。
あなた巫女じゃなくても商人としてもやっていけるんじゃないの。
金銭勘定とは別物だけど、誰とでも話せ過ぎるのは間違いなく商才よ」
「やだやだ、私は巫女以外の人生なんて出来ないししたくないよ」
初対面の護送対象であろうが、それが毎回年上の相手であろうが、アンズはいつものようにお喋りなようである。
ちゃんと相手の顔色も窺い、失礼の無いように尽くし、相手が楽しめる話題を選び、愛想も笑顔も無理なくいっぱい振り撒く。
お相手が舌の立つ商人様ということで、多少失敗しても立て直しが利くというのもあるが、誰を相手にしても旅中の空気は良いものにしてきたのだろう。
そもそも気の置けない友達のコナツ相手ですら、不備の無いお喋りを長々続けられる彼女が、気遣いに意識を強めればそうそう失敗もしない。
彼女をよく知るナルミをすれば、護送のたびに大人を一切退屈させず、丸一日の歩みをも短い時間に感じさせていたのが目に浮かぶ。
「でね?
私、その催しに招待されてるのよ」
「わっ、いいじゃん。
お母さん好きだよね、上手いし」
「あら、わかるの?」
「……詠むのが下手糞でも良い物はわかるつもりだけど」
急に顔を赤くして、気まずげに頬をかきながらごにょごにょ喋るアンズ。
詩を詠む才能はすっからかんのアンズである。かつて自分が詠んだ屁みたいな句の数々は思い出したくもない。
「でもほら、私も曲がりなりにも皇族の血筋に名を連ねる立場だし、そもそもこの村の長だし。
あまり軽はずみな遠出も出来ないっていうのが実状……けほっ、けほっ……」
「実際お母さん、あんまり隣国まで足を運ばないもんね。
それより大丈夫? 風邪ひいた?」
「ああいえ、今のは大丈夫。
ちょっとむせただけ」
頬に手を当て、恥ずかしいわと微笑むナルミだが、ここ最近、咳込むことがかなり多くなってきている。
今のナルミは四十路一歩手前であり、その頃ともなれば老齢であり、病気がちにもなるし、天寿も意識される頃合いだ。
元々あまり体の強い方でもないらしく、この近況はアンズもたまに背筋が寒くなる。
風邪などと、比較的軽い咳の原因を第一に口にしたのも、その程度で済んで欲しいという無意識から口をつく言葉であろう。
風邪とて充分死因になりやすく、馬鹿にできたものではないが、最愛の母の老衰よりは遥かにましである。
「せっかく頂いた招待なのだし、健勝の身で赴かぬというのも素っ気ないわ。
まあ、どうやらソウサイさんが推してくれたおかげのようでもあるのだけど……」
「もしかして、摂泉村への復興支援のお礼って感じ?
ああ、それでわざわざソウサイさんが自ら足運んでまで来てたんだ」
「そうは仰らなかったけど、そうでしょうね。
主催者さんも箔のある招待客は招きたいでしょうし、かと言って詩に強い京の御貴族様を招くのは敷居が高いわ。
その点、仮にも皇族かつ一村の長という庶民的立場に落ち着いている私なんかは丁度いい、なんて勧め方をしてくれたんでしょうね。
まったく……」
ナルミが詩を詠むのが好きなことぐらいはあの豪商もご存知であり、行っておいでよときっかけを作ったのが、摂泉村に手を添えてくれたナルミへの返礼だ。
実際、これをソウサイに持ち掛けられた詠開きの主催者は、その手があったかと手を叩いただろう。
歌人の手本となり得る御貴族を招きたくはあっても、皇族様なんて畏れ多くて招けない。
かと言って一枚落としての御貴族様を招待するというのも、相手の気位次第では、なんだ妥協して自分なのかとへそを曲げさせかねない難しさがある。
その点ナルミは、元皇族ながら立場が庶民に近く、ここに声をかけたとしたって京の貴族様にやっかまれることもない。
彼女の歌人としての教養高さは、かつて京にいた頃から名高かったのだから、貴族らでさえ妥当な選択だと僻みもしまい。
なんなら隣国一の村長と、これをきっかけに親睦を深められればしめたもので、近滋国のお偉い様方もこれしかないと結論付けるのは早かったはずだ。
それにしてもソウサイたるや、山波国を挟んで二つ隣の国にまで赴いても、そうした話が出来るというのがなかなかのものである。
離れた国の大事な催しに一介の商人が口を挟むなど、普通は余所者が口を出すなと渋い顔をされるものだ。
普段から話せる関係なのだろう。あの人の人脈はどこまで広いのかよくわからない。
「ただ、私も万一のことがあってはならない身だという自覚はあるのよね。
だから隣国まで赴くともなれば、安全の確保だけは万全にしなければならない。
信頼できる護衛が絶対に必要なのだけど……」
背筋正しく座っていたアンズの肩が跳ねる。
急に期待度の高い話が舞い込んできた。
護衛という形であろうがなかろうが、お母さんと隣国まで一緒に遊びに行ける口実が目の前にあるのだ。
誰よりも信頼できる護衛? 私? 私だよね? アンズの目が輝く。
「トキガネとタケスエ、どっちがいいと思う?」
「私じゃないんかーいっ!?」
アンズはひっくり返って大の字になった。
足まで開いて豪快なずっこけ。ただ、いかに相手が母とは言っても、太ももの奥の一枚布まで人目に晒すのは裸になるにも等しい恥。
しれっとお尻を軸にして、体を回して倒れ込むことで、足先はナルミの方に向けず、横っ腹を彼女に向ける方向である。咄嗟でこれが出来るのもなかなか。
「村長としてのお仕事はナベツナに任せるとして、やっぱり一人は武士が付き添いとして来てくれなきゃ駄目なのよ。
仮にも貴人で村長だからさ。付添人にも格式が求められるわ」
「むううぅぅぅぅ~~~……
それで言うならタケおじさんでしょうねぇ~……
トキ兄が駄目だとは思わないけど、初見の人にも伝わる貫録って言えばやっぱり年上のタケおじさんの方だし……」
「やっぱりそうなるわよね。
わかったわ、タケスエを連れていくことにするわね。
ありがとうアンズ、相談に乗ってくれて」
「うぐぐぅ……」
行きたい行きたい、私も連れて行って欲しい。お母さんと旅行したい。
起き上がってあぐら座り、両手を股の間に置いて繊細な場所こそ隠しながらも、上目遣いで無言の主張を訴えるアンズの姿に、大人らしさは欠片も無い。
だけどやはりもう子供じゃないんだから、自分からそんなこと言えない。
決して生い先長くはないとアンズも覚悟し始めている母と、手を引く側に回っての思い出を作りたい。出来れば親孝行だってしたい。
そして勿論、そんなことはナルミにも伝わっているし、そもそもこの話をする前から、よく知る我が子がこんな反応をすることなどわかっていた話である。
「言っておくけど、あなたにも護衛依頼は出すからね?
村長としての依頼よ、まさか断るなんて言わないでね?」
「ほんと!?
行っていいの!?」
「誘わないわけないでしょ。
あなたが一番、誰よりも信頼できるんだから。
あ、でも今言ったことはタケスエやトキガネには内緒ね?」
これも茶番である。すかして下げてから持ち上げただけ。予定調和。
ナルミからすれば予定調和の流れなのに、望外のように身を乗り出して大喜びし、はっとして慌てて正座に姿勢を戻すアンズの反応はナルミの期待以上。
拗ねた姿勢に鼻がついたナルミに、今さら気変わりされたら堪らない、とでも思ったのだろうか。うちの娘ってば本当に可愛い。
仮にこの子に犬の耳と尻尾があったら、ぴんと立ってぶんぶん振っていたであろうと、軽い幻まで目に映る。
「その代わり、浮かれずいい子にしてるのよ?
仮にも向こう様の大事な催し、失礼があっては問題なんだからね?」
「もう~、お母さん、私もう子供じゃないよ?
それぐらいちゃんと弁えて立ち回るから」
「そんな十歳の子供みたいなだらしない顔で笑われちゃ心配にもなるわよ」
「ひどいっ!
……あっ、待って。まさかそれで、やっぱり無しなんて言わないよね?」
「言わない言わない。
ちゃんとしなさいよ? それが条件だからお忘れないように」
袖で口元を隠してくすくす笑うナルミの前、アンズは母に甘えたがりな幼少の頃と、何ら変わらぬ幸せいっぱいの顔をどうしても隠せずにいた。
傍目から見れば、元よりそんな人懐っこい笑顔が愛嬌の源であり、彼女らしくもあって普段と何ら変わらぬもの。
母から見れば、幼い頃から毎日のように見てきた我が子の顔は、尚のことあの頃から何一つ変わっていないように見えるというものだ。
七歳のアンズの顔と十七歳のアンズの顔を、見比べることが出来るなら随分変わったことなど一目瞭然。
親にとって毎日見てきた我が子の顔は、その緩やかな変化が認識し難く、幼い頃のままのように目に映るというのも多々ある話である。
我が子はいつまで経っても我が子。愛しくて当然だ。
目に入れても痛くない、可愛い幼子だったあの日の残影は、老いた今なお絶えぬ母性の源泉の一つとも言うべき、育ての親だけの特権だ。
「ふふふ、本当に久しぶりね。あなたと一緒に山波村の外へ遊びに行くのは。
なんだか楽しみで仕方ないのよ。
私も昔ほど足腰強くないんだから、ちゃんと私の手を引いてね?」
「んんん~っ! 任せて!
絶対、ぜったい、とっても楽しい旅にしてみせるから!」
感極まったような呻き声を挟んで、アンズは胸を拳で叩いて旅の安全を約束する。
巫女と村長。私情で動くことが難しくなってしまった立場同士の母娘。
ナルミの妙齢も相まって、ともすれば、これが最後の家族旅行にすらなりかねないほど稀有な機会である。
どんな護送よりも、使命感だけでなく、感情的に、心の底から、アンズはその瑕疵一つ無い成功を己に誓っていた。
微笑ましく見守るテンジンも、こんなアンズなら仮に何が起こっても、如何なる障害も退けるだろうとしみじみ思ったものだ。
アンズは感情で動いた時の方が強い。父たる神こそ最もよくそれを知っている。
約束された、幸せいっぱいの家族旅行。失敗する見通しなど、神に言わしめて一つも無い。
巫女となって忙しく、生傷の絶えない日々を送るアンズに、こんな思い出作りだけに専念できる日が降って湧いたことをテンジンは嬉しく感じるばかりだった。




