第六四話 ~星だけが見下ろす静かな夜の浜で~
「あ~、流されてます~」
『向こうもお前に気付いたようだな』
村で広く燃え上がっていた炎もすっかり鎮火し、疲れたアンズは雷神太鼓も消し、海で大の字になってぷかぷか身を任せて浮いている。
真っ暗闇の夜の海。見上げた空の眺めがいい。雨は勢いを失ったもののまだ少し降り続いているため、目を開けっぱなしにはしづらいが。
自分の体がゆるやかに、浜へ向かって流されているのはわかるので、泳がなくても少し待てば足が着きそうな気がする。
水を司る水神ミズハが、海に落ちたアンズを察し、潮の流れを操ってくれているのだろう。
その気になれば速やかな流れでアンズを浜に押し上げることも出来るであろうが、疲れ果てたアンズの状態を慮ってか優しい運びである。
向こうがこちらを目視までは出来ていないと思われるが、溺れそうなほど気を失った状態ではないと認識されているのだろうか。
水の神として摂泉湾の平穏をも司るミズハなので、ある程度は察しが利くのだろう。
「摂泉村は港村で漁も多いそうですが、水難で命を落とす人は多くないそうですね。
ミズハ様がお守りして下さってるんでしょうね……がぼがぼ」
『念ずるだけで話せるのだからそれでよいではないか。
口がしょっぱかろう』
「ぷへっ。
いいんですよ、私はテンジン様とお話する際は、声を出すのが好きですから」
緩やかな流れとて人を運ぶだけのものなので、波が立てばちょくちょくアンズの顔の横からの水が顔にかかる。
口を閉じずにお喋りするアンズは、幾度も潮水が入る口の中がからっから。
後から不快な想いをするであろうに、今の楽しみを捨てられない辺りは、幼さとも取れるし親との語らいをやめたがらない甘えん坊ぶりの表れとも取れる。
「あ~、体じゅうひりひりする……
テンジン様、火傷跡は残さないように成るでしょうか」
『幸いひど過ぎるものは少ないし、明日の朝までにはどうにか出来ようよ。
人前に晒すことはあるまいから安心してよいぞ』
「よかった」
「お姉ちゃ~ん!!」
「くっ、来たぞ来たぞ。
テンジン様、私は今から死にます」
『おう、頑張れ頑張れ。
しっかり受け止めてやれよ』
足が着いたところでアンズは立ち、びしょ濡れの髪を後ろに流すように整えて、こちらに向かって駆けてくる少女を見て覚悟する。
肌が爛れるほどの大火傷こそ無いものの、服は至る所が焦げ付いて、裾や袖の端はすっかり駄目になって。
全身いっぱい風に晒されても痛む軽度の火傷まみれ、それを塩水を濡らしていっそう痛い中、これからさらに痛い目に遭うのだからしんどい。
でも受け止めてあげなくては。あの子なりの親愛表現は全部受け止めてあげたい。
なんなら海に浸かるのが膝下までの浅瀬まで歩み寄って、向こうの全速力を損なわないようにまでしている。そこまでしなくても。
「はぐぅん!?」
ほら飛びついてきた。浜を全力疾走してきたクマリが、アンズのお腹に肩をぶつける勢いでしがみついてきた。
ほぼ体当たりである。激突力が凄い。
踏ん張りもせず抱き倒され、衝撃を逃がすように海へと倒れ込んだアンズだが、それでも息が詰まるほど強烈。
死闘の末の追い打ちに目も回りそうだが、それでも浅瀬に全身を沈めながらクマリの背中に手を回し、抱き止めてあげることだけは怠らない。
一度最愛視した相手へのアンズの尽くしぶりは筋金入りである。
「――ぶへっ! しょっぱっ!
お姉ちゃん、なんかよくわからないけどだいじょうぶ!?」
「――おえっ、げほっ……けはぅ、っ……
だ、だいじょぶでぇす……今日もお姉ちゃん、すっごく強い妖魔を調伏してきましたぁ……」
浅瀬に立ち上がって腰の上まで海水に沈みながらも、背の低いクマリの両足が水底につかぬよう抱き上げたまま、アンズはお疲れの笑顔を浮かべて応えた。
心配そうに自分の顔を見つめるクマリも、実情の程は目にしていないながらも、アンズが激闘の果てであることは察していそうである。
アンズはこの子に勝利への過程で、どれほどきつい目に遭ったかなど、そんな話は一切しない。
こう見えて心配症な子でもあるし、苦労を明け透けに伝えると気が気でなくさせる予感しかしないので、成功談の結末しか伝えないぐらいで丁度いいのだ。
ミノヤマに人質に取られた時ですら、アンズが死ぬぐらいなら自分が死ぬことを平気で受け入れたような子に、自分の命が危機に晒された話を出来てたまるか。
「で、クマリはどうしてこんな所にいるの?」
「うっ……お、おこらない?」
「怒るけど。
ちなみに嘘ついたらもっと怒るぞ~?」
クマリを抱いたまま、重い身体には浮力がはたらいて歩きやすかった海を歩き、浜に上がり切ったところでクマリを地に降ろす。
手を繋いで水神ミズハ様おわす建水大社に向かって歩く中、アンズが最も気になることをクマリに尋ねる。
途端に見るからに表情を強張らせ、上目遣いで許したくなるような愛嬌を見せてくるクマリだが、アンズは笑顔で許さない宣言。
怒るか怒らぬかなど内容次第だが、こういう第一声で来ること自体、叱られる自覚があるのだろう。
もっとも、アンズには想像もつくが。ついでに、そこまできつく叱るほどのことかと言われればそうでもない予感もしている。だから笑顔。
「うぅ……も、ものすごい火事だったから、その……
水のかみさまミズハさまなら、なんとかしてくれると思って……」
「なるほどなるほど~。
それで避難もせず、ここへまっすぐ駆けてきたわけだ~」
「いひゃいっ!?
ご、ごめんなひゃい、ゆるひて~……」
逃がすまいとばかりにぎゅっと握っていたクマリの手を離し、アンズは可愛い妹の両ほっぺたをつねる。
ぐにぐに、むにむに引っ張る。抵抗ひとつしないのは、お姉ちゃんの意に添わぬ行動をしてしまった自覚があるクマリだからだろう。
クマリがアンズの命を常に案じているように、だからこそクマリ自身も、アンズが自分の安全を何よりも願ってくれていることを信じて疑っていない。
あれほどの災禍に見舞われた村にあり、避難よりも果敢に駆けた自分のことを、アンズが叱ってくるのは自覚があるということだ。
「ま、怪我もしてないようだし許してあげましょう。
でも、今後同じようなことをして自分を危ない目に遭わせるようなことをしたら、ほっぺたじゃなくて耳を引っ張るからね?
よ~く覚えておきなさい」
「うぅ、わかりました……
お姉ちゃんの耳ひっぱりこわい……」
ふんすと鼻を鳴らしてお小言程度に済ませたアンズだが、それでもクマリに対する釘としては充分に太い。
クマリはアンズが本気で叱る時の怖さを知っている。
昔、山波村で兎の耳を握って持ち上げる遊びをしていた悪い子を、アンズが見つけた時の激甚な怒りぶりは、山を隔てた桑原村まで伝わる語り草だ。
その子供達が拳骨でたんこぶを複数作ったこともそうだが、耳を引っ張り兎の痛さと同じ経験をさせた話がとにかくおっかない。
何せ子供達の耳の付け根から血が出ていたぐらいだ。正論でぶち切れた時のアンズの怖さは、子供達にとっては他の大人の比ではない。
その上で慕われているのだから、見方によっては本当によくやっているものである。
ただ、ちょっと低い声を出してクマリに釘を刺しているアンズだが、今後に対する念押しゆえにそうであるだけで、内心ではそう怒ってはいない。
神様は、信仰を受けてそれを力に変えるのだ。
テンジン様が巫女アンズの、そして彼女が集めてきた信仰を一身に受け、それに応えるための神力を形にするように。
避難すべき危機的状況の中、我が身の安全も打ち捨てて建水大社へ、摂泉村を救って欲しいといの一番に駆けつけて祈ったクマリ。
それがミズハに摂泉村の惨状とその迫真性を、僅かでも早く確信させ、その祈りにより僅かでも増えた力であれだけの大雨をいち早く降らせた結果に繋がった。
これは神職者のアンズをして、クマリの行動が勝ち取った成功と見て絶対に間違いない。
再びクマリの手を捕まえて、建水大社に向かって歩くアンズの前方彼方には、とうに鎮火し夜の帳に包まれた摂泉村の影がある。
クマリがここに駆けつけて、切に水神様に救いを求める祈りを捧げていなければ、延焼によりあと一軒以上の家が焼け落ちていた可能性も充分にある。
家を失う人が一人でも少なければ、それはどれほどの救いであろうか。
祈りがどれほどの成果をもたらしたのか、それを後から確たる数字で知ることは難しいが、クマリの無垢な祈りが救ったものは確実にあるはずだ。
きっと火の粉も浴びたであろうに、炎に包まれる村を駆け、名も知らぬ人々の救いを求めて駆けたクマリの献身は、アンズも頭を撫でたい本心がある。
今後も同じことをされたら怖いから、今は叱っただけ。
叱られてしょんぼりするクマリには、後日違う形で目いっぱい甘やかしてあげようと、アンズはひっそり微笑ましい想いで可愛い妹を見守っていた。
「――アンズ!」
「……ひゅいっ!?」
さて、そんなアンズに前方から駆け寄ってきて、大きな声で呼びかける声。
裏返った声を出したのはクマリである。
相手の姿を見て、慌ててアンズの後ろに隠れる。
あれはクマリにとって怖すぎる相手だ。黒装束の男。
「……オオムカデは調伏できたのか?」
「見ればわかるでしょ!
それより近寄るなっ! 近付いたらぶっ殺しますよ!」
今さら追い付いてきたミノヤマに、アンズは雷神太鼓を再び顕し、撥を両手に握って威嚇する。
ついでに"若"の太鼓を撥でこつこつ叩いて、未だひりひり痛んでいる我が全身の傷を癒す神力をテンジン様に求めて。
クマリにわからぬようこっそりと自己治癒しながら、表向きにはクマリの絶対的な敵であるミノヤマから、あなたを守るお姉ちゃんだぞと見せつける姿勢。
「ほらクマリ、言ってやんな!
お姉ちゃんがいるんだから怖くないよ!
あいつに積年の怨みをぶつけてやれっ!」
「……はげーーーっ!! しねーーーーーっ!!」
「お、おお、そうか、あの時の子供か……
これは弁解しようもないな……」
クマリにとって黒装束の男というのは、自分を人質に取ってアンズお姉ちゃんを脅した永遠の怨敵である。
ミノヤマが今もカムロの声を使っているせいか、やっぱり中身はあいつかと罵倒も鋭い。
明日からクマリのカムロに対する当たりが強くなりそうである。せっかく最近はカムロの人の良さもあって、両者の関係も柔らかくなってきていたのに。
「はい、聞きたいことはそれだけですか?
返事は終わりましたよ、さっさと帰って下さい。
しっしっ」
「ま、まあまあ、ちょっと待ってくれ。
私もお前に聞きたいことが僅かばかり……」
「ミノヤマーーーーー!!」
流石にミノヤマもクマリがいるこの状況下、アンズと話にならないことは察している模様。
ただ、きっちり確認しておきたいこともある。調伏したオオムカデはちゃんと完全に消えたのか、等。
離れた場所からの、はい、いいえだけで軽く済む程度のやりとりだけでも済ませられないかと、ちょっと粘ってみているところ。
しかし、後方から自分の名を呼んで駆けつけてくる盟友の声に、嫌な予感がして振り返る。この時点でだいたい諦めた。
「どっか行け! 邪魔!」
「うををーーーーー!?!?!?」
一気にミノヤマを捕まえたイバラギが、その襟首と腰元をぐっと握り、ぐるんと一回転して勢いをつけて沖の方へと放り投げた。彼方へと。
夜空を背景に、股を大開きにして飛んでいくミノヤマの尻がよく見えた。
女性陣の集いから放り出されたミノヤマは、遥か彼方の海にて微かに見える程度の、しかし大きな水柱を上げて着水して沈んだ。
なんとなく、殺してもなかなか死ななそうな奴なので、後ほどご自分で泳いで生き延びて頂ければ結構である。
「イバラギさん、今のは評価します」
「一応あんたを人質取って追い詰めた話は聞いてるからさ。
雰囲気を見る限り、その子がその時の人質に取られた子なんだろう」
「そこまでお察しですか。
でしたらもう一声評価して差し上げます」
「やったぜ~。
少しはあたしとも仲良くしてくれる?」
「だめ」
「う~ん」
イバラギはイバラギで、アンズに歩み寄りながらも、多少の距離を保っている。
流石に仲良くなれるとは思っていない。敵対陣営確定だもの。
ただ、突っぱねるアンズも眼光はさほど鋭くなく、いくらか態度が軟化した接し方をしてくれていることに、イバラギも苦笑いしながら若干嬉しそうでもある。
何を思ってその態度なのかはアンズも計りかねるが、敵意が無さそうなのはアンズにもわかるので、どうにも睨みづらいところもある。
「おとこまえ……!」
「えっ」
「え~、あたしだって女だよ?
そういう褒められ方は嬉しいけど複雑だなぁ」
「うつくしくておとこまえ!
お姉ちゃんもそうだし!」
「え?
私そういう風に見られてたの?」
アンズちょっと衝撃。私は男前だったのか、クマリ目線。
そんなこと言われて怯んでいたら、大人のお姉さんイバラギの方に駆け寄っていくクマリを捕まえるのが遅れる。
はっとして、知らずに鬼に自ら向かっていくクマリに手を伸ばすのだが、初速に優れるクマリ相手に出遅れるともう手遅れ。
「あははっ、純粋で可愛らしい子だ。
あたしのこと、気に入った?」
「うん! とてもしっかりしたおとなのけはい!
お姉ちゃんのつぎにあこがれる!」
「嬉しいねぇ~。
ほれほれっ、あたしもあなたのお姉ちゃんにも負けないぐらい力持ちだぞぅ~」
(うむむむ……大丈夫でしょうか……)
『まあそう不安がるな。
今のあ奴からは邪気は感じぬよ。クマリに危害は加えまい』
クマリの両腋を持つようにして持ち上げ、彼女をくるくるとその場で回って楽しませるイバラギに、アンズが心配でしょうがない。
確かに心配になるのもわかるし、あれを完全に信用するのも難しいとはテンジンも思うが、今のところは大丈夫だとアンズに伝えておく。
少なくともテンジン目線、つまり年の功の神様から見ても、摂泉国で邂逅して以降のイバラギから、アンズに対する害意は一切感じていない。
一撃食らわせてアンズを失神させたことには、今だけこの際目を瞑っているが。
「おねえさん、おなまえは?」
「あたしはイバラギだよ。
ラギとでも呼んでくれたって構わない。
幼い頃はそんな風に呼ばれてたんだ」
「わたしはクマリです」
「敬語が使えて偉いね、あなた。
アンズお姉さんに教わったのかい?」
「お姉ちゃんのおしえはかんぺきにみにつけている」
「ははっ、アンズ。
いい子を育ててるんだね」
「はいはいそりゃどうも」
クマリを下ろしてその頭を撫でるイバラギが、ちょっとクマリに懐かれているのがなんだか気に入らない。
このもやもやした感情は何だろう。妬いてるだけでしょうが。
大好きな妹が敵に懐いてる絵なんて見たくない。無性に気に入らない。
「クマリっ、おいで。
お姉ちゃんとイバラギさん、どっちが好き?」
「もちろんおねえちゃん。
そうやってやきもちやいてくれるとうれしい」
「そうかもね、やきもち焼いてるかもね。
絶対認めないけど」
「おねえちゃんも、そういうとこどんどんだしていこう」
我慢できないのでクマリを自分のそばに呼び寄せ、抱き上げて頭を撫でる。
クマリの見えない角度で、イバラギを睨みつけながら。
縄張りを侵された猫のような目に、イバラギもはいはいわかったよとお手上げ苦笑である。
「それじゃ、あたしはおいとまするよ。
またいつか……」
「あっ、駄目ですよ。
どこ行くんですか」
別れの挨拶を向けられた瞬間、すんと素面の無表情に変わったアンズがクマリを降ろし、私の後ろに下がっててと手で促す。
クマリも手振りで何をすべきか、すぐに理解してアンズの後ろへ。
どうしてそんな指示をされたのかはわからなくたってとりあえず従う。アンズお姉ちゃんの言うことには本当に従順。
「お尋ねしたいこといっぱいあるんですけど」
「え~やだ、答えたくない」
「まだ何も聞いてないでしょうが」
「答えにくい質問ばかりするでしょ?」
「しますよ」
「帰らせて」
「だめです」
イバラギの気まずそうなこと気まずそうなこと。
何を尋ねられるのかなんてだいたいわかっている。
オオムカデを蘇らせた動機、そのくせ自分達で討伐しようとした不合理さに対するちゃんとした説明。
そして何より、ミノヤマと一緒にハタノに与して、アンズを一度失神させて囚われの身にしたことだろう。
駆けつけた時のアンズのぶち切れ模様からして、あの子がどんな恥辱を味わったかはだいたい想像がつく。
イバラギ達のせいで、心許していない男どもに裸体を見られるわ触られるわ、日にちが経った今でも絶対にアンズはイバラギのことを許してはいまい。
何故あんなことをしたのか説明しろと言われれば出来る。自分達の都合でしかなかったのだが。
説明してアンズを怒らせずに納得させるのは無理。今あの時の話はしたくない。
「あなた私に貸しがありますよねぇ?
答えにくかろうがちゃんと答えて借りを返して下さいよ。
それで全部ちゃらにしてあげますから」
「いや、いい。
別の形で借りを返すことにするから」
「いりませんよ?
私の望む形でどうぞ」
「お願い勘弁して、私にも都合が、っ、ぶほぉ!?」
前蹴りが飛んできた。距離を詰めるのも非常に速かった。
お腹を蹴られてぶっ飛ばされるイバラギは尻餅ついて、蹴られた場所を押さえるのだが、ふと見上げれば目の前にアンズが仁王立ち。
「正座!」
「はいっ!」
「あのですねぇ!
あなた達のせいで私がどんな目に遭ったか言わせてもらいますけど!
私あの下種野郎どもに――」
速やかに正座するイバラギに、アンズの長々とした説教が始まった。
腰を曲げて怒鳴りつけるアンズから離れ、寄る辺無くなったクマリはおろおろ。
後ろから見ても怖いお姉ちゃんだ。イバラギのしゅんとした顔からも、大人の女性でもそうなるよねとクマリは思う。
声が大きくて、早口でまくし立てて、一回も噛まず、ものすごい剣幕で鬼をも圧倒する巫女に、彼女の頭の上で頬杖つくテンジンも苦笑い。
「あの汗臭くて毛深い腕で脚を抱えられた時の気持ちわかりますか!?
顔近付けてきても息くっさいし! 殴られた痛みより嫌悪感が勝つんですよ!?
後ろの雑魚どものいやらしぃ~目線なんて、肌に刺さるだけで背筋に虫が這うほど気持ち悪かったんですから!
ちょっと聞いてます!? なに下向いてるんですか!?」
「き、聞いてるよ、聞いて……」
「だったら返事は!!」
「は、はいっ!」
「うるせぇ! なにがはいですか!」
「へ、返事しろって……」
「言われてからじゃ遅い!
だいたいまだ一回もちゃんと頭下げて謝ってないでしょあなた!
私に追われて悲鳴代わりにごめんっつってただけでしょうが!」
これは長くなる。当分終わりそうにない。
クマリはすすっとアンズから離れて、海の方を向いて波打ち際に座り、空を見上げてぼーっと待つことにした。
どのみち先程の大雨で彼女もずぶ濡れである。海水にお尻を濡らされても今さら困らない。
自分に理不尽な絡み方をしてくるようなことはないお姉ちゃんだとはわかっているが、気が短い人が機嫌の悪い時は近寄らない方がいいのだ。
幼いながらに、世渡りを理解できている女の子だ。天才かもしれない。
「ご、ごめ……」
「だぁから! 言われてからじゃ遅いっつってんでしょうが!
あなた私のこと怒らせたがってる!? 舐めてますよね絶対!」
「な、舐めてないです、舐めてないです……
お許しを……」
「助かりたいだけの謝罪なんか聞くわけないでしょう!
私がどんな想いしたかまだわかってないんですか!?
どれだけ怒ってるか理解してないから軽薄な謝罪が出るんでしょ!?」
「ち、違……ごめ……」
「ほらまた!
ああぁ゛~~~、むかつくぅ~~~!!
思い出しただけでっ、ああ~~~!!
何なんですかあなた、同じ女でしょ!?
なんでわかんないんですか!? 嫌でしょ、あんな奴らにあんなことされたら!」
苛立ちを抑えられないとばかりに頭を引っかいて、砂浜を蹴飛ばして凄い量の砂を舞い上げるアンズにイバラギもびくっとする。
蹴った方向はイバラギに全く砂がかからない方向だが。
癇癪を起こすほどの怒り狂っていても、蹴ったり殴ったり砂をかけたりはせず、ここで直接の暴力にはぎりぎり訴えない辺りは理性的。
「もう一回聞きますよ!?
私がどんな想いしたと思います!?
あなたの言葉で答えてみて下さいよ!
今すぐ! ただちに! わかるなら!」
「……え、えと。
一生、忘れられないぐら……」
「わかってるなら私に言うべき言葉があったはずですよねぇ!?
なんですか!? 答えて下さいよ! わかるなら!」
「ご、ごめんなさい……」
「そこは私の目を見てでしょうが!
しょんぼりして見せたら許されるとお思いですか!?
やっぱりあなた、私のこと舐め腐ってますよねぇ!?」
「か、勘弁してぇ……
ほんとに反省はしてるんだよぅ……」
「い~や、してない! してませんね!
思い返せばそうですよ、ここに来た時だって!
何ですかあのへらへらした態度は! 私に何したか忘れてたんでしょう!?」
「わ、忘れてないよぅ……
だから、質問には答えられないから帰ろうと……」
「逃げようとしたの間違いでしょうが!
それで通用するとお考えなのが心底気に入らないんですよ!
もう一回言いますけど、私がどんな想いしたかわかります!?
わかってないでしょう! どこ見てるの!? こっち見て答えろ!!」
「わ、わかってるつも……」
「一生忘れられないぐらいってあなた言ったでしょう!
そこまで言うならどうして私にあの軽薄な態度で接せるんですか!
わかってないからでしょうが!」
「あうぅ……ほ、本当に悪かったから……」
「わかるまで帰しませんよ! 心底、はっきり理解するまで!
いいですか、私がどれほど屈辱的な想いをしたか――!」
駄目だもう、同じこと何回も繰り返し始めている。
酔っ払いによくあることだが、アンズは素面でこうなっている。
つまり、それだけ腹に据えかねているということ。
これは当分終わらない。屈強な鬼の肉体を持つイバラギに適した例えではないが、正座した脚が痺れ過ぎて立てなくなる覚悟も必要なほどであろう。
テンジンの分析したところによると、アンズもイバラギから有益な情報を聞き出すことは諦めているのだろう。
元々敵対陣営同士だ。口の軽さを相手に期待できたものではない。ましてこれほどの大物格を相手に。
嘘でもいいからイバラギに喋らせて、神様テンジンの目と耳に、イバラギの声と態度を晒して真偽を後で吟味するということは出来なくもない。
ただ、イバラギもそうされるのを恐れてか早々に逃げ帰ろうとしていたのだから、やはりイバラギの立ち回りは秘密を守るために最善のものを選んでいる。
そんな相手との心理戦はもう無駄だから、せめて言いたいこと全部ぶちまけてやれと感情を迸らせるアンズの行動も、テンジンも諦観混じりに認めている。
もう少し策士脳を持ってくれればもっと頼もしいのだが、賢しさよりも感情で動く彼女だから為せることもあろう。
二兎を追わず、アンズらしくある今のアンズを肯定するのも、長い目で見れば良しとテンジンも口を挟まず見守っている。
もっとも、テンジンも今のアンズには横槍を入れたくはないが。
今の猛獣のようなアンズに余計なことを言って、そもそもこんな巫女服だからとか藪蛇で絡まれてはたまらん。
あり得る話である。クマリには八つ当たりしないアンズだが、テンジン相手ならやりかねない。主神相手にどんな神職者だ。
「許して欲しいんだったらちゃんと借りを返してみせなさいよ!
私の質問に、ちゃんと私の目を見て全部答えられますか!?」
「そ、それはぁ……そのぉ……」
「そんなだからいちいち私を怒らせるんですよ!
本当に済まないと思ってたら出来るでしょう!?
形だけの謝罪なんて要らないんですよ! あいつらにされたことは消えないんですから!
でも出来ないって言うんでしょう! ふざけてるんですか!?
ああ゛~~~っ、もう!! ちゃんとこっち向け!! 誰と話してるんです!?」
「お、おねがい、ゆるしてぇ……
あたし、ほんとに反省して……」
「泣いたら許されると思ってるんですか!?
泣きたかったのはこっちの方だったのがまだわかってないんでしょう!
私がどんな想いで――!」
たいしたものだ、鬼を涙目にさせるのだから。
その気になれば逆切れもし得る鬼に、そんなことを思わせる暇も与えぬ剣幕。
全部完全に正論で攻めているから、返す言葉も与えない。
そして話題はまた同じことを繰り返す。日が昇るまでに終わるのだろうか。
クマリが一番よくわかっていることだが、これだからアンズを怒らせてはいけないのだ。
イバラギは、大和龍山で見たアンズの強さや怖さよりも、別の意味でもっと恐ろしいものを、嫌というほど思い知ることになるばかりであった。




