第六三話 ~神よ奇跡を起こし給え~
「イバラギ!」
「えっ、はわっ!?」
四方八方大炎上の中、オオムカデの撒き散らす毒液を躱していたイバラギの背中に、飛来した何かがぺたりと貼り付いた。
次の瞬間、ぼふんと煙が彼女の全身を包んだかと思えば、裾が短く袖の無い着物がイバラギの全身を包んでいる。
アンズの巫女服とほぼ同じ作りであり、色はアンズ色の橙ではなく萌黄色である程度の違いだ。
服を全部燃やされて素っ裸であったイバラギに、こんな形で服を与えられる術の使い手は一人しかいない。
「駆けつけてみれば随分と目の毒な姿でいたものだ……!
すまんな、遅くなった!」
「ほんと遅いんだから!
でもあと一押しだと思うのよ! 頼りにさせて貰うからね!」
ここに至ってようやくのミノヤマの参戦に、悪態こそつきながらもイバラギは機嫌を良くしている。
アンズと二人だけでもそれなりにオオムカデを追い詰められ始めているのだ。
未だ一時たりとも気を抜けぬ局面が続いているものの、加勢があれば流れも変わろう。
このまま押し切れ。イバラギも俄然、勝ちへの想いが色気付く。
「アンズー! 嫌いな相手だろうけど我慢して連携取ってね!
頼りになる奴には違いないから!」
「まったく、元凶なんですから助けられてもお礼は言いませんよ!」
「ギシャアアアアァァァッ!!」
熱気に晒されるたび火傷がひりひりするアンズはずっときつそうな顔をしているが、イバラギの声には張りのある返答だった。
さんざん煮え湯を飲まされた相手だが、それだけ強くて厄介な奴であるというのは、味方になるなら頼りになりそうでもあるということ。
既に苦境を認めているオオムカデが、金切り声を上げて自らに活を入れる激戦地にて、アンズは勝利に向けて踏みしめた雲を勢いよく駆けさせる。
空のアンズが稲妻を撃ち込む。
イバラギはいつの間にか再び生み出して手にした弓により、オオムカデの頭部の急所を撃ち抜く枝を放つ。
妖魔には痛烈な稲妻を浴び、力を削がれながら、残ったもう片方の眼を狙って飛んでくるイバラギの枝だけは躱し。
それが側頭部に刺さろうとも、頭部に熱を集め、その枝を炎上させて灰にすると、上のアンズにも地上のイバラギにも毒液や火を放つ。
アンズも決して自らに差し向けられる炎や毒液を無傷で凌いではいない。小さくも新たな火傷を作り、毒液の飛沫に針を刺すような痛みを与えられて。
イバラギも炎や毒液を凌ぎながら、アンズの巫女服と同じ意匠の服で駆ける中、はしたないとされる服だが動きやすさは裸一貫にも近しいと密かに感心する。
「人の子には恥辱の巫女服も、戦うためならば已む無しか……!
女が女を捨てればそりゃあ、あれだけ強くもなるわよね!」
必死の表情で空を駆り、傷つきながらオオムカデに立ち向かうアンズの横顔に、イバラギはそんな彼女と共闘できる今、心震える自覚がある。
同じ志を目指す者同士でさえあったなら、きっと素敵な盟友にさえなれたかもしれない。
こちらからの敬意は確実に払えたであろうから。今でもだ。
叶わないことだが、疑似的にでもそれを体感させて貰えるこの状況を、いつかは必ず滅びる鬼の末裔として少しでも噛みしめる。
人の望まぬ悲劇を招きし悪鬼として、詫びる言葉などありはしない。
身勝手だろうが闘争史に身を置いてこその鬼族、この戦いは生涯忘れまい。
「っ、ぐうう……!
ちょっとミノヤマさん、何してるの!?
まさか見物しにきただけなんて言うつもりないよねぇ!?」
「う、うむ……それはそうなのだが……
やる気はあるんだ、あるんだが……」
さて、イバラギの感慨はさておいて、問題はミノヤマである。
ちょっと遠い。オオムカデの巨体のそばで、炎やその胴体を避けて忙しく立ち回るイバラギと比べて、いかにも安全圏寄り。
散らされて遠くまで飛んだ毒液や火の粉こそ躱してはいるものの、至近距離で戦っているアンズよりは随分と安全そうな立ち回りである。
「私はこういうでかい相手への有効打を持つ口ではなくてな……
出来ることが見つかったら手を出すからご容赦を……」
「はーーーーー!?
何しに来たの!? ほんとあり得ないんですけど!」
「あんたあたしに服着せに来ただけかいっ!
策士気取りは肝心所で使えなくなるって本当ね!」
元々策と下準備で対立陣営を追い込むことに秀で、対人戦なら滅法強いミノヤマではあるが、でかぶつ相手に強く出られる戦い方は得意でない。
誰しも得手不得手があるので仕方ないところではあるが、この大事な時に使い物にならない黒子には女性陣も大激怒。
イバラギには服を纏わせることで僅かでも貢献した実績があるが、アンズに対しては参じた結果、怒らせただけである。今のところ、ただの邪魔者。
『少しはあてにもしておったのだが、意外と使えん奴だな』
「いいんですよ、もうほっときましょう!
元凶だわ腹立つわ役に立たんわで最悪ですわ!」
『うむ、まあ、冷静にな。
気持ちはわかるが』
「悪いが頑張ってくれイバラギ!
心苦しくはあるんだが私には向いてない仕事というのもあるんだ!」
「あんたそればっかりじゃないの!
あたしにゴエモンやらせたことといい、人任せも過ぎればただの怠け者よ!」
「う、うぅむ……返す言葉もないな……」
女性を正論で怒らせると怖い。迫力がある。
ただ、オオムカデも怒っている。大妖魔相手にこの無駄口の多さ。
死闘のさ中に余所見している暇すら匂わせるこの態度、舐め腐られているようで心底腹が立つ。
全盛期、せめてそれに近い力さえ取り戻せるならば……!
「!?
イバラギさん、なんとか……」
「やばい!
あたし間に合わないよ!?」
オオムカデが全身を丸めた。
全身に火を纏うにも等しい熱を孕み、炎上する家屋の並びを轢き潰して北上する構え。
民草の悲鳴は耳を澄ませなくても聞こえる近さにある。
糧さえ喰らえば傷も癒え、力を取り戻し、こいつらを蹂躙することが出来る。もう目前だ。
「ここだーーー!!
見せ場を寄越せぇ!!」
少しでも名誉挽回するならここしかないので、ミノヤマはカムロの声色で俗な大声を発して主張。
尾を叩いて北へと急発進しようとしたオオムカデだが、その接地わずか前方にミノヤマが投げつけた何かが、地面を爆裂させたのだ。
オオムカデの巨体に対しては小さな爆発でも、初速を殺され傾けさせられては前に進めず、オオムカデも丸めた体を解くしかない。
アンズがオオムカデの足元を雷撃で崩すには時間が無かったところ、その驀進を止められた功績は大きい。本当に大きい。
「すまん! これしか出来ん!
奴の転がりだけは死んでも止めるから許せ!」
「一生それだけやってろ!!」
「まさかそれだけで満足してんじゃないわよねえ!?
もっと知恵絞んなさい!」
それでも傷だらけで前線を張っている女性陣の機嫌は取れなかった。いい仕事ではあったのだが。
アンズの稲妻がオオムカデの額を射抜き、オオムカデも死なぬ目でアンズに喰い付こうと頭を伸ばすが、胴の足一本をイバラギの怪力で引かれる。
人間で言えば足の指を掴まれた程度だが、ひと繋がりの身体である以上、それが動かないだけで前進は鈍り、アンズを大顎で捕らえられない。
息切れもあらわ、常に雲の上の姿勢もふらふらの巫女を、あと少しのところで仕留められない展開続きでオオムカデも苛立ちが抑えられない。
「ギギギ……ッ……!
ギュウバアアアアアアアァァァァァッ!!」
オオムカデの最終手段が文字通り火を噴いた。
首を曲げて自身の身体に火を吐くと、その全身を火で包むのだ。
触れていたイバラギも慌てて逃げる中、巨大な怪物がその全身に纏う炎でさらに大きな影となり、比較的近い場所から振り返って見上げる避難民を恐れさせる。
転がることが出来ないならば、速さで劣れど這って行く他ない。焼け落ちかけた家屋を突き破ってでも進むしかない。
この状態では糧を口に入れても消し炭となり腹に貯まらぬが、今のこの包囲状態の突破を最優先とし、獲物の密集地まで辿り着ければそれでいい。
ものの数秒この巨体で駆ければ、獲物に辿り着ける今だからこそ選べる遠回りだ。
オオムカデは確実性を選んだ。それだけ切羽詰まっている。
「絶対、駄目……!
土鼓、睡蓮!」
「グガッ……!
ガッ、グ……ギッシャアアアァァッ!!」
燃え盛る巨体を引きずって地を這い進むオオムカデの前方に稲妻を落とし、地面を爆裂させるアンズがオオムカデを怯ませる。
爆発は大きく、オオムカデが頭を振り上げるほどでもあったが、それでもオオムカデは踏ん張って首を下げ、さらに前へと進まんとする。
ミノヤマもオオムカデの前方に回り込んで、何らかを投げて敵の顔面に爆発をぶつけるが、それもオオムカデを食い止めるには至らない。
オオムカデも、ここだけは止まってはならない局面だと確信している。
「イバラギさ……」
「ええ、任されてるわ……!
ここが分水嶺!」
アンズとミノヤマがオオムカデの前進を僅かでも遅らせることが出来たことで、オオムカデの向かう先にイバラギが回り込む時間も設けられた。
迂回し避けられる隙も与えない。自ら突き進んでオオムカデの眉間に、イバラギがその拳をぶち当てる。
岩石をも粉砕する鬼の剛腕は、オオムカデの頭の中まで衝撃を伝え、さしものオオムカデが神力の稲妻を真正面から受けた以上にのけ反る。
一方で、炎に包まれたそれに生身の拳で触れたイバラギも只で済むはずがない。
「まだまだ、ぁ……っ!!」
「忌マワシキ鬼メ、ガ……!」
オオムカデはぐいと首を引き、イバラギをその顎で真っ二つにせんと迫った。
高く跳んで躱し、後方へ一回転の宙返りを挟んで着地した瞬間、イバラギは間髪入れぬ前への急加速を得て、怪物の怒りの形相へと真正面から立ち向かう。
焼け爛れそうな拳で眉間へもう一撃。先の一撃より力が入らないのは承知。
オオムカデの頭が小さく後退する程度なのは織り込み済で、すぐに駆け寄り草鞋を失った裸足でその顎を蹴り上げるのだ。
走れる足の片方がこれで駄目になったとしても、この一撃は必ず響くはず。
「火鼓! 八種火!!」
そうだ、とどめを刺してしまえ。
蹴られて頭を大きく振り上げる形となったオオムカデの見上げた先には、憎きあの巫女が乗る黒い雲の底。
そして上天よりアンズを貫いて落ちる一筋の稲妻は、巫女が放てる最大の威力を以って再びオオムカデを撃ち抜いた。
「ガ、ア、ア゛アアァァ……!
何処、マデ、モ゛……!」
何処までも目障りな、と最後まで発する余力も無く、オオムカデは残る片目を大きく見開いて、その長い胴体をぐるりと振り回した。
足を痛めて片膝を着いていたイバラギが殴り飛ばされ、ミノヤマも距離を取るしか無く、さらにアンズに向けて炎を吐く。
あわやのところで炎を躱しながら、片脚焼かれて声にならない悲鳴が出たアンズも、まだ終わらないのかと焦燥感で心まで焼けそうだ。
「っ……て、テンジン様……!
あとっ、少しですよね……!?」
『ああ! 必ず勝てる!
摂泉の民をこの大悪の歯牙に晒すことも叶えさせはせん!』
身体の大半を聳え立たせた全容にありながら、鎌首を引いてぜぇぜぇと息を吐くオオムカデは、すぐに走りだせぬほどに弱ってもいるのだ。
それでも滅せない。全盛期に程遠かろうが、伝説の大妖魔の名は伊達ではない。
テンジンもまた、衰えたはずのこれを討つ神力を絞り出せない、全盛期とは程遠い自らを不甲斐無く感じるばかりである。
そんな無念も表には出さない。泣き言など言っていられるか。
「っ、ぐぅ……アン、ズ……」
「く……刺し違えるしかないのか……!
ええい、やむを得……」
人間離れした頑強さを持つイバラギも、あれほどの一撃を受けても死なぬのは流石ながらすぐには立てない。
ミノヤマも、いよいよアンズ達でもどうにも出来ぬのであれば、最後の切り札を解き放つしかないと腹を決め始めていた。
流石にこいつを世に解き放った責任だけは取らざるを得まい。見栄の問題ではない。
見立てが甘かったかと悔いながらも、つけを払う覚悟はもう出来た。
「…………えっ!?」
「グガ……!?」
だが、その矢先。
アンズもオオムカデも、そしてイバラギもミノヤマも、誰もが敵からすら目を切って空を見上げた。
あまりの出来事だ。衝撃的すぎて、双方、敵のことすら一瞬忘れるほどの。
なぜなら、ぽつりとその肌に一滴の水が落ちてきたのを感知した矢先、星々が無数に瞬く晴れた夜空から、唐突に勢いよく雨が降り始めたからだ。
「嘘でしょ!?
こんな都合よくこんなことある!?」
「雲も無く……!?
であれば、これはもしや……!」
「ヌグウ、ア……グガガ、ッ……!」
降り始めた頃のぽつぽつとした小雨の時間は短く、一気に増えた降り注ぐ雨は、本降りの時間をも皆無にして瞬く間に豪雨となる。
摂泉村を広く蝕む炎も、風のみ伴わぬ嵐のような雨に晒され、あれほど高く燃え盛っていたものが小さくなっていく。
オオムカデの全身を包んでいた炎もたちまち消え、さらにはその雨を浴びるオオムカデが、嫌なものを浴びているかのように身を悶えさせている。
アンズとて圧し潰してくるかのような豪雨に重さを覚え、腰を曲げて顔を腕で庇いすらしているが、オオムカデがこの雨を嫌厭する姿はそれ以上に過敏だ。
『しっかりしろ、アンズ!
これ以上無い、齎された奇跡にして好機とは知れておろう!』
「も、勿論です……っ!
それしかないです、から……!」
凄まじい雨を見上げるミノヤマと、両腕で我が身を庇うようにして背を丸めるイバラギの姿を見比べれば、アンズの目にもこの雨の正体は明白。
正体のわからぬミノヤマはともかく、確実に妖であるイバラギとオオムカデは、明らかにこの雨の重さ以上に苦痛を感じている。
巫女たるアンズが知らぬはずのない事実。神力は妖に対して特段なる威力。
激しい雨に煽られながらも、雲と姿勢を立て直したアンズは、摂泉の窮地を救う恭しき雨の主に応えるべく、オオムカデを討つ構えに移らんとする。
「…………ッ!!」
『いかんぞ!
奴も気が付いたようだ! 流石に明白か!』
「ええ、許しません!
何が何でもさせてたまるものですか!」
オオムカデも、これほどの雨を降らせる力の持ち主の存在、そして伝説の大妖魔の嗅覚を以って、その力の源が迸る方角までをも直ちに察知していた。
ぐるりと首をその方角、西の海の方へと向けるや否や、焼け落ちた家屋の残骸をも踏み荒らして、凄まじい速度で地を這い進み始める。
この雨はまずい。弱った今では、ずっと浴び続けているだけで調伏されかねない。
手を焼きながら獲物を求めても絶対に間に合わぬと、最優先事項をこの雨をやませることと正しく見定めたオオムカデも、相当な焦燥感を抱いている。
その速さたるや、巨体に対する障害物が殆ど無くなっていることを差し引いても、追ったアンズがすぐには並べぬほどであり、必死さの表れでもあろう。
『何としても止めろ!
守るべきものの御姿を脳裏に描け!』
「存じています!!
火鼓! 春告!」
アンズとテンジンもまた必死だ。
このままオオムカデを目指す場所に辿り着かせてしまえばどうなるか。
あれだけはこいつに奪わせてたまるか。信仰を失い、人々から見放されても、甲斐甲斐しく人の世の安寧を、なけなしの神力を振り絞ってでも祈るあのひと。
オオムカデに並ぶや否や、その側頭部へ稲妻の砲撃を叩き込むアンズの気合は大きく、村の民草を守るために必死さにも確実に匹敵する。
「グガガ、ッ……! ギイガッ!」
いよいよ我が身の消滅すらも意識し始めたオオムカデも、死に物狂いで、駆けながらにしてその全身を丸めた。
ここで再び、幾度も見せた、車輪のような形の全様と化して、駆けていた勢いをそのままに、さらに尾で地面を押し出しての加速。
向かう先は海。標高の低い場所。すなわちここは下り坂。
急所の頭部を蝸牛の渦の真ん中に抱え込むようにして守り、もはや止められぬほどの加速を得たオオムカデがアンズを突き放そうとする。
『急げアンズ! 雨は痛かろうともわかっている!
だが、ここだけは……!』
「はい……!
絶対に……絶対にぃっ……!」
アンズも両腕で顔を守りながら、可能な限りの最高速、背筋を伸ばして立つことが不可能な速さまで雲を加速させる。
降り注ぐ大量の大粒の雨は、自らの超加速で横殴りにぶつかるだけでもびすびすと痛い。何度も火を浴びて腫れている肌には尚更だ。
進む道にあるものを轢き潰し、下り坂の勢いのまま減速すること無きオオムカデに、痛みを堪えて必死に追いつく。
さあ、見えてきた雨の源泉。
そして轟音と共に転がるオオムカデが、このままいけば社ごとあのお方を轢き潰すことは明白。
これほどの加速を得たオオムカデの巨躯を、今までのように地面を爆裂させることで止められるだろうか。
いや、たとえそれで止められたとしてもオオムカデはすぐさま体勢を立て直し、社に襲い掛かってあの敬うべき神様を歯牙にかけるだろう。
「土鼓! 水仙!」
稲妻は本来地面を撃ち抜き、大いなる大地の形すら変える力強きもの。
地の形を変える力を司る、土雷鼓の力を全力で操れ。
アンズがオオムカデの転がる前方に稲妻を叩き落とし、それが生じさせる爆音を耳にしたオオムカデは、走りが乱れればすぐにでも体を広げる構えでいる。
「グガッ!?」
アンズの稲妻が地表にもたらした炸裂は、その爆破によってオオムカデの進行を妨げるためのものではない。
むしろ逆だ。転がるオオムカデの地表の先が浮き上がり、短く途切れた鋭き上り坂となる形。
勢いよく転がした球が坂を上った末、先が途切れていれば斜方投射されるように地を離れて飛び立つように。
相応の速度で地を駆けていたオオムカデの巨体は、まさしくそのようにして上り坂の切れ目から地を離れ、大きく空に向けてその巨体が浮いていた。
「ひいいいぃぃぃ!?!?!?
ななななな何ですかあぁ!?」
「よかった……!
ミズハ様……っ、っ、っ!?!?!?」
オオムカデの巨体は、建水大社を飛び越えて、海へと向かって宙を舞う。
その社の屋根にて両手を掲げ、摂泉村いっぱいに雨を降らせる神力を注いでいた神様ミズハが、頭上を化け物が飛んでいったことに驚愕して悲鳴をあげる。
あまりにびっくりしたもので、頭を抱えて亀になる姿は可愛らしくもあるのだが。
彼女と社の危機を回避したことに、胸を撫で下ろしかけたアンズが直後、社のそばに見たものに対する驚愕は、ミズハの得た驚きを遥かに凌駕する。
何故あの子がこんな所にいるのか。
いや、未だ背後から迫っていたオオムカデに気付く素振りも無く、両膝をついて社に手を合わせているあの姿だ。
一心に神様に祈るため、目も閉じているのだろう。
火の放たれた村が恐慌に溢れる中、只一人神様に救いを求めるためここへ駆けつけたのだろうとは後から考えればわかる。
それでもアンズは、海の方向へと放り投げられたオオムカデを追う中、思考が硬直するほどには、ここにクマリがいることが余りにも予想外だった。
「――ガハッ!」
宙に放り出された上、減速するきっかけも得られぬオオムカデは、着地してなお軽く跳ねながら進む我が身を止められなかった。
浜に大きな轍を刻み、貝殻などに躓く間も無く粉砕し、波打ち際から大量の水しぶきを上げ、大いなる海の抵抗をしばし受けた末に海面上でようやく止まる。
水の中に巨体の大半が沈み、丸めた体を解いて水面から顔を出し、何が起こってこうなったのだとばかりに周囲を見渡す。
果てなく続く西の黒き水平線と、闇に包まれ色もわからぬ東の浜辺。
ここが海面上だと理解したその直後、見上げた自らの頭上には、この日最もかの大妖を追い詰めた巫女の乗る雲がある。
内陸に生まれたオオムカデですら理解する、これから自らに起こる惨劇の根拠となろう真理。
ずぶ濡れの身体に稲妻は致命的。
まして、妖たる自らに神の力が生み出す稲妻とあれば。
「グ、ガ、ガガ……!」
「テンジン様! 参ります!
今日一番の神力を!」
『うむ! 確実に終わる!
ここまでよくやったぞ! お前を誇りに思う!』
一足早い勝利宣言。テンジン様が確信を以ってそう唱えてくれる。
オオムカデとの戦いの中、一度も浮かべる余裕のなかったかすかな笑みを、確約された勝利を胸に浮かべたアンズが、力強く火雷鼓を撥で打つ。
やめろ、待て、とでも言いたげな呻き声を漏らすオオムカデもまた、その肥大した自尊心あってなお、己の敗北を悟らざるを得ない最終局面だった。
「火鼓!! 八種火!!」
嵐のような豪雨の中には実に似合う、特大の稲妻が晴れた空から急転直下。
アンズを貫き、オオムカデを真っ直ぐに射抜く神のいかづちは、巫女を見上げたオオムカデの慄いた表情を真っ向から撃ち抜いた。
水神ミズハの神力を孕む雨を今なお全身に浴び続ける中、濡れた全身を巡る凄まじい稲妻。
悲鳴も慟哭も上がらない。伝承に名を残すほどの大妖魔ですら、声を溢れさせる力も失うほど、この一撃は致命的かつ決定的だった。
「ウ……怨、ミ…………晴ラ、サ……デ………………」
それでも、出ぬはずの声を絞り出してでも、怨念を訴えたのは大妖魔の意地か。
光に呑まれて消えていく中、その言葉を最後に、あるいは言い切ること能わぬ中で、オオムカデの大きな全身が消えていく。
海面上からも、そして海面の下に沈んでいた足と胴体も。
調伏すべき大敵の気配がとうとう無くなったことを確信して、それからようやく、摂泉の海浜を照らしていた神の稲妻の光が消え、夜の浜辺の景観が蘇る。
現世に蘇りし伝説の大妖魔、大百足。
摂泉村の民をも皆殺しにするに足る、それほどの力を持つ恐るべき存在は、今ここに、山波神社の巫女と神の手により、調伏され果たしたのだった。
「はぁ……はぁ、っ……
お……終わりました、よね……?」
『うむ、よく頑張った……!
今一度言うが、私はお前という巫女を神として誇りに思うぞ!』
「あっ、はははっ……
やっ、たあっ……」
ああ、精も根も尽き果てた。間違いなく、今年一番しんどかった。
自らの乗る雲を操る余力も無くなった上に、立つ力ももはや無くしてしまったアンズが、ふらっと雲からすべり落ちそうになる。
テンジンが咄嗟に我が力で雲を操って、海面にアンズが叩きつけられる結末だけは回避する。
しかしながら、それはふらついて雲から落ちかけた彼女の身体に、雲が横からしがみつくような形になるのが辛うじてであり、結局アンズは海へ真っ逆さま。
痛い落ち方にならない程度には落下速度が抑えられたが、大きな水しぶきを上げて、ぼしゃんとアンズが海に落ちる結果は免れられなかったようだ。
『おいアンズ、力を抜くんだぞ。
下手に足掻くと沈むのだからな』
「――ぷはっ。
だ、だいじょぶで~す……ちから、はいりませぇん……」
河ならともかく海は人の身体を浮かせてくれる。息を大きく吸えば特にそう。
何故そうなのかは人も神様もよく知らないが、波の無い静かな海はそうなのだ。
藻掻がいたりせず、脱力してぷかぁと浮かぶよう身を任せれば、沈むことは無いというのをアンズも知識として知っている。
もっとも、今は溺れまいと焦って足掻くような余力も無いので、自然とそうならざるを得なくもあるのだが。
大の字の体を水面下に漂わせ、顔だけ海面上から出したアンズは、星が瞬く晴れた空を、多量の雨を浴びながら見上げて眺める。
まったく、地上はあれだけ大変だったというのに、空の様相ときたら何一つ変わらない。
大いなるこの世界そのものから見れば、あれほどの惨劇すら無関係を装えるほどの些事とでも言えるのだろうか。
幾千もの命が危ぶまれた摂泉の地の動乱の中、我関せずとばかりに星々を煌めかせる空の傲慢な雄大さを見上げると、ふへっとした皮肉的な笑いも溢れてくる。
守り切ることが出来たから笑えるのだ。
大火に包まれた摂泉村は、失ったものも相応だろう。あれほどの怪物相手にこれで済んでまだよかったね、なんて不謹慎なことは言えない。
それでも、戦い抜かねば守り切れなかった命は山ほどある。
そして摂泉国に限られたことではなく、どんなに大いなる被害を受けて嘆き悲しもうが、命ある限り人は必ず立ち上がり、かつての日々を取り戻せる。
台風に、飢饉に、疫病に晒されて、甚大な犠牲と被害を被った人類が。
復興という短くも逞しき二文字に記される、偉大な成果を成し遂げてきた歴史が物語る、紛うこと無く信頼出来て裏切られない真理であろう。
死傷者無し。
後にはっきりと周知される、オオムカデほどの災厄あってなお、アンズが成し遂げた実績だ。
摂泉村は、必ず蘇る。約束された未来である。
命失われぬ限り、連綿と続く輝かしき人類史は途絶えない。




