第六二話 ~摂泉村の大災害~
「喋りましたね、あいつ……!」
『なまじ上手く立ち回れ過ぎたせいで、かえって冷静にさせてしまったか……!』
人の口と舌と喉を持たない姿のオオムカデが、人にも理解できる言葉を発声したことに対し、アンズは単に驚いたがテンジンは違う。
喋る妖魔は案外珍しくもない。まして人の言葉が理解できる、大妖魔オオムカデであるならば驚くべきことでもないというのが、博識な神様の見解だ。
ほんの短くオオムカデが声を発しただけで、怒り狂って金切り声を上げていた時とは変わった相手の意識を警戒できるのは、テンジン様の年の功であろう。
現にオオムカデは後方を振り返り、駆けて追ってくるイバラギとの距離を計っている。
加速を食い止められてこんな場所で留まらされた以上、あれも間もなく追い付いてくるだろう。
今の自分で鬼と雷神を同時に相手取るのは得策か。負けるつもりはないと自尊心が訴えるが、驕った思い通りにはならぬやもしれぬという本能的警鐘も強い。
かつての生前とは異なり、オオムカデは一度敗れて滅されているのだ。
復活した今、怖いもの知らずだった大昔には無き、想像を超える敵による敗北という経験を得たオオムカデは、慎重な判断も必要なことを学んでいる。
「忌々シイ……!」
『やはりか……!』
「っ、駄目! 行かせない!」
自らの誇りに泥をかぶってでも、オオムカデはアンズを無視して北上する足を駆け始めた。
力が足りない。糧を得なくては。
人が何千何百と集う里はもう遠くない。辿り着ければ食い放題。
小さな人の子に過ぎぬたった二人を警戒し、交戦を一度でも避けて逃げることは屈辱的ではあるが、勝つための最善策は間違いなくこれだ。
腹を膨らませて力を取り戻し、この屈辱を倍にして返し葬ることで、オオムカデは未来を勝ち取ろうとする道を選んだ。
すなわち、アンズ達にとってはまずい展開だ。
オオムカデの行動そのものも、それが冷静に正しい判断を出来るようになったこともだ。
アンズは急いで雲を北上させ、オオムカデの早い前進を上回る速度でその前方上空に躍り出ると、地上のオオムカデに稲妻による攻撃を放つ。
雷神太鼓を幾度も叩き、技の名をも口にせず、オオムカデの驀進を食い止めるための攻撃を何度も繰り返す。
だが、アンズからは決して目を切らぬオオムカデは、速度を落とさず蛇行するようにして、アンズの雷撃を頭部に受けぬよう凌ぎながら突き進む。
胴に受ければ勿論痛い。神力の稲妻は妖魔には特効だ。
オオムカデは怒りを溜めながら、致命傷だけは遠き所とし、摂泉村がある方角へと止まらない。
『止められそうにはないな』
「でも、テンジン様……!」
『冷静になれ、やりようはある。
お前に知恵を貸すのは誰だと思っているのだ?』
百人超の命を奪う、怪物が摂泉村へと到達する未来を阻めないアンズが焦燥に駆られるが、その現実を認めた上でテンジンは冷静な声だ。
こんな時こそ冷静さを失ってはならぬことを、アンズに強調するかのように。
そして、彼女に最も信頼される己を旗頭とし、不安を払拭すべく言葉を選んで落ち着きを取り戻させる。
神として歯痒いが、テンジンもまた、アンズの全身全霊を引き出して、彼女に奮戦して貰うことでしか惨劇を避けられぬ苦しい立場である。
『追え、アンズ! ただし、追い抜かずとも良い!
今は力を蓄えて、私の言葉に従ってみよ!
必ず、お前の望む結末を最大限導いてみせよう!』
「~~~~~っ……!
わかり、ました……!」
この緊急事態、オオムカデに手を出さぬ時間を少しでも作ることは、それでいいのだろうかとアンズに疑いを持たせるには充分な決断だろう。
それでも、神様を信じる。今までも、何度だって私を正しい道へと導いてくれたひと。
気持ちを改め、オオムカデの頭上高くを敵と同じ速度で北上するアンズは、撥を握る手にも食いしばる歯にも強い力が入っていた。
たとえ名も知らぬ人々とて、誰かの命が自分の行動ひとつに懸かる状況とは、一つ一つの判断が重い。
そして、間もなくその時は訪れた。
摂泉村の南端、店と家屋がまばらに並ぶ光景を目にしたオオムカデは、獲物を目指して一気に加速。
狙撃を取りやめていながらぴったりとついてくる巫女に怪訝さを覚えながらも、今の最優先事項は糧の摂取。
摂泉村の民としては貧しく、農村の庶民と比べれば恵まれた暮らしを営むと見える、小さな家屋に向けてオオムカデは顎を突き出して一直線だ。
「テンジン様、っ……!」
『よい、捨て置け!
奴をどうにかするのは今ではない!』
本当にこれでいいのかとアンズが切実に問いかける中、オオムカデがその頭ごと、その家屋の中に勢いよく頭ごと侵入する。
木造の壁を突き破ってだ。高所にも届くほどの凄まじい破壊音は、オオムカデにとって人類の建造物など、障害物にすらなり得ぬものだと物語るかのようだ。
頭だけを家屋に潜り込ませ、胴体を星空の下でくねらせるオオムカデの姿は、蝸牛の殻に頭を突っ込んで中身を啜る筬虫を彷彿とさせる。
あの家の中に人がいるとすれば、どれほど恐ろしい想いをしながら死んでいくのだろうか。
真夜中に、安息の地である我が家に突然怪物が、巨大な頭ごと侵入してきて、その恐ろしい存在を目の当たりにしながら為すすべなく食われるしかない。
自分がそんな立場になるかと思えば全身が震えて鳥肌すら立つアンズは、怪物の凶行を空から見下ろすことしか出来ない。
どうか、誰もいない空き家であって。お願いだから。
『震えるな、アンズ。お前の恐れていることにはならぬ。
それよりも、そろそろあいつが顔を出すぞ。
その瞬間を狙い撃て!』
目を背けたくなるような地上の光景に、しかし戦う構え――雲の上で開いた足といつでも雷鼓を叩けるよう握った手のアンズが、テンジンの言葉に目を覚ます。
不思議と、信じられたからだ。最も恐れる惨劇は避けられていることが。
明確な理由あってのものなのだが、冷静さを保つことに精一杯の今のアンズは、理屈の理解にまでは頭が追い付かない。
それでも今は、テンジン様の御声を頼りに、すぐに顔を出すと言われるオオムカデに一撃を喰らわすべく、集中力を高めて注視する。
「――火鼓! 春告!」
オオムカデがその家屋の天井を突き破って頭を出した瞬間に、アンズがそれを目がけて稲妻の砲撃を放つ。
苛ついた想いで顔を出したオオムカデの側頭部に、その稲妻が直撃する。
グギ、と痛々しい呻き声を上げ、しかし力尽きずアンズを一度睨んだオオムカデだが、また近き別の家屋に頭を突っ込ませていく。
"今度こそ"糧を。空腹の怪物は今、この状況を打破すべく餌を求めることを最優先とする。
『――悲鳴は聞こえまい。
ミノヤマとやらめ、少なくとも村の南部の民の避難は間に合わせてくれたようだな』
「じゃあ……!」
『うむ、奴がこの辺りでまごまごしている間は問題にはならぬはずだ。
家を壊された者達は気の毒だが、この裕福な村ならば支援も受けられるであろう』
そう、最悪の展開だけは避けられているのだと、漠然とながら感じられる最大の根拠は、オオムカデが侵入した家屋から悲鳴が上がらぬことだ。
どんな寝坊助であろうとも、突然怪物が現れれば、そしてその顎で致命傷を負えば、絶叫を上げずにはいられまい。
それが無いのだ。すなわち、無人の家屋。
真っ先に最前線から逃げていったミノヤマに憤慨を抱いたのも過去、ミノヤマはきっと上手く摂泉村の民を避難させてくれたと見える。
このぶんであれば、村は南に寄れば寄るほど、もぬけの殻の民家が並び立つばかりの廃村状態であろう。
すなわちオオムカデは、手近を漁る限り獲物は屠れない。
『そろそろだ! 撃ってやれ!』
「はいっ!
火鼓、春告!」
「グギッ、ガァッ……!」
夜景に火花を散らして直進する、太く光り輝く稲妻が、第二の家屋から顔を出したオオムカデの額を焼く。
強力な雷撃でありながら致命傷にならず、消えぬオオムカデの底知れぬ生命力を象徴する一幕ではあるが、力を削ぐことには繋がっているだろう。
人間とて、一撃では致命傷にならないような打撃でも、二度も三度も受ければやがて意識や命を失い得るものだ。
この傷は、確実に後々響いてくる。
『だがアンズ、油断するなよ!
奴も賢しい! 次は獲物の位置を……』
「ッ……!
ギッシアアアアアアアアァァァァァッ!!!!!」
家屋二つがすっからかんであったことに、期待していた餌場はここではないとオオムカデも見限ったのだろう。
夜の家屋には必ず糧がある。経験則から知っている。それが無い。であれば何らかの意志が噛んでいる。オオムカデも逃げたミノヤマのことは忘れていない。
それでもここは人里だ。まさか広大なこの村すべてから、あれからの短い時間で人間すべてが逃げ去ってはいまい。
鎌首を持ち上げて、空へと凄まじい咆哮を発するオオムカデの行動には、アンズも思わず撥を握った拳のままで両耳を塞いだほどだ。
甲高いそれは、耳の奥のものが裂けるかと思うほど凄まじかった。
自らの耳にすら響くその金切り声を上げながらも、耳を澄ませていたオオムカデが、ぐりんと村の北部に顔を向けた。
聞いて確かめたのだ。今の自分の声を聞き、大小なりとも悲鳴を漏らす人間の声を。
大きな悲鳴を上げる者はいなかった。それでも聞き逃さない。
村いっぱいに人間の匂いが沁みつき、嗅覚だけで獲物の場所まで絞り込むことが出来ない人里において、畏怖を招く妖魔の咆哮は獲物を炙り出す手段の一つ。
『さあ、ここからだ! 食い止めるぞ!
奴も自由自在には動けぬこの場所を末期の地としてやれ!』
「はいっ!」
「忌々シイ、神々メ……!」
「ちょっとー!?
忘れられちゃ鬼の沽券に関わるわ!!」
無数の建物が立ち並ぶ村は、さしものオオムカデの巨体を以ってしても、障害物が多すぎる。
逃げた獲物どもがいるであろう北部へ向かうには、平地のようにはいかないだろう。
立ち回りがいっそう難しくなった上に腹の虫が鳴るオオムカデと、ここを決着の地とせんと決意したアンズが、鋭い眼光をぶつけ合った矢先。
アンズやテンジンの想像を超えた速さで追い付いてきたイバラギが、矢のような跳躍とともに、オオムカデの後頭部に蹴りをぶっ刺す展開が続く。
呻いて頭を下げるオオムカデの後方、イバラギはオオムカデの長い胴体、丸みがあって不安定な背の上に、安定した姿勢で着地している。
「アンズ! 望むがままに戦って!
可能な限りは合わせるわ!」
「言われなくたって!
火鼓! 春告!」
力強く火雷鼓を叩き、蹴られて怯んだオオムカデの側頭部に稲妻砲撃をぶつけるアンズだが、その口端は無自覚ながら少し上がっている。
これほどの強大な存在に、単身挑むことにはやはり不安も大きかったのだろう。
いつかの敵であると意識してやまない相手であろうとも、それが共闘してくれることへの安堵が、感情が顔に出る性分から溢れている。
討つべき鬼に励みを賜る巫女など褒められたものではないが、テンジンも今のアンズを見る限りでは、彼女に余裕が生まれて良いことだと目を瞑るのみ。
「疎マシイ……!
卑小ノ、輩ドモ……!」
さしものオオムカデも、神力いっぱいの雷撃をこれ以上受けてまずいとは思い始めているのだろう。
背中を踏まれる屈辱にも耐え、鎌首を掲げた高所からぐるりと北方へ向かう道筋を探すべく視野を回す。
道は幾多もある。だがオオムカデの巨体にはいずれも狭い。
人間にとっては牛車の往来をも意識したほどの大通りとて、進路をそれに絞れば空の巫女から狙い撃たれる危険性が高いと、オオムカデとて知恵が利く。
餌場になり得ぬ人里は、特にこれほどの人口密集地で建物の多い摂泉村は、オオムカデにとっては窮屈で戦いづらい戦場に他なるまい。
「あづっ!?
アンズ気を付けて! 火が……」
「グゥゲアアアアアァァァッ!!」
オオムカデの全身が燃えるように光り、それに伴い発する熱は、その背に立っていたイバラギの草鞋が発火するほど。
慌てて跳び離れたイバラギが、燃える草鞋を蹴り捨てたその直後、その全身に孕んだ熱を一気にオオムカデが解き放った。
開いた口から吐き出される炎は一気に燃え広がり、周囲一帯をあっという間に火の海と化す。
上空にいたアンズですら、爆発的な炎が生み出す上昇熱波にその全身を晒された上、何気ない一呼吸で肺の奥まで焼かれるかのように咳き込んだほど。
立ち上った無数の火柱は、間違いなく北へと逃げた民草にもはっきりと見えるほどであり、彼方からの大小の悲鳴をオオムカデも、耳を澄まして聞いている。
一瞬で地獄絵図だ。
一つ建てるだけでも何日もかかる家屋。その中で暮らしを営んでいた人々の記憶と、それを形にした財産の数々。
それが無数に立ち並び、村として完成し、人々の安寧の地として佇み定着するまで、何十何年の時がかかったのだろう。
それが、ものの数秒で消えていく。炎に包まれ、形を失い灰になっていく。
人々の避難が済んでいなければ、焼かれる人々の阿鼻叫喚すらここに加わっていたのだ。
代わり、焼け落ちる家々の柱がばきばきと音を立てて崩れていく泣き声が、家人の安息地を守り切れなかった無念の如く無数にこだまする。
それは避難した人々が、やがて帰ってこられたとしても、形を失った我が家を前にして膝をつき、嘆き悲しむ未来を想起せずにはいられぬ無常なる悲鳴である。
「なんてことをするの……!!」
『!?
おいアンズ! 頭を冷や……』
斯様に一瞬で、村の一角に死をもたらす怪物の所業を目の前にすれば、恐れ慄くのが最も人らしき反応だ。
アンズはそうではない。ただ安寧に過ごしていたかっただけの人々から、思い出も未来も奪い去る大悪の暴虐を目の前にすれば。
目下いっぱいに地を埋め尽くし、降り立てる場所も見つからぬほどの業火にさえ劣らない、燃え盛らんほどの怒りを胸に灯して雲を駆けさせる。
テンジンが止めるのも当然だ。オオムカデの頭部めがけて真っすぐだ。
「この虫々が!!」
よもや相手の方から飛び込んでくるとは想像だにしなかったオオムカデが顔を上げた瞬間、アンズが振り上げた両手の撥でオオムカデの額を思いきり殴った。
その瞬間に、撥の先端を中心に爆裂する稲妻は、今日一番の威力でオオムカデの頭部に激烈な雷撃を叩き込む。
離れた位置からそれを目撃したイバラギに言わせるなら、こんな夜長に太陽が地上に降臨したかと思うほど、目が潰れそうなほどの激しい光を放つ一撃。
さしものオオムカデすら声さえ出ず、強烈かつ長く続くその雷撃に、長い巨体ごと激しく痙攣させ、意識が飛びそうな瞬間すらあったほどである。
「…………ッ…………ギッ、ガァ…………!」
『何をしておる!
さっさと離れぬか!!』
「絶対に許さない……!
あなたはここで、何が何でも必ず調伏する!!」
憎悪に満ちた眼光を取り戻したオオムカデの形相、火を吐く口と鋭い顎を目前にしながら、アンズは強く言い放つ。
挑発でもない、誘導でもない。純然たる、迸る激情の発露。
大妖魔の凶刃の切っ先が喉元にも届き得る距離で、畏れるどころか叩き潰す決意しか知らぬ彼女の姿は、いっそうオオムカデの逆鱗を撫でる。
既に村の一角が焼け野原へと変わっていくほどの死闘の中にありながら、両者の熱は限界を知らず尚も燃え上がっていく一方だ。
「ッ、グバアアアアアァァァッ!!」
「っ……っ~~~~!
このっ、程度で……!」
黙れ生意気な人間風情が、という声に代わって放たれるオオムカデの火炎放射が、空に広がり回避に転じたアンズの片足を焼き炙った。
表情は歪む。顔に出さず耐えられる痛みであるはずがない。
だがその目に宿る闘志は萎えるどころか更に燃え、ぎらりと光るその眼差しは炎の発する光に包まれたその渦中にあって埋没しない。
炎から逃れたアンズを目で追うオオムカデこそ、己から目を切らぬ彼女のその眼を最も痛感しているはず。
「すっげぇわ、あの子……!
あたし達は、あんな奴を敵に回しちゃったのね……!」
密集する家屋のすべてが炎と化した地上にて、息をするだけで喉が焼ける痛みすら、今のイバラギは意に介してなどいられない。
悪妖必滅を誓いしアンズの、常にオオムカデに近しきたるや、彼女には恐怖心というものが端から無いのかと錯覚してしまいそうだ。
大顎で真っ二つにしてやるとばかりにオオムカデが首を伸ばすのは、届く近さにアンズがいるからに他ならない。
高度を落としてそれを躱し、下方からオオムカデの頭部に稲妻砲撃を放つアンズがその後に続く。
確かに敵に近ければ近いほど外さない。それは確かにそうなのだ。
だが、それは相手も同じことで、加えて言うならオオムカデの攻撃はすべて、一撃当てれば勝負ありの人間相手には必殺のものでしかない。
怯みこそすれアンズに向けて炎を吐くオオムカデの反撃に、逃れんとするアンズも躱しきれていないではないか。
一瞬その炎に彼女が呑まれたかのように見えたのは見間違いではなく、火が着いた裾をばしばしと叩いて火を消すアンズの姿も見える。
いや、片足はもはや使い物にならないのではないか? 明らかに右足に力が入らない片膝立ちで雲の上。
二の腕に火傷すらはっきりと見える。それは人の子にとってどれほどの痛み?
さらにはオオムカデが上方に向けて放った毒液が、雨のようにアンズに向けて降り注ぎ、彼女はその強力な溶解毒から逃れきれぬのが確定している。
"若"と"咲"の太鼓をあらかじめ叩き、首を引いて両腕で我が身を上から庇い、一滴が火の玉にも匹敵して肌を焼き溶かす毒液の飛沫を浴びて。
体じゅうが穴だらけにもなりかねないほどのそれを受けながら、神力で以って傷を塞いで、毒を退けて。
気付けばものの短時間で、顔を除くアンズの全身は火傷と瘡蓋だらけではないか。
「駄目だわ、あの子をここで喪ってはならない……!
オオムカデ如きに喰わせてなるものですか!」
出来ることならアンズとの共闘は果たしつつも、いつか迎える彼女との決戦の日に向け、手の内をなるべく隠し通していたかった本音がある。
もう捨てよう、そんな不義は。
傷つくことはおろか死への恐怖すら遥か彼方に退け、人に仇為す存在への義憤の一心で、あれほど奮戦できる器の持ち主がどれだけいるだろう。
その手に緑鬼としての特別な力で以って生み出した"武器"を握りしめたイバラギは、地を蹴りアンズを救える最善の位置を目指して駆けていく。
地を這う火すらも裸足で踏みしめ、その駆け足に迷いは一抹も無い。
「消エ失セロ……!」
オオムカデもだ。
燃え立つ炎の真ん中に聳える怪物は、火を吐きながら首を振り、ちょろちょろと蠅のように顔の周りを跳ぶ人間を焼き落とそうとする。
遠方からみて如何に恐ろしい光景か。炎を吐き散らかす怪物。
その間近を飛ぶアンズが恐れよりも怒りを目に宿し、火の粉を浴びながらも落ちず、あまつさえ雷撃を返してくる姿がオオムカデは心底気に食わない。
「んっ、ぐうぅ゛~~~……っ!」
『上がれ! 間に合わぬぞ!』
熱に晒され集中力を阻害され、高度が落ちたアンズをオオムカデが狙い澄ましている。
高所から襲い掛かるその大顎は、振り返ってはっとしたアンズがすぐに雲の高度を上げるが、既にオオムカデは至近距離。
胴を真っ二つとはいかなくとも、アンズのくるぶしをちょん切ることには間に合いそうだと、オオムカデの目にはそんな確信があった。
「グガッ!?
ギッ、ガ……グアアアアッ!?」
「っ……あ、あ、あっぶな、ぁ……!?
今のはほんとにやばかった……!」
『ええい、気持ちはわかるが機を逃すな!
イバラギの奴め、ようやく仕事をしてくれたぞ!』
「ほんとですか!?
よしっ、でしたらば……!」
まずいと思ったアンズは雲の上で跳んで足を振り上げ、まさに踵を掠めたところでオオムカデの顎ががちんと鳴ったのだ。
上昇させた雲の上で、半ば背中からすっ転んだように、両足振り上げての尻餅姿ではっはっと冷や汗いっぱいの息を吐いていたのだが。
テンジン様に喝を貰えばすぐに気持ちを切り替える。
寝そべったままぐいっと顔をひねり、下方で首を引いて悶えるオオムカデの姿を見るや、立ち上がるのとオオムカデの真上に雲を進めるのを同時に叶える。
オオムカデの右目には、人の腕ほどもある太さの木の枝が、さながら矢のように突き刺さっていた。
今のはあの緑鬼の仕業か、と残った眼で地上を睨みつけるオオムカデだが、既にイバラギの姿はそこには無い。
役目を終えて投げ捨てられた、蔓の弦という出で立ちの弓が炎に呑まれて燃えており、その目を射抜いた忌まわしき武器だけが目に映る。
許さん、どこへ消えたと地上をぐるりと見回すオオムカデの怒りは当然だが、それによって上空への意識が削げるなら致命的。
「火鼓! 八種火!」
「!?」
真上からの声に思わずオオムカデが顔を振り上げたのは、そこにアンズがいたことに気付かなかった証拠。
そして、それではもう遅い。
晴れた上天から落ちてきた稲妻は、撥を掲げたアンズを経由し、今日一番の破壊力で以ってオオムカデを貫いた。
「っ、ぐうぅぅ……!
これでっ、終わってくれればいいんですけどねぇ……!」
『悲観するな、充分に通じている!
勝ちは見えてきているぞ!』
神力による保護あってなお痺れる激烈な稲妻を身に受け、火傷がいっそう痛むアンズだが、それでもこれで終わりとはいかぬ敵だとは厳しく見立てている。
楽観視しないのは結構だが、希望があることも見落としてはならない。闘志を強く保つためには必要なことだ。
今のアンズに最も必要な心構えは、すべてテンジンが言葉で補う。
「ガッ……カハッ……!
ラ……雷神、メ……!」
オオムカデもいよいよ、追い詰められてきた自覚がある。
色の消えかけた目に鋭い眼光を取り戻し、上空のアンズに毒液を吐く。
それは雲を逃がすアンズに躱され、降って返ってくる毒液は、己の顔に唾を浴びるような屈辱。
それでもいい、今あの脅威を僅かでも退けられれば。
機は熟したはずだ。燃え盛る家々は焼け落ちて形を失いつつあり、悲鳴が聞こえた北の彼方への道は拓けている。
『いかんぞ!
アンズ、先んじて……』
「わかっています……! 間に合ってぇ……っ!」
オオムカデが全身を丸めた。野を駆けた、我が身を車輪とするかのような驀進体勢。
アンズが北へ向けて一気に雲を急加速させる。それと同時にオオムカデも、尾で地面を押し出して驚異的な初速を繰り出す。
燃え盛る家屋の数々をばきばきと踏み荒らし、障害物無しに村人達が避難した北方へ突き進む巨体は、このままいけば人々の密集地に飛び込むことになる。
「っ、土鼓、すいれ……」
「食い止める!!
望まぬ力は使わなくていいわ!!」
一度オオムカデの驀進を止めた、地面を弾けさせる稲妻で食い止めようとしたアンズだったが、オオムカデが進む先は既に炎の海。
燃えたものを飛散させて火の手を広げることは間違いなく、苦肉の策には違いなかったのだ。
そんなアンズが驚愕のあまりに技の発現を止めたのは、オオムカデが向かう先に既にあった、鬼の大声とその姿。
巨大なオオムカデと比べれば、もはや小蟻のようなイバラギが両掌を掲げた姿に、彼女が何とかしてくれると期待するのは馬鹿げているだろうか。
「鬼を舐めるな、大百足!
緑尽! 謝与大枝!」
信じるに値するのだ。人に恐れられ続けた鬼族の頭目だ。
両手を振り下ろしたイバラギの挙動に伴い、突如その背後に地面を突き破って太い巨木が突き上がる。
葉の無き冬の木枯らしに晒されるような、しかも枝一つ無いその巨木は、さながら太き槍か柱の如し。
それがオオムカデの突き進む前方に、怪物の巨体を食い止める御柱のように立ち聳えたのだ。
ぞっとする光景である。
炎の中を突っ切って、火を纏い巨大な火球のようですらあるオオムカデを、イバラギは片足で背後の木に押し付けて踏ん張り、真正面からそれを受け止めた。
燃え盛る巨大妖魔の勢いある突撃など、いかにこれほどの巨木であろうと食い止められぬのはイバラギも承知。焼かれてへし折られるだけだ。
そこにオオムカデを食い止めるために相応しい力を加えるとすれば何か。
それこそが無双の剛腕を持つ我が身というのは、鬼にしか抱けぬ発想だ。
「嘘でしょ!?
死……」
「があ、ぅ……んんああ゛あああぁぁぁぁぁっ!!
死ぬっ、かああああっ!! この、程度でえっ!!」
オオムカデの巨体の重みと後ろの巨木に挟まれるはおろか、燃えるオオムカデの全身の炎が燃え移り、背後の木すらも早々に炎上。
それでもイバラギの両手と全身の力で受け止められたオオムカデは、根を張る巨木の重みもあってそれを貫通できなかった。
オオムカデこそ何が起こったかわからなかっただろう。何にぶつかって止められた?
全身を火に包まれながら、その火を吸い込んででも叫んでオオムカデをぐっと押し返し、さらには振りかぶった拳で殴ってくるイバラギ。
その感触と声により、何に道を阻まれたかをようやく悟ったオオムカデは、焼け落ちていく巨木から退けられてその全身を解いた。
「はぁー……はぁー……!
舐めんじゃないわよ、お前も、あなたも……!」
片手を膝に置き、背こそ丸めながらも両足で立ち、纏っていたものもすべて火に焼かれて失いながら。
イバラギがぎらついた眼のままそこに在ることに、アンズが絶句したことなど言うまでもない。
そんなイバラギに、あたしに呑まれている暇があるのかと、あなたもと呼びながら睨まれたことでアンズも我に返る。我に返させられたとも言えよう。
「頼むわよ、アンズ!
あたし達の尻拭いを押し付けてるのはわかってる!
だけど、借りは必ず返すから!」
「……ああもう! わかってますよ!
どうせ私はやるしかないんですもんね!」
「神ト、鬼メ……!
黴ノ生エタ古キ者共ガ……!」
戦いはまだ終わっていない。オオムカデの起死回生の一手を死に物狂いで防いだだけだ。
窮地を意識し始めているオオムカデが、自尊心を捨ててでも、なりふり構わぬようになる見立てすらある今、緊迫感は増してすらある。
人々の悲鳴も、アンズの耳にすら近く聞こえる現状だ。
未曾有の大炎上に見舞われた摂泉村の死闘は、未だ一抹の気の緩みすら許されたものではない。
アンズにも、イバラギにも。そして、オオムカデにもだ。




