第六一話 ~オオムカデ~
「あっ、ぶな……!」
『まだ見立てが甘いぞ!
奴は知性がある! 動きに緩急もつけられるほどなのだからな!』
「反省します……!」
巨体のオオムカデが頭を伸ばし、空のアンズを大顎で真っ二つにしようと迫る速さたるや恐ろしいものだ。
矢でも飛んできたかのような速度で、自分の全身よりも大きなオオムカデの頭部が急接近してくる迫力は、歴戦の巫女でなければそれだけで腰を抜かすほど。
怯まぬ度胸のアンズですら、無駄の無い雲の動きで躱した上でなお、オオムカデの鞭のような触覚がアンズの脛を掠めた。
事故に過ぎぬその程度の接触で、打撲と切り傷泣き所に受けたアンズが、思わず雲の上で背を丸めるほどの痛打である。
「アンズー! 怖いでしょうけど低く飛べない!?
オオムカデの頭が高いままだとあたしには打つ手が無いわ!」
「どうします……!?」
『いいだろう、付き合ってやれ。
奴の打つ手とやらも見て取れる好機とあろう』
一方地上のイバラギは、オオムカデの急所に手を届けようが無いまま、その巨体に翻弄されて逃げ回る形となっていた。
オオムカデの胴体は頑丈な上に、仮に切断できたとしても、オオムカデの命を奪う手立てとして何ら有力ではない。
その上で、重い上に長くて太くて、のたうつだけで獲物をぺしゃんこに出来る胴体そのものが、折られても命に関わらぬ武器となる。
身体の一部でありながら、鞭であり槌のようなものだ。
空のアンズを喰いにかかりながら、片手間でイバラギを狙って身体を振り回すだけで、オオムカデは獲物二匹をじわじわと追い詰めている。
でかぶつは動きが遅いものだと、いつどこで誰が提唱して広まったのかさっぱりわからぬものであるが、そんな都合のいい俗説に実戦で溺れる者は短命だ。
人間は蟻よりも遅いだろうか? 熊は人間よりも遅いだろうか? 巨大生物の筋力は小動物に勝るのに、敏捷性で劣るはずだという見立てがどうして成り立つ?
赤黒く闇に溶けるオオムカデの巨体の動きが、夜の中にあってはっきりと見えるほど、その豪速は脅威以外の何物でもない。
『それより、ある程度はもう見極められたな?
よし、そろそろ攻めていけ!』
「承知……!」
「ギシャアアアアアッ!!」
宙で大きく弧を描くように雲を操りながら、横から顎を開いて迫り来るオオムカデの一撃を加速して凌ぐアンズ。
下るような軌道でそのまま地上から自分の背丈ぶんほどの高さまで降りたアンズは、そのまま宙を駆ける雲の速さを落とさない。
アンズをぎらりと睨みつけ、彼女を後方から追いかけてくるオオムカデの動きを誘っている。
「イバラギさん!」
「いいわね! 息が合うわ!」
アンズが向かう先は地上のイバラギへ真正面からだ。
イバラギも空のアンズの動きを目で追う中で、真意を理解して既に身を低くしている。
目立つ緑の髪を両腕で前方から見えにくいように覆い、正面から来るアンズに向けて自らも駆けていく。
そしてアンズと地上とその僅か上で交錯した瞬間、イバラギの前方にはオオムカデの形相がある。
さらにはアンズを追っていたオオムカデは、暗い中で目立たぬようにしていたイバラギの姿が突如現れた形ですらあろう。
「っと、せいっ!」
急上昇して空へと逃げていくアンズを一瞬目で追ったのがオオムカデの失策で、前方から駆け迫るイバラギを目に留めるのが遅れる。
それでもすぐさま矛先をそれに変えるのは、確かにテンジンが言うとおりオオムカデが知恵の利く証左なのだろう。
しかしイバラギは自分の胴を真っ二つにしにかかる大顎を、背中を地面に擦る勢いで倒れ込みながら躱し。
目と鼻の先でがちんと閉じられた大顎に恐れ一つ抱かず、ほくそ笑みすらして、振り上げた足でオオムカデの喉元を蹴り上げる。
主に背中は甲殻に包まれて頑丈なオオムカデも、柔らかい腹の延長線上にある喉元への打撃は効く。
鬼の脚力で蹴り上げられたオオムカデが、衝撃を逃がす意図もあり頭を振り上げるその挙動は、知性の賜物とも有効打であった証拠とも感じられよう。
「ッ……グウギ、ッ……!」
「あら、一撃貰った程度で随分と臆病になるじゃないの。
人めいた小さな鬼如きに腰が引けるとは、案外オオムカデ様もたいした器じゃないわね」
体勢を立て直し、とぐろを巻いた蛇のように高みからイバラギを見下ろすオオムカデに、それを蹴り上げたばかりの緑鬼が煽る煽る。
見上げる相手に指先をくいくいと動かし、かかってきなさいなと仕草でも強調する挑発だ。
快活な笑顔の似合うその美人顔は、勝ち誇ったような笑みを浮かべてなお嫌味っ気のないものだが、オオムカデを怒らせるには充分な出来であろう。
ずしんと全身を地上に下ろし、弱い腹を地に這わせて隠す動きは、イバラギに狙いを定めたものと見て間違いない。
「ふふ、いいじゃない。
せいぜい捕まえてごらんなさいな!」
「ギシャアアッ!!」
正面からイバラギを食い千切ろうと顎を開いて迫るオオムカデと、それを横っ飛びに躱すイバラギ。
避けても長い体を素早く這わせ、その胴でイバラギを囲い込もうとするオオムカデの動きが続く。
逃げ場を無くした相手を顎で捕らえようとする動きなのは明白で、イバラギがオオムカデの胴を飛び越えて輪から逃れるのも速い。
そんな動きを即座に察知し、自身の胴を這い越えてでも追いかけんとする動きは俊敏だ。
『撃て!』
「火鼓! 蒲公英!」
そうしてオオムカデがイバラギを追おうとした前方に、高所から雷球を降らせるようにして放つアンズの攻撃が迫る。
威力に乏しい雷撃球体の雨だ。数は多いがオオムカデに大きな傷を負わせるものではない。
それでも妖魔に神力は痛く、さながらオオムカデは頬をぱちぱちと叩かれたような痛みにいっそう苛立つ形となる。
「やった! 上手くいった!
これなら充分通用しそう!」
『ふふ、意外とお前も役者が様になっているではないか』
(まさかぁ……! 大根だと自覚してますよ……!)
撥を握る拳を胸の前でぐっとして、得意げな笑みを浮かべてみせるアンズ。
それを目の当たりにするオオムカデの苛立ちは如何ばかりたるや。
こちらも挑発に徹している。摂泉村に向かったミノヤマのことを、こいつの頭から忘れさせることに全力を尽くしている。
「ッ……!
ギッシャアアアアアアアアァァァ!!」
「ったく、とんでもない迫力ね……!
アンズ、気を付けて! 気を抜けば一瞬でこいつに食われるわよ!」
「わかってます!
怪物が相手ですもんね!」
役者が様になっているのはイバラギもそうだ。
咆哮などに今さらびびることもないイバラギにして、敢えてオオムカデの怖さを立てる言葉を口にして、余裕の残る今の本心を隠し通す。
アンズもまたそれに合わせる形で、私も気を抜けばやられると敢えて言う。
逃げと躱しに徹して時間を稼ぐ中でなら、討ち取りに行くよりも遥かに安定した継戦が可能であることを、オオムカデに悟らせない。
とにかく、こいつを北に向かわせてはならないのだ。摂泉村へだ。
討ち取りにかかるふりをして、オオムカデの怒りの矛先をイバラギに、そしてアンズに交互に向けさせ、時間を稼いでいる二人。
それを上手く連携して果たしているアンズとイバラギは、確かにイバラギが口にしたとおり息を合わせ合えていた。
「ううむ、ここまではよいのだが……!」
アンズ達がオオムカデ相手に奮戦する中、ミノヤマは摂泉村の南端と呼べる場所に差し掛かりつつあった。
ミノヤマの仕事は村人の避難誘導だ。オオムカデがこの村へと辿り着いた時、その歯牙にかけられる犠牲者を生み出さぬために。
急がねばならない。ミノヤマの見解では、必ずオオムカデはこの村に辿り着く。
アンズやイバラギの強さを信頼していないわけではないが、それでもその展開自体は避けられないだろう。
時は真夜中。寝静まっているはずの無数の村人を起こし、急いで安全な所に誘導するのは骨が折れる作業に違いない。
ただ、奇しくもゴエモン捕縛のためにソウサイやヤシマ、そしてその部下が村の警邏を継続していることもあり、事情を話して協力を仰げる駒は足りている。
大妖魔襲来という寝耳に水の話ながら、ミノヤマにはそれを人々に信じさせて動かせる策もある。
手際に落ち度は無く進められるだろう。だが、振り返る。
アンズ達が戦っている戦場から遠く離れ、オオムカデの巨躯も彼方に見えぬ中で、その方角の遠景はミノヤマにとって望ましくない。
「火は上がらぬか……
思ったより冷静だな、オオムカデめ……」
オオムカデが火を放てばすぐわかる。広い炎上により南の空は赤くなるはず。
それが見えぬということは、怒り狂ったオオムカデが、獲物が食えなくなることも厭わず火を撒くということをしていないということ。
つまりオオムカデは間違いなく、獲物を食らって力を取り戻すということを、最優先事項から忘れ去っていない。
アンズとイバラギを食い切れぬ獲物と諦めたオオムカデが、糧を求めて北上し始めるのも時間の問題だ。
あの場にミノヤマが残って三人がかりで戦っていたとしても、どの道そんな展開は免れなかっただろう。
力を取り戻していない自覚のあるオオムカデが、逃げの一手を決断してしまえば最後、しぶといあいつを短時間で仕留めることなど不可能だ。
アンズを怒らせるのは承知の上ではあったが、ミノヤマは必ず訪れるこの展開へ対応するため、あの場を離れるしか無かったのも事実である。
「時間が無い……! 急がねば!」
少しでも長く時間を稼いで貰わねば大変なことになる。
人が集まる村にオオムカデが飛び込み、好き放題に糧を食らって力を取り戻しきってしまったら、もはや完全に手が付けられなくなるだろう。
自らの蒔いた種。始末は付けねばならない。
『来ているぞ! 凌げ!』
「あわわわっ、八重咲っ!」
飛翔高度を下げたことにより、オオムカデがアンズに襲いかかる頻度は目に見えて増えている。
自在の雲の動きによって、襲い掛かる大顎を凌ぎ続けているアンズではあるが、オオムカデの追撃もまた速い。
鎌首を持ち上げたオオムカデが、頭部を振り回すようにして何度もアンズに襲い掛かる動きは、体躯の長さも相まって射程も長い。
届かぬ距離だと思えば地を這っている方の身体を逐次引っ張り上げ、頭を伸ばせば済むだけだ。
「ググ、ッ……ガッ……!」
「あたしのことも忘れないでよね!
無視されっぱなしってのも癪に障るからさ!」
あと少しでアンズに噛みつけたところで、獲物が撥を交差させて生み出す爆裂雷撃に阻まれたオオムカデは、顔を焼かれて怯む形となる。
動きが止まれば持ち上げた頭の僅か下、例えるなら喉元にあたる腹にイバラギが飛んできて、強烈な蹴りをぶちかましてくる。
鬼の豪脚によるその一撃さえオオムカデには致命的なものにはなり得ないが、痛みはあるゆえその怒りの矛先はイバラギに改められる。
「いや、来なくてもいいけどねぇ!?」
地上の獲物に狙いをつけたオオムカデの大顎が迫る。
上方の敵を追うよりも遥かにやりやすい攻めだ。人もうるさい蠅や蚊を叩き落とすより、地を這う蜘蛛を叩く方がずっと速く狙いも的確であろう。
猛攻とも呼べる急接近を幾度も繰り返し、がちんがちんと顎を鳴らすオオムカデの攻撃音は、静かな夜の野に恐ろしげに響き渡っている。
そして裏を返せば、それらは獲物を捕え切れていないから牙の音だけが鳴っているということで、あわあわしながらもイバラギの回避は見事なもの。
『撃つなよ、アンズ……!
怖いだろうが、速過ぎずに斜め後ろから近付け!』
「存じてます、さっきからずっと怖いですけれど……!」
オオムカデがイバラギに気を取られているこの状況は、アンズが撃ち込む好機でもある。
テンジンがそうはさせない。立ち回りの難しいこの局面で、アンズに最適の動きを命じている。
時間を稼がねばならないのだ。大局的に盤面を見極め、テンジンが導き出した結論はそれ。
追い詰めてしまえば必ず逃げの一手に移るであろうオオムカデを、諦めきれずに二人を狩ることに専念させ続けなくてはならない。
そしてテンジンもミノヤマと同様、未だ火を使わぬオオムカデに冷静さが残る姿を見て、このままではまずいと感じ始めてもいる。
「――ギシャアッ!」
「ひいええっ!?
隙が無いなぁもう!」
『いいぞ、そうやっておだててやれ……!
オオムカデは人の言葉がわかる程度には知能もあるのだからな……!』
アンズの接近を察知したオオムカデが矛先をそちらに変え、首を振り上げ襲い掛かってくる。
アンズもぎりぎりの回避だ。そう演出してのぎりぎりではないが、回避行動としては結果的に最善。
ちょこまか逃げ回る獲物に苛立ちの募るオオムカデを、あと少しでどうにかなるという幻想に縛り付けられれば儲けもの。
アンズがわざわざ口にする"おだて"も、それでオオムカデが調子に乗るとは思えないが、余裕があると思われるのは避けておきたいがゆえだ。
「ギイイイィィィ……!」
一度その猛攻を止め、アンズとイバラギへ交互に目を配るオオムカデ。
流石に思い至り始めているのだ。不完全な今の自分では、いくらこいつらを追い回しても結果には繋がらぬやも、と。
こんな小さな奴らも狩りきれぬのを認めるのは業腹だが、旗色が悪くなる前に他の獲物を探し、力を取り戻すことを優先させるべきではないか、と。
その業腹の源泉である自尊心の高さが無かったら、もうこの時点で撤退を決め込んでいてもおかしくはない。そこまで至っている。
恐らく、そろそろだ。ここから、あと少しだけでも、をどこまで粘れるか。
「仕留めましょう、アンズ!
あたし達ならやれるわ!」
「!?
え、えと……そうですね! やれそうです!」
『うむ、ここはそれでいい!
これでオオムカデを少しは怒らせられるぞ!』
「ッ……!
ギッシャアアアアアァァァッ!!」
少しどころかオオムカデがその両の眼を赤く光らせるほど、イバラギとアンズの言葉に怒り狂って吠えている。
あわや逃げの一手を打たれる直前に踏み止まらせることが出来たと言えそう。
時間の問題には違いないが、まだあと少しは粘ることが出来そうだ。
『いかん、来るぞ!
アンズ、わか……』
「見えてます見えてます!
これやば……」
「ッ、グバアアアッ!!」
天を見上げて吠えていたオオムカデの喉元が、内側から強い光を放つかのように淡く、赤く輝いていたのだ。
初見でも直感的にわかる、オオムカデが恐れられる最大の所以。
アンズが慌てて雲を横へと逃がしたその直後、アンズ目がけてオオムカデがその口から、凄まじい業火を吐き出した。
「ひいいぃぃ!?
あ、あぶ、あぶな……あ、跡形も残らなそう……!」
『食うのを諦めた証拠でもある……!
ここからは討つ覚悟でいけ! 時間稼ぎはもう忘れろ!』
激怒させることは出来た。ゆえにもはや最終段階。
これ以上は引っ張れまい。あとはオオムカデの気分次第だ。
ここから先は余念を抱いていようものなら、出し惜しんでいる全力の隙を突かれて死に至る局面である。
「ギイイィィ……!
ッ、ブバアッ!」
「あっ、づう……!
不完全だからって舐めてかかっちゃ百年目よね……!」
地上のイバラギに向けても火を吐き出すオオムカデにより、地面にぶつかり拡散した炎が草花を一気に炎上させる。
一気に広範囲まで広がった炎は、夜の平原に太陽を落とし込んだかのように、遠方まで届く赤い光を空半ばまで昇らせる。
舞い上がり、そして広がる煙はイバラギもアンズも腕で口と鼻を隠すほど息苦しく、二人の継戦能力にも影響を及ぼすだろう。
そして、そんな火の海の中で体を持ち上げ、二人の獲物を見下ろすオオムカデの姿は、災害の象徴そのものを背景に聳える大妖魔の姿そのものだ。
色に乏しき絵巻物では到底表現しきれようはずもない、業火を振り撒きその炎によって身を亡ぼすことも無き怪物。
その巨躯のみでも圧倒されそうであったアンズが、伝説の大妖魔と呼ばれる存在を目の当たりにして、生唾を呑むのも至極当然の反応である。
こんな怪物が人里に踏み込めば、たとえあれほど広く大きな摂泉村であろうと、一日にしておしまいだ。
そう確信させるほどの恐ろしさを、この全容を前にしたアンズが今改めて感じている。
「テンジン様、どうか御力を……!」
『うむ、惜しまぬぞ!
お前なら乗り越えられる! 恐れず挑め!』
「ここからね……!
あの子の本当の強さ、興味深いわ……!」
「ギシャアアアアアッ!!」
複雑な戦い方に思考を割かざるを得なかった状況から一転、雑念を捨てて勝つことに集中し始めたアンズの眼差しは、主神も頼もしく感じるほど鋭い。
一度アンズを何気なく見やったイバラギも二度見したほどだ。
きっとあれが、討つべき妖魔を前にした彼女の真の面構えで、赤鬼カネグマにさえ立ち向かった巫女の顔。
オオムカデが手っ取り早く攻められる地上のイバラギではなく、空のアンズへ真っ先に襲い掛かった選択も偶然ではあるまい。
人の子を超越した力を持つ鬼のイバラギには悔しくもあるが、先に討つべきほどの脅威をアンズと本能的に見定めたオオムカデの判断もわかるほどだ。
「速くなっ、てるっ……!」
『それだけ奴もお前にご執心ということだ!
遠慮はするな、真っ向から殴り返してやれ!』
「ええ……!
っ、火鼓、松葉!」
「ギイイイィィィ……!」
雲を操りオオムカデの顎から身を躱すアンズのそばでは、がちんがちんと何度もその頑丈顎が打ち鳴らされる音が鳴る。
死が間近にある。音の近さは命の喪失の恐ろしさを肌に触れて伝えてくるかのよう。それが何度もだ。
それでも心の底から沸くことを免れない恐怖心を握り潰し、オオムカデの頭部にその掌で触れにいって、直接雷撃を流し込むアンズの度胸たるや。
頭の中まで焼かれるようないかづちの衝撃に、さしものオオムカデですら全身を痙攣するかのように震わせて、離れたアンズの方へと向き直るのも遅れるほど。
「ッ……ブシャアアッ!!」
『浴びるなよアンズ! 毒液だ!』
「っ、づぁ……!?
や、焼ける……っ!」
向き合ったアンズに向けてオオムカデが吐き出したのは、痰のような色をした消化液。
大量かつアンズよりも僅か上に向けて放ったそれは飛散して、全身に浴びることを免れたアンズの肌や服にも、微かな飛沫として付着する。
腹に入れた金属兜も溶かす消化液は、人の肌をあっという間に溶かすほどであり、僅か浴びただけでも火種を押し付けられたような痛みをアンズの肌に訴える。
服に沁み込んだ一滴が穴を空けるほど。全身に浴びれば瞬く間に骨を晒すことにもなろう。炎よりも恐ろしい一点突破の凶器。
「く……動き慣れてきたわね……!
いつまでも寝ぼけてちゃくれないか……!」
ちらちらとイバラギを見下ろしながらも、オオムカデはその頭部で攻めるのはアンズに絞ったようで、地上に対しては長い胴体を振り回すことで戦い始めた。
目覚めて間もなくは全盛期から程遠く、久々の身体の柔軟な扱いに難儀したようだが、やがて馴染めばイバラギに回避を強いる一方で反撃も許さない。
重い全身はそれだけで殴打一撃で粉砕確定の凶器。加えて無数の足は一本一本が槍のように先端が鋭く、鎧をも貫く頑丈さがある。
さながら無数の槍が突き出たような金棒を振り回され続けるような地上において、イバラギが生存行動に徹さざるを得ず、アンズに加勢出来ぬのも無理はない。
かつては鬼よりも恐れられた大妖魔なのだ。さしもの色鬼とて攻めあぐねる。
「アンズ! 合わせてね!」
だからと言ってアンズ任せにしていられるか。
大きな声にアンズがかすかな反応を見せた矢先、彼女へ再び顎をぎらつかせたオオムカデの頭部に迫ったのは一本の槍。
いや、そうは見えたが槍などこの場に無いゆえ、その正体はわからない。
しかし長く先端の尖ったその何かは、イバラギが生み出したものであり、オオムカデの赤い眼に向けて放たれた槍と例えて差し支えあるまい。
不意を突くそれに対しても、オオムカデは咄嗟に首を引いて躱して見せる反応を見せたものの、消化液に怯んでいたアンズへの追撃が遅れたのは確かである。
『あ奴め……!』
本来敵対する相手の裏切りを常に警戒していたテンジンにとって、明確に、かつ的確にアンズの命を放つために投じられた槍は僥倖でもあった。
当然、アンズにとってもこれ以上の好機は無い。
体勢を立て直す時間を充分に確保できたアンズが、比較的敵の頭に近い場所で火の字の太鼓を叩くことが出来たのは、容易に叶えられぬ展開だ。
「ギシャ……ッ!?」
「んっ、があああっ……!
アンズーーーーーっ!! ぶちかませえーーーっ!!」
『強くいくぞ! よく狙え!』
「はいっ!
火鼓、春告!」
させるかとばかりにアンズへ向けて頭を伸ばそうとしたオオムカデだが、ぐっとその頭がアンズに向かう方向へと向かえずに止まる。
鎌首の根元にあたる場所、イバラギがオオムカデの足の一本にしがみついて、鬼の剛腕で以って引き留めたからだ。
これほど体格の差があろうと、短い時間であれば綱引きでオオムカデにも勝る力を持つのがイバラギという緑鬼。
人間だって指一本を食い止められれば、頭を差し出せる距離は制限されよう。
ずっと抑え込むことなど不可能なのはイバラギもわかっているが、この局面でアンズへの追撃を一瞬でも食い止められればどれほど大きいか。
直後、アンズの稲妻砲撃がオオムカデの額に直撃する。
発射と同時に鳴り響く雷音、そして着弾と同時にはじける稲妻の光と爆裂音。
時を遅らせて遠き摂泉村の南端にも、その落雷音にも等しいその音が届くだろう。
それほどの轟音を響かせて炸裂する神力の稲妻は、並の妖魔が相手であれば確実に調伏を完遂していた威力に違いない。
「ッ、ギイィ……ッ!
ブッ、バアアアアアアアアアッ!!」
『アンズ……!』
「っ、う゛うぅっ……!
手応え、どうでしたか……!?」
『効いてはいる、効いてはいるのだ……!
しかし……!』
耐えきったオオムカデは眼をぎらつかせ、アンズに向けて空に燃え広がるほどの凄まじい炎を吐き返してきた。
躱すしかないアンズは追撃を阻まれ、火の粉を大量に浴びる痛みに喘ぎながら離れるしかない。
一撃で仕留められるとは思っていなかったものの、どの程度の効果があったのかテンジンに訊かずにはいられぬほど、オオムカデの反撃には余裕があった。
焦げた額を晒しながら、眼に光を一切失っていないオオムカデの形相は、赤鬼カネグマを同じ技で仕留められなかった時以上の先の長さをアンズに突き付ける。
「ギイイイイイィィィ……!」
まずい、とテンジンは感じた。アンズを奪われることの次に最悪の展開。
今の一撃で頭が冷えたか、一転、ここでの戦いに見切りを付けたことをその眼光にも表れて決断したオオムカデ。
時間稼ぎはここまでだ。もうオオムカデを心変わりさせることは叶わない。
オオムカデは憎々しげにアンズとイバラギを一瞥し、いつかの復讐のために顔と姿を覚えると、自らその頭をぐいと引き喉元にあたる場所に額を引きつける。
そのまま反物を筒状に丸めるかの如く、長い全身を一気に引き込んで巻き込むと、その全身を車輪の形に丸めた。
そして、既に向かうべき先はその鼻であらかじめ見定めていたのだろう。
具体的にはイバラギに挑発される直前、二人を屠るか別の獲物を探しに行くか、僅かに迷っていたあの短い時間の中でだ。
「えっ!?
ちょ、そんなこと出来んの!?」
『まずい!
アンズ、追え! 全速力だ!』
「っ、存じています……!」
オオムカデはその全身を、まるで牛車の車輪のように高速回転させ、北に向かって凄まじい初速から前進した。
港湾の摂泉村は標高が低く、近隣よりそこへ向かうなら概ねが下り坂だ。
這うも素早いオオムカデではあるが、単に駆けていた時にも等しい速度で動けるこの地の駆け方は、下り坂の力を借りてさらなる加速も得られる。
慌てて追うイバラギをもぐんぐん突き放す加速力は、あっという間に摂泉村へと辿り着く結末を想像させ、アンズの背筋を寒くさせるには余りある。
『いかんぞ、このままでは……!』
「させません! 絶対に!
食い止めてみせます!」
凄まじい速度で回転北上するオオムカデが目指すのは、喰らえるものの匂いを濃く感じる摂泉村。
辿り着けばその先に待つのは惨劇だ。腹を膨らませて憎き巫女と緑鬼への報復を志すオオムカデの牙は猛威を振るうだろう。
犠牲者は百で済むだろうか。絶対にそんなはずはない。
なおも加速して転がるオオムカデの前に出たアンズは、今日一番の力を込めて、"土"の字が描かれた雷神太鼓をどずんとその撥で叩いた。
「土鼓! 睡蓮!」
アンズがオオムカデの前方上空より振り折りした撥に応えるかの如く、大きな落雷がオオムカデの前方に炸裂した。
こいつの好きにさせるわけにはいかない。それを許した先にあるのは無数の屍。
決死の想いで稲妻を落としたアンズの新たな技には、数百の命を背負った巫女の、誇張無き必死さが込められている。
「ググ……!? ガッ……!?」
落雷点は、地表を吹き飛ばすかのような爆裂を生じ、その衝撃とめくり上がった地表の形により、車輪状に驀進していたオオムカデを躓かせる。
安定性を失った車輪単体のように、速度を失ってがたがた左右に揺れながら前進も儘ならなくなったオオムカデは、一度身体を解して全身で地を這う形に戻る。
躓いた後方地点に出来た、落雷によって生まれた大きな窪みとその周径がはねっ返る形。
突き進んでいた自分を食い止めるために特化したような地面の形を意図的なものであるとするなら、やはりあの稲妻を生み出す巫女の仕業だろう。
上空のアンズを見上げて睨みつけるオオムカデは、憎々しげな眼光と共にその大顎を一度、がちんと大きく鳴らしてみせた。
「雷神メ……!」
かつて戦った怨敵、天満雷真道天神。
似ても似つかぬ雲に乗った女を見上げ、大妖魔はアンズをその称号で罵った。
それはアンズを、かつての宿敵と同等の存在に認めた表れでもあり、そして今後オオムカデが彼女を人の子として侮ることはもう無いということでもある。
真の戦いはこれからだ。




