第五九話 ~大泥棒を捕まえろ~
昨日の強行軍ぶりは、さしものアンズも疲れが取れない想いである。
朝から昼にかけてはクマリと町巡り。
昼から夕にかけては山波村まで雲に乗って帰り、月末の暮太鼓。
それが終わったら戻ってきて、ゴエモン包囲網に参加。
かと思ったらイバラギと黒装束の男に嵌められて、気絶させられ攫われて。
殴られるわ触られるわ、最悪な想いをしながらも痴漢どもをぶちのめし。
のこのこ顔を見せやがったイバラギを追い回して、逃げ切られて。
真夜中のうちに山波村にまた帰り、身を清めて。
びりびりに破かれた巫女服を新しいものに替え、また摂泉村に戻ってくる。
その時点でもう今日の朝である。
寝てない。気絶していた時間はあったが。
宿に戻り、赤くなった目でクマリを優しく起こし、一緒に朝ご飯を食べる。
眠いからって昼過ぎまで寝て、クマリを一人ぼっちになんてさせられない。
最後まで土産探しはしたいし、一緒に村を見回って、楽しい時間を過ごして。
もはや昼食の頃にはうとうとしかけていたものだが、クマリに訝しがられながらも、昨夜のことは隠し通して心配はかけない。
本気で何かを隠し通そうとすれば、いかに顔に出る性分とは言っても、なんとか怪しまれる程度で核心まで届かせないことぐらいは出来るようだ。
夕時前ぐらいの頃合いで、アンズはクマリに今夜もお仕事があるから、と伝えて、彼女を宿まで送り届ける。
その後ソウサイと落ち合って、今夜のゴエモン包囲網に再び参ずる段取りを整える。
昨夜、持ち場を放棄する形になってしまったアンズは気まずかったが、ソウサイもアンズに、何してたんだよと詰る態度では接してこなかった。
理由も無く仕事を投げ出すような巫女だとは思われていない。そこは、アンズも有り難かった。
事情を説明し、ついてないねと笑われて、とりあえず飯でも食うかと料亭に連れ込まれる。
腹ごしらえをして、今宵のためにも英気を養えとの運びである。
「災難続きのあんたに言うのは憚られるけど、今日こそは役目を果たしておくれよ?
あたしらも、いつまでも好き勝手するこそ泥に幅を利かせられてちゃ顔が立たないんだ。
それなりにあたしらも懸けてんだから、応えて欲しいと思ってるんだよ」
「はい、今夜こそは。
流石に昨日の今日でまた、変なことは起こったりはしないでしょう。
……しませんよね?」
「知らないよ、あんたはどうも災難を呼び寄せる星の下に生まれたように見えるもん。
現にゴエモン退治に駆り出されてることからしてそうだろ」
「あの~、そう思うんでしたらご容赦して解放してくれませんものでしょうか」
「は?」
「すいません」
アンズを軽くびびらせながら、くふっといたずらな笑いを浮かべるソウサイである。
先日に続いて、またもでかい料亭だ。ソウサイはぐびぐび酒を飲んでいる。
これからゴエモン包囲網に参じるアンズは一滴も酒を飲んでいないが、ソウサイもその輪に加わるはずなのでは?
もっとも彼女は実戦の舞台に立つ身ではなく指揮役ゆえ、酔っても兵のアンズほど致命的ではないが、判断力が鈍りやしないかとは思わないのだろうか。
思わないのだろう。良くも悪くも肝がぶっと過ぎる大商人である。
「持ち場は昨日と同じ場所で頼むよ。
あんたが一番、守備範囲が広いからね。
他の場所はあたしとヤシマが押さえてあるから無視してくれていい。
自分の持ち場にだけ集中しておくれ」
「はい、今日こそは」
「よし、行こうか。
昨日は出なかったあの義賊気取りも、そろそろ今日こそは現れるだろうさ」
ソウサイは席を立ち、アンズに早く来い来いと手招きする。
真っすぐ店の外に出ていく。え、ちょっと、お支払いは?
食い逃げなんて出来るわけないアンズはきょどきょどしたあと、足早に去っていくソウサイを追っていく。
「あ、あの、お支払いは……?」
「あたしの店みたいなもんだ。
つけにしとけばいいんだよ」
なんちゅう人だ。
ヤシマよりはずっと話しやすいが、やっぱりこの人も滅茶苦茶だなとアンズは改めて思うのであった。
(あ゛ぁ~~~~~、ほんと眠い……
テンジン様、居眠りしないで済むよう付き合って貰えませんか……
『立ったまま寝れそうだな』
(本当にやばいです。
たいしたことせずに徹夜だったらまだ余力あったでしょうけど、あれだけ殴られたり怒ったり走ったりして一睡も出来てないと……)
『無茶な流れだな。
いくらでも話には付き合うからなんとか頑張れ』
梟の声も遠方から聞こえる真夜中、アンズは昨日とさほど変わらぬ村の通りの真ん中で、棒立ちで空を見上げていた。
本音を言えば、民家の壁に背中を預けて力を抜いて少しは身体を休めたい。
それだけ疲れている。昨晩あれだけのことがありながら一切休んでいないのだ。
眠気は凄まじく、壁にもたれかからないのは、それをやってしまうと本当に寝てしまいそうだからである。
寄る辺なく立っている今ですら、うとうとしかけているぐらいなのに。
(…………だ、だめです、私から話題が閃きません……
なにかないですか……?)
『頭が回っておらんのだな。
そういう時は、昨夜お前を苦しめるきっかけとなったイバラギのことでも思い出して、怒りを呼び覚まして眠気を飛ばせ』
(あ~、そうだそうだ、あいつめぇ……
でもあの人、改めて思い出すと変でしたよね。
結局、ほんとに助けには来ましたし)
『もっと言えば、大和龍山の鬼にとって敵でしかないお前を、あの場で弑することもしなかった。
奴に殺意があれば私にも渾身の策があったのだが、結局それを封切る間を逃すほどだったな』
(なんか今にして思うとぞっとしますねぇ……
私、あの時その気になられていたら、死んじゃってたかもしれないんですもんね)
空恐ろしいので背筋が寒くなり、ちょっと眠気が覚めた。
下手な怪談より眠れなくなる話である。それを狙ってまずはこの話題を選んだのであれば、テンジンもなかなか計算高い。
『奴らの目的がいまいち想像つかぬのよな。
殺意も敵意も無い隠密接近だったゆえ、私の気付きも手遅れとなってしまったが、現にお前は致命的なほどの窮地には陥らなかった。
辱められただけだ』
(いや、それが最悪なんですけどね……死ぬよりはましとはいえ……
でも実際、私を本気で監禁する意図でなかったのは確かなんでしょう。
私の腕を縛っていたのも縄ですよ? 雷神様の御力を借りている私のことを知っていれば、本気で逃がさないつもりなら鉄枷ぐらい用意してきますよね。
おかげであんなに簡単に縄を焼き切れて脱出できたんですから)
『だが、意図はあったはずだ。
何らかの目的を叶えるために、ああした手間を挟んででも、一度はお前を捕らえる理由があったということ。
今のところ、奴は思惑どおりに動けていると想定すべきだろうな』
(邪魔になりそうな私を排するほどではなく、一時的にでも、となると……
昨日の時点での目的は、昨日の時点で達成していそうですもんねぇ)
真意のわからぬ敵が一番面倒だ。
それも、その行動に奇妙さがあると、真意の推察はいっそう困難になる。
本懐を悟られぬために、敢えて無意味に奇妙な行動を挟む奇策というのもあるのだが、基本的にそれは非効率の愚策である。
肝心の目的達成の可能性は否応なしに下がるし、それに対して期待すべき迷彩効果も案外弱いので、不利益が勝つことが殆どだからだ。
あれはその程度のこともわかっているだろうし、ならば深読みせずに素直に真意を読み取りに行きたいのだが、そもそもが不可解な行動も多い。
結果、未だミノヤマは未知数だ。嫌な底知れなさである。
『ひとまず今宵はゴエモンとやらの捕縛に専念するといいが、もしかするとその一件そのものにも、奴らは一枚噛んでくるかもしれん。
お前がこの事件に関わった初日に向こうが動いたというのを、偶然と考えるのも無頓着が過ぎるというものだ。
肝心の大泥棒のみならず、意識すべきことは存外多い一日になりそうだぞ』
(ですよねぇ……
あ~、その大事な時にこんなに眠いのが不安だなぁ……
大事な時に下手を打たないかなぁ……そうなったら嫌だなぁ……)
『――っ、と。
おいおい、思ったより早いぞ』
(うえぇ!?
ちょっと、心の準備が出来てませんよ!?)
かぁん、かぁん、と大きな鐘の音が響く。
はじめに三度ほど鳴ったかと思えば、恐らく同じ屋敷の別の場所でもう一つの鐘が打たれるかのように、繰り返される金属音が重なってくる。
鐘撞きが侵入者の手によって気絶でもさせられてしまえば音が鳴らないので、複数人の鐘撞きを揃えていると思われる。
流石に幾度も繰り返されてきたゴエモン騒動、的にかけられては困る側の警備体制も入念なものである。
アンズはすぐさま"伏"の字太鼓を叩き、生み出した雲に乗ると一気にそれを浮き上がらせ、鐘の音がする方角へまっしぐら。
障害物の無い空を真っ直ぐ進めるアンズは、事件現場と思しき場所へと駆けつけるのも最速だ。
しかも雲も速い速い。本気を出せば一日のうちにして、山波村と摂泉村を往復することも出来る、雲の滑空速度は凄まじいものがある。
山波京からかつて大奈京があった場所まで、一刻かからず辿り着ける速度と言えばわかりやすい。
……はて、わかりやすいだろうか? 京から京までの距離の話なのだが。
「あぁ~、鳴ってるねぇ! 鳴ってますねぇ!
大騒ぎしてる声も聞こえてきましたよ~!」
『まさしく大泥棒推参というところか。
困ったぞ、不謹慎ながら少し楽しくなってきたではないか』
「ちょっとテンジン様、良くないですよ!?
一切わからないとは申し上げませんけど!」
守備範囲内に含まれていた屋敷に向かって進み、それに近付けば近付くほど、大きく鋭い鐘の音の形が耳の奥まで響いてくる。
鐘を鳴らしている屋敷の中から家人の、あるいは庭や門外に出た使用人らの、ゴエモンだ~! ゴエモンが出たぞ~! と繰り返し叫ぶ声も鮮明に聞こえる。
芝居で演じられれば良い見世物になる脚本ともなろう、大捕り物の幕開けが現実に起こっている。
よもやアンズが人間の泥棒相手に後れを取るまいと信じているテンジンは、さながら特等席にてこの演目を観覧する心境ですらある。
確かにその立場からだと面白そうですけどね、とはアンズにもわかる。
「泥棒はもう逃げた後でしょうか?
急ぎましたけど流石にちょっと時間はかかりましたし……」
『いや、いるぞいるぞ。
ほれ、あそこにいかにもな奴が』
「いよーーーし! 見ぃつけたぁ!
待ちやがれえ! 世紀の大泥棒とやら!」
いや、アンズも案外楽しんでいるのではなかろうか。
風呂敷を背負い、連なる家屋の屋根を飛び移りながら、地上の追手からは手も足も出ない場所を進む影がある。
どこからどう見ても下手人である。あれで潔白なら紛らわし過ぎて、それはそれで罪に問いたいぐらいであろう。
標的を見つけたアンズが、それを芝居の主役じみた称号で呼びながら追っていく表情も、なんだかちょっと楽しそう。
悪い奴を成敗することを目指してと言うよりは、派手な芝居の主演を担えるかのような状況に、ちょっと心躍っているように見えるというのがテンジンの見解。
こいつも真面目な割にはなんだかんだでお調子者なところがあるからなぁ、と苦笑いせずにはいられない。
「テンジン様、御力をお借りしますよ!
相手は人の子ですからそれなりに加減もしますので!」
『うむ、気兼ねなくい……む? うむむ?
いや、まあいい、とりあえずやれ』
「どうしました?
あーでもまあいいや! 火鼓、春告ぇ!」
相手の後方、同じ高さで屋根の上を走るのと変わらぬ高度にて、アンズはゴエモンと思しき人影に稲妻砲撃を遠慮なく放った。
もちろん手加減はしている。妖魔調伏の時に放つようなものではなく、握れる綱程度の太さの光線だ。
それでも人に当てれば痺れさせるには充分で、あの逃げ足を止めることは叶えられるはず。
アンズが心配しているのは、屋根の上を駆けて飛び移ってしているあれが、それで躓いて転んで落ちて、致命的な怪我をしないかという方である。
そうなればそうなったで、助けられる算段もある。流石に死なれちゃ目覚めが悪い。
今日も晴天の夜長、鐘の音で目を覚ました近隣住民は、アンズが放った稲妻の雷音にさぞかしびっくりしただろう。
それはゴエモンらしき人物も同様だ。
振り向いたらいきなり輝く雷神太鼓を背負った変な奴が、こちらに稲妻を発射してきているではないか。
なんじゃあ!? とばかりに驚いて跳躍して躱した身のこなしは見事だが、逃げていた足も止まり、踵を返してアンズと対峙する。
顔を隠しているので表情は伺い知れないが、上半身が若干逃げ気味の姿勢は狼狽えているのがよくわかり、恐らくその表情も狼狽していよう。
アンズは一度雲を宙に止め、身構える相手と適度な距離で睨み合う形を取る。
またこんな奴か、とアンズはまず思った。
目撃者こそいながらも未だ正体不明と言うからには、こうである可能性も考えなかったわけではないのだが。
目元以外は真っ黒の黒装束姿であり、さんざん煮え湯を飲ませされてきたあいつが脳裏にちらついて、アンズも若干表情が渋ったのだが。
だが、そんなことはもうどうでもいい。
変な直感がある。対峙した瞬間、ふと思ったことでしかないのだが。
「…………イバラギさん?」
(ぎくっ)
自分でも突拍子もないことを言っている自覚があったから、思わず普段使いの口調任せに敬称を付けてしまったほど。
相手の身体が目に見えて揺れた。動揺していらっしゃる。
アンズがナルミお母さんに、隠し事を看破されて突き付けられた時、隠し切れない動転が体の動きに出た時と全く一緒。
「イバラギさんですよね?」
ふるふる、と首を振って返答された。
嘘つけ、蓄積してきた経験によって身に付けた、妖魔が近くにいれば騒ぐアンズの勘がびしばし喚いている。
目の前のこいつが妖魔に違いない予感がした上で、黒ずくめの影の形を改めて見ても、線も背丈もあのイバラギの形そのものである。胸もおっきいし。
「違うなら違うって言って下さいよ」
「…………ちがぅょぉ?」
「イバラギーーーーー!!」
「違うのぉ! ほんとに違うのよぉ!!
わけあってこんなことしてるけど本当に違うのよ~~~!!」
裏声使って声色変えて返答された。あほか。
昨夜の恥辱の恨みだとばかりに目の色を変えたアンズが撃つ春告は、対妖魔のぶっとい稲妻砲撃であった。
ゴエモンらしき者――もといイバラギは、悲鳴じみた声で弁解めいたことを述べ連ねながら、その雷撃を跳んで躱して逃げていく。
流石に速い。人間離れした脚力と見えるが、鬼だと思えば妥当である。
「滅するぶんには問題ないですよね?」
『問題なかろう。
そう簡単にはいかぬであろうがね』
「無理でもちょっと懲らしめましょう」
「やだもう~!
だからこんな役回りは嫌だったのよ~!!」
イバラギは風呂敷を放り出して、一目散に駆けて跳ぶ。
重い荷物を抱えたままでは逃げ切れないかもしれない、最悪本当に消されると感じたのだろう。
足場の悪い屋根の上では、飛べるアンズを迎え撃つにも都合が悪く、今はアンズが一方的に追って狩る様相である。
対するアンズも、イバラギに通用するほどの雷撃で家屋を誤爆すると火事になってしまうので、案外神経を遣う追走劇だ。
長々と建物が続く摂泉村であるが、あれが地に足を着けた辺りからが本当の勝負だと、アンズは既に頭を切り替えている。
もはや、ゴエモン云々などという話はアンズの脳裏には無い。
大和龍山に乗り込んだ時と同じ、妖魔調伏を使命とし、一切の油断無き雷神巫女の眼差しと表情に変わり映えていた。
「ふむ、そろそろ始まっている頃だろうか。
イバラギの奴も、上手くやってくれていればいいのだが」
場所は離れて、摂泉村の南はずれ。
西の海からは離れるやや東寄りの獣道、緩やかに坂を上っていく、低い山の入り口といった夜の野だ。
国の中心地である摂泉村から、南東に点在する村への道半ば、それも本道からは離れた場所であり、人が寄り付くような場所ではない。
ましてこんな夜中に、木々が茂る暗い山への方面など尚更だ。
「……しかし、困ったぞ。
思ったよりも食が捗り過ぎている。
これでは間に合わんかもしれんな……
やはり、"こちら"を選んだのは自信過剰が過ぎたかな……?」
そんな山の麓には、なだらかな地形にぽっかりと口を開く、地下へと向かう小さな洞穴があった。
その洞穴の入り口にて、若干そわそわしながらちらちらと洞穴の奥を心配そうに振り向く人物がいる。
摂泉村にて今アンズに追い掛け回されるイバラギと似た風貌、そしてアンズに怨敵認定されている、雷神巫女にとっては元祖黒装束の敵。
未だアンズにその名を名乗っておらぬミノヤマは、摂泉村のある方向たる北と、洞穴の奥に交互に目をやっている。
まずいと思っているのだ。このままでは計画が狂いかねない。
洞穴の奥には、摂泉村で獲得してきた三人の"贄"が、袋詰めにして放り込んであった。
一人目はもう食われたのだろう。先ほどまでにやかましかった、悲痛なほどの悲鳴がもう聞こえなくなったから。
二人目の悲鳴が聞こえ始めたのもそれほど前ではなかったのだが、そいつの声ももう聞こえなくなった。
流石に早過ぎるから、息絶えただけでまだその亡骸が食われている間だとは思う。
三人目は恐怖のあまりに助けを求める声を叫んでいるが、食い千切られる中の迫真たるそれではないので、まだ歯牙にはかけられていないはずだ。
だが、この三人目が"完食"されてしまうとまずい。
そうなることは計画のうちだが、あまりに早くそれが済んでしまうのはミノヤマの望むところではない。
並行して進めているもう片方の準備が整っていないのだ。
それが未完成のまま、贄によって目覚めさせようとしているものが覚醒すると、我が身にすら危険が及ぶことを免れない。
「ううむ、頼むぞイバラギ……
なるべくは、万事上手くいく形で収めたいのでな……」
ややこしい仕事をイバラギに押し付けていることを内心申し訳なく思うミノヤマだが、彼も彼でこちらで手が塞がっている立場。
最大の目的は異なりながらも、多くの点で利害が一致し、長い同盟関係にあるイバラギのことだ。
上手くいかずとも責めはしないつもりの上で、なんとか頑張ってくれと、情のある嘆願を独り言で漏らさずにはいられぬミノヤマである。
その一方で、洞穴の奥で無残に引き裂かれ、最悪な末路を辿った贄の悲鳴を耳にしたとて、ミノヤマの心はそれを哀れみもしない。
どんな悪党とて身内には優しいこともある。それが善人である根拠にはならない。
「さぁ~、追い付きましたよ!
もう観念して下さい!」
「はぁはぁ、やっぱり逃げ切れる相手じゃないか~……!」
村を飛び出し、南方へ向けて野を駆けていたイバラギだったが、雲に乗ったアンズが前方に回り込んで着地、立ち塞がる格好に。
イバラギの全速力も相当なものだが、アンズの乗る雲の最高速度はそれを上回る。
昨晩のように隠れてやり過ごすことが出来るなら撒くことも出来るが、単純な追いかけっこではイバラギがアンズから逃げ切ることは不可能である。
「しょうがない、覚悟決めるしかないわね……!
あたしもこんな所でやられるわけにもいかないし、悪いけど全力で……」
「待った! その前に!」
イバラギが黒頭巾を脱ぎ捨てて、構えようとしたところをアンズが手を前に出して制した。
鼻と口を覆う頭巾は、激しい運動をする際には息苦しい。もはや邪魔。
人目のあり得る村を出て、もはや正体を隠す必要が無くなったイバラギが、緑の髪と素顔を晒して本気を出そうとしたところ、アンズの制止は間をはずす。
「私、あなた達に貸しがありましたよね?
昨晩、私をやってくれた時にそう言ってるの聞きましたよ」
「貸しって、それは私じゃなくてミノヤマが言ったこと……あっ」
「えっ、それも聞こうと思ってたのに。
あの人、ミノヤマって言うんですか」
「あ、その、忘れ……いや、もういいか……
別にそれは隠すほどのことでもないし……」
口を滑らせたイバラギだったが居直った。
表舞台にその名で出ることのないミノヤマであるので、名を知られること自体はそれほど問題ではないようだ。
「あの人――ミノヤマさんですね。
私ちょっと前にも、あの人にひどい目に遭わされてるんですよ。
ぶっちゃけけっこう敵視してます」
「うん、知ってる。
あいつもあんたの話はよくするから」
「そんなあの人とあなたが一緒にいるの、私にとってはかなり嫌な状況なんですよ。
あの人と一緒になって、何を企んでるんですか?
貸しがあるって言うなら教えて下さいよ。
ぴんからきりまで全部話せとまでは欲張りませんから」
ふむ、とテンジンは少し感心した。
なかなか冷静に対処できているではないか。昨夜こいつのせいであれほどの恥辱を味わったというのに、私怨を優先せず情報収集を優先とは。
もっとも、少なくともテンジンが知るこれまでのアンズというのは、こうした立ち回りが出来る子ではなかったから感心しているのだが。
意外とこの子も賢くなったんだな、という所感である。ひどい。
「………………あ~、そう言われちゃどうにもなんないわ。
わかった、話すわ。
ほぼ全部話すから、これで貸し借り無しとして頂戴」
かりかりと頭をかいて、イバラギは観念した表情を浮かべた。
率直に見るなら、嘘をついてこない態度だ。さてどうだろうか。
「大百足って知ってる?」
「妖のですか?」
「ええ、きっと名高いはず」
名高いどころか、妖魔の名としての"オオムカデ"は、妖魔調伏に携わる者で知らぬ者はいないだろう。
妖魔とはこれほど恐ろしい存在なのだ、という引き合いに出すにはうってつけであり、必ず妖魔について学ぶ際に触れる名だ。
その恐ろしさは、決して鬼にも劣らない。
いや、むしろ酒呑導獣郎を最たる例とする、鬼族の相当な大物を除けば、鬼ですら足元にも及ばぬほどの恐ろしき存在だ。
それこそ先日アンズがコナツと共に調伏した赤鬼カネグマですら、オオムカデの前では小者に過ぎぬと断言できる。
だが、オオムカデは現世において、恐れられる妖魔ではなくなっている。
何故なら、百年以上前に調伏され、今はこの世に存在しないからだ。
かつて人の世を踏み荒らし、幾千幾万の命を奪った伝説の存在として、妖魔の恐ろしさを物語る逸話に名を遺すのみということである。
「私とミノヤマは、オオムカデを現世に蘇らせようとしている。
ここから南、きっとミノヤマはもうそれを半ば果たしているでしょうね」
だからこそ、イバラギが発したその言葉にアンズは絶句した。
テンジンすらも。
イバラギとミノヤマが果たそうとしていることとは、アンズとテンジンの想像を遥かに超えた、この世に地獄を顕現させるにも等しき壮絶なものだった。




