第五八話 ~囚われた巫女~
真っ暗な意識の中で、ばしゃあと上半身をずぶ濡れにするほど、大量の冷たい水をかけられたような感覚が鋭く走った。
気を失って以降、初めてその身で理解できた強い感覚であり、それによって意識の覚醒に向かったアンズの瞼が震え始める。
「う…………ぅ………………」
「よう、目を覚ませ。
状況がわかったら俺の名を言ってみな」
気を失っている相手の顔に桶いっぱいの水をかけ、意識が戻りかけたところに語りかけて目覚めを推進させる。
それをやり慣れた者の間の使い方だ。きっとこれまでにも、何度も同じようなことを様々な相手にやっている。
憎き相手に目を覚まして貰い、その表情が恐怖と苦痛に歪む姿を堪能させて貰うため、無駄なくアンズの目を開かせるのだ。
「………………っ…………く、ぅ…………」
「ほう、流石だな。
戦い慣れた巫女ってのは本当らしい。
目覚めてすぐに、状況を理解してそんな目が出来るんだな」
目を開いたアンズの前には、薄ら笑いを浮かべるハタノの姿があった。
十二畳ほどの狭いとも広いとも取れる薄暗い地下室にて、燭台の灯りのみが頼りであれど、嫌でも印象付いた悪漢の面構えは目覚めてすぐでもわかる。
俺の名を言えという命令も、理解した上で従わず、身体に力が入らない中でアンズは憎々しげに睨みつける。
確かにハタノの言うとおり、目覚めてすぐに怖がるでも怯えるでもなく、真っ先に闘志を目に宿すというのは流石であろう。
「まあ、そんなことより今の自分の姿をよく考えてみるんだな。
なかなかいい見世物だぜ?」
「っ、っ~~~………………くそ、やろう……!」
そんなこと、目覚めた瞬間からわかっている。だからこれだけ睨めるのだ。
帯を奪われたアンズの巫女服は、上下繋がった一枚服の前面が大広げに暴かれており、さらしで隠した胸はおろか畚褌まで丸出しだ。
天井から吊るされた縄により、両手首を頭のずっと上で縛られているため、身体をその手で覆い隠すことすら出来ない。
それもそのはず、縄によって上方に引かれたアンズの腕はぴんと伸び、かすかに肘を曲げることすら出来ないほど。
草鞋を脱がされたアンズの素足は、殆どつま先立ちも同然で地に着いており、辛うじて足先が着く宙吊り状態とさえ言い換えられよう。
羞恥と屈辱で顔を真っ赤にし、涙目にさえなっているアンズであるが、文字通り手も足も出ず、裸体を憎き相手の前に晒す様から逃れられない。
これほどの状況でありながら、しおらしくなるどころか罵声を返せるアンズの姿を顧みるに、手の届かぬ位置からアンズを眺めるハタノは正しかったのだろう。
届く距離なら確実にアンズはハタノの股を蹴り上げている。
アンズの強さと獰猛さを知るハタノは、これだけ絶対的優位にありながらも、決してアンズを甘く見るようなことはしない。
「ハタノの兄さん、眺めてるのも面白いっすけど、そろそろもういいでしょ」
「こいつ、辱めるだけじゃ顔が歪みませんぜ。
ちょっとやそっとじゃ泣きもしないでしょうし」
「きちんと手を下してやりましょうや。
どうせ俺らは、こいつへの報復が終わりゃ余所に逃げるだけなんですから」
「気の早ぇ奴らだな……
がっつきゃ火傷する相手なのはわかってんだろうが。
もっと慎重にいこうとは思えないのかね」
「関係ないでしょ、ここまで縛り上げられてりゃ」
「あのやたら強え二人も、しばらく様子を見ろって言ってたけどよぉ。
俺らだってそう気が長い方じゃないんですぜ?」
「いいでしょ、兄貴。
俺らはこいつの顔が絶望でぐちゃぐちゃになるのがもう待ちきれねえんですよ」
ああもう、むかむかして仕方ない。
身動き一つ取れない中で、悪辣な連中が己の最悪な末路を示唆する言葉を連ねても、アンズの胸に沸くのは恐怖より嫌悪感。
なんでこんな奴らが存在するんだ。女を辱めることを待ちきれないなんて。
思うだけならすけべ野郎と罵るに済むが、こいつらは実行に移せるのだ。
今の感情だけでものを言うなら、この世にいちゃいけない奴らというのはこいつらのような奴だ、とまでアンズは確信する。
「わかったよ、せっかちどもめ。
下ごしらえだけはしてやるよ」
「っ……さわるなあっ!!」
歩み寄ってきたハタノに、アンズは迷わず足を振り上げた。
男の急所を狙い打つ一撃は、予測していたかのようにあっさりとハタノに受け止められる。
さらにはその右足を、ふくらはぎを脇に抱えられる形となり、片足だけで地に着くアンズは、先ほど以上に次の手が打てなくなる。
どす、とハタノの裏拳が、アンズの鳩尾に突き刺さる。
腰の入っていない一撃ではあるが、急所への一撃は充分なほどの痛打。
息の詰まったアンズは声も出ず、吐きそうな頬を膨らませながらも、よくもとばかりにかろうじてハタノを睨み返す。
ここまでされても目に炎を失わぬ姿に、やはりこいつは只者じゃないとハタノも感心さえするのだが。
「いい加減そのくそ生意気な目をやめろっつうんだよ」
「はぐあ、ぁ……っ……!?」
ハタノは抱えていたアンズの足を手放すと、腰を捻った全力の拳を、アンズの横っ腹に叩き込んできた。
打ち込まれた瞬間に戻しそうになり、反射的に歯を食いしばって口を閉じるも、瞬く間に呼吸が出来なくなって目の前が霞む。
首を絞められて意識が飛ぶ寸前のような、死すら意識する気分の悪さとともに、全身から力が失われていく。
立つための足の力すら喪失し、拳を握ることも出来ず開いた手、その手首にはアンズの全体重がかかって縄が指先に血を通さなくなる。
だらりと開いた口元からは、赤ん坊のようにだらしなく涎が滴り、全身を痙攣させるアンズにはそれを堪える余力も無い。
人の形をした宙吊り人形と化したアンズの姿は、もはや縄を切っても地面に受け身無く倒れるだけの、無様な負け姿そのものだった。
それを確かめ、ハタノはアンズから距離を取り、舎弟三人に道を譲る。
あとは勝手にしろ、と、ハタノは我が手でアンズの尊厳を奪うより、いっそう下品な三人によるアンズへの凌辱をお望みのようだ。
それによってアンズが穢され、絶望し、惨めに歪む表情を眺めることさえ出来れば満足できるのである。
「あ゛っ…………ぁ…………ぁ、ぅ゛…………」
「ほらよ、好きにしな。
だが、時間をかけるなよ。
徹底的に、あっという間にどん底へ叩き落とせ」
「へへっ、お任せ下せぇや!」
「小娘が、せいぜい俺達に手を出したことを後悔することだな」
「自分で舌を噛んで死にたくなるほどの目に遭わせてやるよ。
誰も助けに来ねぇ中で、せいぜいいい声で泣いてくれよ」
がくがくと全身を痙攣させ、だらりと落ち込むアンズの全身を見て、いよいよお楽しみの時間だと三人の男達がにじり寄る。
さらしを剥がすこと、腰回りの布を破き去ること、大事に守り抜いてきたであろう躰をこの手と舌で味わうこと。
純潔すら奪うことをも視野に入れた、極めて醜悪な愉悦に満ちたその表情も、顔を上げる余力も無いアンズはそれを見ることすら叶わない。
いや、たとえ顔を上げられたとしても上げないが。
どんな顔で近付いてきているのか知ったことではないが、今のこんな奴らのいい気になってる顔なんて、見ても吐き気すら催すだけであろう。
すなわちアンズは、身体が動かす余力すら失って尚、それだけのことを選べる思考力は残っていたということだ。
(…………も~いいですよね。
我慢できそうにありません、いくとこまでいきますよ)
『おう、やってしまえ。
殺しても咎めぬわ』
どんなに追い詰められたって、最後の一線だけは越えまいとする良心というものがある。
でももう限界。これ以上、我慢できてたまるか。
アンズはここまでむかつくと、かえって喧嘩はしたくないのだ。
喧嘩で人死には成り立ち得るか。充分あり得る。はずみというものがある。
いよいよ肚を括るまでは殺生なんて躊躇うアンズだから、今暴れたら相手をどうしてしまうかわからない中での喧嘩には、かえって歯止めがかかるのだ。
胸を触られそうになったことで、突発的に始めたようなあの喧嘩では、相手が倒れたら終わりなので、殺しはすまいという意識も保てていたのである。
けど、もう、駄目。ここまでやられては絶対に許せない。
このような痴態をあんな嫌らしい目に焼き付けた奴らの記憶から、それが完全に無くなるまで手を下さないと気が済まない。
それで相手が死んだって、もう私には関係ない。
「……ん!?」
アンズの背中に、再び雷神太鼓が顕れた。
そして宙に顕れる二本の撥。アンズの手元でなく宙に現れたそれは、そのまま落ちて雷神太鼓をこつんと叩く。
片方は"火"太鼓に、もう片方は"若"太鼓に。
動かす余力の無くなった我が身を、喧嘩が出来るほどまで回復させるための神力を顕現させるために叩いたのが若雷鼓。
そして、火雷鼓によって顕現する力は――
「うおあああっ!?
な、なんだあっ!?」
アンズの両手首を締め上げる縄を中心に、激しい稲光が発せられてハタノと舎弟三人の目を潰す。
ある者はのけ反り、ある者はうずくまり、目を押さえて四人が後退する中で、神力による稲妻が一気に縄を焼き切っていく。
稲妻の轟音の中で、ぶちりと縄が切れた音などハタノ達の耳に入ることは無く、光がやんだ中でも尚ちかちかする目、四人はアンズの実状を目で追えない。
縄から解き放たれたアンズは一度、床に崩れ落ちそうになりながらも、背中を丸めてなんとか踏み止まった。
ゆらりと身体を起こし、目の前の四人の姿を目に入れた瞬間、自ら強い稲妻を受けて痺れる全身の痛みも吹き飛ぶ。
そして男の一人へと一歩踏み込むのみで接近すると、その鼻っ柱に向けて全力の拳をぶち込むのだ。
「ごエァ……ッ!」
人の声とは聞こえぬ呻き声――その一撃で鼻骨が砕け、頬骨にまでひびがはいるほどの、金槌で鼻っ柱を打ち抜かれたかのような一撃の前ではそれも妥当。
たった一撃で目を剥いて、殴り飛ばされ頭を打って、失神してしまった男は、見方によってはある意味で幸福である。
なぜなら、ハタノと二人の舎弟、それら大の大人でもぞっとするような。
この怒りをぶつけることによって相手が死のうが気にも留めぬ、冷え切った氷のように情の欠片一つ残らぬ、殺意に満ちたアンズの眼を見ずに済んだのだから。
ハタノは今のアンズの眼に、裏切り者を葬ることを企む時のヤシマ大親分の眼差しを思い出していたほどだ。
「ごめんなさいとかもう聞きませんからね。
絶対に許しませんよ」
『遠慮はいらん、好きなだけやれ。
愛娘を辱められた私のぶんまで全部くれてやる』
どうも、と内心で冷ややかに感謝を述べたアンズに、ハタノ達は命の危機すら感じて襲い掛かる。
逃げるか攻めるかの二択ですらあった。だが逃げられはしないだろう。
得体の知れぬ雷神太鼓の力をも背負う相手から逃げ延びるには、背を向けるなど名によりも愚策であり、気を失わせる一撃を与えるしかない。
うおお、と気合を上げて襲い掛かる三人の男達に、アンズは冷めきって構え、半ば忘我のうちに応戦する運びとなっていく。
いったいどうしてこうなった?
自尊心すら捨てて、腕が立つという女の力まで借りての復讐は、拘束されて完全に無力化した巫女を前にした時点で勝負あったはずなのに。
ハタノ達がそれを理解するには、もはや時間は残されていなかった。
夜の闇を走る一つの影。とても急いでいる。必死でもある。
今この村には、尊厳あるいは命の危機に陥っている哀れな少女がいる。
それを知る女性は、果たすべき役目を別の所で済ませてから、そんな少女を救うための足を最速で駆けさせているところだ。
村の一角、派手に大きな一軒家の玄関戸をぶち破り、家の奥にある隠し階段の蓋を迷わず開け、その先に続く階段を二段飛ばしで駆け下りていく。
どうか間に合いますように。手遅れになっていませんように。
助けに行くからね、と言ったのだ。綺麗な身体で帰してあげなくては。
たとえあの子の命が助かったとしても、大切に守り抜いてきた純潔が穢された後などであろうものなら、あたしは責任も約束も果たせていない。
その駆け足は、本当に必死だったのだ。断じて着飾った必死さではなかった。
「――アンズ!
助けにき……あれっ???」
ハタノ家の地下深く、彼が捕らえた相手を拷問するための血生臭い地下室に飛び込んだイバラギは、目の前に光景に唖然とする。
三人ほど死んでないか。いや、生きているかもしれないが、特に顔の周りが血塗れで、指一本動かさない男が三人倒れている。
そしてもう一人はと言えば、喉元をアンズに掴まれて壁に押し付けられたまま、その顔面をもう片方の拳でがすがすと殴られている。
どうやらその男もとうに意識は無いようで、だらりと落ちた手にも足にも力は入っていない。
「あ、アンズさん……?」
「あ゛?」
『鬼めが。
何が助けに来るだ、遅すぎるわ』
決して無傷で三人のしたわけではないのだろう、アンズは服もびりびりに破かれ、半裸同然の姿でぎょろりと首ごとイバラギの方を振り向いた。
イバラギには一目でわかった。こいつ今さら何しに来たという眼光。
今のアンズが、即座に自分をも制裁対象と見做したことも、イバラギには一瞬でわかった。
壁に押し付けていたハタノの喉を手放すと、前のめりに倒れそうになったハタノの首の後ろに手を回し、引きつけその顔面に膝を刺してとどめとするアンズ。
あとはハタノを打ち捨てると、何の間も挟まずにその両手に撥を握り、一切の迷いも無く"火"の太鼓をがつんと叩く。
冷静な頭で戦う時に太鼓を叩くのとは力加減が違うのか、どでん、とやたら鈍い音が響いたのが、いやにイバラギの耳に残ったものである。
「ひいえええぇぇぇぇぇっ!?
ごめんー! 許してー!
助けに来るつもりだったのは本当だったのよーーー!!」
さしもの緑鬼イバラギも、技の名も口に出さず、無言で稲妻の砲撃を撃ってきたアンズには背を向けて逃げ出した。
階段をすげえ勢いで駆け上がっていくイバラギ。アンズも慈悲一つ無い無表情で追っていく。
後方から迫る、絶対妖魔調伏無慈悲羅刹巫女の気配に戦慄を覚えながら、イバラギはハタノの家から矢のように飛び出す。
そんな彼女が危機感のあまり地面に伏せた瞬間、ずどがーんとアンズが放ったぶっとい絶対ぶち殺したるぞ系稲妻砲撃が、イバラギの背を掠めて飛んでいった。
「たすけてえええええぇぇぇぇぇ!?
あたしが悪かった、悪かったからあああぁぁっ!!」
静かな夜に響き渡るイバラギの悲鳴と、無言でぶっ殺し雷撃砲をぶっ放しまくる稲妻音が響き渡る。
寝付いていた村人も次々に目を覚まし、灯りの無い夜の村が、家屋から漏れるどよめきが満たされて騒がしくなる。
そんなものは二人ともお構いなし。
逃げないと本当に消されてしまいそうなイバラギと、人殺しの目でそれを追うアンズに、そんなことは耳にも入っていなかった。
結局どうにか一瞬でもアンズの視界外に免れることが出来たイバラギは、そのままアンズから隠れおおして逃げ延びることが出来た。
アンズはそれでも、イバラギを見つけ出すために夜の村を徘徊し続け、家屋の窓からそれを目撃した者達の背筋を凍らせるに至る。
後日、摂泉村では、八つの人魂を背負った血染めの妖魔が、夜の往来をうろついていたという噂が出回ることになる。
目撃者にはそう見えたらしい。八つの雷神太鼓と、赤みの強い巫女服の色が。
巷を騒がすゴエモン騒動。
アンズはそれ以上のものを、意図すらしないまま、摂泉村の人々の心に焼き付けていくことになってしまった。
地元の大泥棒の名高さを、たった一日で追い抜いていくのもたいした話である。
「もう~! 最低ですよぉ!
あんな奴らに触られたぁ! 一生の傷ですよ!」
『ううむ、すまぬな……
何とかしてやれればよかったのだが……』
「テンジン様のせいではありません!
悪いのはあの馬鹿四人と、緑鬼イバラギと黒装束の野郎です!
ぜったい許さん! 次に見かけたら今度こそ跡形もなく消し飛ばしてやる!」
イバラギを取り逃がしたアンズは、雲に乗ってまた山波神社まで帰り着いていた。
胸がじりじり焼けて痛いほどのむかつきを抑えられぬまま、風呂釜に溜めた水を最強火力で沸かして、びりびりに破かれた巫女服を脱ぎ捨てて入浴中。
くそ強いアンズにハタノら三人も死に物狂いで立ち向かったものだから、服を掴まれて破かれるし、半裸同然の身体を殴られるしでアンズも大変だった。
今でも身体のあちこちが痣だらけでずきずき痛み、熱い湯が傷に沁みるのだが、今は躰を清めることが何よりも優先事項。神力による治癒も後回し。
淫猥な意味で触られたのではなく、殴られた蹴られたという話だが、それでもアンズはあんな奴らに、肌を触れさせてしまったことが何より耐えがたい。
望まぬ異性に肌に触れられることがどれだけおぞましいかは、なかなか分かって貰えないのが辛いところ。
腫れた腕をその手で何度も拭い、痛かろうとも涙が出ようとも、触られた感触を忘れるためなら痛みにすら頼るほどである。
『しかし、許せぬことは勿論だが、つくづく意図のわからぬ奴らだな。
あまりの遅参であったとはいえ救出に来たらしきことは確かであるし、わざわざお前を一度捕らえさせた意味は果たして……』
「どぉ~でもいいです!
あいつらのせいで私はこれほどの目に遭ったんですよ!
それが全てです! 許すまじです! それ以外のこと考えなくていいです!」
『そ、そうだな……
すまんな、余計なことを聞いてしまったようだ……』
「謝らなくたっていいですよ!
あぁ~、もう! あいつらのせいでテンジン様にまでこんな想いを!
あいつらこそ、一発二発殴っただけじゃ到底気が済みませんよ!!」
駄目だ、すごく怒ってる。主神の声にすら耳を傾けない。
また摂泉村に向かうことだし、再び奴らの暗躍とぶつかる可能性がある以上、念のために多少の推察を進めておきたいテンジンであるのだが。
今のアンズと意見交換をすることはどうしようもなく無理なようだ。
空気を読み違えたと謝るテンジンの言葉すら、いっそうアンズを苛つかせて、彼女が風呂釜の縁をぎりりと握りしめる結果に繋がるだけである。
返す返すも、あんな奴らにこの躰に触れることを許してしまったことへの無念と憤りは、今のアンズが決して冷静にはなれぬほどの汚点だ。
この話は後々で良いか……と、テンジンですら重要であろうはずの議題を諦めて、アンズが落ち着くその時まで待つことを選ぶほか無かった。
女は怖い。特にアンズのような、神様の力に頼らずとも素の力が強い豪傑は。
そんな人物の貞操に傷をつけようとしたが最後、これほど恐ろしい目に遭うのだということを、ハタノ達は身を以って思い知っただろう。
手を出してはいけない相手だと痛感したはずだ。
もはや今後、ハタノ達がアンズに危害を加えようとすることは、金輪際無いであろうと断言できる。
暴力を武器に成り上がってきた者は、それでは永劫もはや勝ち目が無いと確定した相手に対し、太刀打ちするすべは存在し得ないのだから。
「よぉ、男前ども。
でけえ傷が目立つ所について貫録が出たじゃねえか。
これなら今後のすてごろ稼業も安泰だな」
だが、そんなアンズ以上にもっと恐ろしいものがハタノ達にはある。
ぶちのめされて失神していた四人は、殴られ蹴られて強引に目を覚まされた時、自分達を見下ろす相手の顔を見るや否や心臓が凍り付いた。
薄気味悪いほどの白々しい笑みを浮かべたヤシマの姿は、彼の性格を知る者にとっては、眼光をぎらつかせる彼の表情以上にぞっとする。
いかに理不尽な暴力の化身たるヤシマとて、大義無く身内を制裁することは無いのだが、大義を得てしまえば話は別。
殺してもいい理由が出来た相手を前にして、我慢する必要が無くなった嗜虐心を解き放ったヤシマの薄ら笑いを向けられれば、人生終了も同義である。
「まあ、ハタノはとりあえず医者んとこ行け。
腐っても身内だ、最後ぐらいは面倒見てやるよ」
ヤシマの一言にすぐさま反応し、彼の背後で待っていた屈強な男が、二人がかりでヤシマの首根っこを掴んで立たせると攫って行く。
傷だらけの身体、潰れてぐちゃぐちゃの顔面で、強引に引きずり歩かされることで生じる痛みも、今のヤシマが足を止める理由にはならない。
ひと思いに殺してくれるでもないのが、いっそうの恐怖を彼の心に一瞬で膨れ上がらせ、震えながら無抵抗に引き連れられていくのみである。
「で、あとはお前らだ。裏切りもんども。
心当たりはあるよなぁ?」
その場で蟹股開きにしゃがんだヤシマは、倒れて立てない三人の男、ハタノの舎弟の前に小物を転がす。
それは、摂泉国でずっと品薄が続いていた平独楽だ。
舎弟三人がそれを見て固まったことからも、それは三人に致命的な事実を理解させるには上等な逸品だったのである。
「お前らが平独楽の独占に一枚噛んでたのは知ってんだよ。
いつ俺のところまでその儲け話を持ってくるかと楽しみにしてたんだが、一向に独り占めしてんだもんな。
せっかくここまで目に見えてる売れ筋商品を、家長の頭越しに小僧どもが隠し持ってちゃいけねえだろ」
どこからばれた? 決定的な証拠でもあるのか?
いや、ヤシマが行動するに際し、証拠などというものは彼にとって何ら重要なものではない。
確信さえ得てしまえば行動するのみである。だから恐れられるのだ。
ヤシマの利益を妨げた者は、それを隠し通せず勘付かれた時点で最後である。
証拠集めに時間を割き、取り逃がすような愚などヤシマは犯さない。
仕入れれば必ず売れて儲けになるような商品を、ヤシマや彼の傘下にある者達が手に入れられない動きに加担するというのは、商売敵の所業である。
ヤシマの名を借りてでかい顔もしてきたような身分で、大親分の商売を邪魔するなど、話が通用するはずがない。
手打ちと言われたのにアンズを襲撃し、親分に背いたこともそれなりに重いが、それさえこの独占事業への関与と比べれば些末な問題に過ぎないのだ。
万死に値する大義である。
「俺の稼ぎ損ねたぶんを、しっかり取り返させて貰うからな?
喜べよ、相当稼げるぞ?」
その言葉を最後に、またも現れた屈強な男達数名が、立つことも出来ない三人を袋叩きにする。
気を失わせると、人がすっぽり入るほどの麻袋に入れ、身動き取れないようにぎしぎしに縄でぐるぐる巻きにして。
大柄な男三人が、それぞれ一つずつ簀巻き同然にされた生贄を担ぐと、ヤシマに続いてこの地下室の階段を上っていく。
あっという間にこの地下室は、血塗れになるほどアンズに殴られた者達が流した赤き染みだけを残す、もぬけの空となり果てた。
生存者は二名。アンズと、死刑宣告はまだ下されなかったハタノの二名。
その他に生存者はいない。遅かれ早かれ、必ずそうなる。




