第五四話 ~酔っ払いだらけ~
「それじゃあ、いただきます。
あんたも遠慮せず食べな」
「…………いただきます」
いったいどうしてこんな状況になっているのだろうか。
そこそこ大きな料亭にて、店奥のお座敷席にて、人の姿に近過ぎる鬼、茨木獣士と机を挟んで共に昼食。
ご飯は山盛り、漬物と味噌汁付き、主食の焼き魚はでかい赤魚が二匹まるまる。見るからにお高い御馳走のお昼ご飯。
席そのものも貸し切り状態、余人の耳を意識せずに二人きりで話せる個室であり、部屋代だってかかっている。
それら全て、イバラギの支払いである。
路地裏でイバラギと対面した後、なんやかんやと言いくるめられ、いつの間にかこの状態に陥っているのがアンズの現状。
流されるままここに辿り着いたアンズは、先に箸を持ったイバラギに続いてお魚を啄むが、味があんまりわからない。せっかくの御馳走なのに。
ひとまずは腹ごしらえと思っているのか、アンズからの第一声を待っているのか、イバラギはもくもくとご飯を食べ進めているのだが。
お酒も飲み始めている。たいそう美味そうにぷはぁと息を吐く美人顔。鬼は俗説に違わず酒好きだ。
(……テンジン様、さては芸者の正体がこれだってご存知でしたよね)
『勿論だ。
いくら信仰が薄れて力を失っているとは言っても、流石に私も近くで妖を見ればわかる』
(引き止めて下さいよ、関わるのを)
『いや、悪意や敵意というものの気配も一切無かったのでな。
接触しても危険は無いと判断すれば、対面するのも一興かと』
(……単に面白がってるだけではないのだと信頼は致しますけれどぉ)
芸者姿の下に、村娘に扮する着こなしは既に纏っていたようで、今のイバラギは地味な色の紺の法被に、苔色の股引という出で立ちである。
色鮮やかな芸者服を路地裏で脱いで、赤髪鬘とお面も荷物に纏めてしまえば、天下の往来を歩いてもあの芸者と同一人物とは思われまい。
流石に鮮やかな緑の髪は目立ち過ぎるので、唐草模様の手ぬぐいで頭は隠してあるのだが。
アンズよりもでっかい胸を締め上げるさらしが襟の間から覗く法被姿なので、充分人目を惹いていたのも事実であったりする。法被も袖が短く肘より下が露出。
この店に来るまでの道中、もっと奇抜なアンズと横並びで歩いていただけあり、肌出しの多過ぎる女二人がいたと噂話が立ち始めていたのは言うまでもない。
アンズが芸者の正体を知らずに声をかけようかテンジンに相談した時、妙な思考時間を挟んでいたテンジンは、相手がイバラギだとわかっていたからである。
不倶戴天の敵であるイバラギとアンズの接触を、そうなると知って止めなかったテンジンに、何らか思惑があったんだろうとはアンズも想像で補うのだが。
主神を疑うことは控えるものの、真意が不明すぎてアンズもどうすればいいかがわからない。
現にイバラギが自分に危害を加える気配が一切無く、危険な遭遇ではなかったこの事実のみを頼りに、辛うじて主神の深い意図を信じられるというところ。
「……あのー、私、回りくどいこと無理なんで、風情もへったくれもなくお尋ねしますね?」
「おっ、ようやくそっちから話しかけてくれたね。
いいよいいよ、そういうとこどんどん出していこう」
「何が目的でこんな所にいるんです?
話せる限りでいいから、お伺いしたいんですが……」
アンズの表情は、討つべき敵を前にした敵愾心を宿した目ではなく、正しい振る舞いがわからずおどおどする気弱な色に染まっている。
私はコナツのようにはなれない。あいつがここにいたら即おっ始まってる。
この場で相手を仕留められるかどうかなど関係なく戦えるコナツと違い、今すぐ全力で挑んでも村を混乱に陥れるだけだとわかるアンズには動きようがない。
突発的な一対一で、いきなり色鬼に挑んで勝てるほど、今の自分は強くないと驕らず理解できているのは賢明だ。
「流石に何の意図でこの村に来たかは話せないけどさ。
胸を張って言えるのは、あたしは結構こうして人里に遊びに来ることが多いってのが事実だよ。
芸者の真似事を銭も貰わずやってたのだって、身に付けた芸で人を面白がらせるのが好きだってだけだからさ」
「むぅ……あなたがちょっと話そうよって言って私を引っ張ってきたのに。
私が一番知りたいことに限ってはぐらかされるのは、なんだかちょっと釈然としない」
「勘弁しておくれよ、聞かれてしまうと困るっていうのを隠さず、黙秘も適当なことも言わずに白状してるだろ。
あたしは他の奴らと違って、必要とあらば方便だって使うけど、ここではあんたに嘘ついたりせず誠実に話してるつもりだよ」
「えっ……イバラギさん、嘘つける鬼なんですか?」
「基本はつかないようにしてるよ。
でも、隠し事の核心を隠すためだったら仕方ないと割り切ることもあるさ。
仮にも一大勢力の上役にある立場で、なんでもかんでも正直にぺらぺらとお喋りでいるわけにはいかないだろ。
嘘つきとまで言われちゃ心外だけど、仮にも対立する立場であるあんたとの会話で、常に全部が全部本当のことを言うわけにもいかないさ」
鬼は嘘をつかないという俗説に真っ向から反することを仰るイバラギに、アンズも意外さでのみ目を丸くする。
敵対する相手との会話で、自分に都合の良い情報ばかりが聞き出せるような甘い話は無いとも思っているので、ある意味では腑に落ちる話でもあるが。
わざわざイバラギの過去の発言すべてを遡って疑うようなことはしないが、冷静に考えればまあそりゃそうだよねとしかアンズも思えない話である。
それにしても、アンズがイバラギ相手にさん付けなのが、テンジンからすると少し面白い。
見た目が年上のお姉さんにしか見えないと、なんだかんだで普段の行儀良さが妖相手でも出てしまうのだろうか。
思い返せばミズタマ相手にも敬称めいたものを付けようとしていたし、人と妖をそれだけで隔てない子である片鱗は垣間見えていたのだが。
「まあまあ、あたしのことは人里に遊びにきた変な奴とでも思っておいておくれよ。
何の目当てもなく人里にこそっと紛れ込んで、普通に買い物や物見を楽しむことだって多いんだから」
「ちなみに、お金はどうしてるんですか?」
「行き倒れから拝借するとか、大奈街道で芸をしておひねりを貰うとかかな。
盗みや強奪といった非道な手段で銭を稼ぐようなことはしたことないよ。
別にあたしはお金なんて稼がなくたって生きていけるんだしね」
「そうは言っても、警戒するなと言われたところでそうもいかないでしょ……
だっていかにも、私と対立し得る何らかの目的でこの村を訪れたって半ば仰ってるも同然なわけですし」
「もう~、それはしょうがないだろ。
そういう場面にかち合って、あんたがあたしを力ずくで止めようって挑むなら、それも妥当な判断さ。
でも今はそうでもないだろ、あたしまだなんにもしてないよ?
未然に調伏した方がいいんじゃ、なんて目で見ないでおくれよ」
「いや、どうせ今すぐどうにか出来るとも思ってないですけどね……」
だからアンズは、渋々ながらイバラギとの対話に付き合っている。
討てるものなら討ちたいが、それほど簡単な相手ではなかろうし。
得られるものがあればいいとは思うが、それ自体もあまり期待はしていない。
敵対陣営の大物と対面し、言葉を交わす好機が訪れたとて、そこで上手い駆け引きを果たし、利を得るような実践経験はアンズには無い。自覚もある。
正直、流されるままにこんな場に引きずり込まれただけでしかない。
「仲良くしようってのはやっぱり無理だろうけどさ。
そう邪険にしないでおくれよ、あたしは少なくともこの村にいる間、本当にあんたに危害を加えるつもりはないんだ。
あたしはあんたのこと、結構ほんとに気に入ってたりするんだから」
「え~、私はあなたのこと薄気味悪くてまだ好きになれそうにはないです……」
「まあ正直に言ってくれるのは、探り合わずでこちらも楽だけどさ」
いつかの衝突は避けられないものとしながら、イバラギの態度は今のところ友好的ですらある。
しかし鵜呑みに出来ないのは当然としても、やはり腹の内がわからぬ相手というのは、妖でなかったとしても、お人好しのアンズでさえ距離を取りたくなる。
同じ村にこんな奴がいるということを知ってしまって、始末に負えない余計な悩みが増えただけだ。
「村中であたしを指差して、鬼がいるぞ~、ってのもやめといておくれよ?
そんなことされたらすっごい面倒だ」
「しませんよ、しないしない。
みんな動転してえらいことになりますから」
にししと笑って釘を刺してくるイバラギも、余計な混乱を招くだけになる悪手など選ばぬアンズだと見立て、ずっと余裕の表情だ。
食えない大物だと思わせられるばかり。
クマリと一緒に異国に訪れる機会を得たはずの旅行が、どんどんややこしくなっていく一方の連日に、アンズは額を押さえてはぁ~っと溜め息をつくのだった。
『うーむ、収穫は無かったな』
(はーーー?
そんなこと仰っちゃいます~?
実際のところはそうでなくても、私としてはテンジン様にお勧めされて鬼と睨み合った気分でしたよぉ?)
昼食をたいらげたイバラギは、アンズと共に料亭から出るや否や、さっぱりした別れを告げてどこかへ行ってしまった。
今度会えればもう少し歩み寄って話をしようね、と気風の良い笑顔を最後に見せたあの表情は、どうにも敵として憎みづらい姿でもあったのだが。
イバラギをはじめとする大和龍山の鬼どもは、何であろうと最後には討つべき存在でしかないため、ああいう接し方をされても困るだけだ。
初対面の時から底が知れず、元より厄介な大物だという認識はあったが、今回の邂逅でいっそう接し方に困る相手になってしまった。
今日あったことなんて、口が裂けてもコナツには話せそうにない。友達相手に無用な秘密を作ってしまったのもなんだか嫌。
『そうは言っても、私にはどうにも出来んしな。
お前も頑張ってはくれていたよ、お疲れ様だ』
(ねぎらってませんよ、その感じは。
私がもっと謀に秀でていたら、もっと上手くやれたんでしょうね。
はいはいごめんなさい、相変わらず未熟な巫女ですよ)
『拗ねるな拗ねるな。
お前なりによく頑張っていたとは本当に思っているのだぞ』
テンジンは敵意を感じないイバラギとの接点を作ることで、何らか得られるものがあればというかすかな希望もあったのだが、そう簡単に上手くはいかない。
アンズがどこぞの名高き軍師ばりに頭が切れれば、ああいう食わせ物相手の対話でも、何らか収穫を得られたりはするのだろう。
たとえば相手の口を軽くする話術で、敵陣営の機密を知る取っ掛かりを得るだとか。
あるいは、相手にこちらの底知れなさを感じさせることで、いつか訪れる決戦の時に向けて、あらかじめ精神的な優位に立つだとか。
どうせ失うものもない、敵の大物との貴重な接触、あわよくば何らか得られればという強かさというものはあってもいいものだ。
とはいえ流石に、アンズもそういった類の傑物ではないし、得るもの無く翻弄されっぱなしの結果に終わってしまったのも想定内ではある。
これで相手がアンズにとって不利益となるものを得たとも思えないので、損もしておらず悲観的になる必要はない。
ただ、アンズは気疲れした。今ここでの敵意こそ感じなかったとはいえ、鬼との一対一の会話なんてぴりぴりする。
それは無さそうだとは思っても、もし来ても対応は出来たとは言っても、急に気が変わって襲い掛かってきたらどうしようという怖さもあったわけで。
まだまだ昼も半ばを過ぎていない時間帯、土産探しに村を歩かねばならぬ日中にありながら、今日はもう帰って休みたい気分になりかけている。
それだけ、疲れた。命懸けの戦いには慣れているほどの歴戦の巫女とて、慣れぬ謀の分野で急に頭を使ったら、怪我する以上に疲弊するというものだ。
(あ~、気を取り直して頑張りますか。
ソウサイさんへのお土産も考えなきゃいけませんし。
あんなのが村にいることを知って気苦労増えましたが、いるのにそれを知らずに無警戒でいるよりは良いと考えることにします)
『うむ、前向きで頼もしいぞ。
そういうとこ、どんどん出していこう』
(今日ばっかりは、おだてても何も出ませんって言いたい気分です。
主神を相手に言うべきことではないですけどね)
『言っとるではないか』
(思っただけです)
「――おっ!
見つけたよ、アンズ!」
さて、気分を一新して村を練り歩こうとしたところで横槍が。
誰の声かはすぐにわかる生き生きとしたものであったため、アンズも呼ばれた方へと自然と振り返る。
あれはソウサイの声だ。何か御用でしょうか。
「げっ……!?」
「ふはっ、いい曇り顔だ。
気の強いお前の顔が歪むのは、何度見ても面白ぇわ」
「やめときなよ、ヤシマ。
あんたの悪趣味も勝手だが、流石に昨日の今日では洒落にならんだろ」
「だからいいんじゃねえかよ。
あいつの俺への忌避感が薄れてねえ今だからこそ味わえるもんだ」
ソウサイの隣に、昨日地下賭場で私を吐きそうになるぐらい追い詰めた奴がいる。
二度と会いたくない相手なのに、なぜ二日連続で顔を合わせにゃならんのだ。
しかもソウサイがそれを連れてきた。あんた敵の回し者かとさえ。
「こいつには思うところもあるだろうけどちょっと面貸しな。
話がある」
「えぇ……私さっきご飯食べちゃいましたし……
ソウサイさんへのお土産も探したいですし……」
「そんなもんどうでもいいよ。
腹が空いてないならたくあんでも齧ってりゃいいさ」
商人、特にソウサイが言う面貸しなというのは、大抵お食事処で話をしようというやつである。
物陰に連れて行って、壁を背にした相手を脅してくるような人ではないのは信じていい。
でも、その席にはヤシマもご一緒な予感がぷんぷんする。
ソウサイのことは好きなので、彼女と話すのは本来アンズも望める話なのだが、こんな奴までついてくるとなったら話は別である。
「諦めてさっさとついて来な。
言っておくがお前に用があるのはソウサイだけじゃなく俺もそうだ。
俺の誘いを断るっていうなら、顔に泥を塗られた俺対お前の話になるぜ」
「うぅ……いやだぁ……」
今日は厄日だろうか。例えでも何でもなく胃がきりきり痛んできた。
さっきもそれなりに重い気苦労を背負ったばかりで、ようやくそこから免れたと思ったらもっときつい流れに。
ヤシマ相手にも逆らいにくいが、そもそもソウサイもアンズにとっては逆らいづらい相手なのだ。
こっちも怖い。ヤシマみたいな奴と対等に話せるソウサイが只者なわけがない。
アンズは折に閉じ込められて運ばれていく兎の気分で、ソウサイとヤシマに連れていかれる形でしょぼしょぼと足を運ぶのだった。
摂泉最強の二人が顔を揃えているだけでも、この村の人々は、目にしただけでぎょっとする光景である。
二人の前方、人々が勝手に道を開けてくれる。おっかない二人の邪魔をして機嫌を損ねたら終わりだと言わんほどに。
そんな二人の後ろを、肩を落として歩くアンズの姿には、これから生贄にでも捧げられる幸薄き少女に向けるような憐憫の目ばかりが注がれていたものである。
「アンズもちょっとつまんでみな。
醤油を漬けて食うと美味いよ」
「大蒜の薄切りと一緒に食うとまた美味いんだぜ。
なかなか食える機会もねえだろ、遠慮せず食っときな」
イバラギに連れ込まれた料亭よりも、さらにでっかい料亭に連れて来られたアンズ。
ここはヤシマの息がかかった料理人の店らしい。
出てきた料理は薄切りの馬肉で、火も通していない生肉である。ソウサイもヤシマも生食がお好きなようで。
生肉を食すこと自体も極めて先進的で、豪商二人に信頼される料理人にしか捌けぬ特殊食材である上、大蒜というのも一般流通しているとは言い難い珍味。
生の馬肉を漬けて食べるよう言われた醤油も、アンズが知っている醤油よりも黒さが濃く、何と言うか"溜まり"っ気を感じる。普通の醤油じゃない。
食材も添え物も薬味もすべて、庶民が普通に生活していてそう簡単に食べられるものではないので、ここは間違いなく摂泉村でも指折りの料亭であろう。
ソウサイやヤシマのような大物が揃って訪れる料亭が、生半可なものであるはずがないので当然といえば当然だが。
「お前まったく喋らねえな。
もっと肩の力抜いて楽しくいこうぜ」
「あたしら相手に饒舌な奴、この国どこ探してもいねえだろ。
無茶なこと言うなって、ましてあんた昨日こいついじめ倒してたくせに」
「昨日は饒舌だったぜこいつ。
もっと顔と言葉を出せよ、だんまりなお前はつまんねーぞ?」
「くはははっ、まあそれはそれでそうだね。
こいつは笑って怒って泣いてしてる時が一番可愛いしな」
対面にソウサイとヤシマの二人を置いた状態で何を喋れというのか。
アンズもあまり人のことは言えないが、この二人は本当に気が短い。
今なんて酒をお猪口に注ぎもせず、徳利でぐびぐび飲み始めて酔い始めている二人だから尚更だ。
というか、この店に着いてさほど時間も経っていないのに酔い始めているということは、既に何杯かは引っかけてきているようにも見える。真っ昼間から。
酔っ払いの見えない逆鱗に触れたい奴なんて誰もいない。口数が減るのは当然である。
「あの~、御馳走はありがたいんですが、出来れば本題があるなら早めに入って頂きたいんですよ。
お二人とも怖いですから、正直早く帰りたいです」
アンズはもう、叱られてもいいから本音を晒すことを決め、馬肉を醤油と大蒜と合わせて口に運んだ。
あっ、最初は変な味だと思ったけど噛めば噛むほど美味しく感じてくる。これ凄い。
流石は舌の肥えたお金持ちの機嫌を損ねないものだけあって、貴重な経験をさせて貰えているなぁと感じる。
「よーしよし、お前も一献飲め。
俺は酒が飲めねえ奴とは話せねえんだ」
「は~い、頂きます。
摂泉のお酒、興味はありました。
お料理も美味しいですし、きっとこれもかなり良い地酒なんですよね」
「こらこら、あたしのも貰っておくれよ。
無理にとは言わないけどね、なんて言わないよ。ほれほれ」
「もう~、どうなっても知りませんよ……」
アンズは御神酒を賜る慣習もあるので、若いが酒には慣れている方である。
なんなら本音では好きでもあるし、神事の時のみと心がけているから普段は自分から飲まないが、口にする機会があるなら割と喜んで飲む口ですらある。
ただ、機会を限っているのは酔って大失敗した過去があるからでもあり、付け加えるなら味の悪い酒は絶対に飲まない。質の低い酒は悪酔いしやすいからだ。
がぶがぶ飲んで早く酔いたい庶民が好む濁酒といった、酔いやすく二日酔いにもなりやすい酒は断固お断りということである。
「まあそこまで警戒すんな。
俺は舐めた口を利く奴は許さんが、酒の席での粗相になら普段より寛容なんだぜ。
その辺りだけはソウサイとも気が合ってんだわ」
「お互い酔ってりゃ気が短くなって喧嘩することもあらあわな。
余程に言っちゃいかんこと言わん限りは、この場じゃともかく明日には引きずらねえから安心しな」
「どんなに刺激されても致命的な一線は越えない自信もありますけどねぇ」
ヤシマに注がれた酒をくいっと飲み、ソウサイに注がれた酒もくいっと飲むアンズ。
どちらの酒も上物なのはアンズにもわかる。
ヤシマが愛飲する冷酒はかなりの辛口で、喉を過ぎても熱さが残るが、かぁ~っ酒を飲んでるなぁという強い実感の割にくどさが無い。
息を吸えば、濡れた肌に強い風を当てたようなすぅーっとした喉の涼しさが心地良く、先述のきつさの割にはまた次の一杯が欲しくなる飲後感が素晴らしい。
対するソウサイの愛飲する冷酒は、鼻につんと残るほど強い酒の匂いがするものの、それ以上に素材の一つである米の香りが程よく香ばしい。
庶民の愛する主食の風味を、ここまで明確に主張しながら酒の風味を阻害しない、絶妙な旨味を併せ持つ酒はそうあるまい。
すなわち飲みやすく、現にアンズがお猪口一杯頂いている間に、ソウサイは徳利でお猪口数杯ぶんの酒をぐいーっと飲み干している始末。
この酒の強さに触れた直後では、絶対間もなくべろべろになるだろうとしか見えないが、この旨さは食べ物気分でがんがん飲める気持ちがアンズにもわかる。
「あ~、もういいや。
ソウサイさん、もう一杯頂けます?」
「おうおう、飲め飲め。
これ高いんだよ~? なかなか飲めないんだから今日たっぷり味わっていきな」
「かぁ~、女は甘ったるい酒が好きだねぇ。
こういうばちっと利く酒の美味さがわかる奴いねえもんかな」
「いや、ヤシマさんのお酒もだいぶ好きですよ。
頂けます?」
「おう、いいぞいいぞ。
わかる口かお前。だったら少しは優しくしてやるよ」
「少しだけなんですねぇ」
アンズはもう我慢するのをやめた。もう酔っちまえ。
さっきイバラギとも多少の酒を飲んだが、あの程度で酔えるはずもなく、素面に近い頭でこんな人達と話せる気がしない。
最悪粗相をしてしまったら謝るし、尊厳を傷つけられたら喧嘩すりゃいい。
もう既に酔い始めているのだろうか。いや、これは素面での発想。
ソウサイもヤシマも怖いから基本は逆らわないが、アンズはハタノに胸を触られかけた時のように、一線を越えられたら許さんものは許さん性格である。
そもそも根本がそれだけ揺るがぬものが無ければ、容赦なく命を奪いにかかってくる妖魔や賊に立ち向かう彼女になどなっていまい。
「あっはっは、やっぱり若いのが酒に付き合ってくれると楽しいねぇ!
おおい、もっと持ってきな! あたしらがこんだけで満足すると思ってんのかい!」
「あ~、手元に酒がねえ、酒がねえ。
やっべ~、むかむかするわ。誰か殺しちまおうかな。ぶははは!」
「もう~、そういうのやめましょうよ。
私が三杯飲んで責任取りますから、当たり散らしちゃ駄目ですよ」
「おうおう、お前に免じて全部許すわ!
おらどうした! 早く次のを持って来……ぶっはは、早ぇなぁ!」
「馬鹿か小僧! みみっちく徳利で持ってくんじゃないよ!
一升瓶で持ってくるんだよ、わかってねえなぁ!」
ただでさえ摂泉の大物二人が揃い踏みした注目度劇高の席が、瞬く間にこの店最大の目を逸らせない限定領域に激変した。
酔いが回って本性の出てきた、怖い婆と殺人商人。
それに相席させられる哀れな子兎と見えた少女までもが、この二人を相手に酒をぐいぐい飲み始め、酔うことも厭わぬ無謀に挑み始めている。
周りは死ぬほど怖い。客も店主も、何かあったらすぐ逃げる腹積もりはもう出来た。
摂泉村の商売人なら、誰もが身に沁みてよぉく知っていることなのだが、ソウサイもヤシマも本当に気が短い。
失言一発で店ごと潰された者もいれば、行方不明になった者すらいる。
そんな、怒らせたら終わりの二人に揃い踏みに対面するアンズが、言葉の使い方を間違えたら一巻の終わりだ。
そもそもアンズとて、先日ハタノを相手にぶち切れ散らかした奴がいるという噂に完全一致する風貌で、情報を重んじる摂泉の民には既に知れ渡りかけている。
この三人が揃う席からは、向こう三軒を巻き込むほどの大火事を招く火種の匂いしかしない。やば過ぎる。
「料理が足んねえだろ! どこ見て商売してんだい!
ヤシマのお膝元だからってあたしを見くびってんなら承知しねえぞ!」
「おうアンズ、お前も徳利でぐいっといってみるか?
流石にこればっかりは無理にとは言わねえわ。
だがやってくれりゃあ俺は嬉しいぜ? 無理に機嫌を取れとは本当に言わねえが」
「んん~~~~~……わかりました、一回だけなら!
でもほんとに一回だけですよ、私も羽目をはずし過ぎたくはないですから」
「よ~しよしよし!
頑張りに免じて貸し一つにしておいてやるよ!
俺に貸しを作れるってのはたいしたもんだ!」
「っ、っ……んあぁ、っ……
はぁっ、はぁっ……あっつい、っ……」
アンズまで徳利で一合の酒を飲み干して、荒い息を吐き始めた。
それも、きつい酒を飲んでつらいような息遣いではなく、美味い劇薬を呑んで悦の境地に入ったような声。
どう見てもまだ飲める。たとえ飲めなくても次の一杯を欲しがれる酒飲みの色気。
もうこの場では何を言っても駄目そうだと見極めて、明日の朝には男親としてこんこんと説教するしかあるまいと、テンジンも溜め息を吐くほどである。
主神の溜め息も聞き逃すほどなのだから、アンズもあまり良い状態ではないのだろうとしか。
はてさて、どうなってしまうのだろうか。
気の短い奴がべろべろに酔ったら十中八九ろくなことがない。
ソウサイとヤシマの話だろうか。いいや、アンズも含めての話。
覚悟を決めて怖い大人との酒宴に飛び込んだアンズだが、周りは心底勘弁してくれという想いでおとなしくなってしまっていた。




