第四八話 ~大好きな神様と忌まわしき禿げ頭~
内陸それも山間の村に生きてきたクマリにとって、海は初めて見るものだ。
それに近付くにつれ浜が広がり、足元すらも初めて見る色の砂でいっぱい、踏み込んだ時の感触も新鮮。
そして、河川の清流には決して見られようはずもない、蒼き水面というものを目の前にすれば、それはもはや新世界だ。
駆けて、砂浜に踏み入ってからも、砂に足を取られかけながらも全力駆けを続け、波打ち際へと真っすぐに走る。
止まるということを知らぬかのように突っ走るクマリの頭上のミズハは、振り落とされて痛い目に遭わぬことしか考えられない。
「うりゃーーーーー!!」
「ひぃえええぇぇぇぇぇ!?!?!?」
流石は好奇心と天真爛漫の権現クマリ。海に迷わず飛び込んだ。
跳躍して、大の字とも言えるほど手足を伸ばし、胸から海面に躊躇なく自らを叩きつけていく思い切りの良さ。
大きな水柱を上げ、少ししたら海から顔を出すクマリだが、ぶへぇぶへぇと咳き込むようにしながら舌を出している。
「あはは、しょっぱい?」
「うわさにたがわぬしおのあじ!
これはのみこんだらしぬ!」
「死にはしないと思うけどね。
喉が渇いてつらくはなるだろうけど」
初めての海なのだ。海水の味も、衝撃的ですらあるほど新鮮極まりない。
話には聞いていた、海の水は塩っ辛いという話を、そんな水がほんとにあるのかと半ば疑っていたクマリも、舌で触れれば現実を知る。
地元の川と、アンズに連れられて出かけた先の湖しか知らなかった少女にとって、これほど新たで鮮烈な経験もそう多くは味わえまい。
生まれて初めて体験した海水のしょっぱさというのは、幼心に刻み付ける衝撃度で言えば上位に位置すると思うのだがどうだろう。
「むっ、かみさまがいない気がする。
あたまがかるい」
「ミズハ様吹っ飛ばされて流されちゃったね。
……あっ、いた」
全身ずぶ濡れで浅瀬に立つクマリは、頭上にあった重みが消えていることにきょろきょろするが、どの道クマリの眼では神様は探せまい。
代わりにアンズが膝まで濡らして浅瀬に入って見回せば、どざえもん状態で海面に浮かぶミズハを発見。
波立つ水面に背中とうなじだけを晒して力無く漂う姿は、もしかして死んでいらっしゃいますかとも見えるほどぐったりである。
「ミズハさ……」
『ぷあっ!
も、もう怒りましたよ~……!
神様にこんな乱暴する悪い子には、おしおきです!』
奔放なクマリに海へ放り出された神様が、珍しく怒ってクマリの顔の高さまで身を浮かせる。
アンズほど神様の姿を明確には目視できないクマリだが、前方にうっすらと、水のお召し物を纏った小さな神様めいたものが見えるような見えないような。
ただ、そこに神様がいることだけは、クマリも直感的に理解できる。
『えいっ』
「あばばば!?
ぶへっ、おえっ、しょっぱ!?」
お怒りでしてもあまり乱暴はせずお控えめに――と、ばしゃばしゃ海水を蹴りながらミズハに駆け寄ったアンズだが、杞憂である。
ミズハはなけなしの神力を用いて、胸の前で握りしめた両手から水を放ち、それを開けっ放しだったクマリの口へちょろろろ~っと注ぎ込むのだ。
無論、海水である。いきなり口の中に放り込まれたら、塩味でむせたクマリがごぼごぼ嘔吐めいて水を吐く。
口元を手で隠すこともせず、おべぇ~、と水を吐くクマリの姿に、女の子なんだからもう少し淑やかさを身に付けて欲しいというのがアンズの所感。
『どうですか!
私をいじめるとこういう目に遭うのです! ゆめゆめ省みなさい!
……あっ、アンズさん、通訳をお願いします』
「はい、存じていますよ」
ミズハの声はクマリに直接届かないので、アンズを介しての通訳が必要。
アンズも承知しているので、膝まで濡らして海へと踏み込んで、クマリにミズハの言葉を届けに行く。
神様、こんなこと言ってるよ、と。
「おこってもこのていどなら、きっとこの神様はやさしい」
『物分かりの良い子ですね……』
「やんちゃではありますが賢い子なんですよ~」
話のわかる神様と仲良く出来そうな子だ。
子供だから多少の奔放さは仕方ないと目を瞑れば、神様のことをちゃんと見上げているのも確かである。
ミズハを含めて和大国の神様はみんな大人なので、敬意さえ忘れていないのであれば、優しく接するのはなんら吝かではない。
『よーし、それなら私の力でいっちょ遊んであげましょうか!
アンズさん、クマリさんにぷかぷか浮くよう言ってあげて貰えますか?』
「はい、承知致しました。
クマリ~、神様がね――」
ミズハはクマリの頭の上に飛び乗って、神様の力を行使し始める。
服を纏いながらも、クマリがアンズに言われるように仰向けになって浮こうとすれば、ミズハの力でクマリの身体前面が水面上に出るように浮く。
その姿勢さえ保っていれば、水の神様が楽しく振り回してくれる。
「ふおおおお、ながされる~!?
あははは、なんかすごい! かみさまのちから!」
『流れを早くしますよ~。
暴れず流れに身を任せて下さいね~』
「クマリ~、そのままじっとして浮かんでてね~。
そしたら楽しいよ~」
浅瀬の水流を操るミズハが、ぷかりと浮いたクマリの身体を沖の方へと持って行った。
流れを加速させ、彼女の向かう方向を弧に曲げて、自然な海ではあり得ない、くねくね人の身体を海流に乗せて振り回す流れ。
川の真っ直ぐな流れに身を任せるだけでは叶えられない、神様の操る水の流れに勝手に動かして貰う形だ。
人によってはおっかなくも感じるが、神様が意地悪して私を溺れさせたりしないと信頼するクマリは、水面上を振り回されても楽しいだけである。
勝手に動く乗り物に乗って、駆けても叶わぬ速さを体験できるのは楽しい。しかもそれを水面上でなんて、なかなか出来るものではないのだから。
「もっとはやくしてくださ~い!
わたしはだいじょうぶ!」
『いいんでしょうか?
……まあ、溺れたりはしないようにはしますので』
「ふおおおお!?!?」
水しぶきすら上げて、急加速したクマリの身体が沖へと突き進んでいった。
私が陸で全力疾走するより速いんじゃないか、と思う速度を目の当たりにするアンズは多少心配するが、すぐに同じ速度で折り返してこっちに戻ってくる。
びっくりしながらも楽しそうなクマリが、手足をばたばたさせながら笑顔できゃっきゃとはしゃいでいる。
たまにアンズも思うのだが、あの子の無垢さは赤ちゃんのようですらある。
クマリの胸の上にちょこんと座り、行く先を指差して海に命じるかの如く、海流を操りクマリの身体を船にするミズハも楽しそうだ。
目は離さないが、もはや自分が通訳として割って入るのも無粋であろう。
そう考えたアンズは浜に上がり、一度は考えた雲に乗ってそばまで行き見守ろうとした判断を捨て、遠目にクマリ達の姿を眺めるに留めていた。
『ミズハは子供好きだからなぁ』
「テンジン様とは違うんですね」
『クマリことは私も好きだぞ?
勤勉かつ信心深いからな。
しばしば、子供とは思えぬほどだ』
「ね。
あの子、けっこう特別だと思いますよ」
置き去りにされた暇は、テンジン様との語らいで潰せる。
寂しんぼな異国の神様と、妹のように愛しいあの子が、双方今あんなにも楽しそうな姿を肴に、親しい神様と談笑する。
これだけで、いくらでも待てるほどアンズは満足であった。
『アンズさん。
今日は、本当にありがとうございました』
「いいえ、遊びに来ただけですから感謝されるほどのことは無いですよ。
それより、クマリのことを気に入って頂けたみたいで、私はその方がとっても嬉しいです」
『嫌いになるはずなんてありませんよ。
信心を抜きにしても、私はあの子とずっと仲良くしたいです。
あれほど無垢な子はなかなかいませんから』
日も沈み始めた頃、アンズは浜にて沖の方を向いて珍しく胡坐で座り、ミズハ様と帰り間際の会話を嗜んでいた。
真正面から見ると、裾の下の褌が丸見えの座り方で、彼女が本来は断じてやらない座り方だが、今だけは特別だ。
股の前に水を救うような手つきを作り、そこにミズハを座らせている。
正座した膝の上にはお疲れの神様が座る座布団を脚で作りにくいので、正面から誰も覗かない方角を向いてそうしているのである。
どのみち今は春半ばだ。海に泳ぎに遊びに来る者もまだいない時季。
彼方にて漂う船が漁に勤しむ程度にしか、人が寄り付かぬ海だからこそ、浜を独占してクマリを神様と遊ばせてあげることも出来た。
ずぶ濡れで海から帰ってきたクマリは、へくちっとくしゃみをする姿も見せたが、服はアンズがテンジン様の力で乾かしてあげたから風邪も引くまい。
速乾ゆえにそれなりに強い雷撃をクマリにも経験させてしまったが、付き合いの長いクマリはむしろ楽しみがちで、多少痛くても笑っていた。
アンズが自分のためにやってくれることに対しては、不満ひとつ言わず従うほど懐いている。
『……いつ以来でしょうか。
私の実在を信じてくれる子供が、そうだと意識した上で、遊びに来てくれるなんてことは。
この縁を繋いでくれたアンズさんには、感謝しても、しきれ、ません……』
長らく神社への参拝も無く、ずっと孤独だったミズハが、えぐえぐと鼻を鳴らして涙を流す。
昔は数多くの人々に愛されて、彼女を信仰する沢山の人が建水大社を訪れていたはずなのだ。
その中には、ミズハが好きな子供達も多かっただろう。
もはや遥か過去のものでしかなくなり、やがて消える己を諦めていた神に、昔のように子供と戯れられた今日という日は、きっと堪らなかったのだろう。
「不躾をお許し下さい」
慰める意図としてミズハの頭を撫で、神様に対して巫女風情がすることではないですが、と前置きを置いてでも、アンズの手はそうせずにはいられなかった。
元より淑やかで気の強くない上に、長い孤独で心が弱ったこの神様の寂しさは、アンズにとって見過ごすことなど出来ぬ痛々しさなのだ。
そして、頭に触れることが出来たというのも、ミズハがアンズの掌を受け入れた証でもある。不躾だろうが無礼とは認められていない。
「必ず、また来ますよ。
クマリも連れてです。
その時は、今日とはまた違う形であの子を楽しませて頂ければ、私もとても嬉しく存じます」
『ふふ……っ。
はいっ、また新しい催しを考えておきます。
将来のことが楽しみになるなんて、いつ以来でしょうか……』
涙を拭い、アンズを見上げて微笑むミズハは、次にクマリがこの地を訪れる日々を待つ楽しみに溢れている。
未来に希望が抱けるならばそこに絶望は無い。ミズハも、アンズがそれを促してくれていることをわかっている。だから先の話をするのだろうと。
直接的にその想いに礼を言わぬ趣こそ含めつつ、神を案じる僭越を言葉に垣間見せるアンズに、それが嬉しいのだという想いをミズハも伝えている。
少し畏れ多そうな笑顔を気まずげに浮かべるアンズだが、つまり彼女にもそれは伝わっているはずだ。
『……それにしてもクマリちゃん、凄いですね。
あの子、もしかしたら本当の傑物になるかもしれませんよ』
「ええ、私もそう思ってます。
ちょっと暴れん坊ですが、その心根は…………えっ!? すごっ!?」
ミズハとこうしてお話する間、クマリには浜で好きに遊んでいるように言っていたのだが。
近い場所で浜の砂で遊んでいたクマリが、まあまあ凄いものを作り上げている。
大好きなアンズお姉ちゃんの砂の像が出来上がりかけているではないか。
しかも立ち姿から振り返り気味という、なかなか凝った姿勢を作り上げている上に、独特な巫女服の形が細かい凹凸まで精巧。
振り返ってそれを見たアンズが、一発でそれが自分の砂像だとわかったのだから、相当上手く出来ている証拠である。
「みつかった!
できあがってから見てほしかったのに!」
「こ、これは凄いね……
クマリ、木彫りで何か作ったら凄いのが作れるんじゃないの……?」
『これ、形を崩さずに持って帰れたら売れますよ、多分……
こんなに人の形を精巧に作れるのは確実に才能の賜物ですよ……』
『はっはっは、私の像でも作らせてみたいな、この子に。
きっと信仰を集める良い見世物になるぞ』
アンズとミズハはただただ驚愕、テンジンも冗談交じりの口ながらその才を讃える言葉の選び方。
振り返って自分を待ってくれるアンズお姉ちゃんの姿を、何度も見てきたクマリだから、アンズの像を作るならこんな形になったのだろう。
しかし、脳裏に描いた大好きな人の姿を、ここまではっきり形に出来るものか?
何が一番凄いかって、身体をひねって後ろを向く女性の、腰と尻の形の均整と、腋のへこみ方までアンズ本人のそれそのものなのが、写実的過ぎて凄まじい。
正確な想像力、それをこの世に形作る指先、いずれをも高い水準で併せ持たねば、思い描いたものをここまでこの世に実像化させることは叶うまい。
「もうおしまい」
「ええっ!?!?」
「このていどではまんぞくできない。
はずかしいからみないで」
クマリはあれほど精巧に出来た砂の像を、なんの躊躇もなく平手で叩き潰した。
満足のいかないものは人目に晒すのも嫌か。職人肌気質なのか。
この子の拘りはアンズにも時々わからない。わからない時は本当にまったくわからない。
「それよりお姉ちゃん! 神様にありがとうってつたえて!
この貝殻、とってもきれい!」
「それ、そんなに気に入ったの?」
「うん! こんなの村にはないもん!
ずっとだいじにする!」
海でミズハ様に遊んで貰って、浜に上がってアンズに服を乾かして貰った後。
通訳のアンズを介して、ミズハは浜辺での遊び方を教えてくれた。
潮干狩りとでも言えることだが、浜に流れ着いた面白いものを探す遊び。
これは地元の川で、珍しい形の石を探す遊びをしていたクマリにとっても、教えて貰ってすぐに馴染めた遊びである。
初めて訪れた砂浜でどんな宝物を見つけられるか、それだけで心躍らせられる子供心は、きっとミズハの目にも可愛く映っただろう。
そんなミズハの口添えもあって、広い砂浜の中からクマリが探し当てた、艶があって複数色に彩られた小さな二枚貝の片割れ。
虹色と言うには大袈裟だが、貝など黒い田螺ぐらいしか見たことのないクマリの目に、それは宝石のようにさえ映ったのだろう。
目を輝かせてそれを両手で持ち、すごいすごい、きれいきれいと喜ぶクマリの姿を、ミズハはただただ目を細めて眺めていた。
たからもの、と宣言したとおり、持って帰り、ずっと大事にすると今なお言うクマリの表情が、ミズハにとっては水平線に沈みかけた陽よりも眩しい。
「かみさまとであえてよかった!
またぜったいくる!
こんどは、わたしもおみやげもってくる!」
『………………アンズ、さぁん……』
「いつでも来てね、って言って下さってるよ。
また来ようね、クマリ」
「うん、ぜったい!
かみさまとのやくそく!」
無垢な子供は言葉を選ばない。だから、すべてが真っすぐだ。
その手で顔を覆い、言葉に出来ない想いをアンズの名を呼ぶばかりで表すのが精一杯のミズハに、アンズもまた偽りも誇張も無い代弁を果たせている。
神の心、人の子知らず。それは神様に嘆かわしき日もあろう。
今のミズハには、溢れる涙をこの純真な子供に見られることなく、気を遣わせずに済むことすら運命のいたずらとして有難くさえある。
子供の笑顔は、日の光に照らされた朝昼も、月明りでかろうじて見える夜でも、決して色褪せることもなければ光に劣ることもない。
そんなものを、灯りありながら眩しさという邪魔者も無き、この夕頃にはっきりと目の当たりに出来たこともまた、ミズハにとっての最大の幸福。
慕ってくれたり、信仰してくれるからではない。只々、人のことが大好きな神様であるミズハが、ずっと間近で見たかったもの。
幸せな笑顔で笑うひと。そして、ずっと諦めていた、自分の言葉や力によって、そんな顔をさせてあげられたこと。
誰かを笑顔にさせられることで己も幸せになれるのが人間の最大の美点であり、神様もまたそうだから。
神様を敬う理由なんてものを探すとしたら、きっとそれだけで充分なのだ。
見放されても、信じて貰えなくても、人の世を支え続けてくれている神様は、ずっと実在し続けている。
アンズが、ずっとそう信じ続けてきたことだ。
儘ならぬこの世界で、私が信じ続けてきたことは間違いではなかったと、アンズは今一度その胸に強く刻むのだった。
二人はその後、ミズハと別れ、ソウサイの紹介してくれる宿へと導かれていった。
ソウサイも話がわかる商売人であり、贅沢を好む二人の懐事情を理解した上で、過剰に高級な宿を紹介したりはしない。
しかし、良い宿だった。
やはり豪商ソウサイが紹介してくれる宿というのは、細かい所で配慮が行き届いているものだと、アンズもつくづく感じたものである。
摂泉湾に接する摂泉村は、海に流れ込む数々の川が何本も横断しており、村一つに架かる橋の数の多さも特色の一つである。
海からやや離れ、河べりに築かれた宿というのは、摂泉村を訪れた来客にはありがたい強みがある。
それは水の供給源が近いゆえ、客に望まれれば水あるいは湯を提供しやすいという点だ。
それの何がありがたいかと言うと、慣れぬ者は潮風を身に浴びるとその粘り付き具合が気持ち悪く、寝る前に肌を拭いたくなるからである。
大河に近い宿に泊まれるというのは、アンズにとっては快眠のために必須の条件だったと言える。
潮風どころか二人とも海水を浴び、それが渇いた肌はべとつく。内陸に生き、海水に慣れぬ層には、このまま寝るにはそわそわする。
しかし、宿に湯を用意して貰えるなら、それで拭けばさっぱりとした身体で床に着ける。
加えて寝間着の襦袢を借りられるなら、川まで海水に濡れて乾いた服を洗濯しに行けば、明日の朝もさっぱりとした気分で宿を出発できる。
水源が近い宿が持つ利点は、快適な睡眠に一役も二役も買ってくれるのだ。
裏手すぐの場所に河川がある、小さくてお手頃価格の宿を紹介して貰えた時点で、やっぱりソウサイさんはわかってるなぁとアンズは感じたものである。
二人で体を拭き合って、川へ洗濯に赴いて、同居する家族のような夜を過ごせただけでも、アンズとクマリにはとても楽しかった。
綺麗になった身体で、翌朝も綺麗な服を着て出かけられることを確約させ、二人で一枚の布団で眠る。
身を寄せ合って共に寝る機会も、住まう場所が隣村同士の二人には、普段は叶えられない至福の時。
アンズもクマリも、摂泉村の初夜は幸せいっぱいの気持ちで眠りにつき、朝の目覚めも最高だった。
あまりに気持ちの良い朝に、アンズは窓から見える朝日に向かって、ソウサイへの感謝の想いを向けて手を合わせるのだった。
手を合わせて祈るのは、主神に対してのみに限ってこそ結構ではございませんかね。
神職者は、感謝の想いを手を合わせて頭を下げることで表す習慣が根付いているのだろうか。
「おかいもの、いかないの?」
「うん、ちょっと待ってね。
待ち合わせがあるから」
さて、摂泉村で迎える初めての朝。
アンズはクマリと手を繋ぎ、泊まった宿の前から動こうとしない。
実は昨夕、ソウサイに宿を紹介して貰った際、朝が来たら宿の前で待っていなと進言を賜っている。
なんでも、気立てが良く話もわかる商人がいて、摂泉村巡りに際しての案内人には最適の人物がいるから、それを向かわせるとのこと。
アンズもそれに甘える形で、クマリを逃がさないよう手を握っている。
「しりあい?」
「知り合いかどうかはわかんないけど……多分、知り合いだね。
もしかしたら、クマリも知ってる人かもね?」
「わたしの?
こころあたり、あるわけない」
「どうかな~」
訊かれてそう答えるアンズだが、誰が来るかは実は想像がついている。
紹介される際、そいつは禿げ頭だよというわっかりやすい特徴を聞いたから、摂泉の商人でそれならあの人だろうとは思えたのだ。
確定ではないからクマリには曖昧に応えているが、アンズの中では確信に近いものがある。
初対面で話がわかる相手というのは、さしものソウサイでもあれほど自信満々に言い切らないであろうから、知己だろうとは思うのだ。
「あっ、来たよ。
やっぱりあの人だった」
「やあやあ、御機嫌よう。
アンズさん、クマリちゃん」
「なぬっ!?」
ほらやっぱり。
まあまあの頻度で山波村にも訪れてくれる、摂泉の豪商として名高い人物。
今日も手ぬぐいで頭を隠してはいるが、その下はつるっぱげで、ちょうどいい頃合いにその禿げ頭を見せて笑いを取ろうとするのが常套手段のおじさん。
相変わらず自分達よりも遥かに年上なのが明らかなのに、目尻の落ちた微笑み顔が人懐っこく、可愛らしいおじさまだなとアンズも改めて思う。
「お姉ちゃんっ! こいつころして! さいあくのてき!」
アンズも心許している人物、カムロが近付いてくることに気付くや否や、クマリはアンズの後ろに隠れて物騒な大声。
しかし、無理もない。大きな事件があった相手だ。
カムロはそんなクマリの反応に、思わず足を止めて驚いているが、誤解を解くのはアンズの仕事である。
「待って待って、落ち着いて、クマリ。
カムロさんは悪い人じゃないよ、あなたが知ってるとおり、優しいおじさんだよ」
「それはこないだくつがえった!
わたしとおねえちゃんをうらぎった、さいていさいあくのげすやろう!」
「な、何があったんです?
私め、クマリさんに嫌われるようなこと致しましたか?
劣情に満ちた目で眺めていたことがとうとうばれましたか?」
「カムロさん、冗談でも気持ち悪すぎますよ」
「しょぼん……」
クマリの敵対的な睨みっぷりに戸惑いながらも、悪い冗談口を叩き、アンズの突っ込みにしょんぼりする反応を見せる辺りカムロも余裕がある。
とはいえ、クマリにこれほど忌み嫌われることに対し、心当たりが無くて戸惑っているのは本心のご様子。
クマリとカムロの間にある認識の違いと根拠を知るアンズは、なんとかこの空気を解きほぐしたい。
「クマリ、聞いて。
あの時、私達を傷つけたのは、カムロさんじゃないんだよ。
たまたま声が似てただけの、別の悪者だから」
「うそだっ!
おねえちゃんもだまされてる!
かみさまをしんじすぎて、だまされやすくなってる!」
「ひどい言い草だ……」
先月、アンズはカムロと同じ声をした、全身黒装束の人物にクマリを人質に取られ、窮地に陥った。
クマリにとっても、カムロの声をした黒装束の男に、アンズお姉ちゃんを殺されてしまう恐怖に恐ろしくなった夜の話だ。
クマリがカムロを敵視するのは当然である。
しかし、後日のこと。
アンズが桑原村を訪ねて聞き込みを行ったところ、アンズが死ぬほど頑張ったあの夜の翌朝、カムロは元気な身体で泊まった宿を出発して帰ったという。
あの日、黒装束の男はアンズの雷撃やコナツの強烈な打撃を受け、一日で治るはずがない大きな怪我を負ったはずである。
痩せ我慢にも限界があるはずで、足を引きずるでもなく、腕を押さえるでもなく、脂汗ひとつ流すことなく、道行く村人らにご挨拶の手を振って。
誰一人としてカムロにそんな気配を感じたこともなかった証言を集めれば、アンズもカムロがあの悪党と同一だとは思えなくなっていた。
そもそも、あの黒装束がカムロであると推察できる要素は、同じ声をしていて体格も似ていたということだけなのだ。
黒装束に隠された顔を見ているわけでも無い以上、現時点ではあれがカムロだと断定する要素よりも、否定材料の方が遥かに強くなった。
今のところ、あの黒装束の男はカムロではないと、アンズは結論付けている。
それを今ここでクマリに説くのだが、子供はそう簡単に納得しない。
猜疑心いっぱいの目でカムロを睨みつけるクマリは、誰よりも信頼するお姉ちゃんの話を聞いてなお納得できぬほど、カムロのことは信じ難い。
「ひとこといっておく。
おねえちゃんはだませても、わたしはだませない。
いつか、ばけのかわをはいでやる」
「う、うむむぅ……どうしてこうも嫌われておるのですかな?
心当たりはありますが……商人、綺麗な話だけでは生きてはいけませぬし……」
「いや、関係ないと思いますよ。
この子、特殊な経験をしてカムロさんのことを誤解してるだけですから」
「きさま、とぼけたかおをするな。
おまえがおねえちゃんになにをしたのか、むねにてをあててきいてみろ」
「ねえクマリ、さっきからそんな言葉遣い、どこで覚えてきてるの?」
「う~む、わかりませんなぁ……
劣情を抱いた目というのはあくまで冗談ですし……
私は、お二人のことを裏切るようなことはしたことがありませんし、今後も決してそんなことはありませんよ?」
「はげてて、ぼけてて、おわってる」
「なんちゅうこと言うのよあんた」
ぷっくぅ~と頬を膨らましてカムロをひときわ強く睨みつけると、クマリはアンズの後ろに全身を隠してしまった。
相当失礼なことを仰っているが、基本的にクマリは大人相手に進んで無礼ははたらかないので、よほど敵視しているからとしか言いようがない。
カムロが苦笑いで済ませてくれる大人でよかった。アンズは気まずい顔で会釈し、クマリの代わりに言葉無く謝っておく。
摂泉村の豪商であるカムロは、土産を探したいアンズ達にとっては案内人に最適だ。
見識は勿論のこと、知らぬ顔同士じゃないから話しやすくもある。
それを踏まえて彼を紹介してくれたソウサイは上々であり、クマリの誤解によるこの気まずい空気まで予想して面倒を見きれはしまい。
どんな腕の立つ大商人でも、読みようのないことは多々あるということだ。
「むむむ、とりあえず出発致しましょう。
少し気まずいですが、御機嫌も取らせて貰いますので」
「こーら、クマリ?
いつまでもひっついてないで、さあ行くよ?」
「おねえちゃんはわたしがまもる。
せんのうをといてやる」
「本当、どこでそんな言葉覚えてきてんだろう……」
横並びに歩き始めたアンズとカムロ、クマリはその両者の間に割って入ってでも、アンズと手を繋いで首をぐいぐい振る。
ちょっとはなれろ、とカムロを威嚇している。
苦笑しながら一歩ぶん離れて歩いてくれるカムロに、アンズは改めて申し訳なさげにぺこりと頭を下げるのであった。




