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あんずの神様 ~山波雷神幻想譚~  作者: ざくろべぇ
第参章  摂泉国で大わらわ
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第四七話   ~建水大社~



「美味しかったねぇ、クマリ」

「おさかなって、焼かずにたべてもおいしんだねぇ……」

「私もびっくりしてるよ。

 地元じゃ真似できないけど、あれ食べるためだけにまたこの国に来たいかも」


 ソウサイと共に彼女の弟子の一人である壮年の料理人が構えた料理店に赴いたアンズだが、今までに食べたことのない料理への衝撃は忘れられない。

 クマリも同様である。びっくりした。

 川魚を焼いて食べる習慣はアンズもクマリもあるのだが、海鮮魚を捌いた赤身を、火も通さずに食べたのは二人とも生まれて初めてである。


 火を通していない生ものを食すのは、ひどくお腹を壊す原因になるというのは子供でも知る話であり、赤身魚を出された二人はなかなか箸が伸びなかった。

 しかし、食べ方として指南されたとおり、小皿の醤油を付けて口に運んだ咀嚼するや否や、旨さを知る以前に衝撃的な経験が一つも二つもあった。

 ほんの少し前まで生きていた鮮魚に生臭さは無かったこと。

 赤身に浮いた脂が口の中で蕩け、噛まずして呑めそうなほど柔らかかった食感。

 ソウサイに、いいのを頼むぞと言われた料理人が、女将さんも召し上がるのであればと惜しみなく最高の部位を選んだことも一因ではあろう。

 質素な食生活に慣れた二人にとって、数百年後も高級食材として通用するであろう(まぐろ)の腹身は、あまりに衝撃的な経験を齎したと断じられる。

 そもそもその食材そのものが、摂泉湾でも獲れるのが珍しいものであるため、ソウサイほどの相手でなければこの料理人も惜しんで出さなかったほどの逸品だ。


 魚介類の生食は古くから食あたりを幾度も引き起こしており、数ある食あたりの中でも激烈に苦しく、人死ににまで及ぶことすら珍しくない。

 よって魚の生食なんてのは流行らないし、アンズとクマリが今回口に出来たのも、ソウサイの口添えあっての秘密の逸品なのだ。

 自分の出した料理でソウサイが腹でも壊そうものなら死活問題の料理人が、自信を持って安全な生魚を出してきたのだから、腕が確かな料理人である。

 それほど自負と信頼ある料理人が、その旨さを知っている身内にのみ出す珍味に過ぎないのだ。

 盆暗が軽はずみに手を出せば、客に致命的な食あたりを起こさせて廃業まっしぐらの生魚など、向こう数百年流行ることはあるまい。

 そんな珍味に安全に触れられたアンズとクマリは、この時代にあってなかなかの幸せ者である。


「ねえクマリ、絶対地元でお魚を生で食べちゃ駄目だよ?

 美味しかったのは今回だけだよ?

 ちゃんとした料理人の人がやってくれたから美味しくて安全だっただけだからね?」

「わかってる。

 むかし焼くのがめんどくさくてかじったら、にがくてはいた」

「あぁ~、吐いてよかったね。

 そういう素直な反応はどんどん出していこう。

 吐きたくなるようなものは基本的に毒だから」


 正直なところ、先ほど頂いた生魚の赤身が、大衆的に美味なのかアンズもクマリもよくわからない。

 美味しいとは思った上で、あまりにも未経験過ぎたので、分類的には珍味だろう。

 ただ、またいつか食べたいとも思った。その感情を客観的に見れば、美味であったと定義できるのだろう。

 二人の頭はそこまで追いつかない。それほど、今は心に残った衝撃度が強く、それ以上のことは考えられないのだ。

 アンズとしては、あの経験の反復を望んだクマリが、地元で軽はずみな行動をしないように念を押しておくのが最も重要である。

 杞憂だったようだが。知らないところで既に危ないことをやっていたようで、クマリもとっくに学習済みのようだ。


「お姉ちゃん、こんどはどこいくの?

 おかいもの?」

「ううん、今日は絶対に行っておきたい場所があってね。

 クマリはつまんないかもしれないけど、私にとっては大事な場所」

「お姉ちゃんにとってだいじだったらわたしもいく!」

「うんうん、可愛いねぇ~、クマリは」


 昼の腹ごしらえを終え、アンズが向かうのは市場ではない。

 元よりソウサイに連れられて、鮮魚が集う海の見える村の西部に足を踏み入れていたが、アンズの足はさらに南寄りの西へと向かっている。

 すなわち、海に向かってだ。

 海そのものを臨む景色も良いものだが、摂泉村の海に面した場所に、この国を訪れればアンズが必ず立ち寄る場所がある。

 神職者として、ここへ寄らずに帰ることだけはあり得ない。


「海の神様がいる神社なんだ。

 クマリも一緒に手を合わせてね?」

「おさいせんする!」

「あはは、いい心がけだね」


 自分の都合で他国の神社を訪れるアンズからすると、子供のクマリをそれに付き合わせるのは退屈させる懸念もあったが、存外そうでもないらしい。

 大好きなお姉ちゃんが神職者である。クマリも神様のことは信じている。

 流石に、衰えた現代のテンジン様の姿を目に出来るほどの信仰心はまだ育っていないが、無邪気ながらにアンズの想いを肯定するほどには信心があるようだ。


 大事なお小遣いを投げ過ぎないようにね、と諫められながらではあるが、クマリもアンズの目的地である神社へ向かう足取りが軽くなっていた。目に見えてだ。

 つくづく、可愛い妹のような子だと思う。

 懐いてくれているだけでも嬉しいが、神に仕える身として、その心根を無垢に肯定してくれる誰かの存在は、近年孤独な巫女として救いですらある。

 いつだって可愛がってくれるお姉ちゃんのことが大好きなクマリだが、アンズも同じぐらい、この子にいつも沢山のものを貰っている。


 独りではない幸せ。

 自覚できるほどであるなら本当に幸福だ。






 建水大社(たけみたいしゃ)

 海に面し、港と海産物の恵みを賜る摂泉国において、極めて重要な存在感を持つはずの(・・・)神社である。

 海とは実に気まぐれで、人類に多くの恩恵をもたらすと同時に、荒々しくある日は災いすらもたらす大いなる存在。

 神とさえ例えて遜色無いほどに、人智では到底治められようもないものとして、それに日々触れる者達には畏れ敬われてきりが無い。

 実際のところ、どれだけ治水の技術が発展しようと、人類が海そのものを完全なる支配下に置くことは、未来永劫叶うまい。

 海とは、それほど偉大であり、ありがたくもあり、どうしようもないものである。


 だから人類が、海というものにはそれを司る神様がいるという概念を得て崇めた歴史は、極めて古い時代より長く続いている。

 海に面する摂泉国ゆえ、当然その例にも漏れず、千年以上も前から海の神様を奉ってきた歴史がある。

 そんな海の神様を祀るのが、摂泉村の建水大社だ。

 摂泉国は海へと続く河川も多く、建水大社で祀られる神様は、近年においては海の神様という以上に、水の神様といっそう広く偉大めに解釈されし存在だ。

 川とも海とも近く、治水と切り離せぬ摂泉国において、建水大社の神様というのは忘れられてはならぬほどの存在に違いなきはず(・・)である。




 大社と言うからには大きくて、遠くからでも見えそうな響きである。

 山波神社を知っているクマリだから、近付いてくればわかるだろうと思っていた。

 だが、海がいよいよ近付いてきても、神社らしきものは未だ見えず。


 そしてアンズが、ここが建水大社だよとクマリに告げた場所で、明るく元気なクマリが口をぽかんとする。


「ぶんしゃ?」

「分社なんて言葉もう知ってるんだね。

 でもここ本社だよ」

「かみさまのおはか?」

「なんちゅうこと言うのよあんた」


 クマリのあんまりな形容にアンズも待ったをかけたくなるが、初見でその感想も致し方ないものとも思う。

 摂泉湾を見据える方向に建てられた本殿は、元より控えめな大きさではあった。

 それでも広い境内と立派な鳥居さえあれば、大社と名乗って充分に格好は付くのである。


 今の建水大社には、この控えめな大きさの本殿しか無い。

 どこからどこまでが境内かがわかるしるしも無い。鳥居すら無い。

 そして何より今の建水大社には、ここに祀られた神様に仕える宮司や巫女をはじめとした神職者が一人もいない。

 潮風に晒されて朽ちる一方の本殿は誰にも手入れをされず、ぼろぼろで黒ずんだ小汚い木造の本殿が、寂しく古くからの場所に佇むのみである。


 とうに神様もいなくなった廃墟とでも言い表したかのような、墓というクマリの湾曲的な言い草は、アンズも否定しながら否定しきれずにいる。

 子供が素直な想いで発した言葉は、しばしば的の真ん中をぶち抜くから困る。


「ほら、お参りするよ。

 お賽銭は無理しなくていいから」

「きちゃない」

「もうやめてあげて……」


 小さな賽銭箱をお膝元に置く、建水大社の小さな小さな本殿に、アンズはクマリの手を引いて歩み寄る。

 あんまりきついことを言ってあげないで欲しいのだ。

 何せクマリの目には映っていないであろうが、アンズの目にははっきり見える"神様"の耳に、クマリの辛辣な言葉が届いたら相当お傷付きになられてしまう。


 賽銭箱に背中を預け、ぺたん座りした小さな神様。

 アンズの頭上に座るテンジン様と同様に、すっかり信仰を失った小さき御尊様である。

 十二単の如く何重にも、透ける水を纏うような色合いのお召し物を纏う神様は、透明何層もの服によって裸体は晒さない。

 傍目からは水色の服を身に纏うようにしか見えないが、近付いてみれば神秘的なお召し物だとも感じられるはずだ。


 もっとも、お顔がひどいのだが。

 真顔であれば可愛らしい女神様の御顔立ちなのに、信仰という名の希望をすっかり失って、ぽかん空けした口で虚ろに空を見上げている。よだれ、よだれ。

 笑顔が素敵な方だと、面識あって知っているアンズをして、そのだらしない姿も痛々しくすら感じるというものだ。


「"ミズハ"さま。

 ご無沙汰しております」

『……………………ぉぇぁ?』


 アンズが何者の姿も無い賽銭箱に向かって話しかけるが、クマリはお姉ちゃんの行動として不審に思わない。

 クマリは神様の実在を信じている。それにお姉ちゃんが話しかけているのだろうと、ちゃんと心から信じられる。

 名を呼ばれた神様の発した、呆け倒したみっともない声はアンズの耳にしか届かぬが、クマリに聞こえずむしろ良かったとしか言いようがない。

 こんな声を第一印象として聞かされたら、神の威厳なんてあったもんじゃない。


「お久しぶりです、山波神社のアンズです。

 天満雷真道天神さまも、御一緒ですよ」

『お疲れだな、ミズハ。

 今なお人々への献身を忘れぬそなたの姿、神として私も感銘の至りだよ』


『…………………………あんず!?』


 ミズハと呼ばれた小さな神は、脳裏を貫いた名を認識するや否や、天を仰いで呆けた面をがばりと真正面の巫女へ向ける。

 口を拭うのも早い。本当に? 嘘じゃないよね? と、なんだか照れくさそうに頬をかくアンズを凝視して現実を確かめる。

 そうして、本当にアンズが目の前にいることを確信するや否や、その目にうるうると涙が溜まっていく。


『あ、アンズさぁ~~~~~ん……!

 さみしかっ……さみしかったですよぉ~……っ!』


「わぷぷっ!?

 あははは……そんなに喜んで下さるなんて、私も嬉しいですよ」

『人の目も今だけは顧みないでやってくれ。

 寂しい神として、ミズハの気持ちは私もよくわかるんだ』

(ええ、存じています。

 クマリにどう思われようが関係ありません)


 ミズハはアンズの胸元に飛び込んできて、襟にしがみついてぐずついた泣き顔で、アンズの顔を見上げてくる。

 ちゃんとアンズはそんなミズハを、下から手を添え受け入れる。

 神様を視認できず声も聞けぬ立場から見れば、何も無い場所に手を添えて、独り言を発している姿に相違あるまい。

 傍目からは奇行とも取れようその行為、仮にクマリに白い目で見られても、アンズは一切気にしない。

 私が周りにどう思われるかなど、半ば人の世に捨てられた本殿にて長く孤独であられた、このお方に尽くすべき本懐に比べれば些事極まりない。


 他人事じゃないのだ。本当に、我が身のことのようですらある。

 神様への信仰が薄れた今の世で、すっかり偉大な姿を顕すことも出来なくなったテンジン様のおいたわしさと、毎日触れ合うアンズなのだから。

 しかも建水大社の神様は、テンジン様と違って頼れる神職者もいない。

 斯様な神様を前にして、保身で前例の献身を怠るようでは、神に仕えし巫女の風上にも置けぬとアンズは断言する。


 和大国は、八百万の神おわす大陸だ。

 己が最も崇める神様のみ奉り、それ以外の神を知らんぷりなどあり得ない。






 海に近しい摂泉国で、かつて最も崇められた、水の女神様ミズハ。

 旧知のテンジン曰く、昔からどこか気弱で自信なさげなところはあったものの、神としての責務には極めて献身的な、まさに神様の鑑と評するに値したという。

 現に今とて、なけなしの信仰によりこの世に現存する中、限られた力で海を治め、ここ何十年も水難により摂泉国が大きな災いに呑まれた記録も無い。

 アンズに声をかけられる直前まで、あれほど力無く崩れ落ちていたのだって、人知れず力を尽くしてお疲れであるせいなのだ。

 百歩走るのも難しいほど弱った身体で千歩走るにも等しく、雀の涙のような神力を振り絞って、未だ摂泉湾が暴れぬよう治める神様。

 信心を向けぬ人々に見捨てられれば、もはや諦観により世を静かに去る神様も多い中、今なお人の世に身を捧ぐミズハの甲斐甲斐しさは特筆されるべきである。


 ただ、それでも長い時の中で蓄積された知識と経験により、農業や治水により独り立ちして生存を叶え始めた人類に、それは伝わりにくくなりつつあった。

 とりわけ、百年と十数年前、一度摂泉国を襲った台風により、国全体が甚大な被害を被ったことがあったのは致命的だった。

 ミズハも水の神として、風雨と波が人々の命を奪う災いを、全身全霊で抑え込みはしたのだ。

 神様も万能ではない。ミズハの尽力により救われた人命は間違いなく星の数ほどあったのだが、やはり犠牲者も、天災の爪痕も、人々の心に深い傷を刻んだ。


 決して愚かとは断じられないが、人は知れず守られた大切なものへの感謝よりも、喪ったものへの悲しみが勝ってしまう。

 思えばあれが、水の女神ミズハへの信心が人々から離れた分水嶺でもあったのだろう。

 神様は、一番大切なものを私達から守り抜いてはくれない。

 とうに人類が蓄積した叡智により、神々から独り立ちして生きていく道を歩み始めていた摂泉国の民に、ミズハが見限られるには充分だったのかもしれない。

 大災害により建水大社の鳥居が折れた姿を見て、我が家も守れぬ神が人の世を守り治められるかと口にした人民の発言は、まさに時代の変わり目の象徴だった。

 かつては敬う存在でしかなかった神様を、人間の価値観で、まるで人をなじるように批判する姿こそ、神への認識が変わった人の世の歴史的分岐点に違いない。


 時をかけて、建水大社は人々から見放されていった。

 災害により荒れ果てた摂泉村をはじめとする数々の人里の復興に皆が必死で、神社の復興が後回しだったこともまたそれを象徴する。

 信心が強い時代であれば、それでも神社の復興を急がれて、一日でも早い救いをと人々が強く祈るのだから。

 そうはならなかったことが、人の世にとっての正解であったのか過ちであったのかは、今となってはもうわからない。

 粉骨砕身の人々の手により、一日でも早く蘇った摂泉村は、今や和大国の西において最大の港村として、かつて以上の栄華を誇る。

 それこそ、あれほどの災害に晒されながらも、あんなに早く蘇ったその逞しさに対し、かつて以上の敬意を集めることで繁栄へと繋げて今に至るのだ。


 人類の手によって人類が栄える時代は、人類にとって理想的なのだろう。

 そうして上手く回っているうちは、何者がそれに異を唱えようと、それが現代にとっての正解なのだから。

 今は只、かつては人の世を支えて下さると信じられていた偉大な神もが、朽ちた小屋に淋しく座り祈る日々が続くのみである。


『アンズさん』

「はい」

『……アンズさん?』

「はい」

『え、えへへへ……アンズさん……』

「はい、アンズですよ。

 今でもあなたを敬い申し上げる、山波神社の巫女アンズです」


 賽銭箱の上にちょこんと座るミズハ。

 その前に正座し、目線の高さをミズハに近付けるアンズ。

 神様を見下ろすことなどしない。荒れた地面の砂利が膝に刺さろうが、アンズは意にも介さない。

 そうして神様を立ててくれるアンズのことが、ミズハにとっては嬉しくて嬉しくて、名前を呼んで返事を貰えるだけでも心の底からたまらない。

 頬に両手を当て、世界一おいしいものを食べたかのように身をくねらせ、信心を受けて満たされる幸せを堪能するミズハを見ればアンズも嬉しい。

 長年誰からも信心らしき信心を、こうして間近に受け取る機会も稀であられることを思えば、今だけでも目いっぱい心を捧げたくもなるというものだ。


『テンジン様、御無沙汰しております。

 存命のうちに再びお会い出来たこと、この上なく幸福な思い出として眠りにつくことが出来そうです』

『こらこら、明日死ぬかのような挨拶はやめよ。

 お前はここのところ、卑屈さが目立ち過ぎるぞ』

『いいんです、私なんか……

 あんなに人々に尽くしてきたのに見放されてしまうぐらいなのですから、私はもはやいらない子なのです……』

「み、ミズハさま~、そんなことないですよ?

 私もテンジン様も、あなたのことは大好きなんですからね?」


 しかし、まともに喋り出すとなかなかの陰鬱(だうなー)ぶりを発揮するミズハ。

 座り込んだ賽銭箱の隙間に指を突っ込んで、いじいじしながらぼそぼそ遠い目で呟くような語り口。おお卑屈卑屈。

 昔から威厳を振り撒くような性格ではなかったが、今やその逆方向に振り切って、我木っ端也を地で行く自己肯定感の無さっぷりである。


『……そちらの方は?

 初めてお会いしますが、アンズさんのご家族さんですか?』

「はい、血の繋がりは無いけれど私の妹のような子です。

 クマリ、っていう子なんですよ。可愛いでしょ?」

『えぇ、なんて可愛らしく純真無垢な瞳……

 その目に、私の姿は映っていませんが……』

「ああっ、神様の聡明さが仇に!?

 気付いちゃいけないことにばかり気付いちゃ駄目ですよ!?」


 流石に神様なので目聡く、賢く、頭の回転も速い。

 不幸なのは後ろ向き思考極まって、自ら落ち込むような事実にばかり真っ先に気付いてしまう点。

 心理状態がこうまで落ち込むと、人間の場合でも良くない。負の螺旋に陥る。

 会ってすぐは凄く喜んでくれるミズハだが、間もなくこうして何を言っても駄目な状態になってしまうので、アンズも励ますのには毎度一苦労である。


『いや……しかし、どうなんだろうな?

 随分とおとなしいようだが』

「そういえばそうですね。

 ――クマリ?」


 自分にだけ見えて話せる、テンジンとミズハとお喋りに専念するアンズだが、ふとテンジンに指摘されてクマリの方を見る。

 ほったらかしにされて退屈していないかと心配ではあったが、意外にも静かで――まあ、それ自体はお利口さんだと褒めるに留まる程度である。

 どうも目を細めて、賽銭箱の上のものをじーっと一生懸命見つめているふしがある。

 横から見ても、クマリの目線は、彼女の目には見えないはずの、神様ミズハのいる位置に向いているように見えてならないのだが。


「……お姉ちゃん。

 ここ、なにかいる?」

『!?』

『!?』

「なにぬねっ!?!?!?」


 完全に、確信を持って、クマリはミズハのいる位置を指差してそう言った。

 凝らして見ようとする目の細さが、それをいっそう裏付ける証拠だ。

 アンズは素っ頓狂な声を出してまで仰天しているが、これはミズハはおろか、テンジンですら目を見開いて驚くほどのことだ。


『……いえ、きっと何かの間違いですね。

 どうせ私じゃなく、向こう側のなめくじを私と見間違えて……

 ああ、そういえば私、じめじめしててなめくじみたい……』


「く、クマリ?

 どんなものが見えてるの?」

「え~っと……もやっとしてるけど、あさぎいろ?

 小さくて、おさいせんばこの上に、ちょこんと座ってるようなかたち……」


『私だあああぁぁぁぁぁ!!!!!

 みえてる!! この子みえてる!!

 私のことが見えてるううぅぅぅ!!!!!』


 クマリがミズハのお召し物の色を言い当てるや否や、がばっと顔を上げて絶叫したミズハがクマリに飛びついた。

 突然かつあまりにでかい声だったのでアンズもびくっとしたほどだが、その声まではクマリに聞こえていない様子。


「んわっ!? はちっ!?」

『はわっ、べちゃっ!?』


 完全には目視できない小さな神様に、顔にぺちょっと貼り付かれたことで、思わずクマリはそれをはたき落とした。

 蜂でも顔に付いたのかと思ったらしい。

 叩き落とされたミズハは大の字で地面に叩きつけられた。なめくじみたい。


『神をしばき落とすとは大物よな。

 しかし私のことは未だ見えておらぬように感じるが』

「テンジン様この状況を呑み込むのがお早いですね。

 私まだびっくりしてますよ。心臓どきどきしてる」


 アンズは鼻をさするクマリの肩を持ち、自分の方を向かせる。


「ここには何が見える?」

「きれいなかみのけ」

「はい、ありがとう」


 テンジンのいる場所を指差して一応確かめてみたところ、やっぱりアンズの頭の上におわすテンジン様のことは見えていないクマリ。

 クマリ目線、親しみ深いアンズの信じる神様(テンジン)に対する信仰の方が、他国の神様(ミズハ)に対するそれよりも余程に強そうなものなのだが。

 その上でミズハの姿だけ、朧気ながらも認知できるというのはかなりの不思議である。


(そういえばクマリ、川遊びが好きで泳ぐのも得意ですよ。

 昔、急流に呑まれた年下の子を、自分も溺れかけながら助けたっていう話も聞いたことあります。

 後から聞いてぞっとしましたけど)

『山育ちではあるが水との触れ合いも多い子であったな。

 好物が何かと言われれば川魚とも言っていたような気もするぞ。

 縁はあるのかもしれぬ』

(そんなんで結論付けていいものですかね)

『どうせ考えてもわかりそうにもないのだし、そうとでも思っておけばよかろ。

 わかるべきことならば、神に携わるお前にいつか天啓でも降るであろう』

(学問を重んじる神様の割に、テンジン様ってわからないことに対しては結構ざっくばらんですよね)

『どうせ出すなら確たる結論を欲しがるたちでな。

 今の時点で分かり得ぬようなことは保留でよいのだ』


 鼻を押さえてぐずっているミズハに、そこに何かがいることだけわかるクマリは興味津々で、色のついた靄にも見えるそれを掴もうとしている。

 しかし、神様に人の方から触れることは出来ない。神様の方から触れようとしない限り、人もその肌で神様の存在を実感することは出来ないのだ。

 もっとも、もしもクマリが好き勝手にミズハに触れられるなら、遠慮の無いその手で小さいミズハを思いっきり握りしめていたであろう。よかった。


「ミズハ様、ミズハ様。

 私の手に」


『うぅ……ひどい子です……

 アンズさんだけが私の心の拠り所です……』


 アンズが差し伸べてくれた手に、涙目で這い上がるミズハ。

 本当になめくじみたいにのそのそ這い上がるのはやめて頂きたい。

 そうやって手の上に乗ってくれたミズハを、アンズはクマリの頭の上に乗せた。


「ん?

 お姉ちゃんいま何のせた?」

「神様。

 ほんとに今、クマリの頭の上には神様がいるんだよ」

「むむっ、これはしんぴ!

 さわれないけど、なにかのってる!」


『ひいいいっ!?!?

 やめっ、こわっ……たすけてー! アンズさんたすけてー!』


 頭の上に何かが乗っている実感だけありながら、なんだろうと乱暴に触ろうとするクマリ。

 手の動きが早い。つまり、この勢いでもしミズハに触れるなら、叩くか潰すか吹っ飛ばす。

 自分の全身と同じぐらいの大きさの手が、嵐のように自分を通過してびゅんびゅん振り抜かれるので、ミズハが頭を抱えてうずくまって怯えるのも妥当である。


「クマリ、海へ行こ!

 水の神様を海に連れていってあげるんだっ!」

「よっしゃあー!」


『ひいやあああぁぁっ!?!?

 はやいっ、おちるっ、とめてっ、たすけてっ、ゆるしてええぇぇぇ!?』


 唯一の心の拠り所であるアンズの号令により、一縷も迷わず従い駆けだしたクマリの頭上、ミズハは目を白黒させて振り回されるばかり。

 しがみついてないと本当に落ちる。クマリの髪をぎゅうっと握り、風にたなびく旗のように下半身がぷらんぷらん。

 涙声で叫ぶその声には、信頼していたアンズのせいでこうなってしまったことへの、ちょっとした絶望感も込められている。


 ちょっと悪いいたずら心も入っているが、アンズも一応、意地悪したいだけではないのだ。

 たまには、普段は出来ないこともやらなきゃ。

 塞ぎ込んでしまった神様を、ちょっとでも元気付けたいアンズによる、やや体当たり気味の接待である。

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