第四四話 ~摂泉国へ~
今日は晴天。
宿泊込みの遠出の旅をするにあたり、初日にこの空模様はなんだか幸先が良い。
クマリと共に雲に乗り、桑原村を出発したアンズは、山波村から少しだけ西にずれた位置に着地した。
山波国と摂泉国を繋ぐ大きな国道、山泉街道の出発点である。
雲に乗って空を駆ければ、障害物一つ無く真っ直線で摂泉国最大の村である目的地、摂泉村へ向かうことが出来る上でだ。
歩く以上の速さで進めるため、恐らく歩く倍の速度で目的地に辿り着けることも承知の上である。
「ねえクマリ、摂泉国の村に着いたら何したい?
お買い物? それとも、ごはん?」
「わかんない。
お姉ちゃんがきめて」
「こーらクマリ、そんな"なんでもいい"みたいな答えは駄目っていつも言ってるでしょ?
何がいい? って聞かれたらちゃんと自分の気持ちを言わなきゃ」
「え~、だって……あっ、"だって"はだめなのか……
う~~~~~ん……」
元より雲に乗る力は、神様に授かっているだけのものに過ぎない。
妖魔調伏をはじめとする、巫女としての本業以外の用途に使うのは、アンズもある程度控える意識がある。
桑原村からここまで来るために私的な使い方をしているので、完全に禁じているわけでもないのだが、ある一線以上は遠慮もするというところ。
「じゃあ、お姉ちゃんと一緒にごはんたべたい」
「よーし、まずはそうしよっか。
お姉ちゃん、美味しいものいっぱい知ってるからね。
期待して待ってなさい」
「ぐふふ」
それに、神様の力に頼って楽をすることばかり考えなくても、アンズはクマリと手を繋いで一緒に歩けるだけでも楽しい。
初対面の人を護送して長く歩く旅であろうと、その気になれば相手を退屈させぬよう、ずっと喋れる口を持つアンズである。
気心知れたクマリとなんて、丸一日だろうと話を繋ぎきれるし、アンズ当人にも楽しいお喋りなのだから、これに任せて歩く旅もまた捨てがたい。
お天道様の横に大きくて真っ白な雲が一つ浮かぶ他には、ほぼ空一杯が青々と突き抜けた晴天だ。
日差しは草花がご機嫌そうにも見えるほど温かく、心地良く、程よく吹く風が暑くなり始めた春半ばの大地に涼しさをもたらす。
茣蓙でもその辺りに敷いて寝転がれば簡単に眠れる、春の陽気と風邪を引かない清涼感。
一年で最も心地良い時季の一つである頃に、斯様な晴天の日が一日でも多ければ多いほど、今年はいい年だと思う日も多くなる。
冬を乗り越え春を謳歌し、緑づいてきた草木や花々の、瑞々しい青臭さが鼻をくすぐってくるのもまた、この春爛漫を嚥下するのに一役買ってくれる。
空を飛ぶ旅は絶景の眺めだが、やはり大地を踏みしめて歩き、人の世の隣人である自然に抱かれることを嗜む旅路も捨てがたい。
アンズは神様の力を借りることで叶えられる、空の旅の強い魅力を知った上でだが、和大国の大地を歩くこともまたやめられまい。
「摂泉国は海が近いから、お魚を扱ってるお店が多いよ。
クマリ、おっきいお魚を食べられることってあんまりないでしょ」
「岩魚ぐらいかなぁ。
あ、でもたまに食べるお鮭は好きだよ。だから私おとな!」
「お酒みたいに言うんじゃないよ」
「お姉ちゃんわかってくれるから好き。
村のみんな、私の高度なじょうだんがたまにつうじない」
「う~ん、子供同士では難易度が高すぎますなぁ」
空は孤独なのだ。自分にしか叶えられないこと。
連れたクマリとお喋りするにせよ、自分の背中にしがみついた彼女と、顔を見合わせずに話すことしか出来ない。
大好きなお姉ちゃんの手をぎゅっと握ったままの、クマリの柔らかい手の温かみも、楽しそうに笑うクマリの表情を楽しむことも出来ないのだ。
いかに三倍以上早く目的地に着けるという、大きな大きな利点を加味しても、こんな貴いものを捨ててまで旅を急いでもしょうがない。
「安心したまえクマリさん。
摂泉国で美味しいものが食べたければ私に任せておきなさい。
私も決して摂泉に対して非常に詳しいわけではないが、クマリの知らないものを教えてあげる知識はあるのだぜ?」
「やったぜぇ~」
「お宿もちゃんと布団二枚用意しようね?
夜はいっぱい、お喋りしようね?」
「やったぜぇ~」
「…………」
「…………」
「「やったぜぇーーーーー!!」」
馬鹿二人。テンジンはアンズの頭上で顎肘ついて大あくび。
右拳を天に突き出して叫ぶアンズと、両拳を振り上げて大喜びのクマリ。
仲が良すぎて二人っきりで、余人一人交えぬ空気で二人だけの会話が出来るとなれば、理解者不要の二人だけが楽しめる勢いのみではしゃぎだす。
クマリと一緒に楽しむことに傾倒したアンズは、テンジン様という余人がいることも完全に忘却するというのが、テンジン目線では苦笑ものである。
まあしかし、微笑ましいから良いのだ。
人生、この人とだったら一日中お喋りしてるだけで楽しくてしょうがない、という友達に巡り合えようものなら、これに勝る幸せはそうそうあるまい。
アンズにとってのクマリはそうで、クマリにとってのアンズもそう。
我が子のように可愛がるアンズが、懐き合ったクマリとの満たされた時間を過ごす長旅を、巫女の頭上で寝そべって眺めるのも主神の楽しみである。
摂泉国は、海に面する国として、それに近付くほど標高が低くなっており、国土全体で言えば山林の少ない国として知られる。
海から離れた最北部や最南部には深い山が広がり、東部にも南北に連なる山が見られるが、基本は低地に人里が広く群がる国として認識されがちだ。
国の中央に位置する摂泉村は、大きな港を擁するのが最大の特徴で、摂泉国はおろか和大国全土で見ても指折りの港村である。
摂泉湾を挟んだ隣国との交易は勿論のこと、長い航路の出発点あるいは終着点となり、遠き国の産物を仕入れることも叶う商業の中心地。
さらに山無き平地が広がる摂泉国の中央部は、見晴らしが良く流通においても最高の土地柄であり、村同士の交易もまた盛んかつ容易ときたものだ。
それでいて、摂泉村を交易の軸として、周囲に散らばる村の数々にも人口は多く、決して港から仕入れられるものに依存した習慣も無い。
地元の産業にも抜かり無く、売るものを国全体で生み出して、目新しいものを得るための対価として活かすことにも余念が無いということだ。
そうした、自国内でも他国に対しても交易の盛んな国において、大きな役目を果たすのが貨幣である。
物々交換の新たな境地として、銭が文化として根付いて長くはあるが、摂泉国で行き交う銭の流通は間違いなく他の国の比ではない。
お金は便利で貯めたくなるものだが、摂泉国の人々にとってのお金とは、惜しまず使うべきものだ。
それによって手に入る、目新しいものが毎年のように、毎月のように沢山ある。
そうしてお金が滞らずに回ることが、摂泉国の黄金色の河を循環させているということの意義深さを、知恵ある人ならば理解できるはず。
恐らく摂泉国は、京在りし山波国や、幕府在りし倉鎌の国よりも、経済という一点においては一歩も二歩も先を進んだ国とさえ言えるだろう。
商人というものはどこの国にもいるが、貨幣が人々の暮らしに最も密接な摂泉国こそ、和大国で最も商人の多い国。
農民の子供が親の背中を見て自らも農夫になっていくのと同様に、商人の子供は親の背中を見て商人を志すようになる。
世代が代わっても、商人の数は減らない。廃業した家系があっても、この商売盛んな摂泉国で一旗上げようと起業する外来者も絶えない。
商人の国。
摂泉国を形容するにあたり、最も的を射た表現と言われて揺るがない。
「どこまでいっても山賊のけはいがない」
「眺めがいいよね~。
悪いことする奴らの隠れる場所が無いのはいいことだよ」
山泉街道を長く歩き、山波国と摂泉国との国境を越えた二人が歩くのは泉山街道。
山波国内である山泉街道も、京方面へと商人達が赴き得る国道である以上、よく均されて見晴らし良い交易路である。
しかし、摂泉国に入ってからの泉山街道たるや、摂泉国内での流通の大動脈の一つであるため、その整えられようは特段のものがある。
クマリですら、ここからが泉山街道だとその境界線付近がわかったほど、この街道に入ってから道幅は倍ほどに広くなった。
それこそ、牛車を二台並べて歩いても、前方から同じものが来たとて容易にすれ違えるほど。
大量の商材を運搬するために商人が行き交うことを、はじめから念頭に置かれた摂泉国のお国柄がよく表れていると言えるだろう。
さらに、南下するにつれて国北部の山々から遠ざかり、木々が少なくなってくればくるほど、見通しは良く悪党の潜伏場所が無くなっていく。
一度失敗すれば人生終了の強盗行為など、このような環境で行うにはあまりに分の悪い賭けであるかぐらい、どんなに向こう見ずな悪人でも念頭に置くはずだ。
泉山街道が決して小さくない銭が日常的に行き交う場所という実情を鑑みれば、隙あらばそれをつけ狙う悪党の数が、想定されて然るべき数を大きく下回る。
流石に悪人というものが存在しないほどめでたい国ではないものの、治安の良さには信頼のおける街道だ。
「桑原村と山波村のあいだにも、こんなおっきい道があればなぁ~。
そしたらお姉ちゃんにいつでも会いにいけるのに」
「あるといいね~、出来れば。
でも、私いつでも会いに行くよ? それで満足して欲しいなあ」
「わたしはいいけど、みっちゃんやりんちゃんを筆場につれていきたいって思ったことはけっこうある。
みっちゃんはもう十一歳だけど、筆場を一回みてもらいたい」
「みっちゃんとりっちゃんって?」
「又二郎と一緒にお姉ちゃんにごめんなさいしてたあの二人だよ?
おっきいほうがお三ちゃん、こわがりなのがお林ちゃん」
「…………?
あー、あーあー、なるほどね。あの三人のことか」
何を指して言っているのかアンズも若干の思考時間を要したが、桑原村でアンズの前に顔を見せたあの三人のことを言うのだろうとわかった。
クマリは結構飛んだことを言うので、ある程度は彼女の言うことを想像力で補えないと、会話が成り立たないことも多い。
その点アンズはクマリと付き合いが長く、少し考えればクマリの言いたいことはだいたいわかる。考えたところでわからないこともそこそこあるが。
「えーと、へこすか君が又次郎くん?
で、はみみんちゃんがお三ちゃんで……えーと……
あままらまちゃんがお林ちゃんだね?」
自分で言ってて何を言っているのかわからなくなってくるアンズ。
へこすかが結成した桑原村自警団は、みんなおかしな文字列の団員名をお持ちである。
当然彼ら彼女らにも、そんな変な名前とは別に本名があるわけで、クマリはそちらの名でみんなの名前を呼んでいるようなのだが。
「そういわれるとわたしもわかんなくなる。
はみみんってなに? あままらまってだれ?
あたまおかしいなまえ」
「いや、クマリがつけたんでしょ?
へこすか君に団員名つけてってせがまれて」
「てきとうにいってるからおぼえられない」
「ざつ~」
勝手にその自警団の長に祀り上げられ、団員名も考えさせられているクマリだが、ご本人は心底興味がおありでないご様子。
その時その時の閃きで変な名前を与えておきながら、どうせ明日には忘れていて、一緒に遊ぶ時でも普通に本名の方で呼んでいるらしい。
子供達も適当だから、名前で呼ばれれば普通に返事もする。
へこすか君の考案した団員名という概念、けして不評ではないし楽しまれてはいるものの、徹底度はさほどでもないようで。
「みんなへのおみやげも探したいなあ。
お姉ちゃん、ごはん食べる前にそれを先に探さない?」
「クマリがそう言うならそれでもいいけど。
お腹すいてない? あんまり食べずにここまで来てるのに」
「へいき~。
そんなことより、いいものがうりきれる方がよくない」
「そっか。
よし、それじゃあそろそろ村に着くから、まずはお土産探しから始めようか」
実のところ、朝に山波村を出発して、もはや正午などとうに過ぎ去って、夕時前の時間に差し掛かっている。
ずっと歩きっぱなしだ。それだけ身体を動かせばお腹も空くはず。
しかし清貧に慣れている二人は、空腹感こそそろそろ覚えながらも、早く何か食べたいと思うほど腹を空かせてもいない。
道すがら、アンズが用意していた握り飯を一人二つ食べただけで、少しずつ赤みがかった空を右手に眺めながらこうなのだからなかなかの燃費である。
絶えずお喋りし続けて歩いているから、お腹の空き具合を意識する暇も無く楽しいというのもあるのかもしれないが。
「もうすぐ、せずみのむら?」
「ううん、今日はその手前の村でお泊まり。
一気に行くと暗くなっちゃうから」
山波村から摂泉村まで、一日で行こうとすると普通は朝から晩までかかる。
急ぐ身ならまだしも、そんな強行軍では疲れるだけだ。
健脚アンズはそれでも余裕だが、小さなクマリにそれは強いられない。
遊ぶ時にはアンズをも凌ぐ腕白ぶりで振り回してくるクマリとて、その幼い体力を過信するべきではない。
「その村にも、ちゃんと市場があるからね。
そこでみんなへのお土産を探そうか」
「わかった~」
まったりとした遠路を進む旅だ。
異国の現地で元気にあらゆるものを楽しむためにも、余力を使い尽くさない、落ち着いた歩みで良い。
最も親しい誰かと手を繋いで歩く旅など、急がずその時間を存分に堪能するのもまた風情である。
津河村。
摂泉国一番の村にも負けず劣らず、商売盛んで強い存在感を示す村だ。
村自体の規模も大きなものだが、ここには他の村には無い、活況の象徴とも言える大いなる売りが存在する。
山波国から摂泉村への旅程なら、泉山街道沿いに近しく構えたこの村は立ち寄りやすい。
そうした機会があるならば、一度は覗く価値のある村である。それだけのものがこの村にはある。
コナツにそれを聞いて知るアンズは、クマリと摂泉村へと向かう予定が決まった夜、この村に寄ることはあらかじめ決めていた。
「お姉ちゃん、どうしたの?
どろぼうみたいに背中まるめてこそこそして」
「あ~、いや、なんでもないんだけど……
そうだった、余所に来るとこうなんだよな……」
それはさておき、村に入って間もなくして、顔を赤くしてどうもきまりが悪そうなアンズである。クマリに怪訝顔をされる始末。
しかし、無理もない。
地元にいる間は忘れていられることなのだが、いざ異国の地に赴けば、山波神社の巫女を見慣れていない人々の二度見が凄い。
山波村と桑原村においては、顔の広いアンズのこの服装は"いつものこと"なので、見慣れた人々がわざわざアンズを奇異の目で見ることはないのだ。
しかし、晒した肌の多すぎるアンズの恰好は、一般的な貞操観念において、女性としては相当はしたない姿だと見做される。
天下の往来を半裸にも近い姿(と認識される)で歩く女を視界の端に捉えるたび、なにあの子、と変質者を目の当たりにした反応が大半を占める。
今でこそ二年以上この正装を着慣れて、多少の恥も噛み潰せるようになったアンズだが、新鮮な反応に晒されるとやはり身悶えしたくなるほど恥ずかしい。
大奈村でも改めて経験した羞恥でもあったが、今日はクマリとのお喋りに夢中だったせいか、村に着くまでに心の準備を整え忘れていたのが痛い。
「あっ、わかった。
お姉ちゃんはずかしいんだ。
やらしいもんね、その服」
「クマリ、あんまり言葉にしないでくれるかな……
わかってることでも言葉にされると刺さるんだよ……」
付け加えるなら、アンズが普段以上に居心地悪いのにはもう一つ根拠がある。
様々な商売が盛んな摂泉国の中でも大きなこの村、山波村には無い風潮として、艶の色濃い商売も実在する。
要は、男性だけにやたら人気の商売である。
こうした摂泉の大きな村には、"遊び慣れた"成人男性もそれなりにいて、そうした層の目にはアンズはどう映るか。
そろそろ夜も近付こうというこの時間帯、あんな恰好で天下の往来を闊歩する女とは、客の目を惹こうとしているのかなと邪推され得る。
奇異や顰蹙の目だけでなく、行きつけの店にあれがいるなら有りだな、という劣情の眼差しを、アンズも若干感じるのだ。
正直、ぞわっとする。肌寒さすら感じる。
視線というものは、相手の瞳の向きを視認せずとも、思った以上に感じ取れるものなのだ。自意識過剰なばかりでなく事実である。
古来より言われていることだが、他人を妙な意識を込めた目でじろじろ見るのは揉め事の種にしかならないからやめておけ、というのは至言極まりない。
(あの~、テンジン様)
『聞かん』
(せめて余所行きの時ぐらいは相応の違う召し物をお許し頂けないものでしょうかねぇ……
淫乱だと思われては信仰にも響くと思うのですよ)
『聞こえん』
(もぉ~~~~~!!)
むぐぐと唇を絞って耐え難い顔をするアンズの煩悶など、見上げるクマリには理解できず首をかしげるだけ。
何があってもこの巫女服は改めて貰えないらしい。
お為ごかしも多少はあるが、一応多少は懸念する想いを主神に伝えてもやっぱり駄目。
女の肌を舐めるように見る眼差しに晒されながら、アンズがわなわな震えて羞恥に耐えていても関係なし。
つくづくアンズには時々つらいこの巫女服だが、一応ちゃんとアンズにも納得できる理念が実在する、理に適った意匠には違いない。
テンジン様とて、断じて意地悪でこんな正装を巫女に強いているわけではないのだ。
最近すっかり生意気になった愛娘が羞恥に喘ぐ姿に、悪い笑いをしている主神様ではあるが、この巫女服を改めさせない理念そのものは真っ当である。
信じられない? いや、信じよう。神様は信じて然るべきである。たぶん。
「おっきぃ~~~~~!!
わたし、こんなおさかなはじめて見た~!!」
気を取り直して、津河村を歩くアンズとクマリ。
アンズは赤らんだ顔の色も控えめに、背筋を伸ばして普段通りの姿勢である。
さすがこんな巫女服を着て長い神職者、開き直って胸を張るまでも遅くない。
未だ注がれる周囲の視線に、内心では隠れてしまいたい気分でもありながら、表向きは恥じることなき我が姿だと演じられるのは流石としか。
「そっか、クマリは初めて見るんだね。
海のお魚は川魚よりもずっと大きいんだよ~」
「ぶははは、お二人は山波国からの来か?
なかなかいい見世物だろう、こいつは特にでかいやつだからな」
津河村の名物である大市場の一角。
今朝仕入れたばかりの大きな鮮魚、鰤が丸々一尾どかんと置かれた店の軒先にて、クマリが目をきらきらと輝かせている。
髭の濃い中年店主も、自慢の仕入れに純粋な子供が目を奪われていること自体が嬉しそうだ。
時も夕頃なので、売れ残っている商品と言えるが、それでも村の外からの客に対して、目を惹く看板としてはやはり強い。
内陸暮らしの農民にとって、まるまる肥えた大きな海水魚の捌く前の姿というのは、なかなか見る機会に恵まれぬものだ。
魚自体は川魚を食すこともあるだけに、見慣れたものより遥かに大きなそれは、いっそう強烈な印象を抱かせてくれる。
「おなかすいてきた」
「こんなに沢山の食べ物見てるとそろそろお腹空いてくるよね。
どこからでもいい匂いしてくるのもたまんないし」
豊産市場。
津河村の唯一の市場にして、広き村の半分近くを占める大市場である。
南西の摂泉村から海の幸を仕入れ、東の農村や山間より大地と山の幸、そして食肉をも仕入れられる津河村だ。
あらゆる食材を仕入れやすい場所に拓かれたこの村は、その胴体部である豊産市場に行けば、どんな食材でもお買い求め出来ると言われる。
これが津河村の最大の売りであり、これほど多種の食材を扱うことに特化した市場は、摂泉村の似たようなものにすら勝る規模と盛況を誇る。
また、豊産市場は幾多もの料理店を擁しており、市場周辺区域は尚のことで、お金を払って料理を食べられる無数の店が、豊産市場を囲う形ですらある。
おかげで夕時の市場など、各店が溢れさせる料理の香りが市場全体を包囲するように包み、客の空腹感を村総出で刺激する副次効果までもたらしてくる。
そして、これだけ広く全国でも随一の食材市場とあれば、卸売市場としての側面もまた強い。
繁盛している飲食店であれば、夕時あるいは夕過ぎになっても、追加の食材を市場に仕入れに来ることも珍しくはない。
食材がいくらでも買えたって自分で料理をするのはちょっと――という客でも、市場の食材を捌いてくれる店へ行けば、美味しいものが食べられるのだ。
美味いものを選んで食べたければ、津河村の豊産市場はこれ以上なくうってつけで、和大国西方でもそう名高いのも納得の話である。
もちろん客は、買って帰った食材を自分の好きなように調理する選択肢だってある。
お金さえあれば食材にも調味料にも困らないこの村は、花嫁修業を志す名家の娘が、短期的に間借り宿でこの村で過ごすことも少なくないという。
自身の店を持つことが当面の最終目標である商人の卵が、料理店を開くために腕を磨く村としても、同様の理由でうってつけだ。
結果、人の出入りが多い村でもある。たとえ短期間であっても、異国の者がこの村でしばし過ごすことも多いということ。
そうした者達が持ってくる新たな価値観は、商売盛んな村と国の気風に大いなる刺激を与え、文化が育み重ねられる土壌の遠因を担っている。
人類が生存していくために欠かせない"食"という概念。
そして身近な幸福の最たるものである"美味"を司る豊産市場。
名物のこれ一つで、国一番の村にも劣らぬ存在感を放つ津河村が、今日も賑わいに溢れるのは自明の理である。
特に夕食前の時間帯の今など、最も市場が活況を呈する頃合いであり、アンズもクマリもこの空気そのものを楽しんでいる。
人が多いので自身に向けられる目線もいっそう増えるし、アンズにとっては肩身も狭いが、今はもう開き直ったので努めて無視。
「うちの魚が気に入ったなら、あっちに進んだ所にうちが贔屓にさせて貰ってる宿があるぜ。
あそこの主人は鰤の煮付けが本当に上手いからお勧めだ」
「あら、買っていってくれとは推さないんですね」
「そりゃ毎日うちから卸してくれる店が繁盛してくれるなら、最後はうちが儲かるからな。
そんな事情もあるが、今言った店がお勧めなのは本当だぜ?
俺も儲けが弾んだ日は、いつもありがとよって想いを込めてその店で祝杯を上げてんだわ。
飯が不味い店で、気分いい日の祝杯なんぞ上げられやしねえしな」
「自分で売ったお魚を食べに行く」
「当ったり前ぇよ。
俺がきちんと目利きした最高の食材を、最高の料理に仕上げてくれる店だ。
それ以上に信頼できる店があるか?」
「自分を褒めたいのか商売仲間を立てたいのか」
「がははは、両方に決まってら」
「あっはは、いい性格してますねぇ」
商売人は口が達者だ。話して楽しい人々の代表格。
軒先のお喋りでアンズが笑う姿を、黙って微笑ましく眺めるクマリも奥ゆかしい。
内心では、短い時間とはいえお姉ちゃんを知らないおっさんに取られた気がして少し妬けながら、それを顔に出すこともしない。
アンズに対して甘えん坊な割に、最後はお姉ちゃんが楽しそうならそれが一番、そう割り切れる十歳というのはたいしたものである。
「わかりました、今晩のご飯はそちらで頂いてみることにしようかな。
クマリもどう? おっきな鰤を美味しく仕上げてくれるお店だって」
「えらそうなおじさんのいちおし……
わるくない! はじをかくことをおそれてない! じしんまんまんだな?」
「おー、面白い考え方をする妹さんだな。
一見辛辣な言葉遣いも、誉め言葉にしか聞こえねえや」
「おいしくなかったらもんくをいいにくる。
ゆるせ」
「がははは、おっかねえな。
安心しな、あの店に限ってそうはならねえよ」
「よろしい、その自信にめんじて、もしおいしかったらほめにまいる」
「すみませんねぇ、この子覚えたての言葉を使いたがるんですよ~」
「その若さでそんな言葉遣いが出来るのもすげぇがな。
可愛らしくてべっぴんさんだし、才女に育っていきそうな予感がするわ」
「でへへ、もっとわたしをたたえよ」
「おう、すげえぞ!
よっ、天才児! 百年に一度の賢い子!」
「うさんくさくなった。
わたしをおだてて、なにかを買わせようとしてもむだだ」
「すげぇー!
子供騙しが通用しねぇー!」
手を叩いて笑う店主にクマリも得意げに胸を張っている。
これだから商人と話すのは楽しいのだ。
摂泉国を訪れた初日、目的地に辿り着く前日からクマリも楽しそうでいてくれること自体、旅行の大成功をアンズは確信してやまない。
ナルミから頼まれた公務も同然のお仕事、摂泉を訪れた第一の目的とは逸れてはいるが、クマリを連れてきてよかったと思えるたび嬉しくなれる。
「ごめんなさいね、冷やかしも同然で。
仕入れには貢献しますのでお許し下さいませ~」
「おう、結構結構!
美味いもん食って、いい思い出作っていってくれよ!」
何も買わずに店主を捕まえてしまったことへの軽い詫びを述べながら、アンズはクマリと共に店を離れる。
夕食はどこで食べようか、というのは、選択肢が多過ぎて迷う津河村だが、これをきっかけに夕食の店は決められた。
すなわち、魚市の店主の勝ちである。間接的に売り上げを獲得したのだから。
商売人の皆様は、手前の商品を売るばかりでなく、様々な形で利を得るんだなぁとアンズも感心するばかり。
「クマリどうする?
先にご飯食べに行く?」
「すごくおなかすいてきたけど、おみやげが先。
いいものがうりきれるといけない」
「信念を感じるなぁ」
アンズですら、熱に晒された海産物や醤油の匂いに腹が鳴りそうなのに、クマリは初志を崩さない。
地元の友達を最高の形で喜ばせることに徹底した姿勢である。
我が事ばかりを考えていても許される年の頃にありながら、献身を優先する志が既に完成されているクマリには、アンズも胸がじんとくる。
立派に育ったなぁ……という感慨だ。母でもあるまいに。
「お土産なんだけど、私ひとつ考えてあるんだ。
摂泉国には平独楽が売ってるらしいんだけど、それってどうかな」
「あっ、きいたことある。
わたしもまわしてみたい」
「お土産にしたら、桑原村のみんなも喜ぶかな?」
「まちがいないとおもう。
それにすべき」
「よし、それじゃあそれを探そうか」
アンズもやはり大人として、幼いクマリを導く思考はあらかじめ欠かしていない。
摂泉国は、山波国で過ごしているだけでは見られない、新鮮なものが溢れている。
なんの準備もせずに最上の土産を求めようとすれば、目新しいものばかりに目移りする中で、どれだけ時間があっても足りなくなってしまうだろう。
あらかじめ、クマリからも同意を得られるであろう土産を絞り込んでおいてあったのも、アンズの先んじた配慮というものである。
みんなが喜ぶから平独楽にしよう、と言いながら、自分のぶんも買ってくれると嬉しい想いを隠そうとして隠せないクマリが可愛い。
背伸びした言葉遣いをする子ではあるが、やはり純真無垢な七歳年下なのだ。
豊産市場は、食品だけを取り扱う大市場ではない。土産物は勿論、地元の子供達が喜ぶ商品を扱う店も数多い。
クマリと共にそちらへ向かうアンズは、握り合ったその手から、可愛い妹の弾む想いを感じ取りながら、自身も胸躍る想いで歩を進めていた。
この子が幸せなら私も幸せ。
そんなクマリと、二人きりの時間を何日も独り占め出来ると思ったら、アンズの方こそ明日以降も含めて幸せでたまらない予感でいっぱいだ。
クマリと一緒に摂泉国に赴くことを推してくれたナルミお母さんに、アンズも未だ懐いてやまぬという話である。
クマリはアンズにべったり、アンズはナルミにべったり。似て育つわけだ。




