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あんずの神様 ~山波雷神幻想譚~  作者: ざくろべぇ
第弐章  大奈国の鬼退治
38/63

第三七話   ~袋小路~



「……本当に、あの金熊獣士を退治してきたのか?」

「しつけえな。

 何回聞かれても答えは変わんねえよ」


 大和龍山でのカネグマとの激闘を終えたコナツとアンズは、山を去り、麓の和良村に行き着いていた。

 アンズは胴の中身が癒えきれず、ずっと息切れを起こしており、コナツも片腕が使い物にならずしばしの療養が必要な様態。

 鬼の巣窟に最も近いこの和良村は決して安全地帯ではないが、ひとまず腰を落ち着けて休む時間は必要だった。

 大奈村まで行く選択肢もあった中で、今の消耗した状態でそこまで行くのは大変だ。

 徹底を尽くすに越したことは無いが、無理をしないことも重要である。


 コナツの生家は既に他の住人が住み着いているらしく、二人はコナツの腐れ縁であるセイカの家に身を寄せていた。

 コナツの両親は既に亡く、コナツ自身は放浪の身、妹フユナは大奈村に移り住み、弟アキヒコは行方不明。

 空いた家など、鬼に荒らされ壊された家屋も多いこの村で、他者に有効活用されるのもやむを得ず当然の流れであろう。


「お前、強くなったんだな……

 昔、お前と対等に喧嘩してた自分のことが信じられないよ……」

「いつまで子供の頃のことを引きずってんだ。

 お前ももう十七だろ。楽しかったばかりの頃なんて忘れて今を見ろよ」


 休む場所を借りているコナツであるが、家主の一人であるセイカに対する言葉は、若干遠慮がちな表情はしているものの容赦ない。

 昔馴染みだからだろう。傍目のアンズがどう思おうが、二人には二人だけの関係がある。

 神力がゆっくり体の中身を癒してくれている中で、なるべく多くの呼吸をしないようにしているアンズは、二人の語らいに口を挟むことはなかった。

 無論、元気であっても何一つ口を挟むことは無かったであろうが。


「コナツ君、よく頑張ったんだねぇ。

 お味噌汁、作ったよ。よければ、飲んでいってくれるかな」


「……いいんですか。

 厄介者の俺に施すと、立場が悪くなりますよ」

「母ちゃん、やめろよ……

 俺もう、母ちゃんが爪弾きにされるの見たくねえよ……」


「いいんだよ、そんなの。

 私の大事なセイカのことを、今でも案じてくれているお友達だもの。

 遠慮せずに、好きなだけ飲んでいってちょうだいね」


 老婆のように老け込んで痩せ細ったセイカの母が、台所から味噌汁を入れた椀を二つ持ってきた。

 一つはコナツに、そしてもう一つはアンズに差し出して。

 狭い家の隅で慎ましくおとなしくに徹していたアンズは、味噌汁という歓待が自分にまで差し出されたことに、目を丸くせずにはいられなかった。


「あなたも。

 コナツ君の、お友達でしょう?

 無理をしてしまう子だけど、そばにいてあげてちょうだいね。

 あなたもきっと知っているとおり、乱暴な物言いをすることはあったとしても、心は誰よりも澄んでいて優しい子なんだから」


「……はい、もちろんです。

 いただきます、ありがとうございます」

「いただきます、お袋さん。

 あんたの味噌汁、大好きなんだ。本当に嬉しいよ」

「うふふ、いいんだよ。

 これぐらいのことでそんなに喜んでくれるなら、いくらでも作ってあげるから」


 アンズもコナツも、セイカの母に深々と頭を下げ、薄汚れた椀に満ちた味噌汁をすする。

 驚くべきほど、よく利いた味だった。けち臭く味噌を削ることもなく、最も美味しく適量の味噌を溶かした味。

 それも、すすれば口に自然と若布(わかめ)が口に入ってくるほど、惜しみないほどの具沢山。

 せめて短い時間でも屋根を貸してくれるだけでも恩であるのに、ここまで美味しいものすら頂ける心遣いは、アンズの胸に沁み渡る。


 味噌は決して安くないのだ。

 ましていつ鬼に壊されてもおかしくない、限界集落の和良村には商人も寄り付き難く、仕入れもその値も高くつくはず。

 亡き夫の忘れ形見である、唯一無二の可愛い息子を溺愛するセイカの母が、引き籠るセイカのために無理をしてでも貯蓄している背景もあるのだろう。

 それだけ大切なものを客人に過ぎない二人のために、最も美味しいものを作るために惜しむことなく費やしてくれているのだ。

 我が子のための貴重な財産を、我が子の友人と、その友人というだけで差し出してくれるこの姿を、歓待と言わずして何と呼べようか。

 極端なたとえ話ではあるが、アンズはたった一杯のこの味噌汁を、一滴たりとも飲み残してはならないとさえ感じる。当然だ。


「……なあ、コナツ。

 やめることは、出来ないのか」

「お前が俺を案じてそう言ってくれてるのはわかってる。

 だけど、俺にはやめられない。

 俺には俺の譲れないものがあるんだ」

「…………」


「ありがとな、セイカ。

 お前のことはずっと嫌いだったけど、今はそんなに嫌いじゃないよ」

「……ははっ、そうか。

 喧嘩ばかりしてきたお前にそんなこと言われるなんて、昔は思いもしなかったよ……」


 アンズは薄暗い家の中で、初めてセイカが笑った顔を見た。

 充分程度に満たされた日々の中で人々が浮かべる笑顔とは程遠い、活力の無い小さな笑いには違いなかったけれど。

 このような村の実情で、大笑い出来るような心が養われぬことはアンズにも理解できるけれど。

 それでも、昔馴染みのコナツが相手だからこそ、これほど目に見えて閉塞した日々の中にあっても、セイカは少しでも笑うことが出来たのだろう。


 特別な世界というものは実在するものだ。

 住む世界を隔てて、どことなく距離がある二人の間に確かにある、遠く離れても切れることのない繋がり。

 儚くも、それを目にしたアンズは一言も発することなく、二人だけの世界に水を差すことを嫌い、温かいものを見る目で眺めるばかりだった。


「おい、ちょっといいか」


 その時、家の外から聞こえた声。

 やや険のある呼び声に、即座にすべてを察したコナツは、せっかくの味噌汁を一気に飲み干して立ち上がる。

 椀の底に残った一枚の若布すら、指につまんで口に入れてだ。アンズと同じで、一片たりとも食べ残したくない気持ちが根底にあるのだろう。

 外からの声にセイカがびくつく中、コナツは濡れた指を拭くこともせず、ずんずんと強い足取りで家の玄関口へと歩いていく。

 先程までの旧友との温かい時間を過ごす表情を失せたコナツの横顔に、アンズも少々狼狽するほどの変貌ぶりだ。


「なんだよ」

「……コナツか。

 村長(むらおさ)が、話があるから村の真ん中に来いと言ってる」

「てめえはどっちの肩を持つんだ。

 よく気を付けて返事しろよ」


 アンズはコナツが置いていった椀をセイカの母に渡しつつ、自分の椀に入った味噌汁を、具も上手く全部飲み干すようにしてそれも渡す。

 せっかくのものを味わえずにごめんなさい、と軽く頭を下げ、アンズもコナツを追って玄関口へ向かう。

 なんとなく心配になるほど、聞こえてくる限りでも今のコナツの言動は怖い。


「……やめてくれよ。

 俺は村長に言われて、言伝を届けに来ただけなんだ」

「向こうの肩を持ってねえって言うなら断れよ。

 結局てめえもあっち側なんだろうが」

「…………」

「どけ」


 コナツは自分よりも年上で大きい大人を押しのけて、村の真ん中へ向かっていく。

 アンズもそれを追う。コナツに押しのけられた大人を尻目にだ。


 コナツに憎まれ押しのけられたと見える大人の、やりきれぬかのような表情が妙に心に残った。

 それでもアンズは、今はそれも忘れてコナツを追うことに専念した。

 傷ついたこの村で幾度となく見た、ありふれた顔に足を引っ張られている場合ではない。






「来てくれたか、コナツ」

「おーおー、怪我人相手に随分と頭数を揃えて御大層だな。

 その根性を、鬼を相手にしても発揮できりゃあ立派なものなんだがな」


 村の真ん中に赴いたコナツを迎えたのは、和良村の年老いた村長だ。

 それも、その背後に住人近い若衆をずらりと並べて。

 特筆すべきはその若衆が、いずれも(すき)や鎌といった、武器にも相当するものを手にしていること。

 露骨な武装である。腰の曲がった村長がコナツに主張をぶつけるにあたり、彼を守るにはそれだけの構えが必要と判断されているということだ。


 コナツもそれは織り込み済みなのか、開口一番の言葉は挑発的ですらある。

 追ってきてこの一幕を目にしたアンズにも、コナツと村長派閥との対立は見るも明らかというものだ。


「……余計な口戯れはやめにせぬか。

 お前が何を成し遂げてきたかは、わしも小耳に挟んでおる。

 今日は、お前と話せる最後の日と思って声をかけておるのじゃ」

「自分達に聞こえの悪い話は口戯れ扱いか。

 それで話せると思ってるなら頭おかしいんじゃねえの。

 自分の言いたいことしか考えず、相手が無条件に話を聞いてくれると思ってる馬鹿の典型だわ」


 取り付く島もないコナツの言い草に、アンズは根深い憤りを感じ取る。

 だが、どうして生まれ育った村の同胞に、そんな感情を抱くのか、それが想像に及べない。

 彼が鬼に憎しみを抱く根拠と同じものを、同じ故郷に生まれて育つ者には共有できるはずではないのか。

 ここまで露骨に拗れる理由がわからない。


 コナツの乱暴な物言いに、村長の後ろの武装した若衆がかっとなるが、村長はその手で制する素振りを見せて留める。

 それだけ村長も、この最後の日というものを重要視しているのだ。


「コナツ。

 今一度言う。耳を傾けてくれるか」

「おう、聞いてやるよ。

 頷くどうかは別だがな」


「大和龍山の鬼に挑むのをやめてくれ。

 何度も言ってきたが、これが最後の一声……」

「死ね」


 想像を超える拒絶の言葉に、やや離れた後方からコナツを見守っていたアンズも駆け寄ってしまう。

 私には知らぬ感情があるのだろう。きつい物言いも何か事情があると思う。

 ただ気がかりなのは、その言い草でいきり立つであろう村長の取り巻きに、コナツ自身の危機を案じてやまない。


「いい加減にしろ!

 お前の軽率な行動が、どれだけこの村の者達を不安にさせていると思ってるんだ!」


 やはり、誰かが声を荒げるとは思ったアンズの見立てどおり、若衆の一人が怒鳴りながら前に踏み出してきた。

 感情のままに前に出た男に続き、三人の連れも自ずとそれに続く。

 喧嘩が強いことは周知の事実であるコナツを前に、一対一では危険とし、武装した大人数人で対峙する必要があるという暗黙があるのだろう。


「んだよ、文句があるなら全部言えよ。

 そもそも誰だてめえ、小者(こしゃ)が偉そうにすんな」

「っ…………!

 話を聞け! もうやめろと言ってる! この村の総意だ!」


 名乗ることもしない男は、切実な主張を強調することに努めている。

 鬼に苦しめられているこの村が、コナツが鬼へ挑むことをやめろと言う。それが村の総意とさえ。

 これは、アンズも理解できぬではない。正しいとも思わないが。

 呆れるように耳を小指でほじるコナツの態度からも、すべて理解した上で馬鹿馬鹿しいと思っているのだろう。


「お前が金熊獣士を撃破したことも聞いてるさ!

 だが、お前が鬼どもを怒らせるたび、村がどれだけの被害を受けるか考えたことはあるのか!」

「お前が大和龍山で暴れるたび、報復とばかりに鬼どもが村に下ってくるんだ!

 余計なことをするなと昔から言っているだろう!」

「頼むよ……俺達のささやかな暮らしまで壊さないでくれよ……

 鬼どもの機嫌を損ねたら、俺たちはおしまいなんだ……」


 村の命運を握る強者を怒らせ、この村に横暴者の報復めいた八つ当たりが降りかかることを、和良村の村人は恐れているのだ。

 だから、コナツに余計なことをするなと言う。鬼どもを怒らせるなと言う。

 不幸のどん底にいる者達とて、苦境の中で妥協した微かな幸福に縋り、生きていくことすら出来なくなることは恐れるのだ。

 この村でしか生きられない者達にとって、この村の生殺与奪すら握るに等しい鬼の機嫌を損ねることは、死活問題であるのも確かである。


「俺があいつらを全部潰せばいいんだろ。

 それで万事解決じゃねえか」

「それが果たされるまで俺達は何度村を荒らされて耐えろというんだ!

 お前の行動が何を及ぼすかまだわからないのか!?」

「知ってるよ。我慢しろよ。

 どうせ俺が何もしなくたって、あいつらは気まぐれに降りてきて村を荒らすだろ。

 俺のせいにすんなよ、あいつらはそういう連中だろうが」

「お前っ……!」


 背の高い者が武器を投げ捨て、コナツに駆け寄り胸倉を掴む。

 白けた表情のコナツは、こんな奴らのその場限りの激情に付き合うのも馬鹿らしいと、胸倉を掴まれてなお眠たい顔だ。


 アンズにもわかる。共感できるのはコナツの方だ。

 憤る村人の心に寄り添えないわけではないが、それは何一つ現状を解決に繋げられるものではないから。

 傍目からはつくづく思う。悪い奴はこの村に一人もいないはず。

 悪いのは鬼どもだ。

 コナツと村人が言い争うこの構図そのものが間違っている。


「お前が鬼どもを怒らせるせいで、俺の妹が骨を折られたんだぞ!?

 お前がじっとしてくれているだけで、あんなことは起きなかったかもしれないんだよ……!

 どうしてわかってくれな……」


「じっとしてれば、俺の母さんは助かったのか?」


 こんな奴らの言い分をまともに聞くのも馬鹿らしいという態度だったコナツの眼が、たった一つの言葉に反応して変貌する。

 胸倉を掴んできた相手の喉を握りしめ、相手が怯んだその瞬間に突き放し、頬を殴りつける拳でぶっ飛ばす。

 ぶち切れた強者の第一暴力に、惨劇の始まりを予感した若衆も、武器を掲げて身構える。


 それ以上に、アンズが駆け寄りコナツの肩に、両手を添えたことがある程度の熱をこの場から逃がした。

 本気を出してコナツが暴れるなら、アンズも決して彼を止められはしまい。

 だが、信頼する友の制止を感じたコナツが、殴り倒した相手に追撃すべく踏み出した足が止まったのも事実である。

 アンズが行動に出なければ、彼は倒れた村人を更に蹴飛ばしていたかもしれない。


「話の通じない諸悪の根源に反抗することを諦めたと思ったら、ちょっとは話せる背の低い奴を罵倒する。

 それで何が変わるんだ?

 お前らも、自分より弱いものを虐めて満足を得ようとする悪鬼どもと変わらねえよ」

「てめえ、っ……!」

「人間相手なら大層な威勢だよな」


 あまりの物言いに血が上って声を荒げた者に対し、コナツはアンズの手を離れてつかつか歩み寄る。

 腰が引けた相手との距離が詰まるのも早く、鼻っ柱を打ち抜く拳でぶっ飛ばす。

 積年の想いが籠った強い一撃だ。

 何度聞いても、こいつらの言い分には反吐が出る。


「なに黙ってんだよ、武装してきてるくせに。

 鬼より俺の方がよっぽど殺しやすいだろうが。

 片腕砕けててお前らには絶好の好機だろ」


 気迫に呑まれた別の若衆にまた歩み寄り、相手が身構える暇もないうちに裏拳で頬を殴りつけぶっ飛ばす。

 もう一人にも歩み寄り、鍬を構えられても腹を貫く前蹴りで遠くまで倒す。

 気休め程度の武器を握ったところでどうにもならないコナツを相手に、村人達が竦みあがるその表情は、鬼を相手にした時と何ら変わらない。


 哀れな弱者の姿なのだろうか。確かにそうなのだろう。

 それでも、今の現状を打破しようとするコナツに武器を向けるのは、根本的な部分で確実に何かが間違っている。

 間違えさせているのは鬼なのだ。憎まれるべきもの、真に批難されるべき者はここに誰一人としていない。

 つらいものを見る目でこの状況を眺めることしか出来ないアンズが、諸悪の根源を忘れていないのは間違いなく救いの一つであろう。

 ここで、コナツか村人かどちらが間違っているかを考えるアンズであったなら、いつか必ず間違ったものに矛を向けるに違いない。


「てめえらにたった一人の母親を取られた気持ちがわかるか。

 それがいつ自分に降りかかるかと恐れて、鬼に立ち向かうでもなく、単に殴れそうな奴に群がるような奴らになんて構ってられるかよ。

 俺は母さんの命を奪った鬼どもを葬ることをやめられねえ。

 止めたいなら、俺を殺してでも止めて見せろ。

 鬼を討つより簡単な人間を殺してな」


 コナツもわかっているのだ。

 自分に対して批判的な者が集っているこの場の者達は、血の繋がった者を鬼に"まだ"奪われていない者達だ。

 だから、恐れる。鬼を怒らせ、コナツがかつて味わった、家族を喪う耐え難い苦しみが、自分に降りかかることを心底恐れている。

 だからこそこの間違った矛先に対しても必死になるのだ。

 そんなことは、コナツも百も承知である。理解はしているとも。


 怨みに生きる者の耳に、まだ何も喪っていない者の言葉なぞ通じるか。馬鹿馬鹿しい。

 現にコナツと同様に、父母兄弟姉妹妻子のいずれかを鬼に奪われた者は、コナツを否定する側には回らないしこの場にはいない。

 和良村も一枚岩ではないのだ。コナツの復讐を心の奥底では支持しながらも、家族を奪われることを恐れる隣人を慮って声を出さないだけ。

 こんなにも、喪った者ですら悲しみに耐え、涙を呑みながら声を封じて生きているというのに、なぜ人間同士で内輪揉めが起こるのか。

 いつだって、声が大きいのは無傷な者の多数派だ。

 そして、それもまた否定されるべき感情ではないから世の中はおかしくなる。


「ずっと、そうして化け物達に怯えていけよ。

 そんで、そのまま死んでいけ」


 腰が引けた者達に、これ以上何を言っても無駄だと見限ったコナツが、背を向けセイカの家へと帰っていく。

 アンズもその後を追いながら、振り返れば、村人達の悲哀を目の当たりにする。

 頭を抱える村長の老齢を鑑みるに、我が子か孫か、あるいは家内か、鬼に奪われた過去はありそうだ。年を取れば取るだけ血縁者は増え得るのだから。

 あれとてコナツと同様に、耐え難い悲しみを経た上で、喚く村人の代弁者としてコナツに呼びかけた立場なのだろう。

 憔悴した表情で俯く老人の姿もまた、理不尽に泣く人々の有様として、アンズが胸を痛めるものには違いない。

 妖魔に苦しめられ、アンズに救いを求めてきた山波国の人々は、みんなそうだったのだから。


 何度だってアンズは反芻する。

 誰も間違ってなどいないのだ。

 すべてを狂わせたのは鬼どもだ。

 目先のものに惑わされ、真に憎むべき存在を見失わないアンズが静かな怒りを胸にコナツを追う眼差しを、テンジンは無言で見守っていた。











 

「おうい、イバラギ。

 どうせ見ておるんじゃろう。出てこんか」


 大和龍山の頂。

 大奈国を山より見下ろす神のお住まいとされた大和龍大社が鎮座するその場所は、今や鬼の首領格アオグマの(ねぐら)となり果てている。

 大きな社は乱暴に破壊され、今や廃墟をも思わせる有様となった元大社は、アオグマの宿あるいは色鬼が集い酒宴を催す際の憩い場に過ぎない。

 ぼろぼろの大社は人ならば居心地が悪かろうが、鬼の勝利の証とも言えようその廃れた様相を、むしろアオグマは居心地良くすら感じているようだ。


「出てくるも何もあたしはずっとここにいるわよ。

 ちゃんと探しな」

「ほ? 何をそんな場所で頬杖ついておるんじゃ。

 馬鹿と煙が好きな場所を好むおぬしではなかろうに」


 荒廃した社に向けて声をかけたアオグマだが、イバラギは中から出てきての返答ではなく、社の屋根の上から声を発して応えた。

 確かに眺めが良く、山の広範囲を見渡せる場所ではあるが、普段のイバラギは社の屋根に昇るようなことをすることは少ない。

 彼女が山全体を見渡そうとすること自体は珍しくないのだが、そうするにしても彼女ならもっと別の場所から眺めるのが専らだ。

 樹上で間に合う鷹の眼なのに、わざわざ偉そうに社の屋根に昇り権威を誇示するようなことを好まぬイバラギだとは、アオグマも長い付き合いで知っている。


 イバラギは屋根の上から飛び降りて地面に降り立つと、イブキを引き連れたアオグマの方へと歩み寄る。

 かなりの高さから飛び降りたにも関わらず、脚を折るどころか、着地に際して膝を曲げるのもささやかな程度だ。

 相応の衝撃が、逃がされもせず足腰に響いたはずなのに平然とした様からも、イバラギの肉体たるや、さも人に近しい姿をしながら頑強なものである。


「あんたの言いたいことはだいたいわかってる。

 ゼンドウとミズタマ、あいつらが可愛がってる妖を皆殺しにしようって言うんでしょ。

 あたしは反対だからね」

「そう突っぱねてくれるな。

 やると言った口がやらぬでは、わしの面目が潰れるではないか」

「それはあたしの流儀ではないし、酒呑導獣郎さまの流儀でもない」

「わかったわかった。

 まったく、それを言われてしまうと返す言葉もないわ」


 ごねた口を叩いたアオグマではあるが、予想通りの言葉であったようで、肩をすくめて笑うばかり。

 ゼンドウとミズタマが終わりを覚悟する気迫を伴って脅迫していたアオグマだが、イバラギがそれを知れば必ず異を唱えるとはわかっていたのだ。

 ゆえにこそ、演じているに過ぎぬ気迫でゼンドウ達を恐れさせたのも確かであり、それもまたアオグマの卓抜した芝居ぶりを物語る証左でもある。


「しかし、おぬしは大将に傍仕えしていただけあり、わしらよりも酒呑導獣郎さまの御心をよく存じているとは信頼しておるがなぁ。

 しばしばおぬしは、判断に私情が混ざり過ぎではないかのう?

 元は人の子であるおぬしが人間的で、わしらに無いものを胸の内に抱えておるのは承知だがな」

「その言い草ってあんまりじゃない?

 あんたの言うことも確かだけど、酒呑導獣郎さまの名を借りて発する言葉に私情を挟むような不義を、あたしが出来ようはずがないのは知ってるでしょ?

 今は亡き主の流儀を語るには、今や想像で補うしかないところもあるから不完全の可能性もあるけどさ」

「よいよい。

 酒呑導獣郎さまへの忠誠を競うならわしも誰にとて劣らぬが、おぬしだけは別段じゃ。

 疑うことなどせんよ」


 今や大和龍山の鬼を統べる頭領の立場にありながら、アオグマはイバラギに異を唱えられた時に限り、ことかつての主の名を出されれば従いすらする。

 まるで事実上はイバラギがアオグマを傀儡にするかのような更なる上にも見える構図だが、本質はそうではない。

 イバラギも、アオグマも、未だ最上を、かつて仕えた大妖魔、酒呑導獣郎と定めて覆していないというだけだ。今はもう滅ぼされた主であるはずにして。

 その遺志を語れる者として信頼されているイバラギが、実権だけは持たぬにせよ、まるで神の御言葉を借りて信奉者を導く神職者のようだというだけだ。

 さながら、巫女である。


「しかしそれを踏まえた上で言わせて貰うが、これは好機でもないか?

 大儀を与えて弑逆を任せれば、"トラグマ"の奴も良い息抜きになろう?」

「まー最近あの暴れん坊にもおとなしくさせ過ぎてるからねぇ。

 たまには餌を与えて発散させてやらないと、いつ爆発して大暴走するかわかんないし。

 お為ごかしもあるんでしょうけど、あんたの言うこともわかるわよ」

「ミョウドウとの喧嘩を許して機嫌は取っておるが限界はあろう?

 ここらで良い機に蹂躙ひとつ許してやってもよかろうところじゃ。

 僭越ではあるが、酒呑導獣郎さまとてその程度の配慮はして下さったとは思うぞ」


 弁の立つアオグマは、自分に唯一反論できるイバラギに、外堀を埋めながら反論しづらい論調を組み立てる。

 その表情に、ゼンドウやミズタマへの見せしめをなんとか実現したいという、下卑た本心が隠されていないこともイバラギは承知。

 それもどうかとはイバラギも思うのだが、仰ることは的外れでもなく、否定しきれぬイバラギも頭をがりがりと掻く。


「わかったわよ、同意するわ。

 その代わり、差し出す贄は妖ではなく獣にしておきなさい。

 妖だけでなく山の動物達とも懇ろなあの子達には、それでも充分効くでしょう」

「ほっほ、ありがたい。

 これでわしの面目もある程度は立つ。

 毎度毎度、イバラギに取りなされるおとなしいお飾りの頭領鬼とばかり思われては癪じゃからのう」

「あんた絶対的支配に拘り過ぎじゃないの。

 あんたはあんただし酒呑導獣郎さまではないけど、あたしとは違う意味で俗が過ぎるようにも感じるわ」

「それはほれ、一度人類に敗れた悔しさゆえとも自覚しておるさ。

 一度栄光を味わってしまうと、もうそれを下げた生き方に満足することは出来ぬようになるものよ」

「それも含めて俗っぽいわ。まるで人間みたい」

「所詮わしらも人ではないだけで、人の"畏れ"を喰って生きる存在であろう?

 永く生きれば似通うこともあろうというものよ。ほっほっほ」


 扇子でも持っていれば己を仰いで見せようほど、さぞ可笑しそうに笑うアオグマである。

 正直、このアオグマとは気が合わぬイバラギであるが、同朋には違いなく、溜め息混じりにこの性格の悪い会話に付き合うこともする。

 長く共に過ごしていると折り合いもつくのだ。まるで人間のように。


「さて、それではわしはトラグマにその旨を伝えに行こうかの。

 イブキはどうする? 置いていこうか?」

「ええ、それでお願いするわ。

 今日も話があるからね」


「…………」


 常にアオグマの傍仕えのように付き添うイブキだが、イバラギを前にした時だけはアオグマのそばを離れることが多い。

 その通例も事情も知っているアオグマは、黄鬼のもとへ向かうべく山を降りていく。

 残されたイブキは、歩み寄ってくるイバラギとたった一人で向き合い、表情を変えずに佇むのみ。


 イバラギは、己よりも背が高いイブキを真正面から腕を回して抱きしめる。

 胸を合わせ、口元をイブキの耳元に近付ける密着姿勢だ。

 イブキは未だ一切動かず、イバラギの柔らかい肌に一切の反応を見せることすらなく、ふと目を閉じてその抱擁を受け入れるのみだ。


「わかっているわね? あなたの使命を」


「……存じている」


「裏切ることは許さないわよ。

 たとえ、あなたがどのような心変わりを覚えても」


 イバラギは耳元で囁くような声を発すると同時、イブキの首筋に爪を突き立てる。

 互いに顔が見えぬ中でも、イブキには今イバラギがどのような顔をしているのか、存分なほど感じ取ることが出来た。

 まばたき一つせず大きく開いた、己の悲願を妨げる者には断じて許さぬ狂気を秘めたイバラギの瞳は、しばしば迫真の彼女が身内にのみ見せる形相の欠片。

 そんな彼女の顔を知る者なら、たとえ身内の鬼であろうと、イバラギに逆らうことを本気で企てる者はいまい。


 すべてがすべてでそうではないが、女は怖い。

 イバラギは、怖い女そのものだ。鬼達こそが最もよく知っている。


「わかっているなら、よろしい。

 これからもよろしくね、イブキ」


 その手を放し、改めてイブキと向き合ったイバラギが、相手を見上げて屈託ない笑顔を浮かべる。

 山波村の皆様と親しく語らう時のアンズと同様、陰ひとつ無い陽光を放つかのような笑み。

 その胸に宿っている、極めて攻撃的かつ苛烈な信念を知らぬものであれば、たとえ人でもこの笑顔を前にすれば胸が高鳴り得るほどのものだ。

 生憎、イバラギの内面を知るイブキの胸は、こんな笑顔には騙されない。


「……誓いは守る」


「ふふっ、いい子ね」


 世の中には、逆らってはならぬ相手というのが誰にでもあるものだ。

 すべての鬼にとって、イバラギは間違いなくそれである。

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