第三六話 ~青鬼アオグマ~
『こら、アンズ!』
ぺちっ。
「っ、っ……?」
『アンズッ!』
べしん。
「いた、っ……!?」
『起きんかいっ!』
ぺっしーん。
「いたいっ!?」
女の子として生まれてこの方、初めての体験である。
ほっぺたしばかれて目を覚ます。顔に打撃はひどい。
三発ひっぱたかれてぱちんと目を開けたアンズの眼前には、小さな神様がアンズの胸元の上に乗り、目覚めなければもう一発食らわせる手を振り上げていた。
『行き場の無くなったこの手を、ていっ』
「へぶっ……!
て、テンジン様、なにし……はう゛ぅっ!?」
『"若"を打て、骨が数本いかれているぞ。
これでも私が既にある程度は応急処置を施しているのだ。
苦しいだろうがお前も自分で癒さねば足りぬ』
所在なくとりあえず打たれた四発目は、軽く鼻をぺしんと叩かれるだけでそんなに痛くなく、冗談みたいなやり取りである。
だが目覚めて抗議しようと体を起こそうとした瞬間、胸の下左右で響き上がった激痛は冗談になっていない。
短い間だったが気を失うほどの蹴りをカネグマに受けたことを、息も詰まるような痛みと共に思い出したアンズは、撥を顕し握って太鼓を打つ。
神力で以って傷を癒すための"若"の太鼓を打つ撥を、その太鼓まで届かせるために腕を動かすだけでもかなりきつい。
「はぁー……はぁ゛ー……
こ、コナツは……」
『今あそこで赤鬼を一人で袋叩きにしておるよ。
もう勝負は付いておる。お前を蹴飛ばされたことでぷっつり切れたのだろうな。
じきにあの赤鬼はこの世から消え失せよう』
「そ、そですか……
よかった、です……」
テンジンは、アンズがカネグマに蹴飛ばされるや否や、すぐさま彼女の方へと舞い戻った。
戻る時はあっという間なのだ。砂煙の中で意識を飛ばされたアンズの元へ、テンジンが手を届かせたのは、コナツがカネグマに膝を食らわせたのとほぼ同時。
そのままコナツがカネグマをこてんぱんにし始めるのと、一刻も早く目を覚まさせねばとテンジンがアンズの頬を叩き始めたのも概ね同時である。
周囲の周りの砂煙も晴れ、頑張って顎を引いてコナツの方を見たアンズの目には、何も無くなった場所を見下ろすコナツの立ち姿が映った。
ざまあ見やがれ、と吐き捨てるような声もかすかに聞こえた。
あまり聞いたことのないようなコナツの憎々しげな声だが、アンズは特に気にはならなかった。
怨みが強ければあれぐらいの声も出るのだろう。そんなこと、よくわかる。
ああ、勝ったんだな、と、ほっとする気持ちの方が勝ち、アンズは四肢を投げ出したぐったりとした姿で脱力し、楽な姿勢をそのまま保つことにした。
「……アンズ!」
間もなく、戦人のそれではなく、親しい友人の声で自分を呼び、こちらに駆けてくるコナツの声と姿が続く。
戦い終わればいつものコナツだ。もう一度、ほっとする。
怨みで戦うのは構わないけど、やっぱり私はいつものあなた、些細なことにも気付こうとしてくれる優しいコナツの方が好きだから。
「あ、あ~、コナツ、ごめんねぇ……
大変だらしない恰好で申し訳ないんだけど……」
「馬鹿、それどころじゃねえよ。
大丈夫なのか? 担いで帰るつもりだが、傷に響いても我慢できるか?」
「だ、大丈夫……自分で歩くから……
も、もうちょっと待ってね? そしたら、神様の力で傷も塞がるから」
「わかった」
にへら、と力の無い作り笑いをするアンズだが、脂汗がひどくて無理をした愛想なのは見るも明らか。
痛々しいが、コナツも重くは捉えず頷くのみ。
お互い、こんな怪我など慣れっこだと信頼し合っている。俺もお前も、私もあなたも、痛みに泣きを入れて生存率を下げる判断に甘んじはしまい。
幾度も妖魔と戦い抜いてきた者同士、骨が折れるも血を流すも些事である。
「まさか、カネグマの奴を滅してしまうとはな……
本当に、驚かされる……」
「おっさん、男前が台無しだな」
「くはは、元よりたいしたものではないよ」
アンズに背を向け、毒針を放ってきた者がアンズを狙おうと、必ず守りきる心積もりで壁となるコナツ。
撃たれれば針先には触れられないが、はじめから構えていられればどうとでも対処は出来るのだ。
そんな彼に、ふらふらの足腰で歩み寄ってくるゼンドウに、コナツも親しみを込めた言葉を向けている。
未だ敵地で決して気の抜けない状況ゆえ、勝利の後の会話というわけにはいかないが、今短く話せる限りのことは可能な限り伝えている。
「ゼンドぉ……」
「案ずるな、俺ならば大丈夫だ」
ミズタマも、傷だらけのゼンドウのそばに身を寄せながら、コナツとアンズを恨めしそうな目で見つめている。
あたしの大切なお父さんがこうなってるのは、あなた達のせいだと言わんばかりに。
それがゼンドウ自身の判断によるものだとは理解しながらも、掛け替え無き人の傷だらけの姿に、事の発端となった者達を詰りたく想いも致し方あるまい。
ゼンドウがカネグマに襲い掛かったあの短時間で、コナツもある程度は息を入れられたのだ。
結果としてカネグマにも打ちのめされ、今や足腰にまできてよろよろのゼンドウの行動は、コナツの勝利に一役買ったと言えるかもしれない。
ありがとよ、と言ってもいいし、わざわざ言わぬも男気への一種の配慮。
あれほど憎んでいると言って憚らぬ鬼に対して、こんな冗談口を叩いている時点で、友好的な態度を十全に示している。
ゼンドウもその言葉には、握手の一つでも交わしたかのような満足感を得ていたものだ。
「毒針の使い手に心当たりはあるか」
「アオグマだろう。
あいつは、手段を選ばぬからな」
「いいのかよ、そんな俺に寄り添って守るような構えでよ。
色鬼にはっきり敵対するとまずいんじゃないのか」
「構わぬ。
お前達が生き残ることが、すべてにおいて優先だ」
「……わかった。ありがとな」
「ふふ、悪くない。
お前達に貸しを作れるなら、きっとこの山に只ならぬ見返りとなろうよ」
状況を理解するにつれ、アンズもじっとしていられず、痛みに歯を食いしばりながらも立ち上がる。
コナツに心配そうに振り返られたが、すぐに再び前を見る彼の姿もまた頼もしい。そうしてくれた方が嬉しい。
さっきは下手を打ってしまったし、私を気遣って万全を果たせないコナツにはなって欲しくない。足を引っ張る自分の方が嫌だ。
「もう自分で走れるのか?」
「走るのはしんどいけど、コナツ、っ、忘れてない?
私、雲に乗れるんだよ」
「そっか、そういやそうだったな」
"伏"の字の太鼓を叩いたアンズは、黒い雲を生み出して、ぺたんと腰を全部沈めて座り込む。
けほけほと未だ苦しげな咳を吐くことからも、この状態で走るのはきつかろう。
砕かれた胴の中身が、もうある程度は大丈夫だと言えるほどまで治るにはまだ時間がかかる。それでもこの状態まで持っていければ上等だ。
「ふむ、もう手遅れか。
このままでは逃してしまうことになりそうじゃ」
「おう、もう遅ぇよ」
間に合った、と言えるだろう。
コナツもアンズも逃げに足を使える状況となり、今さら追われても振りきれる。
山林を下り、二人とゼンドウの前に姿を現した、一張羅に身を包んだ青鬼と、それが伴う黒鬼を前にして、コナツは堂々と勝利を断言した。
赤鬼カネグマを滅し、俺達が生き延びることは確定。完全勝利に他ならない。
「わしと一戦交えていく度量は無いのか?
この山の鬼の大将であるわしを討てば、それでそなたの悲願である鬼の掃伐はほぼ済むぞ?」
「まだ早ぇな。
首でも洗って震えて寝てろ」
出で立ちこそ恰幅の良い人間的な風貌である青鬼、青熊獣士は挨拶代わりの挑発文句を述べておく。
無論、このようなことにコナツ達が食いつくとは思っていない。
「では、我らに楯突いた人間への見せしめに、麓の村を滅ぼすことにするかのう。
わしが一声かければ、鬼の総軍で以ってそれを為すも容易いことよ」
「勝手にしな。俺には関係ねえ」
「え」
アンズも思わず声が出た。
逃がさぬための駆け引きと見做して突っぱねる強気ではなく、故郷を滅ぼされても俺は一向に顧みない、そんなコナツの本心に近い声と聞こえたからだ。
アオグマに、コナツの逃亡を防ぐための脅しとして成り立たないと確信させるには充分だったが、それにしたとて血が通っていない声に過ぎる。
「そうか、薄情よの。
では、ゼンドウ。お前がその二人のうち一人でも捕らえよ。
その近さであれば、容易かろう?」
「俺が、それに従うと思うか?」
「従えぬというなら、この山でお前達が御大層に可愛がっておる小妖どもに責任を取ってもらうとしよう。
あのような奴ら、いようがいまいが構わぬからな」
「っ、どうして!?
あの子達がなんの関係があるの!?」
アオグマは、ゼンドウとミズタマにとって大切な者である、大和龍山の力無き妖の喉元に爪先をかけてきた。
思わずコナツ達を振り返ったゼンドウの表情にも、明らかな同様の色が見える。
同時にこれはアンズとコナツにも、恩に近いもののあるゼンドウの大切なものが、お前達が逃げ延びれば滅ぶのだと突き付ける脅迫でもある。
「今、この山を支配しておるのが何者であるのかわかっておらぬのか?
気まぐれに生かされているだけで、随分と驕ったものじゃのう」
「だからって……!」
「お前達の言い分など知らぬ。
ただわしらの言い分を通すのみじゃ。
支配者の言葉とはそういうものじゃよ」
「……卑怯者」
「勝利が全てじゃよ。
カネグマのような、中途半端に己を美化した似非士道よりは良かろう?」
涙目で食って掛かろうとするも、自身の言葉が何の意味も持たぬことを突き付けられたミズタマの嗚咽が始まる。
アンズも思わず、真の悪党の心には何一つ響かぬことを承知の上で、罵倒を発さずにはいられなかった。
カネグマも醜悪であったが、この青鬼にはある意味でそれ以上の浅ましさを感じる。勝利が全てという一種の正論だけでは肯けぬほどのだ。
「のう、ゼンドウ?
お前の判断に、お前の守るべきものたちの命運が懸かっておる。
迷うところではあるまい?」
「……なるほど。
確かに迷うべきところではないな」
ゼンドウはアオグマに背を向けて、コナツ達を近い距離で見下ろしてくる。
そこには、二人が初めて目にする鬼の表情があった。
その目を見れば、言葉以上に、ゼンドウの決断が何であるのか、二人が即座に確信できるほどのものが。
「行け、二人とも。
後のことは、何も気にしなくていい」
「……俺は、何と言われてもそうするつもりだぞ。
すまないとは思わねえ」
「ああ、それでいいんだ。
お前には、お前の大切にすべきものがある。
そして、それは俺達にとっても大切なものでもあるのだからな」
胸を張るべき誇りを眼差しに宿した、気高き鬼の瞳など、一生に一度見られればあまりにも得難い経験だ。
再びアオグマの方を振り返り、三歩前に出るゼンドウは、コナツ達からそれだけ離れたということ。
傷ついたその身体でコナツ達から距離を取れば、もう捕まえることは出来なくなる。
すなわち、彼らを捕らえよというアオグマの命令に、従うつもりはないという意思表示だ。
「ほぉ~、口だけの脅しだと思われておるようでは癪じゃのう。
そう来られては、わしも断固とした応報で以って返すしかないな」
「滅ぼせばよろしい。
俺達は、お前達にこの山を支配されてからというもの、既に死んだようなものだ。
お前達が手を下さぬとも、得るべき糧も得られずに世を去った者達は星の数ほど見送ってきた。
お前達がこの山に巣食う限り、我らは生き地獄から解放されぬ永遠を生きるのみよ」
ゼンドウに縋り付いて心変わりを訴えようとしたミズタマも、堂々と言い放つゼンドウを前にして手が止まる。
確かにそうなのだ。何度、こんな日がいつまで続くのかと嘆いたことか。
自死を選んだものもいて、それを追おうとしたことだって山ほどある。
自ら命を絶つという壮絶な決断を、今が苦しいことによって選ぶ者は意外なほど少ないのだ。
その道を選ぶ者達というのは、今だけでなく未来にすら絶望したからだ。
命あるものが、最も、等しく、恐れる"死"を、自らの手で選ぶというのは余程のことで、この大和龍山にはその絶望が根付いている。
その根源は、今ゼンドウが改めて敵視する色鬼達に他ならない。
「お前達を滅ぼし得る勇士をこの手で葬るなど、この山の未来を葬るにも等しいことよ。
たとえ永劫、今の身内に恨まれようとも、俺はお前達を滅ぼす希望を捨てることは出来ぬな」
「かっかっか、お前の粗末な希望とやらに振り回され、今日まで幸いにも生き延びられた者達もここまでというわけか。
あの世で悔恨に身を焼きたいと言うならそれもよかろう」
「ぜ、ゼンドウ……」
「ミズタマ、済まぬがこれだけは譲ることが出来ない。
たとえ今、奴に従って我ら共々生き残っても、悪鬼がこの地に蔓延る限り、大和龍山に安息の日は訪れぬ。
それは俺達だけではなく、新たにこの山に生まれ育つ者達、安寧を求めてこの山に流れ着くであろう者達の未来をも奪うことに他ならない」
親しくて、可愛くて、大好きな身内すべての命を捨ててでも、名も知らぬ百年後の者達のために、この地を守り抜こうとすることは薄情だろうか。
だが、もううんざりなのだ。悪鬼の気まぐれ一つで命をも奪われる、怯える小妖を心痛めながら撫でることしか出来ない毎日も。
生きているだけでも幸せだと、そうは思えぬ、明日も息苦しいばかりの日々を、向こう何年送ればいい?
ゼンドウの判断は残酷だろうか。
残酷なのはアオグマ達だ。
「俺達は、もう充分に生きてきた。同胞達もだ。
この地獄を知らずに生きていくことの出来る、先の時代の幸福な者達に溢れる時代を決して捨てるな。
それが、この山を守ることをシヅナ様に命じられた我らの使命だ」
「……………………うん」
ミズタマは涙を拭い、ゼンドウに並んでアオグマを直視するよう向き直った。
自分自身の命も、大切な同朋の命も、捨てる覚悟を仮初にも固めて。
大切なものを守り切る力は自分には無かったのだ。こんな生涯に、ミズタマ自身も見切りをつけるには充分なものがあった。
二十年間の絶望は、それ以上の長寿の妖の感覚を以ってしても、その何倍も同じ時代が続くことを思えばどん詰まりだ。
『葛藤を強いられるのはわかるが、これ以上ここに留まるのも得策ではないぞ。
あの手の輩に時を与えてろくなことが無い』
(はい、存じています。
他の色鬼にここへ駆けつけるよう既に声掛けしていてもおかしくないですもん。
気持ち悪いですよね、今この場にある札が全部潰れてるのにあの余裕)
赤鬼カネグマは滅したが、この山にはそれにも匹敵するほどの強気色鬼が、目の前のアオグマの他にも三体いる。
白鬼、黄鬼、それに緑鬼イバラキ。
ちんたらこの場に留まって、それらに包囲されるようなことになったら、今度は一転逃げきることも困難になって詰みだ。
無辜なる命を盾にされた中、逃げの一手を速やかに討ち難い状況には違いないが、踏ん切りを急ぐべき局面にも違いない。
根本的に忘れてはならぬことだが、ここは敵地の真っ只中なのだ。
「ゼンドウ、俺達はもう行くぞ。
お前に託されたもの、何年かかっても必ず果たしてやる」
「ああ、それが約束されただけでも充分だ。
頼んだぞ、若者よ」
コナツもきっと、同じことを考えていたのだろう。
惜別の言葉を向け、それを最後の言葉として受け取ったゼンドウは、振り向かぬままにして笑みを浮かべたことを声色に表している。
もう、満足だ。微かでも、希望を胸に逝くこと叶うなら、行き詰まり閉塞した遥かなる毎日を、過去のものにさえ出来る幸福。
肚を括ったゼンドウは、彼らが逃げる邪魔をするなら、この身を盾にすることも厭わぬとさえ腰を落とし、今一度アオグマ達に向け身構えた。
「――待て」
その時、最も誰もが想定の外であった場所から、コナツ達を引き留める声が発せられた。
アオグマではなく、その後ろに傍仕えのように立っていた黒鬼だ。
前に三歩踏み出して、自らとコナツの間にゼンドウを挟まぬ位置取りを得ると、その眼差しはアンズすら無視し、コナツだけを真っ直ぐ見据えている。
「お前が、大和龍山の鬼の根絶を志すコナツか」
「……おう、確かにな」
「なるほど、強いな。人の子とは思えぬほどに。
今や赤鬼をも凌ぐ強さとなった俺でも、お前との勝負に確実な勝利を誓うことは出来そうにない」
わざわざ付き合う話ではないが、コナツは敢えて黒鬼の語りかける声に応えた。
疎通が出来る黒鬼に物珍しさを感じたのもあるが、耳を傾けてみたところ、思わぬ大言を聞くことが出来たことからも収穫はあった。
黒鬼が赤鬼を凌ぐ強さを得た? 出鱈目な話である。
だが、それを嘘とは感じられぬ、今は発していないだけの潜在的な闘志のようなものも、コナツはこの黒鬼からは感じ取らずにはいられない。
実のところ、アンズもコナツほど切にではないにせよ、同じような印象をこの黒鬼には抱いているのだ。
命も危うい場面を切り抜けて、ようやく討ち取った赤鬼という色鬼の一角。
残る討つべき強敵たる色鬼は四体。
その想定が、この黒鬼がカネグマをも凌ぐ実力であるのが事実だとすれば、かつての想定より大和龍山の攻略は一歩も進んでいない。
得られた情報に損は無いが、それが眩暈を及ぼし得るというのは往々にしてあるものだ。
「だが、今の傷ついたお前では俺には敵うまい。
今は逃げるというのならば、俺も今さら止めはしない。
だが、次に我々に挑む日が訪れるなら、もっと力を身に着けてくることだ」
「お優しいこったな。
その忠告で、俺がお前を打ち破ることになっても構わないっていうのか」
「……真に強き者に敗れるならば、それは俺とて望むところよ」
「…………?」
『……なんだ?
あれは、本当にただの黒鬼か?』
アンズも、テンジンも、黒鬼の表情と言葉に違和感を禁じ得ない。
もしかすると、コナツもそうかもしれない。
主張に筋は通っているが、その目に迫真を感じられないのだ。
歪な思想でもそれが己の本懐であるから堂々と言い放っていたカネグマのように、本心を語る者の目は堂々とするものだ。
あの黒鬼の目は淀んでいる。本心を、隠すかのように。
「お前、名前は持ってるのか」
「伊吹獣士。
力を付けたお前との戦いを、今しがたお前の破った赤鬼以上に望む者だ」
「……おう、覚えておいてやる。
お前は、俺がこの手で葬ってやるよ。
楽しみにしていることだな」
「やってみせるがいい。
出来るものであればな」
そして最後の言葉だけは、心からのものであると信じられる眼。
率直に解釈するとするならば、鬼族の敗北すら本心では望んでいるとさえ思える言動とさえ推察できる。
そんな鬼が、果たして実在するのだろうか?
手段や思想は悪辣でも、勝利を目指すためなら手段を選ばぬだけに過ぎないカネグマやアオグマの方が、遥かに敵として理解できる。
イブキと名乗った黒鬼は、コナツとアンズに、そしてテンジンにさえ強烈な違和感を覚えさせ、強くその心に存在感を刻み付けた。
「もういいでしょう、アオグマ様。
どのみち、これ以上粘っても奴らを捕らえられそうには無い。
トラグマ様もホシグマ様も、ここに駆けつけるにはまだ時間がかかる」
「潮時じゃのう、仕方あるまい。
イバラギの奴も目ざとく睨んできておるし、これ以上は時間の無駄じゃ」
溜め息混じりにコナツ達の確保を諦めたアオグマは、今一度ゼンドウとミズタマを見渡す。
口の端を浮かばせたその表情は、末路は承知よなと念を押す悪辣なもの。
ミズタマは震えたが、ゼンドウは堂々と胸を張り、覚悟の上だと睨み返すのみ。
「ではな、人の子。
寂しくなったこの山を、また賑わしに来てくれるなら歓迎するからの」
カネグマのいなくなったこの山に。
そして、これより葬る小妖のいなくなった静かな山に。
またお前達が来る頃には様変わりした大和龍山を示唆したアオグマは、イブキを伴い山奥へと去っていった。
ゼンドウとミズタマのことなど、いつでも始末できると言わんばかりに放置してである。
大和龍山の闇は深い。
コナツとアンズが当初思っていた以上に、そして新たな現実を知った今の二人が、いま認識を改めて尚それ以上に。
確かな勝利をその手に掴む中でも、コナツも、アンズも、悪鬼の殲滅が如何に果てしなき夢であるか、それを同時に痛感するばかりである。
「アンズ」
「うん」
知って尚折れず。曇り一つ無し。
不可能を可能とするためには、立ち止まっている暇など無い。
ゼンドウがコナツ達を希望と称するなら、その根拠は、現実を目の前にしても明日を追う二人の姿に、何より如実に顕されていた。




