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あんずの神様 ~山波雷神幻想譚~  作者: ざくろべぇ
第弐章  大奈国の鬼退治
35/64

第三四話   ~「いざ尋常に勝負」~



「くははは、どうした! 逃げ回る一方か!?」

「っるせ……!」

「所詮は人の子よ!

 種が割れれば恐るるに足らぬわ!」


 カネグマの戦い方は変化していた。

 コナツに拳と蹴りを素早く何度も差し向ける猛攻を繰り出すが、決して深くは踏み込まない。

 腕の長さも足の長さも、はなからコナツのそれより拳一つぶんは勝っているのだ。

 間合いが違う。自分の届く距離以上に踏み込むことさえしなければ、コナツの攻撃がカネグマの急所に届くことは無い。

 刀を持つ相手に槍で挑む際の利点に近いものを、カネグマは我が身一つで叶えていると言っていい。


 コナツにとって苦しいのは、カネグマの武器である脚や拳を攻略しなければ勝ち目は無いのに、それを叩き潰すすべがない。

 振り抜かれる拳、その手首を殴れば少しずつ相手の武器を痛めされられるだろうか?

 そうされぬよう、攻撃に使ったものをすぐに引くカネグマを相手に、そんな理想論は通じない。

 そもそもがら空きの胴を全力で蹴っても動じなかった強靭な鬼に、回避に徹しながら振りかぶりも無い反撃を当てて何の傷になろう。


「何とかしてみせる……!

 伏火鼓(ふせひつづ)松笠(まつかさ)!」


 まして先ほど、拳と掌底をぶつけ合った際に、砕けてしまった左拳を握れなくなったコナツである。

 もはや今の彼が、一対一でカネグマを討つのはかなり厳しい。

 アンズは意を決し、伏と火の太鼓を連続で打つと、右手の撥を勢いよく振るってその切っ先をカネグマの方へ向ける。

 あまり選びたくない戦法だが、この窮地を脱するには手段を選んでいる暇は無い。


「ほう、目障りなものを生み出したな。

 なかなか厄介そうだ」


 太鼓を打った時点で撥の先に生じていた、拳二つぶんほどの小さな黒雲の塊が、投げつけられるかのようにカネグマへ向かう。

 ばちばちと火花を散らしているのは明らか、いかにも雷雲。

 触れれば痛い目に遭うのが目に見えているカネグマは、コナツと距離を取る形でそれを躱す。

 コナツを攻め立てながら、一切アンズからも意識を切っていない今のカネグマに、稲妻砲撃にも劣る速さの雷雲を投げつけても当たるはずもない。


「まだまだ……!」


「むう?」


 カネグマとコナツの間を通り過ぎてすぐに雷雲は空中でぴたりと止まり、カネグマに向けて雷撃を放つ。

 狙うはカネグマの頭部、特に目立つ額の角。

 そこに雷雲から発せられた稲妻が斜め横から直撃し、カネグマが全身を若干ひくつかせる。

 大きな威力は無い。だが妖魔に特段の威力を持つ神力の稲妻は、この程度でも怯ませるには充分なものがある。


火鼓(ひつづ)っ、春告(はるのつげ)!」


「なるほどなるほど……!」


 空中に静止し、稲妻を放つ黒雲の性質に納得しながら、カネグマは続けざまに撃つアンズの稲妻砲撃を身を沈めて躱す。

 怯みはしたとも。それでも、次にこう来る可能性を思えば無理にでも体を動かし凌ぐとも。

 鬼の強靭さを舐めてくれるなとは、カネグマ内心での呟きだ。


「さて……!」


 正面位置からコナツが消えている。まあそうだろうなとしか思わない。

 追い込まれていた鼠がようやく反撃の機会を作って貰えて、何もせずに一息入れるはずがあるまい。

 澄ましていた耳を頼りに、右側面死角に回り込んでいたコナツの急襲を遅れず察したカネグマは、腰を沈めたまま両腕で顔を守るようにして構える。

 駆け迫る勢いのまま突き出したコナツの正拳は、今一度受けてみて改めて重い。受けた腕が、内側から裂けるかのような激痛すらある。


「やはり貴様も、神の(ともがら)か……!」

「っ、ぐうぅ……!」


 心底うざったそうに吐き捨てて、コナツの一撃を受けた腕で押し返すと、コナツもよろめくように後退する。

 がっちり構えた鬼の肉体は、硬く、重く、まるで崖を正面から殴りつけたかのように不動で頑強。

 痛打こそ与えながらもコナツの拳、それを通じて腕への反動も相応であり、力強く押し返されるだけで表情が歪むほどコナツも苦しい。


「まずは、貴様だな……!」


『アンズ! 来るぞ!』

「やっぱりそうなるよねぇ……!」


 コナツを一旦退ける前から、カネグマの殺気が自分に向いていたことなどアンズもわかっている。

 一対一ならどうにかコナツはどうにかなる。勝負を狂わす不確定要素はあの雷神の巫女だ。

 まずはあいつを仕留めれば詰みだと、ぎらりとアンズを睨みつけて、一気に迫る赤鬼の巨体の迫力は、アンズの肌を粟立たせるにはあまりに充分である。


 一回でいい、一回だけでいいんだ。ここだけ凌げ。

 私にはコナツのように、あいつに接近されて仕掛けられる攻撃を何度も躱せる眼と身体は無いけれど。

 一撃まともに食らったら、私は確実に死ぬだろうけど。

 ここだけ凌げればいいんだ。あいつとの距離も意図的に少し縮めてある。来やすいように、釣ったんだ。

 手の届く場所まで残忍な形相の赤鬼が迫ったとき、彼女がひゅっと息を止めたのは、恐怖に呑まれたのではなく覚悟を決めて自ら止めただけだ。


「死ね!」


 アンズが右にも左にも逃げられぬよう、カネグマはアンズの顔面を横から薙ぐように太い腕を振るった。

 身をかがめて躱すアンズ。まだだ、まだまだ。

 沈めた身を溜めにするかのように、カネグマの腕が自らの髪を掠めて頭上を通過した瞬間、真上に高き跳躍だ。

 跳ぶのが一瞬でも遅れていたら、かがんだ彼女をすぐさま蹴飛ばそうと振り上げたカネグマの蹴りが、彼女の全身の骨を粉々に砕いていたに違いない。

 もう一度同じことをやれと言われても無理だろう。反射神経だけではなく、山勘頼りに跳んで叶えた運任せの生存劇である。


火鼓(ひつづ)(やなぎ)!」


「ちい、っ……! 忌々しい!」


 跳躍しながら火の字の太鼓と、伏の字の太鼓を叩いたアンズは、火太鼓の力で生み出す細い稲妻を自分の周囲にいくつも降らせる。

 下方にはカネグマがいる。すなわち、稲妻の落ちる密集地の真ん中。

 見上げてかばい腕を構えたカネグマにいくつかの稲妻が当たるが、威力の高い稲妻ではないのだ。

 雑魚を露払いするか、難敵相手を怯ませられるか否か程度の細い稲妻。


 それは、カネグマに痛打を与えるためのものではない。

 伏の字の太鼓で生み出した雲で自身の重心、腰を包み、飛行能力のあるその雲に、空中の自分の身体を引っ張って貰う。

 そうして真下のカネグマの方へ落ちることなく、離れた場所へ落ちる軌道へと自らを曲げていき、敵からから逃れる時間は稼いでいる。


「変わらぬ芸よな、命懸けの割には!」


 そうして神力に晒されて動きづらくなったカネグマに、背後からコナツが迫ることなど知れた話である。

 来る前からわかっている。素早く振り返って、また先程のようにコナツの勢いある正拳を構えた腕で防ぎおおすだけ。

 痛いし効いている。だが鬼の剛腕が使い物になるまでにはまだ遠い。

 動かず壊せぬものに二度も右拳を全力でぶつけ、その拳も徐々に駄目になっていくコナツの消耗の方が確実に早い。


「コナツ、退がって!

 火鼓(ひつづ)……!」


「ふん……!」


 離れた位置に逃れたアンズが、力強く火の字の太鼓を叩いている。

 気合の入った音だった。強烈なものを撃つ気配がする。

 アンズの声を聴いて跳び退がるコナツと、撥を自らに差し向けるアンズの挙動はほぼ同時。

 随分臆病な距離から撃ってくるではないか。それだけの距離があって拙者が躱せぬとでも?


春告(はるのつげ)!!」


 もはや、発射直前の時点でカネグマは横っ跳びに躱していた。

 でかい砲撃であれば、甘い回避では掠る可能性がある。

 妖魔に神力は猛毒だ。用心してし過ぎることなど無い。

 誰もいなくなった真正面に向けて雷撃を放ち、アンズは目を見開いて、そんなという顔を見せたことにカネグマもほくそ笑んだものである。


 お生憎さま、あなたの左は盆地の端、右に逃げることはだいたい予想通り。

 悪いけど私、お芝居上手なんだよと、内心してやったりのアンズの根拠はすぐにカネグマの目にも映る。

 先ほど一度カネグマを放電により軽く撃ち、浮かせたままにしていた小さな雷雲は、いつの間にかアンズとカネグマの中間点の上空に移っていた。

 それが、アンズが春告(はるのつげ)の雷撃を撃った瞬間、素早く降りてきて直撃軌道に飛び込んだのである。


「なんだ、とおっ!?」


 雷雲に直撃した雷撃は止まらない。

 厳密にはその雷雲に、そのすべての力を与え、そのまま雷雲が同じ砲撃を逃げたカネグマに向けて放つのだ。

 それはさながら、真っすぐにしか撃てぬ雷撃が黒雲を経由して、軌道を曲げて逃げた相手を追う光景そのもの。

 失敗したと目を見開いて見せたアンズの顔に油断したカネグマが、ぺろっと舌を出した巫女を見て、今さら憎々しげに気を引き締め直しても手遅れだ。

 

 並の妖魔ならば一撃で調伏確実のアンズの大技が、再びカネグマに直撃する。

 あの巨体でありながら、腹から胸までかけてを呑みこみ貫く稲妻砲撃に、全身を攣らせて天を仰ぐカネグマは、もはや悲鳴も呻き声も出ない。

 ただ、稲妻が駆け抜けて尚、カネグマが調伏され消える光景に繋がらなかった。

 耐えきられたのだ。これだけでもアンズからすれば冗談も程々にして欲しい。この技を二発も撃ち込んでまだ倒せない相手はやばい。

 それでも口から煙を吐いて、なんとか腰を沈めてぶはぁと息を荒げる姿からも、相当に追い詰めた攻撃であったことも確かである。


「コナツ!」


 ただちに立て直したくも、コナツの方を見据える首の動きも儘ならぬカネグマは、間違いなく窮地にあった。

 アンズに呼ばれるまでもなく、コナツは既にその足に力を入れ、一気にとどめの一撃をぶち込むために動き始めていた。




「いけませんなぁ」




「っぐ……!?」

「え!?」


 その第一歩が止まった。

 露骨に顔を歪めたコナツが、前のめりな姿勢だったところから、思わず顎を引いて前にいっそう傾きすらした。

 一体なぜ? アンズはそう思わなかった。

 何故ならコナツの方を見ていたアンズには、コナツの首元、露出した肌に小さな何かが飛来して、ちくりと肌に刺さったところを見たからだ。


 それでもコナツはすぐに顔を上げ、勢いよくカネグマに迫った。

 だがアンズにはわかる。明らかに、ここまで幾度も見せてきた彼本来の速さじゃない。

 右拳を引き絞り、この一撃だけはこの好機に、と挑むコナツの前では、痛烈な雷撃に痺れさせられたカネグマが歯を食いしばっている。


「っ、ずああっ!!」


 出遅れたこと、駆ける足が鈍ったこと、それによってカネグマへの到達が遅れた時間差とは、決して大きなものではなかった。

 それでも、必死に命を繋がんとする者同士の戦いでは、たとえ一瞬の遅れとて致命的に機を逃すことになり得るのだ。

 最も間が悪く、コナツが敵に接近したちょうどその頃、ようやく痺れる我が身に活を入れたカネグマが、決死の反撃を振り抜く方が早かった。

 側面より迫るコナツに向け、回し蹴りを放ったカネグマの反撃を、届かぬ中で受けざるを得なかったコナツは腕を構えて防ぐしかない。


 受けた左腕が確実に砕けた。いや、その威力は防御の腕をコナツの胸まで押し込んで、その衝撃を体のど真ん中まで貫通させる。

 直撃の瞬間には、コナツの中では時間が止まったようにさえ感じられたほどだ。まるで、死の瞬間。

 肉体が訴える、この衝撃は人の目には余るという声が叶えたその現象に続くのは、ただただ致命的で残酷な現実の続き。

 丸太のように太いカネグマの脚がコナツを蹴飛ばし、再び盆地の斜面に、先ほど以上の速度と威力で彼を叩きつける結果だけが残った。


「……フン」


 今のは危なかった。本当に危なかったのだ。

 カネグマが胸を撫で下ろすかのように鼻を鳴らして笑う姿からも、アンズの目にもそうだったはずだとわかる。

 そんなカネグマがアンズの方をぎらりと睨みつける表情からは、もはや早くも生存できたことで浮かべていた笑みすら消えている。


「あとは、貴様だけだ」

「う、うそ……私、一人で……?」


 コナツと二人がかりでどうにか渡り合ってきたところを、その頼みの綱が切られた。

 あの一撃を受けてしまっては、コナツが死んでいなかったとしても、流石にそう簡単には戦線復帰など叶うまい。明白なことだ。

 アンズがたじろいで、見るからに狼狽する表情は、果たして芝居か、本心か。

 たとえそれが芝居でなく本心であったとしても、先のアンズの顔芸を目にしたカネグマが、弱った子兎だとアンズを侮ることも今更あり得ない。


 接戦であればあるほどに。

 最大の好機とは、覆された瞬間に最大の窮地だ。











「ふっほっほ。

 久しぶりに撃ってみたが、腕は落ちておらんようで安心したわ」


 山の中腹。

 木々生い茂る中に身を隠して胡坐をかき、愛用の矢筒をご機嫌に手元でくるくると回す鬼がいる。

 世に知られる鬼とは全く風変わりな風体で、肥満体を成金商人が身に纏うような一張羅で包む、露出の少ない着こなしだ。

 太い腕と脚も、出っ張った腹も衣服に覆い、自慢の肉体を晒す鬼の姿とは一線を画している。

 傍目から見て鬼らしさと言えば、彼方に見下ろす人の子の危機を楽しそうに眺める醜悪な面構えのみで、一方それこそが最も妖らしき特徴でもあろう。

 ある意味で、その風体だけで鬼族の中でも特別な地位にあることを示し、そこに肌の色も併せればいっそう貫録が物語られる。


「のう、イブキ?

 あんな遠い的に的確に当てられる芸当も、ただの遊び技にしては馬鹿に出来ぬものじゃろう?」


「……お見事」


 地べたに腰掛けるその鬼のそばには、大人ほどの背丈の黒鬼が立っていた。

 体格こそ鬼らしく屈強ではあるものの、大鬼と呼ばれる大きさではなく、少し大きめの中鬼というところ。

 鬼族の中では最も格下の黒鬼が、名前を賜っているというのは珍しい話であり、尋ねられたことに応える対話が出来る知能があるというのも同様だ。

 そんな"イブキ"と呼ばれた黒鬼は、彼方のアンズ達を見下ろして無表情。

 黒目の無い鋭い白眼は感情が読み取りづらいもので、何を考えているかを見て想像することも難しい顔立ちである。


「それにしてもカネグマめ、些か不甲斐無いのう。

 神の力を借りた者二人が相手というのはわかるが、あのような小僧と小娘を相手にあそこまで手こずるのは頂けん」


 一張羅の鬼は、青い手で脇に置いてあった酒壺を握り、ぐいと煽って臭い息を吐く。

 人が口にすれば舌が焼けるような鬼の酒も、この色鬼の青い顔を、そう簡単に赤く酔わせることはない。

 あくまで素面のまま、矢筒で放った矢でコナツを射抜いたことを喜び、カネグマの苦戦ぶりに苦い顔をし、感情が忙しい。


「まあ、いよいよとなればわしも前に出るがのう。

 イブキよ、いつでも降りられるように控えておくのじゃぞ」

「……御意」


 大和龍山の鬼を統べる青鬼、青熊獣士(あおぐまじゅうし)

 鬼を討つべく、たった二人でこの山へ乗り込んできた人間に、興味と警戒心を抱いた鬼の親玉は、自身の管轄外まで赴いてアンズ達を眺めていた。











「カネグマあっ!」

「む!?」


 アンズがどうしようかと短い時間で戦い方を考えていた中で、思わぬ声が狭いこの盆地に響いた。

 人間と鬼の戦いを見届けようとしていた赤鬼ゼンドウが、抱きかかえていたミズタマを地に降ろして突然動いたのだ。

 襲い掛かってきたゼンドウの両手を、カネグマもその両手で受け止め、互いの手を握り潰そうとし合いながら拮抗した力で押し合う形となる。


「ぬぐぅ……!

 なんのつもりだ、ゼンドウ!」

「貴様はまだ戦うつもりか!

 あのような勝ち方で、貴様は満足だとでも言うつもりなのか!?」


 カネグマはコナツに傷つけられた腕、神力で貫かれて弱った身体が軋むがゆえ、今はややゼンドウに押され気味である。

 だが、ゼンドウの言葉に苛立ちを覚えたか、言われたことに切っ掛けを得たかの如く、地力で劣る相手をじわじわと押し返し始めた。

 ゼンドウも危機感を覚えて表情を険しくするが、根本的なる力の差は覆らない。


「闘争を侮辱しているのは貴様の方だ……!

 命のやり取りに手段など問わぬ! 勝者が全てであろう!

 薄ら寒い人間どもの勝手な理屈に毒されて勝ち方を選りすぐるなど、貴様こそ闘争を至高とする鬼族の面汚しだ!」

「ぬ、ぐぅあ……!

 っ……貴様は、いつだってそうだな……!

 自分に都合の良い理屈を、都合の良い時だけ口にする……!」


 食いしばる歯にひびが入りそうなほど力を込めたゼンドウが、本来以上の力を発揮して、押し倒されずに僅かに押し返す。

 カネグマも僅かに驚いたが、こんなものが長く続くはずもない。

 焦ることなくいっそう力を込め、拮抗させた力を保ちながら、ゼンドウを再び押し返さんとする。

 震える両者の全身からも、尋常ならざる力がそこで交錯していることは、アンズの目にも明らかだ。


「っ、っ……!」


 アンズには選択肢がいくつかあった。

 ゼンドウに動きを止められている、そしてこの状況が長続きしないであろうことを鑑みて、この隙にカネグマを撃つという選択肢もだ。

 やがてカネグマがゼンドウを退けてしまえば、もう二度とこの千載一遇の好機は無い。

 それでもアンズは、コナツの方へ駆けた。かすかに自分の動きも目で追っているカネグマの視線から隠れることもせず、真っすぐにだ。


「コナツ……!」


 全力で走る中、"咲"の字の太鼓を撥で叩いていたアンズは、先程と同じように斜面に背を預けたコナツの前に辿り着いた。

 だが様相は先程とまったく違う。口を開きながら、息を吸うことも吐くことも出来ず喘ぐ、苦しそうなコナツが右手で胸をぎゅうと握っている。

 アンズが切羽詰まった勢いで手を伸ばしたのはコナツの首筋だ。


 あの時見逃さなくてよかった。やはりコナツの首には、小さな針に刺されたような赤く小さな傷があった。

 刺さったものはコナツが自分で抜いたか、それとも単に落ちたか。

 アンズは"咲"の神力を目いっぱい込めた手でその小さな傷穴に触れ、今まさに死の間際にいるコナツを救うための神力を注ぎ込む。


「っ……………………かは、っ!」


「よかった……! 間に合った……!」


 決して戦いが終わったわけでも無いこの状況下にありながら、ほっとするあまりアンズは脚の力すら抜けそうになった。

 ちょっと涙目にすらなるのは、本当に間一髪だったと思うから。

 悪しき毒や病を打ち払う"咲"の神力が自分に授けられていなかったら、きっと本当にコナツの息の根は止められていたはずだ。


「はぁ……はぁ……

 悪い、アンズ。俺いま、死んでたんだな」

「もう、冗談きつい言い回しして笑ってる場合じゃないってば!

 今はゼンドウさんがあいつを止めてくれてるけど……!」

「…………はは、あいつ身内からも嫌われてんのか。

 ざまあみやがれってんだ」


「ゼンドウやめてえっ! 逃げてよおっ!

 あなたが死んじゃうのは嫌だよおっ!」


 カネグマは既に、ゼンドウが膝をつくほど押し返しきって、押し潰す形を取っており、その上でアンズ達をも横目で見ている。

 焦りが見て取れるカネグマの表情だ。ゼンドウ如きに足止めを食らっている間に、あいつらが復帰してくるとまずい。

 泣き叫ぶミズタマの声など一切顧みず、一刻も早くゼンドウを無力化すべく、相手の顔面に膝を叩き込み始めた。


「……さぁて、行くか。

 寝てる場合じゃねえわ」

「コナツ、やれるの……?」

「出来るかどうかじゃねえ、果たすんだよ」


 動く右手で地面を押し、がたがたの身体で苦しげに立ち上がるコナツは、もう左腕が使い物にならないのが見るも明らかだった。

 肩から落ちて、指先に力一つ入っておらず、体を前に傾ければそれにつられ、振り子のように僅かに揺れるほど。

 万全の状態で挑んだ相手に、この状態で挑むことなど、正気の沙汰ではないはずだ。


 撤退の二文字は、アンズの脳裏にも浮かんでいる。

 力を添えてくれたゼンドウを見捨てるも同然のその選択肢は、やはり選ぶことは出来ないけれど。

 選べぬ根拠は、それだけではない。それだって、アンズにもわかるし、コナツだってわかっているはずだ。


「逃げて、いつ成し遂げられる?」

「……そうだよね」


 生き残りさえすれば何度だってまた機会はある。よく聞く話だ。

 では、風向きが悪くなれば逃げて、再び立て直してからまた挑むことを繰り返していけば、いつかは悲願も達成できるというのだろうか。

 まあ、いつかは出来るのだろう。人に無限の時間があるのなら。

 ちょっと怪我した程度で芋を引き、次があるさと己の命を可愛がる程度の覚悟で鬼が討ち取れるものなら、とうの昔に誰かがやっている。


 相手が未だ無傷で片腕取られたならまだしも、戦況は確実に進んでいる。勝機を見極めろ。

 自分の命のことを第一に考えるばかりでは、絶対的に人類よりも強い存在を打ち破り屠る大金星など、百年あっても叶えられまい。

 一厘でも勝機を感じるなら捨てるな。(なげう)つべきは己の命だ。

 はなから本来一厘の勝ち目も無いはずの相手を葬らんとし、自分で選んで敵地に臨んできた身が、腕一本取られたぐらいで逃げていて話になるものか。

 先の見えぬ崖の向こうへと、恐れず跳ぶことが出来ねば果たせぬ偉業というものは実在する。

 人の手で鬼を討つというのは、それに相当する奇跡的快挙なのだ。


「まあ、見てろ。

 もう負けねえからよ」

「…………?

 ほんと?」

「お前の目に俺がどう映ってたかは知らねえが、これでも案外ずっと冷静にやってたんだぜ。

 鬼のことが憎くてしょうがねえのは確かに事実なんだけどな」


 アンズは少なからず予想外のコナツの表情に、返す言葉を見つけられなくなった。

 親の仇でも前にしたかのように、憎しみに身を任せて戦っているようにしか見えなかったコナツなのだ。

 これでもずっと冷静にやってた、というのがすぐには信じられない根拠をここまで見てきたアンズをして、すぐに頷ける言葉じゃない。


「きちんと勝ち筋を探しながら戦ってんだよ。

 絶対に負けられねえ戦いなんだから当たり前のことだろ。

 活路は見えた、もう勝てる。

 だけど、それが見えるところまで生き延びられたのはお前のおかげだ。

 ありがとな、アンズ」


 心配そうなアンズに、それは無用だと証明するかのように、コナツは穏やかに語りながらアンズの頭を撫でる。

 思わぬ行動に戸惑いながらも、実妹を持つ彼が、年長者としての頼もしい姿を見せるために常に見せてきた、そんな挙動だとはすぐに想像がつく。

 気安く女の髪になど触れぬであろうはずの彼が、思わず手が動いてしまうほどには、余裕を失い思慮を欠いている表れでもあるのだが。


 信ずるべき友だ。きっと、嘘なんてついていないはず。

 疑うことよりも難しいのが信じることで、それでいて、それが出来ねば果たせぬことが、この世には沢山ある。

 それをよく知るアンズだからこそ、大いなる試練を前にした時にどちらを取るかと言われれば、信を選ぶ勇気が絞り出せる。


「俺を信じて送り出してくれ。

 後ろはお前に任せる。それさえあれば、何も怖いものなんかねえ」

「……わかった。

 その左腕、どうする? 時間は少し使うけど、治せるよ……?」

「問題ねえ。

 もう見極めた相手を仕留める程度のことなら、片腕で充分だ」


 かえって、アンズもまた心配になってくるのだが。大きく出過ぎじゃないか? と。

 だが、ゼンドウを追い詰めて叩きのめしているカネグマの方を向き、再び闘志を宿すコナツの眼光には、その言葉に迫真すら持たせる気魄があった。

 コナツのことがわからない。しかし、私がまだ見ていない底があるのではないかという期待を抱かずにいられぬものが、彼の横顔にはある。

 きっとコナツは例えるなら、戦場で将の地位を任されることあらば、友軍に士気を抱かせる覇気の主として、戦を勝利へ向かわせられる類の傑物だ。


「がは……ぅ……」


「もうやめてえっ!

 ゼンドウを殺さな……はがうっ!」

「邪魔だ、小妖が!

 貴様如きに構っている暇など……」


「おい、もういいだろ」


 幾度も蹴られてふらついているゼンドウの頭を持って立ち上がらせ、とどめとばかりにその顔面を殴り抜いた直後のカネグマ。

 さらには、自分の足に縋り付いて慈悲を求めるミズタマを蹴飛ばして転がすと、足を振り上げてゼンドウを踏み潰そうとする。

 コナツが足元の手頃な石を拾い上げ、そんなカネグマに向けて投げつけなければ、ゼンドウの腕が一本粉々になっていたかもしれない。

 力強く投げつけられた礫は、人の頭に当たれば割れた傷と大流血が約束されるほどのものであったが、カネグマは羽虫を払うのようにあっさり撥ね退けた。


「お前のくだらねえ口癖を借りて言ってやるよ。

 いざ尋常に勝負、ってな」

「ふん、それが本心なら望むところだがな!

 姑息な人間の言葉を鵜呑みにするほど拙者も愚かではないわ!」


「アンズ、よく見ててくれよ。

 意味はわかるな?」

「……信じるよ?

 あなたこそ、巫女の私が"信じる"って意味、わかるよね?

 絶対、裏切らないでよ……!」

「おう、任せとけ」


 尋常に勝負。それは即ち、わかりやすく言えば真っ向勝負の意思表示。

 コナツはカネグマの怒声を聞き受け、アンズに下がるようにすら声をかけている。

 完全なる一対一を望むと表明したコナツに、疑わしくもそれなら結構と、カネグマが再び構えたところで図式は確定した。


 アンズは対峙する二人から大きく距離を取り、この戦いに水を差さぬことを立ち位置でも表明するに等しい。

 だが、そんな彼女もコナツの言外は聞き逃していない。

 よく見ててくれ。ええ、見ておきますとも。


(……テンジン様)

『うむ、わかっている。

 私の声を聞き逃すなよ?』

(存じております……!)


 常にアンズのそばにいるはずのテンジンが、いつの間にか彼女のそばから姿を消していた。

 意図的に消えている。アンズにも意図は伝わっている。

 彼女には、彼女の為すべきことがある。神様の力を借りてでもそれを果たすと、心で固く誓うほどには重要な使命があるのだ。


 アンズはそれに集中することを決めた。

 倒れたゼンドウの腹を蹴飛ばし、転がし、自らもそこから離れた方へ歩み移り、コナツと真正面一対一で睨み合うカネグマ。

 片腕だけしか上がらぬ中で構え、上等だとばかりに腰を引かさないコナツ。

 鬼と、それを憎む若武者の命のやり取りは、どうやら一対一で執り行われることが確定した。

 カネグマは勿論、コナツもがそれを望んでいるのだ。戦場図は両者の本懐に靡かせられるかのように、邪魔者が入り得ぬ空気も自ずと漂い始める。


「どうしたよ、嫌われ者。

 てめえが自分を肯定できる要素なんて、勝ち続けてきた実績だけだろ。

 誇りも自尊心も全部ぶっ壊してやるからかかって来いよ」

「……くくくっ、つまらぬ冗談もここまでくれば笑えるぞ。

 どうやら本気で、単身にて拙者を討つつもりのようだな……!」


 いざ尋常たる勝負になればなるほど、人は鬼には勝ち目が無い。

 コナツはそうは思わない。勝てる相手をそうだと見据えるその眼差しに、生意気さを覚えたカネグマが若干苛つくほどにだ。

 そして、生意気さに苛つくということは、相手の言動が本心によるものであって、策を巡らせるゆえの挑発ではないと確信できるということ。

 尋常なる勝負で人の子に劣るはずもない赤鬼は、そんなものは幻想だと言わんばかりのコナツの態度に、内心密かに怒髪天である。


 舐めるなよ。その一言に尽きる。

 そしてそんなことは、言わせればお互い様だ。


「いいだろう! 望み通り、尋常に勝負だ!

 その大言を悔いさせてやる!」

「こっちの言い分だわ」


 人の子風情がそれだけ追い込まれておきながら、いつまで上から目線でものを言う?

 コナツに襲い掛かる先制攻撃を仕掛けるカネグマ、怒れる赤鬼の迫力ある接近を眼前に、コナツは怯むどころか心にいっそうの火を灯ける。

 叩き潰す。只その一念。

 カネグマがコナツに対してそう思う以上に、コナツはカネグマに対して同じ想いをより強く胸に宿している。


 闘争とは所詮、喧嘩を別の言葉に言い換えたものに過ぎない。

 それはつまり、弱者を蹂躙することに慣れた者が調子に乗っていると、いつか必ず取り返しのつかないことになる世界ということでもある。

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