第三二話 ~災いを持ってくるな~
「何してんだろうねぇ、あいつらは」
「ははは……まあ、特に深い意味はあるまいよ。
少なくとも、ミズタマは遊んでいるだけだろうな」
コナツがゼンドウからある程度の話を聞き終えたぐらいの頃に、アンズとミズタマがいきなり相撲を取り始めた。
胡坐をかいて頬杖ついて、呆れ交じりに眺めているコナツだが、楽しくもある。
アンズ必死なんだもの。ミズタマもああ見えて妖、小柄ではあるが力は強いようで、押しても引いても上手く転ばせられずないアンズは顔真っ赤。
感情がよく顔に出る奴だから、一生懸命やってるのがよく伝わってくるので、そういう見世物は見ていて楽しくなれる。
「ふーん。
余所者の俺達には結構つんけんしてたように見えたが」
「それもそうではあるのだが……あの子の立ち位置は複雑でな。
ああして羽目をはずして遊べる機会も、今や殆ど無いんだ」
河童は取っ組み合いを、人の世で言うところの相撲を好むという話はコナツも聞いたことがある。
あの相撲、どちらの提案でやり始めたことかは知らないが、やっている以上はミズタマがアンズとの得意の遊びを望んだと解釈していいはず。
ミズタマも真剣な表情でアンズの足を浮かせにかかっているが、憎しの想いで相手を痛めつけようとしているわけではないのは見ていてわかる。
相手を傷つけることをそもそもの目的とした攻撃と、決まりごとに則って勝ちを取りにいく動きは全く違う。
ミズタマの戦い方はどう見ても後者だ。目つきは鋭くても、一生懸命というだけであってちゃんと遊んでいる。
「要はそれも、イバラキだとかの色鬼連中、侵略者である鬼どものせいなんだろ?
俺達はそいつらをぶちのめしに来たんだから、歓迎しろとは言わないけど敵視されることもないと思うんだけどな」
「うむ、俺も確かにそうとは思うのだが。
敵の敵は味方、とばかりにはいかぬのだよ」
「まあ、それはそうか」
「厳しい現実を前にした諦観は、辛うじて健全な精神を守るためには賢明であることも多いが、しばしばそれは絶望にも通じる。
ミズタマは、この山の現実と未来に希望が持てないんだ。
健全な人当たりが出来ぬことを、わかってくれとは言えぬのだが、あまり責めないでやって欲しいとも俺は願いたくある」
コナツはそんなゼンドウの言葉に返答を返さなかった。
わかるよそれ、と言おうとしたが、やめておいた。付き合いの浅い相手に、あまり僭越なことは言いたくなかったから。
ただ、コナツにも心当たりはあるのだ。
決して好転しない現実に絶望し、平穏なる日々であれば他者に優しく接せられるであろうはずが、歪んだ人当たりばかりするような人々に。
そんな奴らが、地元に沢山いる。
素直になれるほど健全な精神であればどれだけ良いか。
コナツは和良村の腐れ縁、セイカを思い出さずにはいられなかった。
「ふぎえっ」
押しても引いてもなかなか倒れないミズタマに足を取られかけ、躱した瞬間に隙を突く想いで前に押したアンズ。
そしたら引き倒されて前のめりに転ばされる。
情けない声を出して胸から崩れ落ちるアンズだが、ちゃんと両手をついており、多少は痛いが怪我と言えるほど身体を痛めつけてはいない。
強い妖魔との戦いの日々の中、もっときつく地面に叩きつけられる形で倒れることは多々あって、受け身は元々慣れっこである。
「はぁはぁ……どーしたの、まだ一回もあたしに勝ててないよ?
鬼に挑みにきたって割には、河童に手も足も出ないなんてへなちょこだねぇ」
「むがーっ! 誰がへなちょこかっ!
もう一回っ! 今度はすっ転ばせてやるっ!」
「ったく、往生際の悪い。
さっさと着崩れ整えてかかってきなよ」
立ち上がったアンズはまず、コナツの方に背を向けて、一度帯をほどいてでも、きちんと乱れた巫女服を着直す。
どんなにきつく着付けても、やっていることがやっていることなので、一回ごとに着ているものは乱れる。胸元は常にやばい。
コナツからの視線が本当に恥ずかしくて嫌なのだが、今さら勝つまでやめられない負けず嫌いは、色んな意味で顔を真っ赤にしてミズタマに挑み続けるのだ。
「コナツー! 見なくてよろしい!
私が勝った瞬間だけ見とけ!」
「はいはい」
まあ、正直あんまりじろじろ見るべきではないんだろうなとは思っていたけど。
すけべ心抜きにして、一生懸命なアンズをあまり見逃したくないので、コナツもここまでは目を逸らしてこなかった模様。
流石に我慢できなくなった当人に言われると、くるっと回って彼女らに背を向け座る形を取った。
もう充分。あとはアンズの必死な声だけ聞いて、状況を想像するだけで楽しめる。
「いくよ、ミズタマ!」
「かかって来な!
せー、のっ!」
近い距離からぶつかり合うように組み合うアンズとミズタマ。
最初は小手調べ程度の組み合いだったのに、すっかり本気になったアンズの当たりは強い。
小柄に見えてもミズタマが強いので、米俵を担げる足腰の力で全力でぶつかっても大丈夫だと、アンズも重々承知したのだろう。
息も上がり気味なミズタマが、ぶつかられるたび、んぅ、と声を漏らす程度には強い当たりである。
「んぐぐぐ……あ、あんた体力あるねぇ……!
息も切れてないし……」
「勝つまで、やるぞぉ……!
私の方があなたより、もおっ!?」
どうやら持久力では完全にこちらの方が上なので、ずっとやり続ければいつかは勝てるとアンズも確信している。
が、そうならそうでミズタマも、一回一回の勝負を短期決戦狙いに切り替える。
腰をひねって上手くアンズの懐に潜り込んで、足を払って豪快に転ばせる。
なかなか上手な投げっぷりだ。払い腰とでも名付けられそう。
先程の引き倒しもそうだが、相撲が得意な河童というだけあって技の引き出しも多い。
「んもう! もう一回!
休ませないからね!」
「うわ、見られてないと思ったら着崩れたまま構えた。
女の子としてそれどうなの」
「う、うるせ~! 今の私はあなたに勝つことの方が大事!
ほら早く構えて! 時間稼ぎなんかさせないから!」
ひどい恰好である。襟が左右にはだけ、さらしが丸見え、へそまでちらりと見えるほど。
前かがみになると胸の谷間があらわであり、自覚のあるアンズは錯乱寸前の目の色である。
私なにやってるんだろ。でもやめられない。どうしましょ。
早く勝って気持ち良く終わりたい。一回でいいから勝てればいい。
なんだか先程までよりもコナツはしんどくなってきて貧乏ゆすりを始めた。
見えてないから余計な像がかえって脳裏に浮かぶというか。
健全な男の子の想像力をあまり刺激しないで欲しい。
「コナツ~! 余計な想像はするなよ~!」
「ははっ、ほんと元気だね、あんた。
せー、のっ!」
「見るなっつったり想像もするなっつったり、どうしろっつーんだよ」
棘のある態度だったミズタマが、当人も無自覚に笑ってしまったことすらも、今のアンズはあまり気付いていない。
勝つことしか考えていないからそれで頭いっぱいである。
全力でぶつかって、ミズタマを呻かせて、組み合って、隙があれば足を取りに行く。
ミズタマも上手く立ち回って躱すが、息が上がっていることもあり、最初に比べれば捌きも徐々に遅くなってきている。
「うぐ、ぅぅぅ……頑張るねぇ……
そんなはしたない姿で踏ん張って、女捨てすぎじゃない?」
「はぐっ……!?
ま、ま、負ける、かあぁっ……!
さては弱ってるな!? 精神攻撃してくるなんて姑息なっ……!」
「…………いんらん」
「はーーーーー!?!?!?
いま言っちゃいけないこと言ったぞ!? ゆるさんっ! ぶっ潰してやる!」
「あっぶな……っ!」
ミズタマも風向きの悪さは意識しているのか、心理戦めいたささやき戦法を組み込み始めた。
相手を激昂させて冷静さを奪うという意味ではさぞ劇的な効果をもたらしたが、むかついたアンズの猛攻に焦らせられる局面も生じる。
乱暴に足を払いにきたり、胸をぐっと押し付けて投げられまいと密度を上げたり、アンズの攻めの姿勢が強くなってかえって厳しい側面もある。
その隙を突いてミズタマもアンズの軸足を狙って手足を使うのだが、連戦の中で戦い方を覚えてきたのか、アンズも辛うじて捌いてくるから仕留めきれない。
粘りきれば私の勝ちだ、と勝機を見出した歴戦巫女は、やはりこんな遊びでも培った勝負強さが活かせるということなのだろうか。
「あれは、お前の想い人か?」
「想い人? それは男と女としてって意味で?」
「うむ」
「無い無い無い。
見てればわかるでしょ、あれ山猿っすよ。
人としては好きだし尊敬できるところもあるけど、友達としてならともかく連れ合いとしては……」
「コナツーーーーーーーーーー!!!!!
聞こえてるぞーーーーーーーーーー!!!!!」
「ほらね。
あれにどうやって惚れるんだっつー話で」
「くはは……」
地獄耳といい、必死に相撲しながらも甲高い声で口撃してくる様といい、女房に選んだら一生苦労しそうな予感しかしない。
そもそもあいつ、たまに子供っぽ過ぎるのだ。同い年だから余計にそう感じる。
あの純粋さに魅力は感じるが、女として惚れる対象かと問われると、現状コナツも手をひらひらさせながらあり得んとゼンドウに応えるのが正直な気持ち。
「というか、あんた鬼なのにそんな俗な話も振ってくるのか。
良いことか悪いことかはわかんねぇけど人間臭いよな」
「む……確かに、言われてみればそうか。
ミズタマと関わる時間が長いせいか、俺もいくらか影響を受けたのかもしれぬ。
あの子は人間と親しくしていた時期もあるからか、妖にしては人間臭いところがあるからな」
「へえ。
あいつ昔は人間とも関わるどころか、親しかったぐらいなのか」
河童は総じていたずら心が強いとされるが、人に害を為す妖としてはそれほど強く認識されていない。
人間よりも力持ちで、本気で怒れば尻子玉を取ってくることもあるため恐れられはするものの、河童の側から人間を"襲う"ことは実はほぼ無い。
悪い意味で人間とは価値観が異なり、水際でのいたずらや、力が強い側の持ちかける相撲で大事に至った前例は少なくないため、無害とも言い難いのだが。
やんちゃ過ぎる上に人間以上の力を持つ妖ということで、平穏に生きることを望む人々から距離を取られる、そんな認識に留まっている。
若い河童は人に迷惑をかけるが、年経た河童は分別が成熟しており、なんなら人間に対しても友好的に接してくれる傾向も強いほど。
大事な我が子を河童に関わらせたくない人の親は殆どだが、遭遇すると取り返しのつかない妖魔とまでは思われていない。
話はある程度通じるが不機嫌にはさせたくない、そんな隣人。人間同士でもあり得る範疇の間柄である。
「今の鬼どもがこの山を支配するようになる前のミズタマは、山を下りて人里に遊びに行くことだって多かったほどだ。
ああ見えてあいつも長生きで、若い河童とは違って人間との付き合い方もよくわかっている。
相撲を求める相手も大人ばかりであるし、子供がミズタマと相撲を取りたがればちゃんと手加減もしていた。
時には遊んでくれるお礼として、山の恵みを村に持っていくこともあったほどだ」
「あんたも一緒に山を降りてたのか?」
「いや、流石に俺はこの姿では人間を怖がらせるだけだからな。
山の麓を見下ろすシヅナ様に、今日のミズタマがどうであるかを聞き及んでいただけだよ」
「父さんだな、あんたは」
「ははは……ミョウドウにもよくからかわれるよ」
山を出て遊びに行く我が子を心配し、うちの子は今どうしてるかと、わざわざ目の良い主に聞いていたということだ。
ゼンドウがミズタマを深く愛していること、いっそ子煩悩とさえ言えるほどだというのが、ほんのこの程度の話からでも伝わってくる。
「今の擦れたあの子からは想像しづらいと思うが、ミズタマも本当は優しい子なんだよ。
山の動物達、人すらをも恐れる小さな妖達、力無き者をいつも気遣い、この山に棲む者達をみな家族のように愛してきた。
それは今でも変わらないし、みながそばにいてくれればそれだけで、あの子は向こう百年だって幸せでいられたはずだったのだ」
「それを狂わせたのが、イバラキと鬼の四天王、それが率いる黒鬼どもか」
「奴らの侵略は、数多くのものをミズタマから奪った。
敬愛するシヅナ様は御姿を消し、暴れる鬼どもに葬られた動物も、踏み潰されて消えてしまった妖も数知れぬ。
……ましてあの子は、目の前で、祖父とも呼び慕っていた翁をアオグマに殺されているのだ」
ぢり、とコナツの心に火が灯る。
家族同然の者ではない、本当の家族。
それを奪われた者の嘆きと悲しみは、コナツにとっては他人事ではない。
たとえ決して友でもないミズタマの話であっても、それを聞かされればアオグマという名の鬼に、仇にも近い憤りを覚えずにはいられない。
「すべてが終わった時、膝をついて涙を流し、狂ったように笑うミズタマの姿を、俺は今でも忘れることが出来ない。
この二十年ほどの長い時を経て、ようやく、あの子は、以前のように優しく皆と話せるようになった。
俺とミョウドウでは、あの子にかける言葉すら見つけることも出来なかったんだ。
生き延びた妖や動物が、元気を出すようにとあの子にずっと寄り添い続け、時間をかけてあの子の心を癒してくれた。
感謝の言葉も無いんだ。俺はこの山に棲む者達のことを愛さずにはいられない」
永遠に癒えぬ深い傷を心に負った愛娘を、ようやく立ち上がらせてくれた山の妖達。
たとえそれが、人類にとって相容れぬとされる存在であろうと、きっとゼンドウは人の手でそれらが祓われることを見過ごしはしまい。
ゼンドウが、ミョウドウが、ミズタマが、そして山の神シヅナがかつて護り抜いてきた、人に害を為すこと無き妖が静かに暮らせる山。
きっと大和龍山は、生きるためには住処も限られる力無き妖が、最後に辿り着く安息地でもあったのだ。
それが、崩れた。
神は消え、新たにこの山を支配するようになったのは、乱暴で弱者を虐げることに躊躇いも覚えぬ鬼の群れ。
新たな地に移り住むことも出来ぬ弱き者達は、いつ鬼の気まぐれで踏み潰されるかも知れず、怯えて過ごしていくしかない。
和良村の民と同じだ。恐ろしきものが常にそばにいるなら、逃げるようにしてその地を去れば済む話なのだろうか?
先祖代々守ってきた畑という、生きていくために必要不可欠な生活基盤を、新たな地ですぐに手に入れられるのか?
故郷とは、捨てられないものではなく、逃げられないものだ。
人間も、妖も、どこでだって生きていけるというのは、一握りの強者か、食うものに困らぬ理想郷でしか語られぬ世迷言。
つくづく悪しき妖魔とは、ただそこに在るだけで恐れを撒き、時には及ぼす実害をもって不幸を広げる。
だから妖魔と呼ばれる存在は、討つべき滅すべきと唱えられるのだ。決して、ミズタマやゼンドウのような妖に向けられる言葉ではない。
「お前達への非礼は詫びる。
だが、あの子が外からの者を拒む気持ちを責めないで欲しいのだ。
たとえ閉じられた世界と言われようが、俺達は、ミズタマは、あの頃確かに幸せだったはずだったのだ」
「んなこと知るかとは言わねえさ。
人間だって、よそ者は警戒するんだ。
まして侵略者に平穏をぶち壊された奴が、外からの奴を睨むのは当然の感情だろうよ」
「……すまないな。
ああして、人の子と楽しそうに遊ぶあの子の姿など、もう二度と見られぬだろうとさえ思っていたんだ。
堪らぬよ。何もかもがな」
鬼に抱くべき感情も今は表情には出さず、コナツは小さく笑ってミョウドウに応えた。
笑える話は一つも無かったが、ばつの悪そうな言葉を発する相手の言葉を、受け入れたと示すために浮かべる笑みというものもある。
堪らぬ、というささやかな一言さえ、コナツには重く聞こえたものだ。
やっと昔のように、人と触れ合うミズタマの姿を見られたことも。
そんな彼女が幸せに過ごしていたかつての日々を、守り切れなかったことも。
「にしても、長引いてんな~。あの取り組み。
アンズ粘り強過ぎねえかな」
「うぅむ……おなごとは思えぬな。
いくら疲れてきているとはいえ、ミズタマがあれほど手こずるとは」
コナツもわざわざ振り返って見ることはしないが、どちらかの勝利宣言もなく、うんうん唸り合う二人の声だけが長続きしている。
アンズもミズタマもすっかり汗だくである。それを拭う手も塞がっている。
遠巻きに離れて眺めている小さな妖らも、どっちもがんばれとぴょんぴょん跳ねて楽しむ熱戦だ。
「くそっ、こうなったら尻子玉をっ……!」
「わひゃっ!? こ、こらっ、お尻を触るなっ!
っていうかそんなの卑怯でしょ~!?」
「冗談だよっ、隙あり……!」
「あわわわっ!?
あっ、ぶないっ……!」
尻子玉は直接手を突っ込まないと抜き出せないので、仰るとおり完全に冗談である。
でもお尻を触られたアンズはたまらない。そこ触られて反応するなと言う方が無理。
怯んだ拍子に足を払われそうになって、辛うじて耐えきるアンズは必死で、冗談を言ってくれる程度には楽しんでいるミズタマを意識する余裕も無い。
「ま、まだ粘るの!?
なんでこれ耐えられ……」
「こんっ、のぉ~!」
「うわわ!? ちょっ、待っ……」
片足取られて右足だけで踏ん張る中、さらに押し込まれてなお耐えるアンズは、もはや背中と地面が平行になりそうなほど、後ろのめりに倒れる寸前。
それでも身体を前に持っていこうと腰に力を入れ、ミズタマにしがみついて、さらには体を回して相手の押す力を受け流す。
思いっきり押している中で、目の前から相手が避けてしまったことで、ミズタマも前のめりに体がつんのめる。
それにしても、お互いそうだが、危うくなれば相手の服を掴んででも踏ん張るわけで。
長く続けば続くだけ、襟は広がるし、帯で締めた服もずれてくる。
随分とこの戦いに熱中しているアンズだが、果たして彼女は今の自分がどんな姿になっているか理解しているのだろうか。やばいですね。
「取ったぁ!!
うぅおりゃぁ~~~~~!!」
「はわあっ!?」
それでもすぐに立て直しかけていたミズタマだったが、アンズもミズタマなら持ち堪えるだろうと思い、安易に押し込み倒すことはしなかった。
両腕でミズタマの太ももを抱え込んで、思いっきり持ち上げてすっ転ばせたのだ。
背中と腰からびたんと倒れる形になったミズタマを認識するや否や、アンズが即座に握り拳を胸の前で一振りするほど、今のは会心の一手に違いなかった。
「やっ……たぁ~~~!!
コナツーーーーー!! ついに勝ったよ~~~~~!!」
「おー、やっと勝てっ、ぶはっ!?」
ゼンドウと話し込んでいて大事なことを忘れていたか、呼ばれてうっかり軽はずみに振り向いたコナツである。
ひっでえ恰好で片手を振り上げ、嬉しそうにぶんぶん振ってる女がいる。
帯に締められて体の前を隠していた服は、とうにぱっかり左右に割れきって、もはや羽織るだけ羽織って帯だけ巻いている状態と言って過言無い。
上から順に、鎖骨も、さらしも、おへそも、そして何より致命的なことに、畚褌まで全部丸見えである。
あいつ絶対、今の自分の姿がわかってない。
「お前~~~~~! ど変態かっ!!」
「へっ? あっ!?!?
ちょっ、だめっ、こ、こ、こっち見な……」
「もう見てねーよ! さっさと着直せ!」
舌を噛み切って死にたいほどの羞恥に目を星にしたアンズが、わたわたしながら服を整える姿を、打った腰をさすりながらミズタマは見上げていた。
一回でもあたしを負かすなんて、悔しいけど強いんだなって。
そして、悔しいと思うほどには勝負に熱中していた自分を、つまり楽しんでいた自分を自覚して、はぁと小さく溜め息をつく。
わかっているのだ。
害意無き来客を、冷たく突き放すことに意味が無いことぐらい。
かつて人里に降りてでも、人間たちと一緒に遊んだ遠い過去の日々が、今のミズタマの脳裏には妙に蘇るのだった。
「コナツ、さっき見たものは忘れるんだぞ」
「衝撃的過ぎて無理」
「くそっ、すけべめ」
「おめーが勝手に見せてきたようなもんだろが。
この淫乱」
「しねー!」
「やめろよ、首を狙ってくるな」
きちんと服を着直したアンズが、コナツの首を絞めようと両手を突き出しているが、手首をコナツに握られて止められている。
若干頭がおかしくなっているが、お嫁に行けない級のものを晒してしまった直後なので、そうそう冷静ではいられないのだろう。
人に忘れろと言うが、彼女自身こそさっきのことは忘れたいはずである。当分は無理そうだが。
「……ねえ、アンズ」
「え?
はい、なんでしょうか」
茹で蛸みたいな顔色でコナツを責めていたアンズだが、ミズタマに話しかけられたら途端に冷静になって振り向く。
流石に顔色はすぐには戻らないが、表情は既にミズタマの話を聞くものに変わっている。
アンズの手を離したコナツだが、切り替えの早すぎるアンズの横顔に、こいつ妙なところでばかり凄いなと変な感心をする。
「あんたが害意を持ってこの山に来たわけじゃないことはわかったことにする。
でも、やっぱり帰ってよ。
あたしは、あんた達に余計なことはして欲しくない」
「ミズタマ……」
「ごめんゼンドウ、これだけは言いたいんだ。
あたしはやっぱり、よそ者を受け入れたくない」
いくらか態度は軟化しているが、やはりミズタマはアンズ達を拒絶する初志を覆してくれていない。
ゼンドウがコナツに、自分の無礼を代わりに詫びてくれていたであろうことも、相撲に集中して見ていなかった上で、そうだろうなと思っている。
ミズタマは、ゼンドウがそんなひとだと信頼しているから。
それでもやはり、鬼を討ちに来たアンズ達のことは受け入れられない。
「……私達では、鬼を討つことは出来ないって思う?」
「思う。
あんた達はきっと、あいつらのことを甘く見てる。
今までにあんた達が、どんな相手を打ち破ってきたかも知らないし、あたしが訳知り顔で言えることもきっと少ないんだろう。
それでもあたしは、あたしがよく知る、悪鬼どもの強さの恐ろしさの方が、若いあんた達の実力を上回っている気がしてならない」
命を捨てるな、と遠回しに言っているのだと好意的に解釈すべきだろうか。
ミズタマの眼差しは、きっとそうではない。排他的な感情が先立っている。
余計なことをして欲しくない、という前言こそが本心なのだろう。
「機嫌さえ損ねなければ、あいつらがあたし達にちょっかいをかけてくることも少ないんだ。
あんた達が中途半端に、勝てずあいつらの身内を屠り、機嫌を損ねたらあたし達はどうなると思う?
どうせ勝てないよそ者に、余計な波風を立てられることがどれだけ迷惑か、きちんと深く考えて欲しい」
「このまま永遠に、あいつらに支配されることになってもか」
「……もう、二十年の間に折り合いはつけたんだよ。
長生きしてれば、妥協しなきゃいけないことだってあるんだ」
決して幸せでなくたって、変えられない現実に見切りをつけ、限られた幸せで満足しなければならないことは、人の世にだってありふれたことだ。
高望みをしない諦観を以って、ミズタマは今の苦境を生きていく決意を固め、遺された者達を護る日々を送っているのだろう。
だからこそ、今以上に現状が悪化することを、極めて恐れるミズタマの気持ちは、厳しい問いかけをしたコナツもわかってはいる。
和良村の生まれとして、心当たりはあるのだから。
「言いたいことは山ほどあるが、俺はお前には従えねえ。
俺は鬼を討ち滅ぼすことが全てだ。
たとえおふくろに頼まれたって、俺はこの道を改めるつもりはねえ」
「コナツ……」
「全部、滅ぼしゃ文句はねえだろ。
お前も心の奥底では、そんな結末を望んでるはずだ」
「…………わかったよ。もう、勝手にしておくれ。
あたしはやっぱり、あんた達のような身勝手なよそ者が嫌いだよ……」
「ミズタマ、行こう。
もうこれ以上、他者も自分自身を傷つけてはいけない」
ゼンドウはミズタマを抱きかかえ、コナツとアンズに小さく頭を下げた。
分かり合わせられなかったことを詫びる想いと、冷たく当たられても言葉を選んでくれた二人への感謝を込めて。
風貌こそ、醜悪な鬼に近いものでありながら、ゼンドウの挙動にはアンズも人と接する時と同じように応えることが自然体となる。
気にしないでと首を振って微笑むアンズに、ゼンドウは恭しそうな笑みを返し、ミズタマもそんなアンズをちらと見てすぐ目を逸らす。
ひどいことを言っても優しくしてくれる相手のことを、直視し続けるのは難しいものなのだ。醜い己を自覚するのは、やはりつらいから。
「おい、ゼンドウ」
「む?」
立ち去ろうとしたゼンドウを、コナツが引き留めた。
呼び止められるのは予想外でゼンドウには多少の戸惑いがあったが、話があるなら聞こうと表情は平静に保っている。
「そっちに行くな。
帰るならあっちだ」
「……何故だ?」
「くせぇ匂いがするんだよ、そっちの方からは。
お前もきっと、顔を合わせて一利もねえはずだ」
「コナツ、ほんとに早いね。
私、ちょっと遅れちゃった」
「鬼が相手なら、きっと俺の方が一日の長があるんだろうよ。
ここにだけは何度も通って、鬼の気配にばかり目ざとくなったからな」
「ほっ、ほぉ~~~。
既に共々臨戦態勢とは、拙者を前にしても逃げぬということか。
嬉しい限りだ!」
その声が発せられた瞬間に、盆地に集っていた小さな妖や動物達は、みな恐ろしきものから逃げるかのように散り散りに去っていく。
ゼンドウが向かおうとしていた方向から、木々をかき分けるようにして姿を現した存在。
それを目にしたゼンドウの腕の中、ひ、と裏返った声をミズタマが発したことからも、これはミズタマ達が敵視し恐れる存在と見て間違いない。
ゼンドウもその存在を恐れるように、ミズタマを抱く腕の力を強めながら、離れる方へと立ち位置を移している。
口角から溢れる牙を吊り上げ、たいそう上機嫌な笑みを浮かべる"赤鬼"。
それこそが、アンズが、そしてコナツが討つべき相手と認識した悪鬼の一角、大和龍山を支配する色鬼の一体である。
その接近に近付いていたアンズも、既に雷神太鼓を背に顕現しているが、初めて見る名高き色鬼を前にすれば、若干腰が引けそうだ。
「……コナツ、あれが?」
「色鬼、"カネグマ"だよ。
今んところ、俺が一番ぶち殺してやりたい相手だ」
「ほう、拙者の名を知り及んでいるとは光栄だ。
だがしかし、初めて相見える者もいるな。
改めて、名乗らせて貰うとするか」
体格そのものは大人より頭一つ大きいほどの、岩のような筋肉質の全身を持つ、腰巻一つ巻いただけの赤鬼。
それでいて、同じ赤鬼でも、ゼンドウとは全く別物であることが一目でわかる。
黒い所ひとつ無い眼球、皺の多い額の端で目じりを下げる眼差しにして、唇に収まりきらぬ無数の牙。
額の上から飛び出した一本角の周囲の頭髪は短いが、海藻のようによれよれで、目に見えて浮いた頭垢が醸す不潔さが見る者を不快にする。
機嫌が良さそうに語る中でもこの形相、どのように取り繕っても人外であることを隠し切れぬ、血と闘争を好む鬼の貌そのものだ。
見ようによっては、かろうじて強面の範疇で収まりそうなゼンドウとは明確に異なる、血肉を食らう妖魔の姿として一線を画した相貌と断言できよう。
「酒呑導獣郎さまに仕えし、鬼の四天王が一角。
赤鬼、金熊獣士。
我らが山を侵す者達よ、ご覚悟召されよ」
胸を張り、堂々とした名乗りと共に鼻を鳴らす、赤鬼カネグマ。
アンズは敢えて、コナツの表情を伺い疎通を交わすことをしなかった。
見るまでもなく、憎しみ以上に不愉快な表情をしていることは想像できたし、そんな心境の彼と目を合わせてもろくな連携の礎は成り立つまい。
アンズも思った。確かにこいつは駄目そうだ。
妖魔相応の見た目だけでなく、精神的にも蔑んで妥当な悪辣な悪鬼だとは、この初見間もなくでうっすら想像できる。
外道は実在する。赤鬼カネグマはきっとそれだ。
名乗り一つでそう看破されるほどの外道なら、もはや迷わず討つべきと断じ、アンズも一歩も引かぬ想いを強めたのみである。




