第三一話 ~名も無き妖の集落~
「ねぇゼンドウ、やめようよぉ……
きっとみんな、殺されちゃうよぉ……」
「案ずるな、ミズタマ。
この方々は、きっとそのようなことはせん。
たとえ俺の目が曇っていたとしても、この身に代えてもそんなことはさせぬ」
ミズタマの手を引くようにして、コナツとアンズをとある場所へと案内するかのように歩くゼンドウ。
黄土色の腰巻のみを身に付けた、筋骨隆々の裸体を晒す大人の背丈の赤鬼ゼンドウは、その気になれば先ほど戦った黒鬼など比べ物にならぬほど強かろう。
色を持つ鬼の強さは尋常ではないはず。そのように想定しなければならない。
「コナツ、コナツ、コナツ、コナツ」
「さっきから俺の名前をぼそぼそ呼ぶなっつーの。
犬をあやす飼い主かお前は。
そんなことしなくてもある程度はもう落ち着いてるよ」
「いつ気が変わって襲いかかるかと冷や冷やしてる」
「情緒不安定か俺は。
疑われるのはわかるけど想像が度を越してると思うぞ」
ゼンドウと対峙したコナツは、ひとまず、何か言いたいことがあるなら話せと言った。
言いたいことが無いならやっぱり始めよう、と言外に含まれたその言葉に、ゼンドウはしばし考えるように黙り込み。
見て貰えれば最も早いものがある、よければついて来て欲しい、とだけ言い、コナツ達に横っ腹を見せてある方向へと歩き始めたのだ。
鬼というのは喧嘩っ早く、戦うことをそもそもの愉悦とするため、血気盛んなコナツのような者と対峙すれば必ず迎え撃つ構えを取るものだ。
そうした鬼の性質を知るがゆえ、戦うことを選ばなかったゼンドウが、異質な鬼であることは二人にもわかる。
その普通でない根拠とその本質には、何があるのか確かめるため、コナツもアンズも今はゼンドウについていく形で従っている。
言葉だけで全て説明して貰えれば話は早いのだが、そう簡単には済まぬことも世の中には多いことぐらい、二人も経験上よく知っている。
橋のかかっていない幅広の浅い川を、ざぶざぶ足を濡らしながら渡り、木々の少ない岩場を越えて進んでいく、短くも濃密な道。
まるで、秘境への隠し道だ。ただの獣道とは趣が違う。
仮にこの山に鬼がおらず、山へ人々が自由に出入りすることが出来たとしても、きっとこのような道のりは誰も好んで歩くまい。
アンズ達の背丈をも越えるほどの藪の前でゼンドウが立ち止まり、少し考えたのち回り道を選ぶかのように、その広い藪の外周を進む。
案内役として、警戒心の強いコナツ達のため、本来突っ切りたい藪を避けて案内する足取りと見え、それもまた隠された地がこの先にあることを匂わせる。
そして、やがて辿り着いた、少々広く開かれた盆地。
平坦地の周りを砂地の斜面が囲い込むような、絵に描いたような浅く広いすり鉢状の盆地だ。
村を作れるほどの広さは無いが、家屋をいくつか建てて集落とする程度のことは出来る広さは確保されている。
あまりに綺麗な茶碗型なので、初見、アンズもコナツも意図的に開かれた場所なのかなと感じたほどの形状である。
「ここには、臆病な妖がひっそりと暮らしている。
出来れば、あまり大きな音や声は控えて欲しい。
みなが怖がってしまうからな」
草むらや、石と岩を組み立てた変な置物がいくつか散見する。
小さなものでは鼠、目につく大きさでは小鹿など、狩られる側に回ると弱い動物達の姿も多い。
木の実が生る木々を盆地の外に携えたその場所は、小動物や虫々がひっそりと集う集落のようだ。
「なるほど、いるな」
「無害なのもすぐわかるね」
野を渡り歩き、妖魔と戦う日々を送ってきたアンズとコナツは、書物で妖魔に詳しくなっただけの知識人より、遥かに妖魔については詳細な知識がある。
人に害を為す妖魔は人の世に口伝として語られるが、人にそもそも関わろうともしない人外は、語られすらもしないのだ。
人里離れた山奥や辺境を歩いてきたアンズ達が目にしたことのある、そうした妖がここには集っている。
岩陰からひょこっと顔を出す黒い墨の塊のような何か。一ツ目だけがあって、初めて見る人間を興味深そうに見上げている。
灰色の靄のような、人の形をした何かがのそのそ歩いている。一度コナツ達の方を見たような動きを見せたが、興味は無さそう。
小さな鼠が、体躯相応の小さな横笛を加えて走り回っている。ちゅうちゅう鳴く声の代わりに笛の音でも発するのだろうか。
青光りする小さくて丸っこい身体にくりくりとした目が二つだけあり、六本の細い脚でかさかさ歩く、虫だか蜘蛛だかわからない珍妙なものもいる。
首と胴体が別れていない全身丸々とした身体に不釣り合いな小さな羽を持つ、その体つきで飛べるの? と思えそうな形の鳥が樹上からアンズ達を見下ろす。
どう見ても蛇の身体で、地を這わず、尺取虫のような動きで前進し、その顔は蜥蜴のような珍妙な存在もいる。
栗鼠やむささびといった小動物らとこの盆地で共存する、名も無き妖の数々が、人に害を為す存在ではないことを、アンズ達は疑わない。
経験則からくる確信だ。調伏するになど値しない。
害獣や妖魔を駆逐する動機と同じものが、この地で見渡せるもの達に対しては当て嵌まらず、大義と呼べるものなど一つも無い。
ここが力弱き妖や動物の集落であることを見るにつれ、やはりここは弱者のために拓かれた、自然界の集落なのだろうと推察は深まるばかりである。
「ミズタマ、みんなと遊んであげなさい。
俺はこの客人と話をする」
「……わかった」
ミズタマはゼンドウに言われるまま、コナツ達から離れて名も無き妖の方へと向かっていく。
その際、ぎっとコナツ達のことを睨みつけてだ。
ゼンドウに手を出したら許さない、という想いが隠しきれないようだ。
「どこか、適当な所に座ってくれても構わない。
小さなものが多い場所だから、足や尻で潰さないようにさえしてくれればな」
「俺はいい。
警戒しているわけじゃないが、立ち話で充分だよ」
「私も座ると姿勢がちょっと……立ったまま聞きますね」
「うむ、わかった。
そちらからは見下ろす形にさせてしまうが、遠慮は結構だ」
アンズは裾が短いので、座ると姿勢が限られる。
砂地の上に姿勢正しく座ると膝が痛いのだ。
ゼンドウは立ったままの二人の前で、戦う意志が無いことを改めて示すかのように座り込み、コナツとアンズの顔を見上げる形となる。
「この大和龍山には、元々数多くの妖が棲んでいた。
山の頂にある、"大和龍大社"に神がおわした頃からだ。
元よりこの山は、けして妖を好まぬ神にさえ、人に害を為さぬと認められた妖も棲まう山だったのだよ」
(……テンジン様、ご存知です?)
『大和龍大社の神と言えばシヅナだな。
大奈国では名高い神であるはずだ』
隣国の神様。
テンジンは、山波天山の頂に構えられた山波神社を信仰の総本山とし、信仰の薄れた今はその山波天山が妖魔の巣窟。
大和龍山の頂の大社に祀られた、"シヅナ"とテンジンに呼ばれた神。それも過去形で、この山も今や鬼の巣窟。
アンズには、他人事には思えぬ話である。
「俺もまた、鬼の身でありながらこの山に棲むことを許されていた。
この山に邪な想いで立ち入り、無辜の者達を追い払う番人という役目を賜ると共にだ。
まあその過程で血生臭い経験もあるのも否定はしないが……それは、今においては意識せずにいて貰えると有難い」
「それは別に」
「ね」
若干きな臭い言葉が出てきても、コナツもアンズも気にしない。
殺生はご法度だが食肉そのものは罪ではない。道理には繊細なものもある。
まあ色々あるのだろう。面識間もない相手の事情も知らぬまま、己の価値観のみで正論めいたものを返す無節操さは控えるべき。
あまり人の世には知られていないことだが、大和龍山は山賊が潜伏出来ない地として長い。
悪しき者が生き延びるために山に逃げ込むことはいつの世もあった話だが、そうした者達は生き汚く動物の肉を狩る。
罪深き命が長生きするために、我が家の隣人でもある大和龍山の動物達の命を屠ることを、ゼンドウは神に許された上で潔しとせず葬ってきたからだ。
その一方で、罪無き者が生きるために、山の恵みや鹿狩りのために山へ立ち入ることは、ゼンドウも見逃してきた。
人を見る目は人間以上に確かなのだろう。アンズ達をこの秘境へ招いたのも、この集落を見ても害を為さぬ者達だと、年の功で見極めてのことである。
「だが、二十年程前にこの山を訪れた、イバラギ率いる鬼どもは違う。
酒呑導獣郎の側近であったイバラギを筆頭に、酒呑導獣郎に従った四天王と呼ばれる鬼どもだ。
イバラギだけは逃げ延び、鬼の四天王はかつて人の手で葬られたと聞いていたが、あれはどうやら正しくない話だったのだろう。
圧倒的な力で我らを捻じ伏せ、この山の神であったシヅナ様をも押さえ込み、今やこの山の支配者として君臨しているというわけだ」
「あんたは赤鬼だろ。鬼の中では上位の存在じゃないのか。
あいつらの数が多いのはわかるが、神様もそばにいて敵わなかったのか」
「鬼は、闘争を悦びとし、それを自らの存在意義ともする者達だ。
俺は既に、その生き様とはかけ離れた生き方を選んでいる。
今でも黒鬼などには後れを取らぬが、未だ真の鬼としての生き方を貫いている者達には、やはり遠く力及ばない。
鬼としては二つも格下の、白鬼トラグマとの力比べですら劣ったよ」
「神様はその、今は御姿を見られないようだけど、あなたは滅されなかったんですか?
話を聞く限りでは、あなたは迎え撃つ立場だったんでしょう?」
「……忌々しいが、イバラギが取りなしてくれた。
俺には"ミョウドウ"という相棒の鬼もいるのだが、共に命を救われここにいる。
ミョウドウは今、別の集落に赴いているのだがな」
どうも自分のことを、鬼の中で特別な権限を持つわけではないと言っていたイバラギだが、鬼の中でも特に発言力が強いであろうと感じる逸話である。
現にゼンドウは、この山の鬼のことをイバラギに"率いられた"ものと認識している。
緑鬼というのも初めて聞いた色であるし、つくづくよくわからない存在だ。
「この地を侵略した鬼どもは我が物顔で跋扈している。
しばしば乱暴なその性分をあらわに、力無き妖を虐げることもあった。
俺は、先住民であるその妖を守ることをイバラギに認められ、この地に古来より棲むもの達の守護者としてここにいる。
ミズタマも、俺にとっては守るべきものの一人だよ」
「あの子もやっぱり妖?」
「見た目にはわかりにくいがあの子は河童だよ。
手ぬぐいの下にあるものは、あまり見せたくないようでな」
ということは、ミズタマの頭の手ぬぐいの下にあるものも想像がついた。
見てみたい気もするが、女の子として、女の子が隠したがるものは見ないようにしようとも思う。
河童にとって、頭のお皿は恥ずべきものでもないのでは? とも思うが、あれだけ人の姿をしていると価値観も変わるのだろうか。当人のみぞ知る話だが。
「俺の本音を言えば、イバラギを含む流れ者の鬼どもには、この地を去って欲しいものではある。
俺は未だ、イバラギを除く他の色鬼どもとは折り合いもつかぬからな。
敗者である俺に、それを訴える口は無く従う他ないのだが。
とりわけイバラギの計らいで生かされているのも事実であり、俺もあいつにだけは頭が上がらんのも実状だ」
「あいつに命じられれば、お前は俺の敵になることもあるってことか?」
「それはお断りだ。
お前達は、私の守るべきものに害を為すものではない。
たとえ俺の命を、ひいては俺が守るべきものの命の未来を秤にかけられても、お前達に歯牙を向けることはシヅナ様に授かった使命に反する。
それはミョウドウも同じことだ」
コナツに肝心の問いをされたゼンドウが、ほんの思考時間も作らずに即答したことからも、これは間違いなく本音なのだろう。
鬼が嘘をつかないという逸話抜きにしても、性根に基づくゆえに他の答えが無く、迷わずの回答であったと確信できる早さだった。
鬼憎しのコナツでも、今の言葉は信頼に値するものだと理解できたほどだ。
「じゃあ、敵じゃねえな。
わかったよ、お前は鬼だが今のところは敵視しねえことにする」
「……信じてくれるのか?
お前が、鬼の俺を?」
「お前は俺がぶち殺したい鬼どもとは同じ眼をしてねえからな」
「そんな相手を真っ先に殺しにかかったのがコナツ」
「うるせえよ」
「いひゃひゃっ、ほっぺをつねるなっ」
コナツの言うゼンドウに対する評価には同意できるものの、それを目撃一番に殺しにかかったコナツに対して、ぼそっと皮肉をぶっ込んでおくアンズである。
ちょっと悪めのいじり方だし、コナツにやわめに頬をつねられて逃げる手間が生じたが、アンズは正直これぐらいは言っていいよねという内心。
コナツとゼンドウの初対面、その時の自分の立ち回りはよく頑張った方だと思う。そうだったから今、話し合えているはず。
自分でもそう思えるほどの実績を思い返すと、多少は好き勝手したくなるものである。
「ところでお前さん、俺が鬼を目の敵にしてるのをあらかじめ知ってる口ぶりだな。
鬼の自分をお前が信じてくれるのか、ってそういう含みがあるだろ」
「流れ者の鬼とは折り合いがつかぬと言ったが、しばしば向こうが絡んでくることもあり、話や酒に付き合う程度のことはする。
忌々しくはあるが、この立場での無視というのも通用はせんからな。
主にイバラギが接点を作ってくる傾向が強いのだが、あいつがしばしば言っていた鬼狩りの若者とは、きっとお前のことなのだろう。
私を見るや否やの姿からも、そう推察している」
「侵略してきた相手とのご近所付き合いを強いられる立場ってのも面倒なもんだな」
「特に、赤鬼のカネグマは頻繁にお前の話をする。
お前と尋常に勝負がしたいと、酒に酔えば頻繁に言うんだよ。
今日が初対面ではあるが、俺にしてみればお前は噂に聞く人物というわけだ」
「カネグマ、ね……
お望みならやってやろうじゃねえかって話だけどな。
八つ裂きにしてやるよ」
「……とりわけ、嫌悪感が強く見えるが」
「あいつが一番の糞野郎だ。
ただぶちのめすだけじゃなく、屈辱に塗れた最悪の末路に追い込んで殺してやらなきゃ気が済まねえ」
「そうか……まあ、そうだな……
あれは俺などよりも人の子にこそ、そう憎まれるものであろうな……」
「すいません、ゼンドウさん。
ミズタマちゃんに話しかけても大丈夫そうですか?」
「む? まあ、構わぬが……
あまり好意的な反応は期待せん方がよいぞ。
あいつは、外来者を嫌うからな」
「そうかもしれませんが、ちょっとお伺いしたいこともあるので」
敵地において、話せる相手との巡り合いというのは、情報収集においては僥倖的ですらある。
ゼンドウは間違った情報を意図的に渡して、後にアンズ達の足を引っ張ってくる気配も無いので、可能な限り鬼達について色々と聞き出す価値はあろう。
アンズは話の途中でありながら、ゼンドウに断りを入れ、軽い会釈をしてからミズタマの方に歩み寄っていく。
それに際して、ちらとコナツに目配せし、あとはよろしくと伝えておくのも欠かさない。
まあいいけど、とコナツは柔らかい表情で少し手を挙げ、行ってこいよと見送ってくれた。
「あんたの立場は複雑そうだが、カネグマ以外の色鬼の話は聞けるか。
口が軽いと叱られる立場っていうなら断ってくれても構わねえが」
「問題無い。
アオグマは少々喧しいが、鬼はそういったことには無頓着だからな。
そうだな、何から話そうか……まずはホシグマに関してだが――」
色鬼、つまり鬼の四天王と呼ばれる者達に関して、口伝として逸話も多数残されているため、実のところはある程度コナツも情報を持っている。
討つべき相手の情報収集など、組織的な強大な敵に挑む単身の兵として、あらかじめ済ませてきてあって当然だ。
とはいえそれは、百年以上前の当時の話でしかないので、今の色鬼の実態を知るための情報として信憑性は半々まで落ちる。
口を軽くしても問題無いとするゼンドウの語りだした内容に、コナツはいつかの勝利のために耳を傾けるのであった。
「――ねえ、ミズタマちゃん。
どんな遊びしてるの?」
一方、アンズは小さな集落の隅に行き、しゃがんで蟻の巣を観察するような後ろ姿の少女、ミズタマに近付いて話しかける。
足元の小さな妖と語らうか、何らかの遊びをしているのだろうとは、アンズにも想像がつく姿だ。
「あたし、あんたより絶対に年上だよ。百年以上生きてるんだから。
馴れ馴れしくミズタマちゃんとか呼ばないで」
「あ……す、すみません、ミズタマさ……」
「呼び捨てでいい。
というかそもそも、話しかけないで欲しいんだけど」
ミズタマは足元の小さな妖を撫でる仕草こそしながらも、一切振り向きもせずアンズに冷たい言葉を発するのみ。
その表情は、アンズには伺い知れない。
だが、受け入れ難い相手を突っぱねるに相応しい、険しい表情をしているわけではないのだろう。アンズにも、そうだと感じられた。
周囲の小さな妖が寄ってきて、ミズタマの表情を案じるかのように見上げているのがその根拠だ。
「よそ者は、駄目?」
「……あんた達が、あたし達に害を為そうとするような奴じゃないだろうってのは、あたしも半分思ってるよ。
でも、いなくなって欲しい。
流れ者は必ず災難を持ち込んでくるんだから。
まして、この強者の楽園にして弱者の窯底に過ぎない大和龍山に、外来者が足を踏み入れて何かが好転する未来なんて想像できない」
しばらく、二人の間に沈黙の時間が生じる。
両膝に手を置いたまま、後ろからミズタマにかける言葉を探すアンズ。
小さな妖と遊んでいた手元が止まってしまい、その妖らに見上げられ案じられるミズタマ。
境遇も、状況も、繊細だ。心通わせ合う対話は実に難しい。
諦めたくないアンズは立ち位置を動かさずに粘るが、打つ手が見つからず往生際の悪さだけが目立つ。自覚もある。
それでも尚しぶといのもまたアンズだが。
「……あ~もう。
年長者のあたしが歩み寄るしかないのか?
そんな辛気臭い空気醸し出しながら後ろに突っ立ってられるとやってらんないよ。
陰気が伝染るだろ」
「ふがっ!?
ちょ、ちょっとやめてよっ、顔触るのは流石にひどいっ」
溜め息交じりに立ち上がって振り返ったミズタマが、アンズの鼻をつまんできた。
髪は女の命と言うが、その理屈で言えば顔なんて、命よりもさらに重い何かである。相応しい例えなど見つけられないほどに。
土を触っていた手で顔を乱暴に触られると、たじろいで逃げたアンズも少しむすっとした顔を返している。
「……話がしたいならこっち来な。
あんたのこと、試してやる」
そう言って、集落の隅にある、砂地の広がる平坦な場所へとミズタマは歩いていく。
アンズは話の取っ掛かりが出来たかと思い、迷わずミズタマについていこうとするのだが。
一歩目を踏み出そうとした時にふと足が躊躇って、ちょっとだけだがつんのめりそうになる。
アンズは念のため、念のためだが、ミズタマの歩いた足跡をぴったり従うかのように、彼女が踏んだ場所と同じ場所を歩幅が小さくなっても踏んで歩く。
この盆地、何が踏んでよくて何が蹴っていいのか、よくわからない。
小石複数を積んだだけの、傍目には路傍の石にしか見えぬようなものとて、小さな小さな妖が身を潜らせる姿を一度でも見れば、万一蹴ったらどうなるか。
歩幅の違う他人の足跡を、自分も同じように踏んで歩くのは若干歩きづらいのだが、これぐらい神経を遣ってもいいだろう。
ミズタマの言うとおり、今の自分は外来者だ。郷に従うための知識も足りていない今、気を付けて付け過ぎるということはないはずだ。
「ちょっとそこに立って」
「え、うん……」
ちらちらとアンズの挙動を振り返りながら見て確かめていたミズタマは、少し面倒臭そうな顔を浮かべながらも、アンズと改めて向き合った。
周囲には何も無く、平たい地面が広がる真ん中で、アンズとミズタマは互いに手を伸ばしても若干届き合わない距離で向き合う。
何のつもりでこの状況なのか、わからぬアンズはちょっと狼狽気味。
「ちょっと遊んでよ。
あたし、取っ組み合いが得意でさ。
小鬼にはよく絡まれるから、それなりに自信もある」
「えっ、喧嘩!?
やだよ絶対やだ! 怪我するだけじゃん!」
「喧嘩じゃないよ、ちゃんと決まり事作ってやるんだよ。
殴ったりもしないし蹴ったりもしない。転ばせ合うだけだ」
ミズタマはそう言って、アンズに遊びの決まり事を説明する。
要は、足の裏以外が地面に着いたら負けの、転ばせ合いっこをしようと。
河童の間ではちょっと流行ったこともあるらしい。おかげで河童はこの遊びに限って言えば、若干力で上回る程度の鬼相手なら負けないほどには得意だとか。
「えぇ~……なんかその自信満々な顔がやだ……
体格では私の方が上だけど、あなたの方が強い気がする……」
「手加減はしてあげるよ。
挑んでくる黒鬼どもを相手にしても単調でつまんないんだ。
最後はただの力比べになるし、仕舞いにはあいつら決まりを無視して殴ってくるしね。
たまにはあたしも、ちゃんと知恵持ってて体格のある奴とやりたいんだよ」
これは、ある程度は親睦を認めてくれていると楽観的に考えていいのだろうか。
どうも只それだけでもないような。
帰れと言っても帰らない、しつこい余所者をちょっと痛い目に遭わせて懲らしめてやろうかという魂胆も若干見え隠れする。
得意かつ敗者が痛みを伴う遊びに、あの流れから誘ってくる時点で、なんだか嗜虐的な企みの匂いがぷんぷんする。
「……わかった。
ほんとに手加減してよ? いじめないでよ?」
「わかってるよ、弱いもの虐めは鬼の専売特許だ。
あたしはあいつらと同じ穴の狢にはなりたくない」
しかしそう言われると、単にアンズを痛めつけるだけのつもりではないのだと、こちらも信じざるを得ない。
こんなこと言っておきながら、気に食わないアンズをいじめるだけのつもりであったなら、それこそ軽蔑するにも値する。
敵意だけのつもりで言っているわけではないのだと、アンズもここで肚を括った。
「教えてやるよ、こう構えるんだ。
最初は組み合うところから始めるから、勢いをつける構えが大事なんだ」
「うええ、そんな脚開くの?
この姿勢やだなぁ……なんかはしたない……」
「そもそもそんな恰好してるからでしょ」
「違うの聞いて! これは仕方なく着てるだけなの!
説明は端折るけど私だって好きで着てるわけじゃないの!」
脚を大きく開いて前かがみになり、拳を地面に着ける構えをミズタマが見せてくれる。
この裾の短い巫女服でそれをやれと……前かがみになることで胸元も正面の相手に丸見えで……いや、相手も女の子っぽいからそれはまあいいとして……
お尻を突き出したこの姿勢は、なんかこう……と、アンズもミズタマの姿勢を真似てはみたものの、ものすごい抵抗感がある。
「せーの、で拳で地面を軽く叩いて、お互い前に出て組み合うんだ。
思いっきりぶつかってくるんだぞ。私は平気だからね。
鬼にも同じようにぶつかられて渡り合ってきてるんだから」
「うぅ、怖い……
私、今から鬼にも匹敵する相手と肉弾戦しようとしてる……」
そうは言いつつ羞恥を堪え、ミズタマに言われた構えを練習するアンズ。
やると決めたら何だかんだでやる。付き合いの良さは性分である。
対話すら拒んでいた相手が、少しでも歩み寄ろうとしてくれているとあれば、余程でもなければ多少は頑張らねば。
価値観の異なる相手との接点を求めるなら、譲歩も必要なことである。
「それじゃあ、始めようか。
転がされても受け身は自分で勝手に取ってよね。
鬼に挑もうとこの山に来たなら、それぐらいは出来るでしょ」
「うぐぐ、逃げ場が無い。
いいよっ、やってやる!
胸を借りるけど、絶対一回は足を掬ってみせるからね!」
両手で膝を強く叩いて気合を入れるアンズ。
なぜか、河童と取っ組み合い遊びをすることになってしまった。
相まって撲り合うこの遊び、神事に知識のあるアンズには心当たりもあるのだが、自分がやることを想像したことは一度も無い。
今日は撲ることはしないようだが、それでも何の心の準備も無かったままに挑むには、なかなか怖いものである。
「それじゃあ、いくよ。
せー、のっ!」
アンズとミズタマの取っ組み合いが始まる。
鬼を討ちにきたはずが、こんなところで余計な傷を作りそうである。
妖の世界に人の身を投じると、想定外のことも起こりやすいものだ。
それにしたってこの展開は、アンズにとって想定外過ぎるものには違いあるまい。




