第二九話 ~緑鬼イバラギ~
「……う~ん、駄目だな」
アンズ達の前に姿を見せた、あまりに人間的な姿をした鬼、茨木獣士。
臨戦態勢に構える雄姿と巫女から距離を取ったまま、指先で緑色の髪から頭を出す角をかりかりと掻く。
その表情は苦笑い気味であり、侵略者を前にしながら余裕を持ったものとも、緊張感に欠け過ぎたものとも取れる。
確実に言えて異質なのは、明確な敵対陣営を見据えながら、敵意らしきものを匂わせぬことぐらいのもの。
それが断言できるだけに、いっそう異質。
「あたしはあんた達と少しお話がしたいんだがね。
今のあんた達は、それを受け入れてくれそうにないな」
「……なんだ。
話がしたいのか?」
ぞぉ、とアンズの背筋が寒くなる。
この大和龍山にも桜が咲き始める暖かい季節にありながら、前かがみ気味に鬼に構えていた背筋が寒すぎて一瞬伸びそうになるほど。
それも、彼女をそうさせたのはこの異質な鬼イバラギではなく、味方に相違無きはずのコナツである。
コナツはイバラギの、対話を望むかのような言葉に合わせるかの如く、構えを解いて両手をだらりと下げ、ほぼ棒立ちの姿勢を見せた。
ただ、彼が発したイバラギへの言葉は、その声色に、一切言葉通りの思惑を含んでいない。
コナツの斜め後ろに立つアンズには、彼の表情は見えなかったが。
真顔で平静に発するような声の底に込められた、深淵見えぬ激情を感じ取れた根拠など、アンズには到底言葉で説明できるものではない。
底無しの憎悪とは、直感だけで誰しもに伝わる。そうとしか言いようが無いのだ。
「あんた、おっかないね。
おっかなくさせたのも、あたし達なんだろう」
「お前ら鬼が俺から奪っていったものを教えてやろうか。
その口でへらへらと対話を望むって言ってのけるお前のことを、俺が今どう思ってるかは想像に任せるよ」
イバラギも苦笑いの表情を改めて、若々しく麗らかでさえある面立ちを真顔に変えている。
きっとアンズとて、今のコナツと敵対する形で対峙すれば、感情に素直な顔をしていられる自信は無い。
むしろ、気に障ったならばと怯えた表情を浮かべてしまうばかりに終始して、今のコナツに跪くことすら厭うまい。
それほどまでに、背後からでもコナツから匂う憎しみの色は怖い。
同時に、そんなコナツに多少の距離がありながらも正面から対峙した上で、真顔でいられるイバラギの胆力を恐れるほどだ。
「だが生憎、あたしはあたしのしたいことを我慢なんてしたくないんだ。
話そうじゃないか、あんたをその気にさせてみせよう」
「ここまではまだ面白いな、お前。
冗談ってのは滑ったが最後、逃げ道無いことをわかってねえのも含めてよ」
「こ、コナツ……」
「悪いけど黙ってろ」
「ぁぃっ」
イバラギに向けて少しだけ笑うような息遣いを聞かせたコナツが、一切内心で笑っていないことなどアンズも知れたものだ。
せめて少しでも冷静に……と、勇気を出して話しかけたアンズも、冷徹な声を返されてもう何も言えなくなる。
今のコナツは話など通じない。そんな彼に、未だ対話を望む姿勢を崩さないイバラギのことが、尚更アンズには信じられない態度である。
「溜めてるものを少しは吐き出してみなよ。
あたしは反撃しないから、かかっておいで。
出来るものなら討ち取ってくれてもおおいに結構さ」
「いいんだな? 殺しても」
「屠ることは鬼の専売特許さ。
獲られて文句など……ちょちょちょ!?」
駄目だもう、私には入っていけない世界だと感じた。
話の途中でイバラギに飛びかかるコナツと、仰天しながら腕を構えてその鉄拳を受けるイバラギ。
いやいや傍観者でいていいはずがあるか、と撥を握って構え直すアンズだが、意図してようやくという程には展開が早すぎる。
「っ、痛ぅ~……!
いや、いいんだよ!? 別にいいけどさ!?
命のやり取りで不意打ちに文句言うような筋合いも無いけどね!?」
「いいから降りてこい」
「こ、怖~……」
『う~む、あれは尻に敷けぬ旦那の類だな』
(いや今そういうのいいですから……)
イバラギは一気に後退してから跳躍し、近場の木の上部、枝の根元を右手で掴んでぶら下がる。
流石に今だけは、地上でコナツと対峙するのは危なっかし過ぎると判断した模様。
コナツの攻撃を受けた左腕はぶらりと垂らしており、今日は使い物にならないかのようにさえ見えるのだが。
「ねぇちょっと、悪いけどもう少しだけ妥協しておくれよ。
あんた達にとっても決して悪くない情報も用意してるんだ」
「怖気づいたようなこと嘯くんじゃねえよ。
どう見ても色鬼のてめえが今の一撃ぐらいで音を上げてたまるか」
「予想してたよりもあんたが強くて参ってるんだよ! 本音だよ!
もう充分きっついのを受けたんだから、ちょっとぐらい話を聞くぐらいのことしてくれてもいいだろ!」
木にぶら下がってきいきい叫ぶイバラギの姿は、強者のそれらしく見えるものでもないし、清々しいほど大人げない。
見た目の程にはアンズより少し年上のお姉さんと見えるあの鬼、言動もどこかしら人間的ですらある。
「じゃああと一発殴らせろ。
防いでもいいから避けるな」
「えぇ~……
まあ、ぎりぎりそれならいい、か……」
ものすごく渋い顔をしながらも、イバラギはコナツの無茶を呑み、樹上から降りてきた。
ただし、一度身体をくるりと回して枝の上に立ち、コナツと自分の間に樹を挟むような場所に降りてからである。
着地の瞬間に飛びかかられるのが相当嫌なようだ。
「避けるなよ」
「はぁ……わかってるよ」
イバラギに歩み寄っていくコナツ。
アンズも今だけは絶対に、イバラギの立場になりたくはない。
鬼すら徒手空拳で瞬殺していくコナツの拳というのはもはや、アンズに言わせれば刀より怖い。
「よし、来な。
きっちり受け切ってやる」
「おう」
イバラギに手が届く場所まで辿り着いたら、コナツは溜め一つなく思いっきりイバラギの顔面をぶん殴りにかかった。
心の準備を接近されるまでの短い時間で強いられ、その上でイバラギは、左腕を振り上げて、それに右手を添える形で受け切る。
嫌な音がした。骨が砕けるような。
受けて後方に跳び、せめて少しでも衝撃を逃がそうとしたイバラギの表情が歪んだのは、決して演技などではないのが明らかだ。
ぎゅうと瞑った右目から、微かにだが涙が確かめられた程には、やはり鬼にしても相当な痛みであったのが窺える。
「きっ、ついねぇ……
だけど、これで話を聞いて貰えるかい?」
「まあ約束だからな。
話が終わったら終わったって言えよ」
「わかってるわかってる、終わったらさっさと帰るよ。
これ以上はたまったもんじゃない」
両手を降ろして拳を握らず力を抜き、臨戦態勢を解いたコナツは耳を傾る姿勢だが、話とやらが終わったら即座に襲いかかるつもりでいるだろう。
人間同士の話でしかないが、女の顔を殴るというのは最低最悪の行為だ。
いかに相手が妖魔とて、あれほどはっきり女の顔をしたものを、あんなに容赦なく殴ろうとしたコナツの、鬼への憎悪はやはり特段のものがある。
イバラギが文句一つ言わないのは、鬼が人に恨まれる自覚がある上で、それを口にしてまたコナツを激昂させるのも避けたいから。
「あんた達は、この山に棲むあたし達、鬼を根絶やしにしたいんだろう。
そんなあんた達にとっての勝利条件と呼べるものを伝えておきたくてね。
無数いる鬼を、本当に一体残らず葬り去るっていうのは、流石に現実的でないこともわかってるだろう?」
「ふーん、確かに俺達にとっては利のある情報だな。
なんでそんなもんをべらべら喋るのかは知らねえが」
「まあ聞いてくれればいい。
話すことで、あたし達にとって都合の良い展開も促せるからなんだ」
(テンジン様、鬼は嘘をつかないんですよね?)
『事情があってな。
少なくとも酒呑導獣郎に従った鬼どもはそうであるし、あのイバラギという鬼も酒呑導獣郎の側近だった存在だ。
奴の思惑は深読みしても構わぬが、発する言葉が真実であるとは見立てて良いはずだ』
(……結構な大物なんですね)
さらりとイバラギの過去を教えてくれるテンジンだが、伝説的大妖魔の側近ともなれば、イバラギも相当な格を持つ身分に違いあるまい。
見た目には、人の子に過ぎぬコナツの徒手の一撃で、今度は本当に左腕が上がらなくなっている姿からも、そこまでの大物には見えないのだが。
鬼は屈強な存在である。いかにコナツが異常な剛腕とて、二発受けただけで身体の一部が駄目になるというのは、大物の鬼らしい姿とは思えない。
見た目だけでは知り及べぬ強さの持ち主なのだろうか。アンズも警戒する。
「無数の黒鬼を率いる格を持つ"色"持ちの鬼は、今この山に五人いる。
赤のカネグマ、黄のトラグマ、白のホシグマ、緑のあたし。
そして酒呑導獣郎さま亡き今、鬼の頭領を任せている青のアオグマだ」
「緑の鬼なんて聞いたことがねえぞ。
お前はどの格にあたるんだ」
「色鬼相手でも対等に話せるが、だからと言ってそれらを従える立場でもない。
黒鬼より上ってぐらいしか確たる立場ではないよ」
コナツも憎き鬼については知識を蓄えてきているようで、相手が嘘をつかない前提であるかのように、疑念で話の腰を折るようなこともしない。
色鬼の格のこともわかっているのだろう。
緑鬼などというのが新概念であることに食い付くのが早いのもそれゆえだ。
鬼は、紫鬼が最上位とされる。かつては酒呑導獣郎がそうであった。
そして上から、青、赤、黄、白と続き、その下に無数の黒鬼がいる。
人の形をし過ぎた上に、緑鬼を自称するイバラギの立場はよくわからない。
酒呑導獣郎の側近であったというならば、紫に代わり緑が今は首魁なのかとアンズも一瞬推察したのだが、イバラギが言うにはそうでもないようだ。
「五人の色鬼をあんた達がすべて討ち果たすことが出来れば、この山にいる黒鬼どもも纏めて滅ぶ。
黒鬼は概念的な存在でね。詳しいことは割愛するが、あいつらは恐れられる色鬼がいてこそ、そこに生まれ集うんだ。
まあ、あたし達色鬼全部を討ち果たした瞬間、すべての黒鬼が灰になるだとかそういう話ではないんだが。
あとは放っておいても、徐々に消えていってこの世から完全に消え失せる、そんな結果になることだけは断言できるよ」
(テンジン様、どうです?
嘘をついてるとは思わないようにしますが、あいつが間違った知識で喋ってたりはしませんよね?)
『問題無い。
妖が存在するために人の"恐れ"が必要なのはお前も知ってのとおりだ。
まったく同じ理屈ではないのだが、あいつの言っている結論は黒鬼のそれを言い表すものとして間違っておらぬ』
「そんなわけだからあんた達は、あたし達色鬼を滅することを目指せばいいのさ。
鬼はどんな強者が迫ろうと、拠点に定めた地から逃げ延び生き残ることを潔しとはしない。
あたし達は力の奴隷だ。逃げて生き残ることよりも、己以上に強き存在に滅ぼされるならばそれを選ぶ。
逃げられる心配などせず、好きな時にこの山に攻め入って、色鬼撃破を志してくれればいい。
あたし達は歓迎だよ」
「そう言う割には腰が引けてんじゃねえかよ」
「今はやだよ、立て直す時間ぐらい作ったっていいだろ。
自分よりも強い存在に滅ぼされることをも厭わないのと、ご都合よく討たれるのを潔しとするかは別問題だよ」
「まあそうだな。
相手の思い通りになるのを拒むのが闘争だからな」
イバラギは今、ものすごくコナツを警戒している。
堂々と立つ姿は腰の引けた姿勢ではないのだが、コナツが前に動く素振りを見せれば、彼女もすぐさま動けるよう足に力は入れているのだ。
コナツも相手が憎いから意地の悪いことを言ったが、自覚はあるので反論に目くじらを立てることない。
「あたし達はこの大和龍山を、色鬼がそれぞれの支配領域を定める形で鬼を統率している。
山の中心、山頂を含む広域を支配するのが青鬼のアオグマだ。
東部の北半分が黄鬼のホシグマ、南半分が白鬼のトラグマ。若干西部にも支配領域を持ってるがね。
そして西からこの山に入ってきたあんた達がいるここが、赤鬼カネグマの支配領土だよ」
「島取り合戦みてえだな。
山を四つの区画に割って、それぞれに色鬼がいるってことか」
「基本的に色鬼はよその島に不干渉だから、色鬼を二人同時に相手取ることは無いと思うよ。
……あ~、まあ、アオグマの奴は好き勝手に動くから、あいつだけは度外視して考えて貰いたいけどね」
「お前は?」
「あたしはそもそも喧嘩が強い方じゃないんだ。
基本的に山へ挑みに来た相手を迎える役目は、他の奴らに任せてる。
他の色鬼が全部ぶっ倒されるようなことでもあれば、流石にあたしも腹を決めなきゃならないだろうけどね。その程度の認識さ」
「せっかく山一つを牛耳っても、その支配の維持には無頓着なんだな。
それとも自分以外の色鬼が全員滅されること自体、あり得ないことだと内心では思ってるってことなのかね」
「あり得ないことだとは思ってないよ。
現にかつては、あの酒呑導獣郎さまですら滅されたんだ。
あたしが頓着するとすれば、あれは悔しかったっていう想いが未だにある程度のものさ。
だからこそ鬼の勢力を復権し、今ここに我ら在りと示せている現状で充分だとも思ってる」
イバラギは頭をがりがりと掻いて、あれだけ警戒していたコナツから目線すら逸らし、若干の苛立ちすら表情に浮かべている。
思い出しただけで悔しい、というのがよく伝わる態度。
そして間もなくして、まずいまずいと再びコナツから目を切らぬよう目線を戻すのだから、今の言葉と態度が心底のものだというのも明白だ。
「だからあたし達は、この山に挑む者を歓迎するのさ。
鬼にも挑まんとするほどの実力者を葬り、帰らぬ人とすればするほど、あたし達の支配を広く世に知らしめることが出来るんだからね」
「あー、もういい。
腹芸はもう飽きてきた、喋りたいなら腹割ってくれ。
お前そんなへらへら喋る本性の持ち主なわけねえんだからよ」
今度はコナツががりがりと頭を掻いて、先のイバラギ以上に苛立ったような声を発する。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い相手の鬼ゆえ、元より機嫌は良くないが、今の不機嫌は埒の明かなさに対するものだとアンズにもわかった。
同じ事はアンズも思うのだ。こいつ、イバラギは妙に底が知れないところがある。
たとえ片腕が駄目だとしても、逃げに徹しさえすればこの局面は切り抜けられる、そう見立ててのあの余裕ある飄々とした態度なのだろうか?
嘘をつかないと言われる鬼が、喧嘩が強い方じゃないと自称することすら、それだけは鵜呑みに出来たものではない。かえって薄気味悪い。
「お前、俺達に有益な情報だけ吐いていって何がしたいんだ?
お前が俺達と喋って得たものは何だ?
答えたくねえなら別に構わねえが、お前が何の思惑もなく喋り倒していくだけの奴だったと俺達が思うほど舐めてくれんじゃねえぞ」
「ったく、そこまで甘く見るわけないだろ。
あんたこそあたしのことそこまで舐め腐ってくれるんじゃないよ。
それだけの気魄を纏ってこの山に挑んでくるような奴を、木っ端と見くびり塩だけ送るほどあたしだって馬鹿じゃないっていうんだよ」
イバラギの声色は不機嫌そうではなかったが、コナツに言われたとおり、もう遊ぶような態度はやめにしたと見える。
美人顔でも、少し眉根に皺を寄せて睨みを利かせ、淡々とした声で反論してくれば、アンズもじわりとした怖さを感じる面立ちだ。
こいつ実際のところ、大和龍山に巣食う色鬼らの中で、上から何番目に"強い"存在なんだろう?
「真意だって隠しゃしないよ。
いちいちこうして顔出して、あんた達と話すことにも、敢えてあんたに一撃受けたことにも、あたし達にとってはきちんと利があるのさ。
二つだがね。大きな二つさ」
動く方の腕を上げ、親指で自分の短い角を一つずつ指すイバラギの仕草は、指を二本立てて要点が二つあることを示す所作と同義なのだろう。
少しの笑みを浮かべながらだ。その口角の上がり方は、先程までの気安い態度のそれではない。
大きな収穫を既に手にした側の、不敵な笑みそのものである。
「黒鬼程度ならその人間離れした剛腕と膂力で葬れるコナツでも、まさか色鬼相手も同じようにいくとは思ってないんだろう?
あんたは必ず、隠し玉を持っている。
その物理的な力以上の、鬼をも滅せる何かをだ。
あたしが避けずに受けてみせた時にも、その片鱗すらも隠し通したけどね。
憎きはずの色鬼を前にしながらも、これからも幾度かある難敵との戦いがある中で、あたしをこの場で滅するより、手の内を見せないことを選んだわけだ。
まあ、たとえそれが何であろうと、あたしも一撃で葬られるほどやわな色鬼の端くれでない自負はあるけどね」
推測の多いイバラギの理屈だが、ほぼ確信したかのように語るそれには、アンズも共感することが出来た。
鬼への憎しみを露わにし、それを目の前にすれば我を忘れて襲い掛かることをも厭わぬコナツであるけれど。
彼にはそう見えて、理知がある。その憎しみを敵の根絶という形で、完全に果たすために――絶対に負けられない戦いを勝利に導くための理知が。
少なくとも馬鹿であるはずもない相棒が、膂力だけを頼りに鬼の掃伐を果たせると楽観的に思うわけがないのだ。
「あんたの隠し玉の正体を知ることが出来ないのは惜しいが、そんなことは想定内さ。
馬鹿でも強くなることは出来るけど、馬鹿だと肝心な時にこそあっさり勝ちを取りこぼす。
あんたが馬鹿でないことを、どうせいつか治る傷を負った程度で、実感を以って認識できただけでもあたしにとっては大きな収穫というわけだ」
戦いにおける情報の重要性など、古来より語り継がれてきたことだ。
それこそ、大勝負になればなるほど、小博打では何の価値もないような小さな情報さえもが、勝敗を分けるきっかけになることもある。
特にイバラギがここで得た、確実に事実であると言い切れる敵の情報というものは、真実だからこそ大きな価値を持つ。
戦において賢しい者は、誤った情報を相手に敢えて巧みに渡すことで、肝心所で敵の目を曇らせることすらするのだから。
負けられない戦いに臨む者の手段の選ばなさは、イバラギはおろか、コナツもアンズも重々知り尽くしている話である。
「そして、もう一つ。
コナツと呼ばれているあんた、今まで何度かこの山の黒鬼どもを狩ってるね?
あたし達の兵を削ぐ意図ではなく、今の自分の力がどの程度、鬼を相手に通用するかを確かめるために」
「黒鬼どもは、減らしても減らしてもいつの間にか沸くからな」
「うちの赤鬼、"金熊獣士"が、あんたと戦ってみたいってうるさいんだよ。
あんたが来るたび、うちのカネグマは嬉々としてあんたが出没したと思しき場所に駆けつけるんだが、いつもあんたはもう逃げた後さ。
毎回あんたとやり合えなくて、ぐちぐち酒呑んでぼやくあいつの喋りも聞き飽きてんだ、あたしもね」
「あの糞野郎か。
俺もあいつのことは鬼どもの中でもぶっちぎりで嫌いだよ」
「あぁ、わかるわかる。
身内のことだから、あたしもそこまで貶したくはないけどね。
でもあいつは駄目だよ、たちが悪いのは同胞のあたしにもよくわかる」
コナツが鬼を憎んでいるのはこれまでの言動からも明らかだが、そんな中でも特段に嫌う相手というのは実在するらしい。
鬼の暴虐に晒された和良村の生まれということもあり、名のある鬼についてもある程度は既に知っているようだ。
確執を生じさせるに値する出来事が過去にあったことなど、彼の鬼に対する眼差しを見れば推して知れる話だが。
「ここから、山頂に向かって真っすぐ進めば、うちの"カネグマ"がいつも居座っている場所に至る。
あたしがあんたにそれを伝えてやれば、あんたはもう迷わないだろう?
それも、トラグマやホシグマのような、あたしも含めて他の色鬼の横槍も無しだ。
さっきも言ったように、アオグマの動きだけは保証しかねるけどね」
「なるほどな。
お前は俺に、色鬼を根絶させられれば鬼を根絶やしに出来る事実を伝えた上で、あのくそ赤鬼を邪魔者無しで潰せる好機を俺に吹き込みたかったわけだ。
そんな話を嘘をつかない鬼の口から聞けば、俺の動きはほぼ定まるからな」
「あんたはカネグマの奴がどれぐらい強いかも知ってるだろう?
その上で、迷うまい。
あたしは見たいんだよ、黒鬼どもを単身屠るほどの人間と、頭は悪いが力だけなら別格の赤鬼との戦いをね。
勝敗の宿命とやらが、どちらに味方するのかを、あたしはこの目で見定めたいのさ」
「見たい、か。
それで、鬼の有力者が敗れても構わないっていうのか?」
「構いやしないよ。
強者同士の戦いなんてものは、どう決着がつこうとも、いかなる意味とて心震わすほどの強き者がそこに残るだけさ。
勝者の勝ち方に拘る贅沢者は、決着次第でけちを付けるかもしれないけどね。
そんな奴らは、真の闘争というものは、強者が勝者になるのではなく勝者こそ強者である、というのを知らないだけなのさ」
「饒舌になったもんだな、ここに来て。
そんなに力ある者が好きか」
「悪いが、本能だ。
だけどここだけは、鬼も人も変わらないはずだよ。
強きものには、ありとあらゆる何者も心惹かれるのさ」
「――その、ありとあらゆる何者か、って私も含まれてるの?」
ずっと、コナツとイバラギの対話に口を挟まなかったアンズが、半ば衝動的に強い声で横槍を入れた。
コナツも思わず、イバラギから意識を切らぬままとてアンズの方にも目をやったが、彼がアンズに抱いた感情は、彼女がコナツに抱いた感情によく似ている。
怖い、とまでは思わないにせよ、露骨に気を悪くした目つきのアンズには、今のこいつに茶々を入れない方がいい、と思う程には棘を感じた。
「あんたは、強者に憧れやしないのかい?
望む生き方を貫くには、あるいは守るべきものを守るためには、強さというものは不可欠だよ」
「争いの無い世を望むことが理想論だと言われようとも、力ある者ばかりが幸福という現実を肯定することを私はしたくない。
あなたの言うことは真理であり正論だというのもわかってる。
だけどあなた達が讃える類の闘争は、私の受け入れ難い本質が必ず免れない」
競争はあってもいい。切磋琢磨が社会の発展を促す。
だが闘争は駄目だ。それによって生み出される新たなる秩序もあろうけれど。
それが現実? 確かにそうなのだろう。
だが、闘争という言葉で実感がしづらいなら、戦争と言い換えてもいい。
「闘争とは、意に沿わぬ者を強引に従わせること。
たとえその末に生み出されるものがいかに高潔でも、流れた血と喪われた命は二度と帰ってこない。
それも、喪われるものは百人や二百人のそれじゃあない」
「そうだね。
それを本能的に肯定するあたし達は、やはり人とは相容れぬ妖なんだろう。
それを承知で尚も訴えるあんたは、そこに意義があると考えるのかい」
「意義なんてない。
決して忘れられてはならないはずの道理を敢えて訴えることに、わざわざと意味を見出すこと自体が愚かだから」
たった一つの命が喪われるだけで、その命が生きてきた歳月以上のものを踏みにじるのだ。
食物連鎖における話であるなら、まだ理解にも及べよう。
利己と思想による命の奪い合いで、のべ何千何百の命が喪われる闘争、戦争の理不尽さを、命を重んじる当然の価値観を持つ者は決して忘れてはならない。
たとえば、もしも、名も知らぬ人々の何万という命が、海の向こうの遥か遠くで喪われる戦争が起こっている事実を知っているとして。
それを他人事のように捉えるのではなく、一秒でも早くその理不尽が終わることを願うことが出来ねば、あらゆる道理を語る資格は無いのではなかろうか。
それこそが、和の国に生まれた者が持つべき魂であるはずだ。
「あなたにそれが理解できないと言うなら、やっぱりあなたは妖だよ。
私達とは、決して相容れない。
あなた達には、対立した者を闘争の果てに葬った時、そこにも信念があったとして、偽善と言われようとも悼まずにいられない想いはある?」
「無いね。
下らないとは思わないが、やはりあたし達にはその感情は沸きようが無い。
敗者は敗者だ。己が望みを叶えられる力が及ばなかった弱者でしかない」
抗いようもなく胸の底から湧き出る感情そのものは、決して善でも悪でもない。
未熟なアンズは、それを今ここで口にすることが出来ない。
今の彼女は、敵を葬ることで己の思想を貫く者、それによって流るる血を顧みることもない存在に対する、強い嫌悪感が勝り過ぎている。
そんな有力者の存在により、どれほどの人が涙を流し、命を奪われ、無念のうちに世を去ったというのだろうか。
ほんの少数のささやかな満足のために、不幸を強いられる命の数を真に想像が至れば、鬼という存在が如何に人類の敵であるかが理解できるはずである。
「意地悪を承知で言わせて貰おうか。
そういうあんたも、あたし達を制するために力を手に立ち向かうじゃないか。
そんなあんたが、武力を否定するのかい?」
「…………私が…………っ…………」
異質な反応。
返答が遅れ、しかも、発しかけた言葉を途中で途切れさせて。
反論に言い淀んだだけだろうか。いや、絶対に違う。
頭に血が上り、目を一瞬見開いた彼女の表情から、逆鱗に触れたことはイバラギの目にも、コナツの目にも明らかだったのだから。
怒鳴らなかったことが、アンズの顔を見れば不思議なほどだ。
(……テンジン様。
今から私が言うことを、お赦し頂ければ幸いです)
『構わぬ、一切咎めん。
すべて赦すから想いの丈を吐き出してやれ』
「私が、こんな力を好き好んで振り回しているとでも思ってるの?」
借り物の神力に対して、このような言い草は不義だろう。
だが、アンズは元々そうなのだ。神力をお借りしなければ退けられない脅威が、この世には溢れ返っている。
そんなものさえ無ければ、アンズはその神力を振りかざし、血を流しながら戦う毎日に身を投じることもなかった。
いつだって痛い。怪我をするたび、万が一にでも身体に傷が残るのが怖い。
喉を切られて息が掠れたこともある。
己の首元から流れる鮮血の色を見て、それ自体は神力を借りて一命を取り留めたものの、あわやの死への恐怖でその日の夜さえ眠れなかったこともある。
妖に命を狙われた人を守り切れず、遺族の涙を目の前にして胸が引き裂かれる想いに駆られたこともある。
理不尽な現実に抗う力を持つことを、恵まれたことだと思うことはあったって、己の自慢だなどと思ったことは一度も無い。そもそも借り物だ。
悲劇や苦痛に直面するたび、思うことなどいつも一緒。
こんなことが二度と起こり得ない世の中であるなら、どれだけ素晴らしいか。
戦争は、人類史において、時には不可欠なことであるのも確かかもしれない。
それでも、アンズは確信する。それは、歴史を大局的に見た時だけ語られて、その世代に実在した数多の悲劇を軽視した理屈に過ぎないのだと。
客観的な論述とされるものは、多くの場合、ただの部外者の勝手な言い草だ。
「いいじゃないか、相容れなくて。
あんただって、相容れなかった者とも案外歩み寄れることはあっても、分かり合えない者がこの世にいることだけは知っているだろう?
その相容れなさが、私達には都合がいいのさ。
挑んできてくれるんだろう? 鬼は、人類への蹂躙を決してやめないよ」
「……鬼は闘争こそが、生き甲斐にして本能」
「あたし達は、滅びるその日まで永遠にそうだ。
滅してみなよ、出来るものならね。
あたし達だって、黙って滅ぼされてやるつもりは無いからね」
短い髪をかき上げる挙動を見せたイバラギは、ここが話の一区切りだと表したかのよう。
今一度、アンズとコナツを見据えたその眼差しは、今ここでやり合わぬことが確定していながら、挑戦者達を迎え撃つ鬼の大物のそれだ。
いつでも襲いかかれるコナツが、やはりここでも動かぬ程度には、負傷して尚その姿に隙は感じられない。
「あたしは酒呑導獣郎さまの遺志を継ぎ、鬼の本質と力をこの世に顕すことを使命としている。
まずは、あたし以外の色鬼をみんな片付けてみな。
鬼の存続が危ぶまれたその日なら、あたしもあんた達の信念の刃から逃げも隠れもしないさ。
まあ、あたしを討ちたくてもそう焦るなってことだよ。
あんた達にそれに相応しい力があるなら、その日は逃げず、必ず訪れる」
そう言ってイバラギは高く後方に跳躍し、高い樹木の半ばの枝に着地する。
手の届かない場所、アンズの雷撃で狙撃しても免れてしまうであろう距離を稼がれた形だ。
話はここまでとし、撤退する姿を見せたイバラギを、二人は業腹ながらも見送るのみ。
「ようこそ。
天下第二の妖、鬼の巣窟へ。
心躍る闘争を演じてくれると期待しているよ」
胸を拳で叩き、来るなら来いと不敵な笑みで見せつけたイバラギは、高き木々を飛び移っていく形で山奥へと消えていった。
討つべき最大の敵、色鬼の一角、緑鬼イバラギ。
三下狩りに過ぎぬ戦いの場に、突如参じたそれとの対峙は予想外であったが、アンズとコナツにははっきりと目指す道を示していった存在でもある。
大和龍山を妖魔から奪還するため、あるいは私情のために鬼を根絶やしにするための戦い。
強い覚悟を以ってこの地へと臨んだ二人の胸には、いっそう燃え盛る灯が強く宿っていた。
きっと、それさえ、イバラギの望みなのだろう。




