第二七話 ~和良村とコナツの家族~
大奈村に朝日が差す。
お天道様の光がもたらす夜明けは、昨日までのいかなる苦難も一度は終わりを迎え、新しい一日の始まりへと皆が漕ぎ出す道しるべ。
農村でも、都でも、京でもそれは変わらない。
あらゆる建物が整然と並ぶかつての京、大奈村に限って言うなら、お日様が低いうちは日陰がまだ多く、ある意味で都らしい朝を顕す顔を持つ程度だろう。
薄暗くも明るい朝の爽やかな地上の青みもまた、人の世を飾る色彩の一つである。
「それじゃあ行ってくるよ。
ハルミ叔母さん、ありがとうな」
「いいのよ、いつでもいらっしゃい。
何だったら、お金だって持ってこなくていいぐらいなんだからね?」
「ハルミさん、一夜の宿をありがとうございました!
ぐっすり寝られて元気いっぱいです!」
「うふふ、こちらこそありがとう。
あなたの炊いてくれたお米、ふわふわで美味しかったわ」
ハルミの家に一晩泊めて貰ったコナツとアンズは、朝食後、さっそく身支度を整えて出発の運びである。
アンズは昨夕のへこみっぷりなど今や影も形もなく、普段どおりの明るく快活な姿である。
寝て起きてさえしまえば、どんなにつらいことがあったとて、大抵のことは隅に放り捨てて快復できる精神の持ち主だ。
表向きには能天気だが、この切り替えの良さは、生きやすさのためには存外重要なことだったりする。
そもそも、単に寝るまで落ち込みっぱなしで、寝て起きて急に快復したわけではなく、きちんと昨夜から時間をかけて立て直してきているのだ。
確かに昨日は嫌な見られ方をして、底の底まで沈んだ気持ちはなかなか立ち直らなかったが、寝る前に襦袢を借りられたことでいくらか気持ちがましになった。
農民は普段着も寝巻も変わらないが、玉依御殿のような名家ではそうであるように、良い家では、女性が寝る時には寝る時の服がある。
この家もそうで、ハルミもフユナも寝る時は襦袢に着替えるので、女の子のアンズにも襦袢を貸してくれたのである。
くそ恥ずかしい恰好から一時的にでも解放されたアンズは、徐々に口が回るようになり、主にフユナと夜話に耽り込んだ。
普通に喋ることさえ出来ればアンズは強い。
初対面の相手に、人見知りさながらに距離感を迷っていたフユナにも、絶妙にじわじわ距離を詰めていく話を進め、もののしばらくで談笑が出来るほどに。
夜も遅かったので声は抑えたが、並んだ布団でくすくす笑い合う二人の時間が長く、コナツもやっぱこいつすげぇなと思いながら寝付いたものである。
そしてアンズは早起きだ。
家主のハルミよりも早々に起きて、てきぱきと朝食の準備を進めておいて、家主が起きてきたのがそもそも米を炊く匂いに鼻をくすぐられてである。
起きてきたハルミに恐縮めいて、僭越でしたが――と笑う彼女の人懐っこさ溢れる表情には、ハルミも眠い目をこすってでもその顔をはっきりと見た。
初対面の印象は決して良いとは言えなかったが、素直でよく出来た器量の良い子だと見直すには充分である。
後は二人で仲良くお喋りしながら朝食を作り、ちょうど良い頃に起きてきたコナツとフユナと共に朝食の時間。
それが終わって、改めて例の巫女服に袖を通し、やっぱり改めて恥ずかしいなという顔を見せるアンズも、親しくなれた今では昨夕ほどではない。
やっぱり恥ずかしいんだね、とハルミとフユナにくすくす笑われ、からかわないでとぷんすかするアンズの姿に、昨日の彼女の顔色は影も形も無かった。
好き好んであんな恰好をしているはしたない女じゃない、ということさえ理解して貰えるならアンズは充分なのだ。
地元ではある程度羞恥を忘れられるのもそういうことである。
「ナツ兄ぃ、頑張ってね。
……でも、無理しちゃ駄目だよ?」
「ああ、わかってる。
俺はお前を置いて、もう二度と帰ってこないことだけはしない」
これから出発だというコナツとアンズに対し、フユナも二人がどこに向かうのかもだいたいわかっているようだ。
昨日の夜話でアンズが妖魔調伏を為す巫女であることも聞いているし、そもそもフユナはコナツの実妹である。
アンズが知るよりも遥かに、確実に、コナツのことをわかっているはず。彼が、どうしてあれほど強いのかも。
そして、何のためにそこまで強くなったのかも。
だからこそ、心強い味方を連れて大奈国に帰ってきた兄が、これより死線に挑まんとしていることも、言葉は無くとも当然察している。
心配そうに、まだ背を抜かせない兄を上目遣いで見つめる眼差しは、すべてを理解している身内のものに他ならない。
「……アキ兄ぃは元気?」
「ああ、元気だぞ。
こないだ摂泉国で会った。
慣れない土地で苦労してるみたいだけど、力持ちだから頼りにはされてるみたいだ。
もう少し落ち着いたら、ここにも顔を出すって言ってたよ」
「そっか……だったらいいけど……」
そう、すべてを理解している。
淀みなく返答したコナツの言葉に、アンズは嘘の気配など感じなかった。
そして言葉どおりであるならば、きっとフユナには朗報であったと見える文脈でありながら、あまりフユナの顔は明るくならない。
両者の言葉と表情を見比べて、アンズさえもが、ここには見て聞くだけでは理解しきれない事情の実在はうっすらと感じることが出来たほどだ。
「フユナ。
"和良村"に帰りたいか?」
「……………………私、別にいい。
ナツ兄ぃと、アキ兄ぃと、ハルミ叔母さんがいてくれたら、どこでもいいもん」
「そっか、わかった。
全部片づけたら、今度は引っ張ってでもアキヒコの奴もここに連れてくるよ。
そしたら、またみんなで一緒に暮らそうな」
「うん……!」
にかっと笑って妹を元気づけるコナツ。
陰のある、しかし頼もしい兄の言葉を信じて笑顔を作るフユナ。
そして、そんな二人の会話を、目尻を下げて静かに見守るハルミ。
きっと、ここには、真っ直ぐに幸せへと歩んでいける道のりを夢見られる者が一人もいないのだ。
希望はあるのだろう。しかしそれは、恐らく、欠けた希望。
望んだものを総取りすることを既に諦めた、それでも、ささやかな幸せだけでも、僅かでも手元に――そう切望する、寂しい希望が儚く光を放つのみ。
「兄ちゃんに任せとけ。
お前達の望んだもの、全部、守り抜いてやるからな」
フユナの頭を撫でるコナツの手は、決して大男のそれではない。
きっと、妹にとっては大きいはずだ。
コナツの強さの片鱗を知るアンズにはそう感じられ、今日は、また新たな彼の一面を知ることとなった。
きっと、コナツの背中は自分が思うよりも大きい。
知らぬ者が想像では補えないほど、大きなものを背負っている。
「ねえ、コナツ」
「ん?」
大奈村を出るまでは、しばらく適当な会話をコナツと続けていたアンズ。
東から大奈村を出て、さあ道のりに沿って目的地へと向かおうと、野を行き始めた丁度その折、ここまでの話を上手く纏めたアンズである。
そうして、新たな話題を切り出すかのように、声の調子を変えて改めて話しかけてきたアンズには、コナツも話題の転換点だとすぐわかる。
「私、コナツのこともっと知りたいって思ったけれど、それって今も許されること?」
「ん~……
いや、意味はわかる。意味はわかるよ」
遠回しな問いかけではあるが、天を仰いで歩くコナツには、アンズの言いたいことが伝わっている。
今朝、出発の際に見せたフユナとのやり取りに、アンズも気になるところが出てきたのだろう。
こいつ、察しはいいのだ。あれだけ喋れて、その割には僭越もしてこないし、空気が読める奴なのはもう充分過ぎるほど信頼している。
その上で踏み込んできているのだ。それなりに、勇気を出してだ。
ちらとアンズの表情を見て、意識的によく見てみれば、真顔に見えて若干緊張しているのもわかるから。
「……話すのが嫌ってわけじゃないんだけどな。
でも、今は雑念を抱えたくないし与えたくもない。
踏み込んできたことを不愉快にも感じてはないから、そんな顔しなくていいよ」
「うん、わかった。
いつか、聞かせてくれる?」
「そうだな、今回の勝負が終わってからなら。
どうせ、今回だけで山の鬼を全滅させられるとは俺も思ってないしな。
今回ある程度は結果を出せて、節目を迎えられたら、俺の話もさせて貰うよ」
きっと、明るい話ではないだろう。
そんな気配を感じさせない、快男児の笑顔で応えてくれるコナツの表情が、今のアンズには眩しくも映る。
いつだってそうだが、大きなものを背負って戦う男の人の、こうした男気溢れる空元気を見るたびに、及ばずながらも力を添えたくなる。
元より巫女の使命として、此度の遠征には並々ならぬ覚悟で挑んだアンズだが、こんなものを見せられてはいっそう肚が決まるというものだ。
「元々俺は、自分の都合を隠したまま、山波巫女の力のほどを見せて貰おうとした奴だしな。
いつまでも自分の事情だけだんまりじゃ不公平だもんな。
きちんと話すから、今日のところはしっかり結果出して、生きて帰ることを考えてといてくれよ」
「ふふ、まだそんなこと気にしてたんだ。
コナツのこと頼もしいと思い始めてたけど、やっぱ案外ちっちゃいね」
「ちっさいって言うなよ、お前それ皮肉混ぜてるだろ」
「混ぜてない混ぜてないっ、こらっ、頭に触るな髪に触れるなっ!」
目線の下の方から伸びてくるコナツの手を、ぺしんぺしんと払いながら歩くアンズ。
女人との触れ合いに本来緊張するコナツも、そんなことは意識せず楽しくやれている。
男女の友情は成立する。今の二人は間違いなくそうだから。
まるで、物見遊山の楽しい旅と、その中で交わされる愉快な触れ合い。
二人とも、心の奥底ではわかっている。
こんなことを楽しんでいられるのも、今のうちだということを。
生きて帰れる保証が無いどころか、一人も生きて帰れぬ可能性の方が高い世界に、これより自ら身を投じていくのだから。
それも、そうだと知りながら。
恐怖に蓋をするために、敢えて今だけは明るく振る舞っているのか。
それとも、死地に身を置くことに慣れた者だからこそ、この貴き日常の重みを忘れぬために明るく振る舞うのか。
あるいは、その両方か。
十七歳は、喪う恐怖に目を背けて前に進むには、まだ若過ぎる。
大奈国には、大和龍山と呼ばれる山がある。
大奈村の東に聳える山であり、比較的近いこともあって大奈村からもその頂が臨める、大奈国北部では大きな存在感を放つ山だ。
そして今は、鬼の巣窟として知られる山であり、今やこの山へ自ら足を踏み入れようとする人類は一人たりともいない。
アンズやコナツは、大奈国へ向かう中で平然と山林を通過していたが、そんな普通の山々とは比べ物にならぬほど危険な地。
鬼。
鎧と刀で武装した武士も敵わぬほどの剛力と、ひとたび暴れ出せば見境の無い狂暴性。
仮に多勢で押し込もうが、首を刎ねるほどの致命的なものでもない限り、いかに深い刀傷を負おうが力尽きぬ存命力。
そして何より、人を喰うというおぞましさ。
古来より、人は肉食の獣を恐れ、生き延びるために時には戦い、時には逃げ、天寿というものを全うせんと努めてきた。
だが、鬼はどうしようもない。遭遇すれば一巻の終わりだ。
抗い退ける力は人類個々に無く、その強靭な脚力に追われれば逃げることも叶わず、捕まれば全身を砕かれ、動けなくなった末に食い漁られるのみ。
気まぐれに鬼が見逃してくれることを祈り、その命運を相手に委ねることしか出来ない。
これほど明確に遭遇時の対処法が無く、しかも今や決して稀有な存在でもないというのが、数ある妖魔の中でも鬼が特に恐れられる所以である。
二百年以上前に、鬼の大親分とも称された大妖魔、"酒呑導獣郎"が人の手により征伐されて以降、鬼が人の世に姿を見せることは殆ど無くなっていた。
長らく、伝承上の妖魔だと思われてきたのだ。
仮にこの世に在れば、未だ最も恐ろしき妖魔の一角であったであろうと、半ば幻想口伝のように伝えられながらだ。
それが、今より約二十年ほど前、青天の霹靂の如く、大和龍山に大量の鬼が棲み付いた。
あるいは、突如それほどの数の妖魔が突如山を攻め落としたとも言う。
ものの一月も経たずして大和龍山は、一歩踏み入れば命の無い危険な山と周知され、今なおその名を轟かせている。
今や鬼の総本山とも呼ばれて久しい大和龍山から、鬼が山の外まで出てくることが少ないのは、人々にとってはかすかな救いであろう。
だが、決して遠くない大奈村をはじめ、周囲の農村も、いつか鬼が人里への侵略を始めるのではないかという恐怖が心の片隅にある。
かつて京だった時代の名残である、大きな周壁を持つ大奈村の民ですらそうなのだから、防衛策に乏しい農村など、日夜気が気でないはずだ。
そうした懸念を最も駆り立てる根拠は何か。
それは、鬼が人里を襲った実例があるからだ。
大和龍山の麓には、古くからその地に根を張る、小さくも慎ましやかな農村がある。
大和龍山に鬼が棲み付く前は、山の恵みに身を寄せて、決して豊かではないが農民のささやかな幸せに満ち溢れていた村。
今やその村は、しばしば鬼が山を下りてきて、村の人々を苦しめる、大奈国でも――いや、和大国すべてを見渡しても、最も不幸な村と言っても過言では無い。
その村の名は、和良村。
コナツの生まれ育った村である。
村の様相はアンズの想定を超えたものではなかったが、やはり直面するときついものがある。
踏み荒らされたままの畑、へし折られた倒木、均されることなく残された人外の足跡。
そして破壊跡の目立つ民家に、もはや再建を諦められた廃屋。
まるで台風が過ぎ去った後のまま、再興もされずに放置されたかのような荒れた光景が、どこを見渡しても村中に広がるのみ。
たった一体でも人の手に余る鬼が、何匹も人里に降りてきて好き放題暴れ回るという事象は、何ら誇張なく災害と変わるまい。
建造物にせよ、自然にせよ、切り拓かれて完成された畑にせよ、時間をかけて築き上げられた美しいものは、今や無残な荒廃した景色の一部に過ぎず。
それを、築き上げる以上の時間をかけて復興したとしても、またいつか鬼が降りてきて駄目にすると思えば、もはや立て直す気力も起きないのだろう。
鬼がこの和良村を初めて襲った日から早二十年余り。村人達が諦観に暮れるには充分な時が過ぎている。
村を訪れたアンズとコナツに振り向きもせず、生気の無い目で収穫の少ない荒れた畑仕事に勤しむ百姓に、生きる希望と呼べるものはあるのだろうか。
そこに、自業自得でそのような運命に見舞われた者など一人もいない。
村の凄惨な様相よりも、悲痛を感じることも忘れた人々の小さな猫背にこそ、アンズの胸はひどく痛んだ。
アンズとて、幼いうちに両親を一度に喪い、生きる希望を一度完全に失ってしまった少女が身近にいるだけに、何度見てもこのような人々の姿はつらい。
「あらかじめ言っておいたことだけど、誰にも愛想や挨拶を振り撒くんじゃないぞ。
ここでは余計なことだ。
しても無駄じゃなくて、しない方がいいぐらいだからな」
「うん……」
ぼそりと念を押してくるコナツに、アンズも小さな声で返答する。
このような環境で、真っ直ぐな心で立っていられる者は少ないのだろう。
心が荒んだ者達は、余所者が少しでも意に沿わぬことを口にすれば、気分次第で気短に乱暴な言葉や拳を振るい得る。
コナツに言わせると、山賊の集落に余所者が迷い込んで愛想を振りまいても、何も良いことは無いどころか損しかしない。
被害者に過ぎない和良村の人々を賊と一緒にしたくはないが、アンズもコナツが言わんとしていることは重々理解できる。
本来農民は逞しく、そう簡単にここまで絶望に暮れることは無い。
年に必ず訪れる雨季と台風の夏、風邪が流行り雪が不作を招く冬。ある日突然流行る疫病、いざ訪れれば手も足も出なくなる飢饉。
人類は、常にそれらの脅威に晒されながら、何度膝を着こうとも立ち上がり、人の歴史を築いてきた。
最も庇護されず、先祖から伝わる知恵と財産を引き継ぎ、伝える農民こそが、如何なる苦難も想定外とせず、生き延びることさえ出来れば立ち上がる。
この千年後にも人の歴史が続いていくのだとすれば、人類の食を司る農民が決して死に絶えなかった事実から、その逞しさも必ず証明されていくはずなのだ。
人が未だ住まう傷付いた家屋や、もう打ち捨てられた廃屋のそばに置かれた、要石のようなものは一体なんだろう。
きっとあれは、その下の土の中に眠るものがあるのだと、忘れられてはあまりに哀れだと置かれた、物の無い村でせめてもと置かれた墓石に他ならない。
そうだと気付けば、いくつもある。それこそ、至る所にだ。
身近な人を喪った者の悲しみも、その理不尽さを呪う嘆きも、石の数だけ、いや、その者の死を嘆いた人の数を思えば、墓の数の何倍もこの村に渦巻いている。
沈痛な空気というものは目には見えない。肌に圧し掛かってくるものだ。
築き上げられた、受け継がれてきた財産を奪われる。長い時をかけて出来上がった美しいものは一日にして根こそぎ破壊される。
その中には、子供の頃からの成長を見守ってきた隣人の、それまでの生涯すらも踏みにじる、あまりに不条理な末路というものすら含まれる。
そんなことが、いつまた起こるかわからない。
しかし、必ず起こる。鬼が棲む大和龍山が、この村のそばにある限りは、いつか必ず。
真の絶望とは、全てを失っただけで生じるものではない。未来すら奪われているからだ。
「…………コナツ」
「ん?」
「……コナツの家には、寄るの?」
「いいや、そのつもりはない。
家もあるけどな。もう二度と帰らない」
アンズは様々な想像をした上で、かなり遠回しにコナツに問うた。
コナツもきっと、多くを察した上で、アンズが知りたいことを可能な限り察せるよう、しかし短く返した。
寂しげにだが無言に頷いたアンズには、きっと充分伝わったのだろう。
コナツはもう、この故郷に愛着を持っていない。
理由は想像で補うしかないが、彼の生き方を見る限り、アンズにもそれはわかる気がした。
「どこに向かってるの?」
「声をかけておきたい奴がいる。
嫌いな奴だけど、死なれたら死なれたで胸糞悪い奴がいるんだよ」
ただ、何の用もなくこの村を通ることはコナツもしなかったはずだ。
どうもコナツは、生まれ故郷であるこの村に対し、愛着を無くすどころか歯に衣着せぬ物言いすらするきらいがある。
少なくとも、故郷の村人を山賊に例える言い草は、良い感情を抱く相手にする言い草ではないだろう。
用など無ければ、村を避けて大和龍山に向かうことは充分に出来たはずなのだ。
立ち寄る動機が無ければ立ち寄るまい。
コナツはこの村に立ち寄った理由である、裏口が既に破壊されて吹き抜けになっている、小さな小屋のような家の玄関前に立つ。
「セイカ、いるか。
コナツだ」
この村を訪れて初めて、まともな声量を発したコナツの声は、静かな村ではよく響いた。
家人の耳に届かなかったはずはない。間もなく、戸が開かれる。
顔を出したのは、背中の曲がった老婆だった。
「あら……コナツくん……
来てくれたんだねぇ……」
「お袋さん、お元気っすか。
お体決して良くはないでしょうけど、まだ目に光があるみたいでほっとしたっすよ」
「ふふふ、まだまだへこたれちゃいられないからねぇ。
セイカがいるんだから」
「母ちゃん、追い返してくれよ。
コナツになんか会いたくねぇ」
久しぶりに会う母をいたわるようなコナツと、近所の子供を快く迎える老婆のやり取りは、アンズがこの村に来て初めて見た、人と人らしいやり取りだ。
水を差したのは、狭い家屋の奥から聞こえた、コナツを拒絶する声だ。
それを耳にしたコナツの目が露骨に不機嫌な色を見せ、その横顔にはアンズも少しだけぴりつく。
「お袋さんごめんな、上がるよ。
あいつには俺が勝手に上がったって言ってくれていいから」
「ううん、いいんだよ。
あたしは、コナツくんが来てくれて嬉しいよ」
道を空けてくれる老婆の横を通り、コナツはずかずかと家の奥へ。
そこには、背中を丸めてうずくまる、髪も整えず長くぼさぼさのまま、汚い身なりの若者の姿があった。
狭く薄暗い家の中に籠り、まるで長らく一度も外に出ていないようだと一目でわかるほど、その若者の顔には日の光に浴びた形跡じみたものが感じられない。
「よう、セイカ。
ちゃんと畑は触ってんのか」
「そ、それぐらいは……してる、よ……」
「嘘つけよ、なんだこの骨みたいな腕。
毎日畑を耕してる男の腕じゃねえだろうが」
「さっ、触んなよ……っ!」
家の前で待つアンズの耳にも、セイカと呼ばれた若者の前に座り込んだコナツの声は聞こえる。
ただ、セイカの声はあまり聞こえない。コナツの耳にはなんとか届く程度に、ぼそぼそとした暗い声だ。
「全部母さんに任せっきりだろうが。
いつまで母さんにおんぶに抱っこなんだ、おめぇはよ」
「お、お前には関係ねぇよ……!
さっさと帰れよ、説教なんか聞きたくねえよ……!」
「お前このままだと、鬼とか関係なく近いうちにくたばるだけだぞ。
お前を養ってくれるお袋さんは、お前より先に必ず死ぬんだからな」
「黙れっ……!
わかってんだよ、そんなことは……!」
「畑仕事、手伝ってやれよ。
お前がそうしてくれるだけで、お袋さんは喜んでくれるんだから」
「っ、ぐう、ぅ……!
うるさい、うるさい、うるさいいぃ……っ!」
「言いたいことはそんだけだよ。
俺、お前のお袋さんのことは今でも嫌いになってねえんだ。
お袋さんを幸せにしてやれんのお前だけだ。俺には出来ない」
コナツは、しばしば和良村に帰ってきた時、セイカの家を尋ねて同じ話をする。
何年もこの状態のセイカに、何度疎まれようと、何度でも。
僭越なのだろうか。踏み込み過ぎなのだろうか。
きっとこの二人には、二人にしかわからない関係というものがある。誰と誰の関係にも似たようなものはある。
「頼んだぞ、セイカ」
「あ……」
最後に言葉を添え、ゆっくりと立ち上がったコナツに、顔を伏せていたセイカはその顔を上げる。
自分の母を心から案じるコナツの声に、反発しかしていなかったセイカが、名残惜しいような顔すらする。
何か言おうとしているのなら、と、コナツも一度立ち上がった腰をもう一度下ろす。
「あ…………その…………
お前の言いたいことはもう、わかってるから……
お前はもう、この村には来ない方が……」
「なんで」
「だって、村のみんな、お前のこと……」
「知ってるよ。
だから嫌いなんだよ、あいつら全員。
お前のお袋さん含んだごく少数以外、全員な」
ぼそぼそと、要領の得ない話し方をするセイカではあるが、事情は全て理解しているコナツには充分伝わる。
大和龍山の鬼の殲滅を目論むコナツのことを、この村の村人の多くは快く思っていない。
余計なことをしないでくれと、村長を含む村の年寄り衆に言われたことを、未だにコナツは忘れていない。
きっとあの空気は、今でも何ら変わっていないのだろう。
「だ、だからもう、この村には来ない方が……」
「誰のためにだよ。
俺か? それともあいつらか?」
「っ…………両、方……」
「あいつらのためになんか何一つするかよ。
俺が悪鬼羅刹の鬼畜なら、俺があいつら全員を殴り飛ばしてもいいぐらいだわ」
吐き捨てるように言ったコナツは立ち上がり、これ以上そんな話は聞きたくないと態度に表した。
セイカにもわかったのだろう。再び顔を伏せてしまう。
今のような自分では、コナツを案じるこの言葉さえ、届くことはないのだろうかと苦悩しながらだ。
「お前は母さんのことだけ考えてればいいんだ。
いいか、本当にそれだけだぞ。
お前にとって一番大事なもの、絶対に見失うなよ。
本当にいなくなってからじゃ遅いんだからな」
そう言って家を出るコナツの背中を、長くこの家から出ることすら出来ていないセイカは、眩しいものを見るような目で見送っていた。
何度見ても嫌だ。来て欲しくない。
お前のことを見るたびに、自分のことが惨めになるだけだ。
そうだと自覚した上で、それを改めるための足で立ち上がることが出来ない自分のことが、またいっそう惨めになる。
それがあまりに情けなくて、涙すら溢れて嗚咽する自分のことが、よりいっそう情けなくなるだけなのに。
どうして俺は、二度と来て欲しくないお前に対して、いっそどこかで野垂れ死んでしまえと思うことだけは出来ないんだろうか。
アンズの前に顔を出したコナツは、やはり決して機嫌の良いものではなかった。
行こうか、とアンズに言い、セイカの母に一礼して歩き出し、手を振って見送られるコナツにアンズもついていく。
行く先は、村の東の出口を経て大和龍山だ。
「…………コナツ。
絶対、勝とうね。私だって、神様だって、ついてるよ」
「ああ、頼もしい。
お前がいてくれてよかった。漲ってくる」
短くも最大限の、そばにいてくれるだけでという賛辞が返ってきた。
それは、間もなく迎えるであろう、約束された死闘を既に意識したもの。
山に踏み入る前から、故郷の旧友と顔を合わせ、燃え滾る闘志に火をつけたコナツに、アンズも後れを取っている暇は無い。
今までで最も、負けられない戦いというものがある。
アンズも、何度も経験してきたことだ。
きっとコナツにとっては、今日がその日なのだろう。
痛いほど理解できた。そばにいるだけで、胸が痛むほどに。




