第十九話 ~アンズとコナツ~
「立てるか?」
「あ……うん、大丈夫。
ありがとうコナツ、でもごめんね」
「そっか、お前は神職者だもんな。
わかった、俺が僭越だったな」
「ううん、気持ちは嬉しいよ」
座り込んだアンズに手を差し伸べてくれるコナツだが、アンズはその手を握り返しそうになるも、自分の手を止めて気まずそうな顔に変わる。
気まずそうな顔で、胸の前で両手をばつにして、握り返すことが出来ないんだよという主張だ。
手を引いて立たせようとしてくれたコナツの気遣いは、勿論アンズとて理解しているとも。
操すらも主神に捧げ、異性と肌を触れ合わせること極力避けねばならぬ巫女として、男のコナツの手を握ることはしづらいのだ。
どうしても人の力を借りねば立てぬのであれば致し方無いが、そうでない以上は己に厳しくあらざるを得ない。
重い身体に力を入れて、アンズはどうにかうんしょと自分で立ち上がる。
事情を理解し、差し伸べられた手を拒絶されたことに嫌な顔ひとつせず、微笑みかけてくれるコナツにいっそうの感謝を感じつつだ。
「でもコナツ、散々お世話になっておきながら注文つけるのは悪いんだけど……
あんまり見ないでくれると嬉しいなぁ……」
「っ、わ、悪い……」
今さら鶴瓶落としの群れが襲ってこないことはわかっていても、顕し背負った雷神太鼓を仕舞うようなことはしないアンズ。
発光するそれが彼女と周囲を照らしているが、これがまあ困ったことに、巫女服ずたずたに切り刻まれたアンズの姿をコナツの目に晒してしまうのだ。
元々布面積が狭い上に袖も無い巫女服は、切り刻まれると肩を包んでいた場所もぺろんと垂れ下がり、腰元だって殆ど形を残していない。
もはや畚褌とさらしを最後の砦に、申し訳程度にぼろ布を体に引っかけている程度の風体である。
彼女自身の血に濡れた身体は痛々しく、それを見てコナツが劣情を催すはずもないが、やはりアンズはあまり見て欲しくない。
そんな彼女が、胸元と股を手と腕で隠して顔を赤らめる姿を見ると、それがかえって煽情的なのがコナツには困りもの。
「どうする? この辺の木、片っ端から斬っていくか?
こいつらがっつり人の命を脅かす妖樹だろ」
「いやぁ、別にそこまでしなくても……
ここまで来るお馬鹿さんいないでしょ」
場を繋ぐために適当なことを言ったコナツだが、周囲の木々にとってはびくっとする発言だったようで、上方の葉ががさがさとざわめきだした。
妖樹だって斬られるのは嫌だ。死んじゃうではないか。
やるだけのことをやってきたので、殺すぞと言われると危機感も半端ない。
鶴瓶落としが降りてきた。
アンズとコナツからちょっと離れたところに。
危害を加えるつもりで降ろしてるんじゃないですよという距離感。
「…………」
「いや、そんな謝られても」
鬼火のような鶴瓶落としを繋ぐ形、いわば点描で書く文字の形。
『ゆ る し て』の文字が暗い森の中で光る。
「妖は文字が使えるのか?
そこんとこどうよ妖魔調伏専門家の巫女さん」
「別に私、専門家ではないんだけどねぇ。
言葉の疎通が出来る妖は案外多いからあり得ない話じゃない気もする」
考察させられるコナツとアンズ。
結論出す気も無いけれど、適当に喋っていたらまた鶴瓶落としが降りてきた。
今度は『な か な お り』の文字であった。
「むかつく俗っぽさだなこいつらっ!
元々友達同士みたいだった言い草しやがってっ!」
「コナツ~、手加減してあげてね~。
あなたが本気で蹴ったらほんとに樹をへし折っちゃいそうだし」
図々しい媚び方をしてくる木を、コナツが草鞋の裏でげしげし蹴る。
大樹が揺れている。冗談交じりに蹴っているんだろうけど強い。
見ていない所でもキドウマルを、つまり鬼をいてこまして駆けつけてくれたようだし、彼の膂力は底知れないものがある。
ここまで強い人間をアンズは今まで一度も見たことがないので、色々想像してしまうのだが、そこのところは今の所どうでもよろしい。
ひとます今は、苦しい窮地を生き延びた、それだけで結構ではないか。
その後も『ご め ん』だとか『き ら な い で』だとか、鶴瓶落としで遜ってくる木々に、コナツがぶちぶち文句を返す姿を、アンズは苦笑い気味に眺め。
野次を飛ばしていたら、そのうちちょっとずつ気も軽くなってきて。
彼女があははと笑えるようにもなってきたら、コナツもはぁと息を吐いて、もういいやとばかりに木々らを一瞥して見逃す息遣い。
帰ろうぜ、と言ってくれるコナツに、うん、とアンズが返したことで、死地であったこの山林を去る形と相成った。
「これ、貸そうか?
汗臭いかもしれねえが、今の恰好が恥ずかしいなら貸すぞ」
「え、それは流石に。
だって今度はコナツが裸になっちゃうじゃん」
「男の裸なんて夏場の畑でみんな晒してるもんだろ」
コナツは自分の服の襟をつまんで、着たけりゃどうぞと言ってくれる。
女性は二の腕や脛を晒してもはしたないと咎められるのに、男は上半身裸になっても恥でもなんでもないというこの風潮。
差別的なようでいて、これは仕方ない。男の肌など女性の目を喜ばせる程度のことしか起こし得ないが、女性の肌は男を狂わすことすらある。
女性が持つの神秘性と、男という生物のお馬鹿さんぶりという合わせ技でやむなく生じる風習なので、女性の皆様には誇って頂きたい。
「いや~、気持ちは嬉しいけどやっぱり遠慮しておく。
私、血まみれだもん。こんなので汚しちゃったら返せなくなっちゃうよ」
「俺は気にしないけどな。洗えば落ちるんだし。
まあ、流石にお節介が過ぎるかな」
「ううん、別にそんなことない。嬉しかったよ。
それに……」
「わ、な、何してんだ?」
アンズはコナツの胸元に鼻を近付けてすんすん。
いきなり近付いてきた女の子の挙動に驚いて、コナツも一歩後ずさる。びっくりするだろ。
「汗臭くなんかないよ。
たとえそうだったとしても、私を助けに来るために、全力駆けしてくれて流した汗でしょ?
ありがとう、コナツ。来てくれて、本当に嬉しかった」
「……いいから前を隠せ。
なんでそんな恰好してるのに、今の自分の姿のこと忘れられんだよ」
「あわっ、わわっ、ご、ごめんごめん……
今のは私が悪いよね……」
命の恩人に下らないことを気にして欲しくなくて、アンズはびりびりの巫女服のまま、真正面からコナツに近付いて礼を尽くしたのだ。
おかげで鎖骨とさらしが丸見えの胸周りが、至近距離でコナツの眼前に晒されることになる。
口元を手の甲で隠して顔を逸らすコナツも、慌てて胸を両手で覆って背を曲げるアンズも、お互い耳まで真っ赤な顔になる。
ほら行くぞ、と先導するように歩き出したコナツについていく形で、アンズも彼の斜め後ろを歩いていく。
コナツはあられもない姿のアンズを視界に入れないようにして、アンズも異性の目を気にせずに進んでいくことが出来る。
どこまでも気遣いが出来る友人だ。恥ずかしい想いはしてしまったが、やっぱりこの人と友達になれたのは素敵な縁だったとアンズは実感する。
傷だらけの帰路ではあるが、コナツもアンズも胸は温かかった。
親しくなれた友達の命を守り切ることが出来たコナツ。
この恩を返していくことを前向きに志し、いつかコナツが困った時には必ず力になろうと心に決めるアンズ。
達成感と、明るい決意。
ひっそりと、二人は全く異なる理由でありながら、殆ど同時に自分の胸の前で、右手をぎゅっと握りしめているのだった。
「ちょっとコナツ~? いてくれてる~?
勝手に帰っちゃやだよ~?」
「はいはい、いるいる。
ここまで来て置いて帰るようなことしねえよ」
「だからって覗いたりしたら、コナツのこと山波国を歩けなくするぞ~?
具体的には山波村のおばちゃん集めて、巫女の水浴びを覗いたコナツっていうすけべ野郎がいるっていう噂を撒いてもらう~」
「それでも覗く度胸ある奴がいたら逆に見てみたいっつーの」
山を抜け出て、真っ暗闇の野を行く二人は、流れる水音を聞きつけたアンズが、桑原村へと帰り着く前に寄り道を所望した。
川で身を清めたいそうだ。確かに先程の戦いで、流した血が肌で渇いてべとべとになっており、たいそう気持ち悪かろう。
傷はもう、歩きがてらに"若"の字の太鼓を叩いて塞いであるのだが、それで流れて乾いた血が落ちるわけではないのだ。
この後アンズは、山波村に帰る前に、桑原村に寄るつもり。
とあるテンジンの密かな箴言もあり、この後桑原村で起こることを予測すると、身体は綺麗にしておいた方がいいという事情もある。
「――ひゃんっ!?」
「おーい勘弁してくれよ。
なんかあったのか? 助けに行くべきなのか?」
「ちがーう! 足を滑らせちゃっただけ!
来たらほんとに人生終わらせるからね!」
「ったく……」
真夜中の川で身体を洗うアンズは、ちょっと心細いらしくコナツにまだ去って欲しくない。
何かあったら助けて欲しいとか、そういうわけではないのだが。大抵の脅威は自分で対処できるアンズなので。
でもなんだか寂しいから置いていかないで、という主張はコナツにもわかるし、応えもするのだが、待ってるだけのこの時間が案外きつい。
あの巫女服ゆえ、発育の良さを普段から晒しているアンズが、今や全部脱いだ丸裸の姿で水浴びしていて。
聞こえてくるちゃぷちゃぷという音が、そうであることを否が応でもコナツに想起させてくる。
いい年頃の男子である。むずむずしてしょうがない。
アンズのいる場所と自分の間に小岩を挟み、それに背を預けて座るコナツは、つい振り向いたとしても相手を見ずに済む真摯さを徹底しているのだが。
たとえ見なくても音だけで実状を物語られると、むしろ余計な想像力がはたらいて、精神衛生上きついとコナツも思い知るばかりである。
「悪いけど、出来れば早くして欲しいなぁ……
星を数えて待つだけってのも退屈なんだから」
「ごめんごめん、もう終わったから。
乾かしてすぐ行くね、まだこっち見ちゃ駄目だよ」
早くこの生殺しから解放してくれという本音を上手く隠しながら言うコナツに、アンズは少し大きな水音で川から上がったことを伝える。
直後、ばちばちばりばりとアンズの方から爆雷音がする。
ああやって自分の身体に稲妻を纏い、肌に張り付いた水を吹っ飛ばしているのだろう。
あれをやると当人も結構痛いらしいが、一気に乾かすためにだいぶ強めの稲妻を使っているようにも聞こえる。大丈夫なんでしょうか。
コナツがそんな心配をしていたら、するすると巫女服を着込んでいく布擦れ音が静かな夜によく聞こえるのだから、油断してると本当に危ない。
しかも、びりびりの巫女服では袖を通すのも若干難儀をするようで、やたら時間をかけて服を纏う音でコナツの耳を犯してくる。
健全な男子に生着替えの音を聞かせてくるのはやめて欲しい。
帰ってきたアンズを前かがみで迎えるような、そんな死ぬほど格好悪いことは断固御免である。
「ごめんね、お待たせ」
「きっちり乾かしたか?
風邪なんて引いたら恰好つかないだろ」
「かなり痛かったけどそのぶん完璧に乾かしたよ。
これ以上待たせるのは流石に悪かったし」
「やっぱ痛いんだな」
歩き始めれば二人とも、真っ暗闇の夜の道、それも決して均されてはいない凹凸もある地面を、躓くことも、迷うこともなく進んでいく。
溝は跨ぐ、小石は横に蹴ってどかす、不安げ一つ無い足取り。
よく晴れていて月明かりも星明かりも燦然とした深夜帯ながら、流石にここまで夜目の利く若者は、和大国全土を見渡しても多くない方である。
アンズもコナツも生活習慣上、夜道を歩くのに慣れ過ぎているようだ。
「血塗れになったその巫女服、どうするんだ?
洗っても落ちないだろ」
「残念だけど薪代わりにしちゃうしかないなぁ。
まあ、予備はいっぱいあるんだけど」
「そんないっぱいあんの?」
「山波村に職人さんがいるんだよ。いつもその人に作って貰ってる。
お仕事柄、血がつくことも多いしね」
思い付くままにお喋りしながら、夜道を行く二人。
十七歳の若者二人が、なんの緊張感も無く夜の闇の中を、べらべら喋って歩く姿はなかなか異質だが。
賊や獣や妖を引き寄せてしまうかもしれない、という恐怖心など、自分達の強さに自信のある二人には関係の無い話らしい。
むしろアンズは、寂しい夜道を友達とお喋りしながら歩けることが、非日常感もあって普段より楽しく感じているふしすらある。
普段は巫女として早寝早起きを習慣とするアンズゆえ、夜遊び自体がいつもと違って楽しいというのもあるのかもしれない。
そんな風にして歩いていけば、桑原村に着くのもすぐである。
楽しい時間はすぐ過ぎてしまうと惜しまれがちなものであるが、疲れた身体で長歩きがしんどい時には、時を短く感じるほどの楽しさも悪くない。
「ここまででいいか?」
「うん、本当にありがとう。すごく安心できる時間だったし、助かった。
でもコナツ、今日はこれからどうするの?」
「適当に野宿するよ。普段からやってることだ。
いくら何でもこんな夜遅くに、宿場を探すような迷惑なこともしたくないしな」
桑原村の近くまで辿り着いたところで、コナツとはお別れである。
屋根のある所に泊まると、先立つものがかかるということで、路銀に乏しいコナツはそもそも野宿が多いらしい。
最近は、山波国の山林で夜を過ごすのが殆どで、アンズもそれを聞いていたから、コナツに届けと大いかづちを撃った経緯もある。
「近いうちに山波村に遊びに行くよ。
元気な姿で出迎えてくれよ」
「うん、勿論!
うちの神様の偉大さをたっぷり教えてあげるからね」
「それはなんか長くなりそうだから遠慮しとく」
「え~」
村が近いのでひそひそ声ではあるが、気持ちの伝わる声色を込め合って、別れの挨拶を交わす二人。
お互い、ちょっと名残惜しそう。お喋りして楽しい相手だと、お互い感じる間柄だから。
それもまた、いつかの再会が楽しみになる、夢のある感情の一つである。
「それじゃあ、またな。
今日なにがあったのか、詳しいとこはまた会った時に聞かせてくれ」
「うん、それじゃあね。
またいつか!」
野に去っていくコナツ。
アンズが好意を向ける相手に見せる、大きく手を振る仕草もそこにはあった。
身内はそんなアンズの性分を知っているから、離れた後でも振り返ってくれるが、コナツはそこまでアンズに詳しくない。
離れて小さくなったコナツが振り返ってくれる瞬間が無かったのは若干アンズに寂しさも感じさせたが、付き合いが短いのだからしょうがないとも思える。
まあ今の自分の恰好が恰好なので、あられもない胸元を隠しもせず手を上げる姿を、振り返って見られることがなかったのは助かったとも思う。
恥を覚悟で親愛感情を行動に表したので、恥をかかずに済んだならそれはそれでいい。
肝心の大きく手を振る仕草で伝えようとする想いが、相手の目に映らず伝わらなかったことは、アンズにとっては問題ではないのだ。
『振り向いて、見て欲しかったか?
それともあいつが振り返らず、見られずに済んでほっとしているか?』
「どちらでも満足ですよ。
したいようにしてるだけですからね」
『ふふ、そうだな。
親愛や敬意は、けして相手に伝えずともその価値が失われることなど無いものだ』
見えないところで友人のことを良く言う者がいたとして、それはいつかそれが友人の耳に入ることを期待してのものだろうか。
好きなものを好きだと言うこと。好きな人のことを好きだと言うこと。
たとえ誰にもそれが伝わらなかったとしても、その感情が持つ意味までもが失われるはずもない。
自己満足で結構。忘れない自分でいた方が、必ずあの人により尽くせる。
アンズが誰かを助けるために動く時、相手が自分のことを好こうが嫌おうがお構いなしなのは、イナリ姫の護送に心血を注いだ姿からも明白な話である。
何度も何度も生傷を作り、それでも戦い続ける理由など、わざわざ探さなくても山ほどある。
巫女は、アンズの天職だ。
夜の桑原村を警邏する村人と幾度かすれ違いながら、一瞬警戒の目を向けられるものの、胸と股を隠して照れ臭く挨拶して躱していくアンズ。
向かう先はクマリの家だ。そのためにこの村まで戻ってきた。
自身の無事を伝えるため。
そしてクマリが人質に取られた時、クマリの命を見捨てるにも等しい返事をカムロへ返したことを謝るため。
もっとも、すっかり遅くなってしまったし、クマリが眠っているなら明日にするつもりでもあった。
結論から言うと、クマリは寝付いてなどいなかった。
クマリに許して貰えず、嫌われてしまうのが怖かったアンズは、ややか細い声でクマリの家の前で、お姉ちゃんだよと声をかけたのだが。
布団にくるまって、恐ろしい結末に未だ怯えていたクマリは、その声を聞くやいなや布団を蹴飛ばして起き上がり。
一瞬で目に涙を溜め、アンズに飛びつくようにして抱きついてきたのである。
悪い奴らにアンズを殺されてしまうことが何よりも怖かったクマリは、アンズが生きて帰ってきてくれたことでぐずぐず泣くばかり。
事前に、テンジン様の仰ったとおりだ。クマリがアンズのことを嫌いになるはずがない。
それでもアンズは、ぐずるクマリに、見捨てるようなことを言ってごめんねと、胸を痛めながら謝りもしたのだけど。
アンズの胸に顔をうずめたクマリは、むぐむぐと頭を振り、そんなことどうでもいいとばかりに言葉無く主張するのみであった。
互いを姉妹のように想い合う二人。血が繋がっていないことなど関係無い。
きゅうとクマリを抱きしめ返すアンズは、可愛い可愛いクマリとこれからも姉妹でい続けられることに、少し目を潤ませずにはいられなかった。
ちょっと膝枕してあげたりして、少しお話ししてから、クマリと別れ。
見送られ、雲に乗って、山波村へと空を駆けるアンズ。
独りの空で、テンジンに話しかけることをアンズはしなかった。
信仰薄き現状において、あれだけカムロやキドウマルとの戦いの中で、テンジン様も獅子奮迅の活躍をして下さったのだ。
間違いなくお疲れだ。お休みであられる主神を慮り、さらなる上の空を見上げ、満天の星を目の保養にしながら空の岐路を行く。
ふと振り返り、東の空を眺めれば、ちょっと空が白みかけているのが見えた。
夜明けの近い時間帯だ。なんなら普段の生活習慣上では、そろそろ起きる時間である。
どうやら思った以上に、随分と長い時間を戦い抜いていたようだ。
そうだとはっきり理解できると、どっと疲れが出たような気がするのも困りもの。
激しい戦いの後は、布団に辿り着くまでは疲れを努めて忘れ去り、身体を休める瞬間まで肉体を騙すのもまた工夫の一つなのに。
これは多分、家に着いてから、やるべきことのあと僅か、それも果たせず意識を失う予感がする。
「……あ。
これ本当にまずい」
普段はアンズも、山波村に帰り着く際は、ちゃんと村の入り口から歩いて入るのだ。
彼女が雲に乗って空を飛べることはみんな知っている山波村だから、空から神社に直行でも別に構いやしないのは確かではある。
なんとなくアンズは、それを好まない。
家も、村も、ちゃんと入口から入るものである。
理由も無く玄関ではなく障子から入るようなことはすべきではない、と、なんとなくアンズは感じるわけだ。
今日は理由がある。夜明け近くまで頑張ったことを自覚した拍子に、糸がぷつんと切れた自覚がある。
これは歩くのも億劫になる眠気だ。あるいは身体が、いい加減に休ませろと勝手に強制休眠に入ろうとしているようにすら感じる。
畑仕事やただの護衛仕事ではなく、血や生気まで流し奪われ続けた死闘明け。
いかに若くて元気な身体でも、夜通しあれほどのことをしておいて、もうそろそろ超えられない限界が目前である。
張っていた気が途切れればもう駄目。
村の入り口を通る遠回りを避け、空から真っ直ぐ神社に直行だ。
「ただぃま……」
境内の隅、本殿の後方、アンズ以外誰も住まわぬ彼女の実家。
誰も迎えなどいないことをわかっていても、一言ただいまと言う習慣は、玉依御殿に住んでいた頃から抜けていない。
そして今日は、その声のか細いことか細いこと。
我ながら死にかけみたいな声だな、と、アンズ自身がふへと笑えたほどである。
寝る前にやるべきことは沢山あるのだが。
寝巻の襦袢に着替えて、脱いだ巫女服を畳んで寝室の隅に置き、朝食のお米を今のうちに仕込んでおいて――
それら、すべてアンズはすっ飛ばした。
布団を敷く。枕を置く。そこで、はぁ~~~~~っと息を吐く。
もう駄目。着替える余力も無い。
布団の上でがくんと膝から崩れ落ち、枕に顔から倒れ込むように寝そべり、それでは息が出来ないから仰向けになる。
汚れた服で布団に寝ては、明日の洗濯がものすごく大変なこともわかっている。ええ、わかっていますとも。
わかっていても、もう指一本動かす気にもなれなかった。
耐えていた目を閉じた瞬間に、あっという間にアンズの意識は失われ、深い眠りにつくに至るのであった。
『う~む……
ここまでだらしないと、親として心配になる。
何より見た目がよろしくない』
死んだかのように細い寝息を立てるアンズを、宙であぐらをかいて見下ろすテンジンは、呆れ混じりの溜め息をつく。
びりびりに破れた巫女服で、だらしなく投げ出した両手、股を閉じもしない脱力した寝姿で布団の上。
なんだろう、これは。仮にこの状況を誰かが見たら、乱暴された末に気を失っている哀れな少女に見えそうな気がしなくもない。
誰も見ていないからとはいえ、さらしも褌も丸出しで無防備な寝姿は、親心として一度たりとも目の当たりにしたくない光景に違いあるまい。
『……まあ、よかろう。今日ぐらいはな。
よく頑張ったな、アンズ。
生き残ったことを、寝ても覚めても誇りに思ってよい』
「………………んへへへ……」
眠れる少女の耳には届かない、ねぎらいの言葉を微笑みながら向けたテンジンだったが、アンズが呼応するように嬉しそうに笑う。
寝てても神様の声は聞こえてしまうのかもしれない。それだけ、彼女はテンジン様テンジン様で頭がいっぱいの、神職者の鑑とも言える心根の持ち主。
あーあー、涎まで口の端から。
まったく仕方のない奴め、と、アンズの顔の側に降り立ったテンジンは膝をついて、アンズの口元を神様の袖で拭ってやるのだった。
頼りない巫女だ。
そして、自慢の愛娘だ。
睡眠を必要としない神様は、彼女が目覚めるまでの長い間、良いものを眺める目でアンズの寝顔を見下ろし続けていた。
――いや、本当に長い時間であった。
あれだけ大変な目に遭い、くったくたの身体で泥のように眠って、いつもどおりの時間に起きられるはずもない。
いくら毎朝早起きする習慣が身に付いているといっても、ここまで精も根も尽き果てて落ちるように寝て、短い睡眠時間で済ませられたら逆におかしい。
翌朝、アンズは大寝坊して青ざめることになるのだが、それはそれでまた別の話。
今はただ、生き延びたことを喜ぶべきで、安息の布団で身体と心を休められている幸福を実感していればいい。
明日のことは明日考えればいいのである。
神職者が寝坊した明日は大変だが。




