第十七話 ~闇夜のいかづち~
"鶴瓶落とし"。
それは、山波国ではよく見られる妖だ。
木の上、枝から生き物の頭が火を纏って降りてくる不気味な妖であり、闇夜の山林に迷い込んだ人間に襲いかかる。
人を喰らう妖とされ、触れられるとその纏う火による痛みを伴い、さらに噛まれて激しい痛みを伴う。
しかも噛まれれば生気を吸われると言われ、力を吸い取られたように体に力が入らなくなるのが厄介だ。
一匹二匹に噛まれただけならまだしも、何度も噛まれると立つ力すらも失ってしまい、倒れれば最後、無数の鶴瓶落としに噛まれて命を落とすことになる。
鶴瓶落としとは、木の足元で命を失ったものの魂を樹木が吸い上げ、それを木が獲物から生気を吸うために使役するものだと言われる。
たとえば根本に野良犬の死骸が朽ちた木は、犬の頭の形をした鶴瓶落としを樹上から下ろし、それが人から生気を吸うことで己の活力とする。
夜の森は、そうして大きくなりたがる樹木の伏魔殿であり、鶴瓶落としの群生地となり得る危険地帯だ。
とはいえ、自分の力だけで生きていける木々は、わざわざ鶴瓶落としを多用して、自信が危険な樹木だと人類の目に悪目立ちさせない知恵もある。
切り落とされてはたまらない。鶴瓶落としを使える樹木は人里にも多いが、そこに鶴瓶落としが現れないのもそれゆえだ。
鶴瓶落としを使うのは、木々の群生する場所で、周囲の樹との肥やしの取り合いが上手くいかなかった、生存を焦る樹木だけなのである。
しかし、そんな事情ゆえに忘れられがちだが、正しく危機感を持った見方をすると、この世に鶴瓶落としを使役できない樹木などほぼ存在しない。
根元で何らかの命が喪われたことがあれば、その魂で以って鶴瓶落としは作れるのだ。
樹木となってから十年経てば、その根元で野良の獣が命を落として風化することなどざらにあろう。一度でもそれがあれば鶴瓶落としを使える木になる。
そして命とは、蟻や蝉のような小さな虫さえも含まれるのだ。
樹木と呼ばれる形になってからの一年で、その根元で一つの命も負えられていない樹木なんて、果たしてこの世に何本あるだろう。
まして山林のような野生の獣と無数の蟲が過ごす場所で、そんな奇跡的に一つの命も看取っていない木など、探して見つける方が難しいほどである。
夜の木々はすべて、妖魔を操る脅威と見てなんら過言無い。
もしもそんな木々すべてが、賢しさを捨てて鶴瓶落としの使役を躊躇しない世界があると仮定すれば、そこは人類が決して足を踏み入れてはならぬ地だ。
そんな世界は本来実在しない。鶴瓶落としの使い手たる木々は賢いからだ。
その一方で、もしも木々すべてがそんな賢しさを捨て、愚直に獲物の生気を奪う場所が本当にあるとすれば、と考えればぞっとする話であろう。
実在し得ないはずの、そんな世界がもしも実在すれば――
「ちいっ! ちょろちょろと!
つくづく苛つかせてくれる奴だな、てめぇはよ!」
漆黒の闇が満ちる森の中、背負う雷神太鼓の放つ光を纏う巫女。
襲いかかる鬼の伸ばす手、鋭い爪、振るう腕と脚を躱し、時に地を離れ、蝶のような不規則な動きで舞うアンズの体捌きは、単身妖魔を翻弄している。
それこそ、人を超越した身体能力を持つ鬼をだ。
筋力も瞬発力も、迫られ人が逃れられようはずもないはずの強襲を、未だ無傷で凌ぎ続けるその立ち回りは見事の一言に尽きる。
自らが攻める側に回った時、これほど捉えられぬ相手と対峙するのは、キドウマルにとって初めての経験だ。
無論アンズも、己の身体能力のみで以ってそれを為しているわけではない。
戦い慣れた彼女とはいえ、流石に人類に並び立つ者あろうはずもない身体能力の鬼を相手取って、我が身一つでその大立ち回りは無理がある。
肝となるのはアンズの草鞋ごと、彼女の足首までを覆う二つの小さな雲。
浮遊力で以って彼女に空を舞わせることも叶う神力の雲二つを両足に"履く"アンズは、妖魔の速度に対応できる機敏さと小回りを実現させている。
キドウマルが剛腕を振るう。跳躍したアンズは敵の頭上を越える高さまで軽々と飛ぶ。
逃げた先を追うように、キドウマルが爪をむき出しにした手を突き出す。
アンズが空中で雲を纏う足に力を入れて蹴ると、放物線の動きを曲げて横に跳ぶような動きを見せる。
地を離れれば再び着地するまで動きを変えることが出来ない、そんな道理を覆す動きが出来るのも、神力によってもたらされる雲の最大の強み。
乗った雲に空を飛ばせて貰うだけでなく、こうした小回りの利く動きが出来るのもまた、アンズの強さの根拠の一つである。
「んっ、くぅ……!
火鼓・八重咲……!」
「そいつぁもう見てんだよ!」
しかし、今のところキドウマルに触れられることを凌ぎ続け、無傷でいられていることを楽観視できる状況ではない。
"火"の字が記された太鼓を叩き、追うように迫るキドウマルに撥を向け、その交差させた点から凄まじい稲光を放つ神力の行使。
耳の痛む轟音と目を焼く光を伴う至近距離の雷撃をぶつけるそれを、すんでのところで前に踏み出さず、一番痛い炸裂点には踏み込まないキドウマル。
はじける火花と雷撃の余波がキドウマルの肌をびしびし打つが、屈強な鬼に対して致命的な瑕を負わせるには至らない。
むしろ肌を火花で焼かれるアンズの方が痛そうで、かつ、決して無限ではない神力を消費した上で、たいした成果が無いことの方が問題である。
『アンズ、上だ!
鬼にばかり意識を奪われるな!』
(存じてはっ、いるんですけど……!)
有能な回避力があるのだから、鬼を相手になんとか渡り合えているに過ぎないこの状況。
一対一なら勝機も見出し得る。だが実状はそうではない。
事あるごとに、アンズがその位置を動かすたび、樹上から落下めいた速度で落ちてくる存在の数々が、彼女をキドウマルとの戦いに集中させてくれないのだ。
「痛ぁっ……!
ううぅぅ、駆除したい……!」
『こんな奴らに神力を投じる余裕は無いぞ……!
苦しいが凌ぐしかない、お前ならば出来るはずだ!』
鶴瓶落としが次々と降りてきて、アンズに休む暇一つ与えない。
木々はいくらでも鶴瓶落としを降ろせる。現にアンズに襲いかかる鶴瓶落としは、いずれも小さな鬼火のようなものばかり。
その火を纏うのは、蟻をはじめとする小さな蟲々の頭部である。
蜘蛛に百足に虻に蜻蛉、その頭部だけがアンズに噛みつこうと樹上から落ちてくるが、鶴瓶落としの牙の威力にその大きさなど関係ない。
噛みついた対象に外傷こそ残さぬが、生気を奪うのだ。詰まるところ、犬の大口で噛もうが蟻の小さな顎で噛もうが、吸える生気は変わらない。
鶴瓶落としの纏う火に、火の粉を肌に浴びたような痛みを感じると同時に、蟻の顎で噛まれるちくりとする痛みを感じた時点で力を吸われる。
『あの黒装束がこの山全域の木々に発破をかけたのだろうな……!
あまりにも容赦が無く、鶴瓶落としの使い手として木々が愚直過ぎる!』
アンズをここへと誘い込んだカムロの布陣は、ほぼほぼ万全であると言えた。
何せ、この山に無数にある木々が鶴瓶落とし使い。それも、容赦ない。
長き樹齢の中で根元で息絶えた蟲々、その魂を肥やしに生み出せる鶴瓶落としを次々に落とし、アンズを徹底的に追い立てる。
キドウマルの攻撃から逃れるその先々に、次々に降りてくる鶴瓶落としの火は、もはや夜闇で灯りに困らぬほど溢れかえっている。
まるで降り注ぐ雨が宙に止まり、触れれば痛みを伴う針の密集した壁のようですらある。
神力を纏う撥でそれらを打ち払いながら道を拓くアンズも、凌ぎきれなかったものが肌に触れれば痛みに喘ぐ。
それによって生気を、今の継戦能力に必要な身体の力を奪われつつあることが、彼女の焦燥感を駆り立てる。
ただでさえ、動き続けるだけでも息は徐々に上がっていくというのに。
しかも鬼という卓越した身体能力を持つキドウマルに、疲労を期待することも出来ない。
「ははっ、逃げ道はねぇぞ!
苦しそうだな、調子に乗って一人で乗り込んで来た巫女さんよ!」
「んうぅ゛っ……あっぶ、な……!」
鶴瓶落としに翻弄されているうちに、その回り道の多い動きに追い付いてくるキドウマルも速い。
宙に身を浮かせたアンズに、近場の木の幹を蹴って矢のように飛来し、首を掻き切る爪を振るってくる。
アンズもこれを躱すことは出来たが、無理な動きで横に逃げたことで少し足首が痛い。
いつまでもこんなことを繰り返していれば、消耗して動けなくなった末に捕まって、為す術もなく八つ裂きにされるのが目に見えたじり貧だ。
「こうなったら……っ!」
『アンズ……!
それは相当に分の悪い賭けだぞ!』
(承知の上です!)
逃げ場のない戦場だ。
極論、空高く飛べば木々の頭を越え、脅威一つ無い空に逃れることも出来よう。逃亡成功はこの戦いにおいて勝利にも等しい。
だが高所は木々の頭と枝の密集地。敷き詰められたような鶴瓶落としの拠点。
雀蜂に空を覆われて蓋をされているも同然の状況、上方に逃げ切ることも出来ず、息一つ入れる暇も無いこの状況はまずい。
賭けであろうと突破口を見出すきっかけは必要だ。
「んん……!?
何を企んでやがる!」
アンズの太鼓すべてがばぢりと火花を散らしながら、放つ光を強くしたのをキドウマルも注視する。
大技を行使する前に、すべての太鼓から力をかき集めると、こうして視覚的にも現れてしまうことがある。
次が勝負手だと相手にも薄々勘付かせ得る不便もあるが、それでも仕方ない。
危うい予感に瞬時の選択を迫られたキドウマル。攻めるか退くか。
鶴瓶落としから逃げ惑うように、半ば落下気味に着地して腰を下げたアンズの姿は、敵の接近を誘うものだろうか。
そうとは見えた、一瞬でそう判断できた。
それでもキドウマルは尚も加速した。迷えば攻めがキドウマルの性分。
「逃がすかよ! くたばれ!」
「うう゛ぅ、っ……!」
その思い切りの良さはアンズには間違いなく脅威的だった。
足首が痛むほどの着地で次の踏み出しに、ほんの一瞬でも時間が欲しかったのに、キドウマルは迷う素振りを見せなかった。
期待したかった相手の動きじゃない。
足に力を入れることで生じる激痛を承知で、アンズは上方に跳ぶ動きで逃げる他無い。
継戦能力に響きそうな足首の痛みがつらい。それでも、振りかぶられたあの爪で、喉元を狩られて命潰えるよりは良い。
「ち……、っ!?」
「火鼓……っ! 八種火!!」
足に纏う雲の浮力も借り、キドウマルよりもその背丈倍ほどまで跳躍したアンズは、真下にキドウマルがいる位置取りにある。
すかさず左手の撥で"火"の字の太鼓を叩き、右の撥を天へ向けて唱えたアンズは、その一撃で決定打となる大技を行使する。
その瞬間、彼女の頭上に茂る木々の頭の更に上、夜の晴天彼方上空が強く放った光は、鬱蒼とした葉の隙間からも森の地表を強く照らすほど強い。
それは落雷。
術者アンズをも貫き、さながらアンズの掲げた撥に導かれるように落ちた稲妻が、彼女の下方地面へと凄まじい破壊力を叩き込む神力の賜物。
傍から見ても、そして地面を貫いて生じた音も、それが地面に炸裂して生じた爆発も、それによるさらなる轟音も。
彼女がキドウマルの前でもかつて披露した、春告の稲妻砲撃など比べ物にならぬ威力であるのは明白だ。
それこそ敵を気遣うはずもないキドウマルですら、それに貫かれたアンズが無事であろうはずがないと一瞬思ったほど。
そう、キドウマルはその姿を目撃することが出来た。
直感的な危機の予感に、思わず後方に大きく逃れたキドウマルの目前、すなわち彼の立っていた場所へ落雷が落ちたからだ。
乾坤一擲とも見えようその一撃は、キドウマルへの直撃が叶わなかった。
それによる爆発で生じた土がはじけ飛び、それを浴びたことによる痛みと、目を庇ったことでほんの僅かな時間アンズを目で追う時間が作れなかった程度。
『アンズ、動けるか!?』
「う゛っ、ぐううぅ、っ……!
うごけっ、ま゛す……!」
そう、アンズだって無事で済んでなどいない。
神力により導かれた稲妻の威力を、神力を纏うことである程度は相殺して防いではいるものの、過剰な威力の稲妻から身を守るための神力は程々だ。
凄まじい攻撃力に神力を注ぎ、さらにはそれで自分が無傷で済む防御にまで多量の神力をつぎ込めば、限りある神力がすっからかんになりかねない。
全身を焼かれ、引き攣り、意識すら飛びそうなほどの稲妻を自らの身で受け、死なぬぎりぎりで耐えきったアンズは、宙で体勢を整えるだけで全力。
火傷こそ残さなかったものの、一張羅の巫女服の大部分が焦げてしまっていることからも、炎のような凄まじい熱を浴びたことは間違いない。
伴った痛みと、痺れる全身の筋の軋みは、キドウマルの目からも明らかだ。
「逃がすんじゃねえ! そいつの狙いは真上だ!」
「っが……!?」
ぐいと顎を上げ、足に纏う雲を一気に急上昇させたアンズの見出した逃げ道は、希望への唯一の道であったところから一転塞がれた。
稲妻は上方の木々を貫いて落ちたのだ。そこに潜んでいた鶴瓶落としは、一時的にでも一掃できたのだ。
再び木々が上方に鶴瓶落としを生じさせ、蓋をしてしまう前に空まで突き抜けてしまおうとしたアンズの目論見を、キドウマルも一瞬で看破していた。
そして彼の声に応えた、高所に潜んでいた鶴瓶落としとは別の妖が、上昇するさ中にあったアンズへと飛来し、彼女の身体に食らい付いたのだ。
『まずい!
七歩蛇だ!』
「うそ、ぉ……っ!?
火鼓っ、松葉……!」
それも、複数。
周囲の木々上部に潜んでいたと思しきそれは、四寸ほどの小さな蛇のようでいて、その姿形だけは四本の短い脚を持つ龍のような妖魔。
恐らくアンズの稲妻に貫かれて絶えたものもいたのであろうが、その被害から逃れたそれらは、上空へと逃れんとしたアンズに飛びついてきたのだ。
その数、三匹。アンズの太ももに、二の腕に、そして焦げて破れた服の穴から脇腹へ。
噛まれた痛みもさることながら、直後にぐにゃりと目の前が歪む、即効性の毒を痛感しながらもアンズは神力を行使する。
彼女の全身が、ばりばりという凄まじい雷音と共に光を放つ。
さながらアンズが稲妻そのものを纏うかのようなそれは、彼女に触れたものに神力の稲妻を直接流し込むようなもの。
アンズの体に噛みついていた三匹の蛇、七歩蛇はその稲妻をもろに受け、口を開いて引き攣って落ちていき、地面に落ちる前に消えていく。
妖魔調伏の力が強く込められた神のいかづちは、斯様な小さな妖魔であれば瞬時に仕留められるほどの威力がある。
『アンズ、やむを得ん……!
傷は増えるが……!』
「ゎかって、ぃます……!」
まずい、これはまずい。
七歩蛇はその名の通り、噛まれた者が七歩も歩けぬうちに動けなくなって死んでしまうほどの猛毒を持つ妖魔だ。
既に意識が朦朧としかけているアンズは、唇を噛んででも意識を失わぬよう踏ん張って、近き木の枝の根元、太い場所に足をかける。
辛うじて幹に左手をかけ、落ちないように体を支えながら、右の撥で己の背後左上にある"咲"の字の太鼓を叩く。
いつからか念じることでなく、声に出してテンジンと疎通をしていること自体が、アンズに余裕が無いことの証拠そのもの。
"咲"の太鼓がもたらす神力は、身体の中に侵入した、病や毒を払う力。
主神の加護を得ているアンズのみに対しては覿面の効力を持ち、あとほんの数秒で彼女の意識を奪っていたはずの毒も、ただちに浄化されていく。
もしもこの力が無ければ、あるいはアンズのこの力の行使があと僅か遅れていれば、彼女の命は既に終わっていたところである。
だが、終わらなかったのは命だけではない。窮地は何ら終わりに近付いていない。
高所で樹上、すなわち鶴瓶落としの発生源のすぐそば。
アンズが身を寄せている樹木そのものが彼女の敵であり、すぐに動けぬ彼女に向けて、蟻と蜘蛛の頭が火を纏う鶴瓶落としがいくつも落ちてくる。
これは躱せない。覚悟の上でもある。この痛手を受け入れてでも、七歩蛇の毒を抜かねばならなかったのだから。
「ああ゛、ぅ゛っ……
ま、松葉……っ……!」
『アンズ……!』
何匹もの鶴瓶落としに噛みつかれ、傷こそ作らぬものの生気をずるずると吸われたアンズの体が傾く。
辛うじて"火"の太鼓を打って放つ、再び全身から稲妻を放つ技により、纏わりついた鶴瓶落としは一掃しながらも。
足場の悪い樹上でのふらつきは落下一直線だ。足に纏う雲に、自分の体を浮かせるよう促す意識すら危うい。
ぐらりと樹上から落ちてくるアンズに、地上で待ち構えるキドウマルが既に構え、鋭い爪を光らせている。
頭を下にし、気を失ったように落ちてくるアンズを、どんな形であろうが串刺しにすれば勝負は終わりだ。
地面に叩きつけられて彼女の首が折れる幕切れよりも、かつて自分を退けた巫女をこの手で葬ることを好む、残忍な黒鬼が最高の決着を期待する。
「くははっ、ここまで…………っ!?」
「火鼓っ、八重咲いっ!!」
真っ逆さまながらぐいと顔を上げ、ぎらついた眼でアンズを迎えんとするキドウマルの方が、アンズの眼光に危険なものを感じ取ったほどだ。
満身創痍の女とは思えぬ強き眼差しを何ら失っていなかったアンズは、自らに爪を振り上げてきたキドウマルの眼前で、撥を打ち鳴らすように交差させる。
その時生じた凄まじい稲妻と雷音は、両者の目と耳を潰さんばかりの光と爆音と共に、至近距離にあった二人の間で炸裂する。
それこそ両者を突き放し合うほどの爆発だ。
「ぐがあ……っ!?」
「はが……!」
鬼も術者たる巫女も吹き飛ばす爆発は、キドウマルを地面に打ちつけて後方へ転がし、アンズを逆さまのまま木の幹へ叩きつけ。
至近距離で妖魔調伏のいかずちを浴びたキドウマルが全身をひくつかせて倒れる一方、アンズも頭から地面へと落ちていく。
いけない、これは死ぬ、本当に死ぬ。首をぐっと引き、なんとか頭からではなく、両肩が最初に地面に着くような落ち方にアンズは持って行き。
同時に両腕を振り上げるような形で地面を叩く受け身。空を舞い戦うことも多いアンズは、落下した時の対処など何度も怪我して身に付けている。
『いかんな……!
アンズ、苦しいが引っ張るぞ……!』
アンズの頭の上から降りていたテンジンが、彼女の落とした撥を拾い、"伏"の字の太鼓へと投げ付ける。
かつん、と小さな音が鳴っただけだが、それでも雲を生み出す神力の行使は出来た。
後頭部を地べたに、腰を木の根元に預けるような、落下死体にしか見えぬ有り様のアンズを黒い雲が包み、彼女の身体を少し浮かせる。
小さなテンジンがそんな彼女の胸元に飛び乗って、雲を操り、この場を離れる方向へと雲を駆けさせる。
虚ろな目で息も絶え絶えの今のアンズには、ただちにこの場を離れる雲の操作など出来ようはずもない。テンジンが雲を操る。
「が、ぐ……
くそ、がぁ……っ!!」
テンジンの懸念したとおり、やはりキドウマルは仕留めきれていない。
すぐには立てず、ひくつく上体を起こそうとする様は、今こそ稲妻で撃ち抜けばとどめを刺せるかもしれぬ絶好の機にも違いないのだけど。
今は無理だ。アンズがそれを出来る状態に無く、テンジンが代わりにアンズの太鼓を叩いて手を下したとしても、アンズが助からない。
八重咲で怯んだ木々が再び鶴瓶落としを降らせてくるのは見えた展開であり、アンズを横たわらせたままでは終わりだ。
そもそも、それでも勝負を賭けてテンジンがキドウマルに手を下したとて、信仰薄く神力に乏しいテンジンの咄嗟の一撃では、仕留めきれぬ可能性も残る。
逃げの一手しかない。
せめて、アンズが動けるようになるまでの間だけでも。
『不甲斐ないな、神ともあろう者が……!』
「はぁ……はぁ……
あ、ありがとう……ございます……」
『喋らなくていい!
息を整えることに集中しろ!』
鶴瓶落としは次々に降りてくる。低空を駆け、木々の間をかいくぐるアンズを乗せた雲。
テンジンの巧みな雲の動きにより、鶴瓶落としにアンズが触れることも、密集した樹木に激突することも避けてはいる。
だが、順調に真っ直ぐキドウマルから距離を取れているとは言い難い。
夜の森は妖魔の領域だ。キドウマルは立てるようになれば、鶴瓶落としとそれを操る妖樹の声を頼りに、必ず追い付いてくるだろう。
鶴瓶落としを操る木々の分布は、どれほど広範囲に及ぶのだろうか。
恐らく、この山を抜けきるまですべての木々が敵だ。
その性質上、この世に存在する全ての木々は鶴瓶落としを操る素養があり、周到なカムロを想像するならば、狭い範囲の妖樹を唆すに留まってはいまい。
上に逃げ場も無いのだ。平面上の動きで森を抜けるほか、鶴瓶落としの領域から逃れきるすべは無い。
キドウマルに追い付かれる前にそれを果たせる見込みが薄い以上、今はそれまでにアンズの体力を取り戻すのが唯一可能な対処である。
(……不甲斐なくなんてありません。
テンジン様がいなければ、私はとっくに生きていませんから)
『おうおう、それは幼少の頃の話だな!
お前は今よく戦っておるぞ! 私が手を貸さずとも充分過ぎる程にだ!』
(もう~……今の話ですよぉ……)
ふへ、と力無く笑い、アンズは雲の上で仰向けに寝たまま、力を振り絞って左手に撥を生む。
そうしてその撥で、頭の右斜め横にある"若"の字の太鼓を叩くのだ。
"若"の太鼓がもたらす神力は、傷の治療と体力の回復。
"咲"の力と同じく、神の加護を得たアンズには覿面の効力を持つ力で、傷跡すら残さずにその怪我を治すほど。
これまで幾度も生傷はおろか、深手も得ながら戦い抜いてきたアンズが、未だ全身綺麗な肌でいられる最大の根拠でもある。
だが、今は生傷の治療などしない。
七歩蛇に噛まれた傷、地面や木の幹に打ち付けられるに際して生じた擦り傷、それらは無視し、挫いたように痛む足首の治療と、体力の回復にのみ神力を注ぐ。
怪我なんて明日になってから治せばいいのだ。どうせ傷跡も残らない。
致命的ではない傷など放置して神力を残さないと、なおも続く窮地の中で、本当に神力を空っぽにして完全に詰みかねない。
「っ……よしっ! 元気出たっ!
テンジン様、もう大丈夫ですにょっ……!」
『よーし噛んだ!
頼りない奴だなお前は!』
弱っていた身体に得たかすかな活力を頼りに、アンズは宙を駆る雲の上で上体をがばっと起こした。
元気になどなるはずが無いではないか。語尾を噛むほどぎりぎりの体調のくせに。
元より決して多くもない神力を、普段からけちけちした使い方をするアンズの性分を知っているだけに、つくづくテンジンは歯噛みするばかりである。
根性を振り絞って戦える程度の最低限の体力、それを取り戻すための最低限の神力しか使っていない、そんな調節ばかり上手になっていく我が子だ。
「生きて帰って、クマリに謝らなきゃいけませんからね……!
見捨てるようなこと言って、本当にごめんって……!」
『心配せずともあの子はお前のことは嫌わんよ!
お前が生き延びて帰ってきてくれたことを、泣いて抱きついて全身で表明してくれるだろうな!』
「うっそだぁ!
テンジン様ってば、優しい嘘がお上手!」
『いいから喋るなというんだ馬鹿娘っ!
余計な体力を使うなというんだ!』
ぎしぎしの身体に鞭打って、駆ける雲の上で中腰になるアンズの肩までよじ登ったテンジンは、その耳たぶをぺちっとはたく。
この状況下でけらけら笑って元気を装うアンズと、それを痛々しいと案じながらも笑みを浮かべ、お調子のいい声で談笑気味に語らうテンジン。
気落ちしている場合ではないのも確かだ。明るい未来を目指す心に熱を取り戻す。
ふざけている場合ではないこと重々承知で、冗談口を叩く余裕と意識が、一人と一柱の屈さぬ心を支え合う。
「ま、何とかなりますよね……」
『なるのではなく、お前がするんだ。
お前はそれが出来る奴なんだからな』
「あははっ、頼りない巫女ですけどね……!
ええ、お任せ下さい! こんな窮地、打ち破ってみせますよ!」
「お生憎様だな。
たとえお前がどれほどの強者であろうと、勝負事とは相手ありきのことだ」
「は……!?」
突如、アンズの側面から飛来する無数の小粒の群れ。
半ば空元気のようなものでも、力を取り戻せていたのは事実だったのだろう。
闇の中から迫る目視し難いそれに、アンズは反応できたのだから。
咄嗟に両腕で顔を庇うようにした瞬間、無数の刃のようなものが、彼女の身体をざくざくと斬りつけていった。
それにより横殴りに押し出されたアンズは、雲から足を離し、宙へと投げ出される形となる。
『おのれ……!』
高さは無いが、地面に叩きつけられては痛手という勢いで投げ出されている。
すぐさま雲を引き寄せたテンジンが、アンズが地面に落ちる寸前、彼女の背中と地面の間に浮力を伴う雲を滑り込ませた。
手慣れた動きで地面を腕全体で叩くアンズは、雲によって落下の勢いを少し殺して貰った上での受け身により、致命的な負傷は免れた。
それでも弱ったこの身体に、声も出ないほど苦しい衝撃が、背中から肺までを貫いたが。
「私の方が今のお前よりも強い。
相手が悪ければ、本来どうにかなるものもならぬよ」
「あっ、ぐう……!
はっ……はぁ、っ……」
ひくついた身体を起こそうとするも、相手の姿を見ただけで心が折れそうになる。
立ち上がりが遅れる。それでも立たねばどうにもならない。
絶望的な状況を切り抜けてきて、休む間もなく、それ以上の絶望に直面した上で、歯を食いしばって立ち上がれるだけでもアンズは上等なものである。
「ああ、クマリはしっかり桑原村のあの子の家に送り届けたぞ。
今は静かな寝息を立てて眠っている。ご心配無く」
戻ってくるとは言っていた。
それでも、あまりに早すぎるだろう。
黒装束に身を包んだカムロの再来は、いよいよアンズも死の恐怖を肌に感じ始めるというものだ。
「キドウマルはおらんのか?
まったく、使えん奴だ。
私が駆けつけるのが遅ければ、本当にお前に逃げられていたではないか」
わざとらしくきょろきょろして、はぁ~と顎を引いて溜め息を吐く。
臨戦態勢とは程遠く、構え一つ無いその様子は、余裕の表れと見て相違無い。
仮に今、アンズが奇襲的に仕掛けても、こいつは必ず容易に凌ぐだろう。
キドウマルと鶴瓶落としの群れも脅威的ではあったが、今の相手の方が余程怖い現状は、アンズの心をいっそう追い詰めるには充分だった。
「お生憎様だが、もう交渉を持ちかけるつもりはないぞ。
あれは既に決裂した。
それにお前は、こうも追い詰められた状況となれば流石に命が惜しくなって心変わりする、というような輩でもあるまい?」
「さぁ、どうでしょうねぇ……
私も流石に、心折れそうで考えちゃったりもするんですが……」
乾いた笑顔を浮かべるのは、誰の目にも明らかな空元気。
謎の切り裂く刃に傷つけられたアンズの柔肌からは、じわりと血が流れ始めている。
切り裂かれた巫女服の間から覗く彼女の肌、普段から露出している腕や脚のみならず、脇腹や内ももからも溢れる血。
彼女自身が背負う雷神太鼓の放つ光は淡く、弱くなっているが、流れ出る血で彼女の全身が痛々しい赤に染まりつつあるのはカムロの目にも明らかである。
今だけは鶴瓶落としも降りてこない。頭目であるカムロの参上に指示を待つのか、動きを控えていると見える。
そう推察すればすなわち、カムロの指示一つで再び鶴瓶落としの数々は、一斉にアンズに襲いかかるということでもあるが。
せめて息を入れる時間ぐらいは欲しいアンズにとって、束の間の休息めいた時間であると同時、張り詰めた状況であるのは変わらない。
こんな緊迫状況の中で、今も肩を上下させているほど、乱れたこの呼吸を整えるのは不可能だ。
「……キドウマルを待つのも良い。
どうやらお前に一時退けられたらしいあいつが、立て直してここに駆けつけ、万全の構えでお前を囲えば勝利は盤石だ」
「ふ、ふへ?
ど、どうしようかな……
カムロさん、やっぱりあのキドウマルっていう鬼よりも格上でしょ?」
「当たり前だ、あんな力だけが自慢の馬鹿の下だと思われてたまるか」
アンズも別の意味で笑えてきた。
寿命が一気に縮まった実感がある。人間、本気でまずいと思った時によくわからない笑いが込み上げるというのは本当らしい。
なぜなら今のカムロの言葉は、待つのもいいがそれもやめておこう、と続く枕詞のようなものだとわかったから。
息を入れる時間を与えることすらせず、徹底的に叩き潰してくる気だ。
ほんの数瞬でも時間を稼ぎ、なんとか考え直してくれないかなと駄目元で話しかけてみたアンズだったが、この周到な敵将に期待できることではなかった。
「お前の目にはまだ光が消えていない。
巧遅は拙速に如かず――役立たずを待つ入念な遅さよりも、お前に時間を与えぬよう急いだ方が良さそうだ。
先立つ不孝を主神に詫びながら、深き血溜まりに沈んで貰うとしよう!」
「んひ……っ!?」
少し前傾姿勢になったカムロが、次の瞬間アンズに向けて襲い掛かる加速は、彼女の想像を遥かに超えたものだった。
一瞬で距離を詰めてきたカムロが、アンズの喉にその徒手を突き刺そうとするような一撃。
それをアンズは、足に纏わせたままだった雲の力を借り、跳躍して相手の頭上まで跳ぶことで回避することが出来たけれど。
今のは確実に、直撃していたら喉を潰され、血を吐き倒れていたに違いない速度だった。
樹上の鶴瓶落としがざわめく。
カムロが制していた配下達ももう遠慮していた時間は終わりだ。
キドウマル以上の敵将が、いっそうの統率力を以って兵を率い、包囲した巫女を袋叩きにする一方的な戦いが始まる。
完全なる布陣を敷いた敵地に単身乗り込むこととは、斯様なほどに絶望的なものか。
アンズがそれを痛感するも、時すでに遅しと言う他ない。




