第十六話 ~敵地~
村を出てなお歩けば、木々が生い茂る山へと足を踏み入れる運びとなる。
そんな山への入り口に差し掛かった時には、さしものアンズも一度足が止まった。
これより先は、紛れもない敵陣。
人里が人類の領域であるとすれば、敵対する者が誘い込む山は悪の領域。
元より戦う力に秀でると名高きアンズを、そうした場所へと招き入れる敵が、何の備えもしていないはずがない。
伏兵、地の利、仕掛け、月の光が届かぬ闇。すべて、共存し得る。
始まる前から不利な戦いを予感したアンズの首筋を、嫌な汗がつたうのは決して臆病さによるものではない。
『無数の気配がある。
これより先は死地に他ならぬぞ』
足を止めたアンズに語りかけるテンジンの言葉は、すなわち神が最も存在を感知しやすい存在が、これより先にはうようよいるということ。
すなわち、妖魔の巣窟だ。
そこへ人質を取られるままに誘い込まれるというのは、敵しかいない陣中に丸腰で招き入れられ、退路すら怪しい絶体絶命の境地に自らを追い込むに等しい。
死地と言う主神の忠告は、なんら大袈裟なものではない。
「恐ろしいであろうな。
だが、私が招く場所まで来て貰えるなら、この少女の安全だけは約束しよう。
その後の交渉が成立しようが、決裂しようがだ」
拒絶する選択肢が無いという時点で、"詰み"をかすかに意識したアンズは、利き手で自らの肩をぎゅっと握って、震えそうな体を止めている。
命が危うい局面は何度も経験してきたが、露骨に不利な状況へと、そうだとわかって自ら足を踏み込んでいく経験とはまた別物だ。
覚えの少ない類の恐怖、されどアンズは一瞬覗かせた年相応の女の子らしい眼差しを、ただちに苦難へ立ち向かう腹を決めた巫女のそれへと変える。
何があろうと、クマリの命だけは守り抜かねばならない。
自分の命なんかよりもアンズの生還を望んでくれたあの子を、見捨ててのうのう生き延びるようなことなど出来るはずがない。
命に代えてもクマリだけは救い出す覚悟を固めたアンズは、灯り無き夜の森へと地を踏みしめて進んでいく。
そうして、どれだけ歩かせられただろうか。
もはや山奥。迷えば山から出るのも難しくなるであろうほど、そして大きな声を出しても村には届かぬ、深き森のど真ん中。
度胸試しに望む命知らずでも、ここまでの山奥に、まして夜中に足を踏み入れることはまずあるまい。
たとえ今すぐ敵が消え、クマリと共に帰れるとしても、真っ直ぐに村へと帰るにはかなりの時間を要するであろうほどの場所まで来てしまった。
それはさながら、敵の城の真ん中にたった一人で放り込まれ、無数の敵と環境に包囲された絶望的な状況にも通ずるものがある。
この時点でも既に、取り返しのつかなくなった可能性は充分に高い。
「さて、もういいだろう。
お前はここに立っていろ。
そうしていればこれ以上、お前に悪いことが起こることはない」
とある場所まで辿り着いたところで、黒装束の男はクマリをそばにあった木のそばに立たせ、背中をその幹に預けさせる。
そして自身はクマリからわざわざ距離を取って、アンズと向き合う形を取る。
人質を、自分の手元から離したのだ。
アンズがその気になれば、黒装束の男よりも先にクマリに駆け寄り、彼女を護る盾になることさえ決して難しくない位置取り。
そうだと理解しておきながら、黒装束の男が自らそうした以上、これを好機と見て望むがままに行動したとて、きっと相手の出鼻を挫くことも叶うまい。
迂闊と無意味が致命となり得る緊迫状況、未だアンズは動けない。
「ここでなら大きな声を出して話しても問題あるまい。
お前にとっては望んだ状況ではないであろうが、話をさせて貰おうじゃないか」
「……待って下さい。
その声、まさかカムロさんですか?」
「そうかもしれぬし、そうではないかもしれない。
だが、それは重要なことではないんだよ」
ここまでは、ぼそぼそとした声でアンズに話しかけてきた黒装束の男であったが、その時点でもアンズには、確信しきれぬながらまさかという想いがあった。
こうして普通の話し声になれば、聞けば聞くほどカムロの声だ。
剽軽な語り口ではなく冷酷なもので、決してカムロの口から聞いた声色ではなかったが、それでも間違いなくカムロの声。
改めて見れば装束に包まれた体格も、恰幅のいい彼の姿にそっくり。
否定も肯定もしない黒装束の男であったが、もうアンズには彼のことが、カムロにしか見えなくなる。
利益にがめついはずの商人にしては人の良い、そんなカムロのことをアンズはそれなりに尊敬していたのだ。
黒装束の男のぼそぼそ声に、もしやとは思っても、そんなはずはないと邪推を打ち消し続けてきたのに。
このような卑劣な手段を取る人物がカムロであるとしか思えぬ現実に直面し、アンズの目尻が沈むのも正直な感情である。
「はじめに改めて約束しておこう。
私は、これからお前に交渉を持ちかける。
それが成立するか、あるいは決裂するかを問わず、この少女の安全は保証する。
私がこの少女、クマリを桑原村まで保護して送り届けよう」
「……もう、人質ではないってことですか?」
「そうだな、もう用は無い。
私はこの時、この場所で、お前に交渉を持ち掛けたかっただけだ。
しかし、多少は強引な手段を用いぬ限り、お前をこうした状況に招き入れることは出来ないだろう?
お前は自信家な言動とは裏腹に殊の外慎重だからな」
「確かに、こんな追い詰められたような状況に、わざわざ自分から飛び込んでいくような真似はしませんね。
護送の時に、依頼した方に我が儘を言われたとしても」
「お前は助けを求められても、無理を言われれば案外遠慮なく断るらしいからな。
知れた危険を未然に防ぐのも立派な護衛能力の一つだ」
真夜中、布陣を敷いた、逃げ場無き山の中へ、彼女を一人で赴かせる。
アンズに護衛依頼をするという、彼女に進行を指示できる形を取ったとて、危機に敏感なアンズにそんな無謀を強いることはまず不可能だ。
テンジンからの助言など聞かずとも、そんなの見え見えの罠であるとすら看破する程度には、アンズとて性善説染まりの考え無しではない。
カムロと思しき黒装束の男が、クマリを人質に取った目的は、本来叶わぬこの状況を叶えられた時点で終わっている。
今やカムロが人質に取っているのは、崖っぷちに立たされたアンズの命の方だ。
逆らうならば死ぬのはお前だ。単純明快な脅迫交渉。
小刀の切っ先をアンズに向けるカムロの所作は、アンズにとっては先程のクマリと同じく、自らの喉元にそれを突きつけられたにも等しく感じられる。
「本題だ。
お前はもしも、倉鎌幕府が再び山波京を攻め滅ぼそうとする日が訪れるとすれば、矢面に立ち京を護らんとする立場にあるか?」
突拍子も無く、しかし物騒、それも、そんな簡単な言葉では片付けられぬほどの不吉な響き。
もしもそんなことが本当に起きれば、それは東西の最大勢力同士がぶつかり合う、幾千もの血が流れる戦乱の世の再来。
ぞっとするような響きでありながら、アンズがそれほど動揺しないのは、今の治世でそんなことはあまりにも現実離れしているとわかっているからだ。
極めて縁起の悪い例え話ではあるが、あくまで例えだとも確信できる。
「……私は関わりませんよ。
それはもはや政争で、神職者が介入すべきものではない。
私は山波村に降りかかり得る火の粉を払い、そこに住まう人々を守るために奮迅するのみです」
「そうだろうな。
では、幕府以外の勢力が京を攻め滅ぼさんとした場合はどうだ?」
「……………………あなたが、そのつもりだと?」
「話が早くて有難いな。
私は京に、帝に、深い恨みを抱いている身でね。
帝と、それに連なる兄弟父母妻子に至るまで、すべて根絶やしにしたいとさえ思っている。
それを叶え果たさんとするならば、京ごと滅んで貰うしかないのでね」
それは幕府が京に攻め入らんとする例え話以上に、現実離れした夢物語だ。
和大国全土において最大勢力である倉鎌幕府でも、今この時代に京へ進軍したとて、それを滅ぼせるとは思えない。
現に倉鎌幕府が成立する前の長き合戦の中でも、倉鎌の水原家は京を攻め滅ぼすことまでは果たせなかったのだ。
合戦は京の降伏によって決着したに過ぎず、その事実こそが、京そのものを完全に滅ぼすことは、今の倉鎌幕府でも難しいと断言できる有力な根拠になる。
あの幕府ですらも困難なこと、京の滅亡を、カムロや、それと志を同じくする者が集ったとて、幕府以上の力で以って叶え果たせるものだろうか?
しかし、カムロの声には力がある。実現可能であることを疑わぬような確信が。
表情も伺えぬ相手から発せられるその異常な気配は、アンズに、ただの夢妄想を語る愚かな者を見る目をさせないほどのものがある。
「さて、どうだ?
京を攻め入らんとする者と京の戦いが、政争でなかったなら?
お前は無関係を貫くか?」
「戦いますよ。
恨みを晴らすための戦いは、それ以上の禍根と悲しみを生み出す、負の連鎖にしか繋がらない。
たとえあなた達の戦う理由が私怨であると知らなくても、私の取るべき行動は変わりません。
京の崩壊が世にもたらす混乱とそれによる悲劇の波及は、必ず山波村含む山波国すべてを襲うんですから」
「だろうな。
私がお前に交渉したいのはそこなんだ。
お前は政治と宗教が交わらぬことを宗とする賢明な神職者だが、戦乱の訪れを防ぐ一助となることを望む人格でもある。
あぁわかっている、わかっているともさ」
含み笑いのような声使いで語るカムロは、ここまではあくまで、アンズの立場と姿勢を確認するに過ぎなかったと語るかのよう。
いつか京に攻め入ることを宣言したカムロにとって、その日アンズは必ず敵対するという事実。
そしてカムロにとって、それは望ましくない展開なのだろう。
神力で以って生まれた雲に乗り、空を駆け、対人でも相応の制圧力を持つ稲妻を操る雷神巫女など、一世一代の勝負の日に敵対陣営にいて欲しい兵力ではない。
「我々が京に攻め入るその日、お前はその合戦に参じぬと誓え。
お前一人でいい。
京が故郷である玉依鳴御が手をこまねいていられる道理も無いし、奴にまで座して見過ごすよう説得するようなことは求めん。
お前がそれさえ誓ってくれるなら、クマリと共に桑原村へと帰って貰って結構だ」
「……口約束で?」
「ただし、はっきりと誓って貰うぞ。今の要求よりも若干強くな。
そうだな……『京に何者が攻め入ろうと、自分が京に与して戦うことは生涯ない』とでも」
どうやらカムロの言う"交渉"とは、これが全てのようだ。
要はカムロが宿願を果たさんとする時、厄介視しているアンズが敵対してくれなければそれでいい。
本当にそれだけだ。確かにそれが確約できるなら、そのためだけにここまで手の込んだことをする価値も充分にある。
あるにはある、確かにそうなのだが。
「仮にそう誓ったとして、私に、その約束が破れないという確信があるんですか?
クマリの前だから、約束破りは出来ないとでも思ってる?
私だって、たとえ卑怯な手で交わされた約束であろうとも、一度交わした約束は何が何でも守るべきだなんて、子供達には絶対教えないですよ」
「破れんね、お前は誓いを。
お前は一度でも誓いを軽薄に破れば、その者の発する言葉の価値は大きく落ちることをよく知っているからな。
あの時は仕方なかった、だってやむを得なかった――そんな言い訳で自らの言葉の価値を落とすことを、お前は断じて出来ぬだろう?」
「……私はこの巫女にあって恥ずべきことですが、そこまで潔癖でもないんですけど」
「どうだ、図星だろう? 話を逸らす程度には。
お前が潔癖かどうかなど関係無いよ、お前は自分の発する言葉に責任を持ち、はっきりと誓った言葉を覆すことが出来ない人格だからな」
「……………………」
「まして、只でさえ今の世では、発すれど発すれど信じて貰うことの難しい、神の実在を訴えるお前のことだ。
嘘をつくこと、誓いを守らぬこと、そうして軽薄な口へとなっていくことを、お前はむしろ恐れすらするだろう?
一度誓わせてしまえば、お前はもう動くことは出来なくなる。
口約束で上等だ。仮に覚悟を決めてその誓いをお前が破るなら、それはそれで私にとっては結構なことだよ。
信念を曲げてしまった者など、如何にその者が並々ならぬはずの地力を備えていたとて、不思議なほど脅威にはならぬというのが世の常だ」
アンズの表情が見るからに苦々しいのは、カムロの言うことに一切の反論が出来ないからだ。
カムロの見立ては空想論のようでいて、こと対アンズにおいてのみは実に的を射ている。
神職者としての言葉の重み云々はさておいても、都合に合わせた口八丁を、そもそもアンズは好まない性格だ。
自分の言葉に責任を持ち、些細な約束でもそれを守るように努める人物を目指すのは、誰しもが志しても良いほどの美徳である。
その美徳の積み重ねが、不安も内在する中で自信を得ることにも繋がり、茨の道を進むものであればあるほど、その自信というものは大きな柱になる。
志す道の険しさを誰よりもわかっているからこそ、アンズは神職者として尊ばれるべき人格者たろうとする信念も強い。
一度誓ったことを、言い訳を並べて破ることなどしてこなかったからこそ、アンズは同い年の中でも格段の心の強さを持つ巫女としてここにある。
たった一度、は極めて重要な分岐点なのだ。信念に背いたそのたった一度を皮切りに、人は必ずまた同じ過ちを繰り返す。
人間は、楽を覚えると流される。逃げが持つ強烈な依存性は侮れない。
そして、如何に歳の程以上に成熟したアンズとて、所詮は若いのだ。
酸いも甘いも知り尽くし、時には折れることも必要であると知り、たとえ信念を曲げても心の強さを失わぬほどには達観していない。
長年貫いてきた、己の言葉を覆してこなかった生き様を覆した時、まさしくその日に生じた心の揺らぎは、必ず命のやり取りをする局面で響いてくる。
ただでさえ、ほんの僅かの迷いすら命取りになるのが合戦場だ。
どんなにアンズがいつかの日、誓いを破って京を攻め込むカムロを迎え撃つ自分を割り切ろうとしても、それを完全に噛み砕けるほど完成もされてはいない。
カムロが言うとおり、この場で誓わせることさえさせてしまえば、どのみちアンズはカムロにとって脅威にはならないことが確約されている。
単なる口約束を強いるだけの交渉にして、ここがやがて訪れる日にとって極めて重要な分水嶺であると、カムロは正しく理解しているのだ。
「……あなた、私のことを知り過ぎじゃないですか?
顔を見せて貰うことって、出来ないですか?」
「生憎それはお断りだ。
心配せずとも、お前をよく知る身内が密かにこのようなことを企み、こうしてお前と敵対しているようなことは無いよ。
仮にそうなら、別にクマリを人質を取るようなしち面倒臭い手段など取らずとも、築き上げた信頼と口八丁でこの程度の状況は作り上げられるさ」
「気持ち悪い……」
いったい、いつから観察されていたのだろう。
知らぬ間に目線を注がれ、いつの間にか性格まで見透かされていた事実は、心を丸裸にされていたかのようなおぞましさがある。
まして相手は男性と見える。形容し難いほどの嫌悪感。
肌を晒すことにすら抵抗のあるうら若き女の子にとって、長きに渡って知らぬ眼に晒され続けていた事実そのものが耐え難い。
「誓いの言葉を頂けるなら、私はそれで結構なんだ。
お前に限って言えば、そもそも裏切る算段で誓って逃げるということは絶対に無いと、私は断言できるからな。
お前ならば、そんなことをするぐらいであれば――」
「もういいです、やめて下さい。
さんざん人のこと勝手に観察して、お前のことは何でも知ってるぞって……」
「ここで断り、絶体絶命の状況に立ち向かうことを選び、生き延びるか死ぬかの信念を貫く選択をするであろうからな」
強く拒絶したアンズの言葉を顧みず、カムロはアンズが選ぶであろう結論を、寸分違わず言い当てた。
これだけアンズのことをわかっているなら、ここでアンズがどう答えるかだってわかっているのだ。
そんなことは、既にカムロ側の兵力に溢れたこの状況そのものが物語っているようなものであろう。
半ばはじめから、アンズのことはやがて敵対する脅威として、ここで葬る算段だったということである。
その上で、一応にでもアンズに選択肢を与えたのは、ある意味で彼女の命を奪わぬことも視野に入れた、卑怯者ながらも見せた慈悲めいたものなのだろうか。
どちらにしたって、アンズにとって評価に値する人物ではないが。
「結論を貰おうか。
誓うか、否か」
「誓えませんね」
「よろしい。
己の言葉に殉じ、相応の結末を迎えて貰うとしよう。
キドウマル!」
「ったく、はじめからそのつもりだったなら、こんな問答は要らなかったんじゃねえのか」
そいつの気配は、アンズも既に感知していた。
カムロが立つそばに聳える木、その上方からは隠す気もないような悪意と息遣いが、ずっとアンズの神経を刺激していたほどだから。
そしてカムロに名を呼ばれ、飛び降りるようにして着地したそれには、アンズも露骨に嫌な顔をする。
夜目の限りで辛うじてとはいえ、角を持つ頭部がはっきりと見え、動かぬ限りは闇に溶け込む黒き全身と思しき様相。
それが、先日のイナリ姫護送の際に遭遇した黒鬼であることは、呼ばれて発したその声が記憶と一致したことからも明白である。
「そう言うな。
私には私の矜持というものがある。
お前にはあの日恥をかかされた礼をする機会をこうして設けてやったわけで、お前との約束も破ってはいまい?」
「ちっ、おかげ様で待ってるだけで体がなまっちまっていけねぇ。
お前は俺の下なんだから、もっと気配って尽くせってんだ」
「わかったわかった、悪かったよ」
こいつ本当に文句ばっかりだな、と肩を竦めながらキドウマルに会釈するカムロだが、アンズはいっそ怪訝な顔である。
鬼は強い妖魔だし、人の下につくような奴らではないのはわかるが、本当にこいつがカムロの上に立つ器なのだろうか?
どう考えてもカムロの方が格上に見えるのだが。
考えても意味の無いことなのに考えてしまうのは、考えずしてそうとしか見えないからである。
「さて、巫女アンズ。状況はわかっているな?
お前はこのキドウマルを筆頭に、私の揃えた尖兵らにじっくりと遊んで貰うといい。
幾度も妖魔を撃退し、しばしば深い傷を負いながらも生き長らえてきた巫女の悪運が、今日も発揮されるのかが見物だな」
「クマリは?
約束を守って貰えないんだったら、刺し違えてでも滅ぼしますよ」
「それは勘弁してくれ。
生き残ることも目指した上で戦って貰わねば困る。
ただでさえ厄介な奴が、最初から命を捨てる覚悟でこられては倍ほど怖い」
カムロは生まれて初めて鬼を目の当たりにし、がたがた震えて涙目になっているクマリに歩み寄り、そっとその腹に手を添える。
たったそれだけの挙動でアンズがぴくりと肩を動かす程度には、間違いだけは犯してくれるなよという恫喝が喉まで出かかっているのが窺える。
カムロも重々承知の話。神の力の使い手をやけくそにさせてはいけない。
敵をわざわざ死兵に生まれ変わらせるのは、自殺行為と変わらない。
「う゛……!?」
カムロの手が一瞬の力で以って、アンズの腹の奥に詰まった空気を全て吐き出させる。
急所の鳩尾に唐突な圧力、肺の圧迫、十歳の子供には耐えきれぬ苦しみ。
大人でも目を白黒させて目の前が霞むほどの衝撃に、顎を振り上げびくんと一瞬の痙攣を見せたクマリが、かくりと全身の力を失ってしまう。
アンズも飛び出す一瞬前だった。いや、思わず神の力を喚ばずにはいられなかった。
光を放つ八つの雷神太鼓がアンズの背後に浮かび上がり、撥を握ったアンズが臨戦態勢に入る。
クマリが死んでしまったかとも見紛うようなカムロの行動に、即座に太鼓を撥で叩いて稲妻を撃たなかっただけでも耐えた方である。
「約束どおり、この気高き少女はあの家まで送り届け、そのまま眠らせておいてやろう。
大した少女だよ、この子はな。
鬼という恐怖の象徴を前にしながら、震える足に力を込め、いつでも飛び出せるようにしていたほどだからな。
その意味がわかるか?」
勿論、わかる。
もう長い付き合いなのだ。それも、極めて身近にだ。
アンズがこの黒鬼に殺されてしまうかもしれないという展開を予感したクマリは、いよいよという局面で黒鬼にぶつかっていく覚悟を決めていたのだろう。
自分の力で黒鬼に傷をつけられるとは思えない。
その懐に入った瞬間、引き裂かれて死を迎えるのが自分だともわかっている。
それでも、こいつが一瞬でも怯むんだったら。
強いお姉ちゃんなら、その隙にきっとこいつを倒して生き延びてくれるはず。
クマリの危うさはアンズが一番よくわかっているのだ。付き合いの長さで、そんなクマリの性格を象徴するような行動は幾度見てきたかわからないのだから。
「くくっ、キドウマル。負けられんぞ?
名高き雷神巫女を討ち取ることで、この少女を絶望させることぐらいはせねば、子供からも舐められた屈辱は拭えまい?」
「……気が変わった。その娘を寄越せ。
俺を見くびったあの眼を、死の恐怖で塗り潰し……」
「黙れ」
気を失ったクマリを肩に担いだカムロが、意に沿わぬことを口にしたキドウマルを、たった一言で閉口させる。
何が"お前は俺の下"だ。アンズも馬鹿馬鹿しいものを見ている気分。
この黒鬼、決して弱くはないことぐらいわかっているが、確実にその格上たるカムロに対し、アンズの危機感は改めて膨らみ上がる。
鬼の上。あの装束の下は、果たして何者だというのだろうか。
「巫女アンズ。
この気高き少女を悲しませたくなければ生き残ってみせることだ。
クマリはたとえ自らが生き残ること能われど、お前のいない空の下では死人も同然の抜け殻となるであろうからな。
私の敵意を、お前の悪運と培った力が果たして上回るのか、今宵確かめさせて貰うぞ」
「……もう消えて。
これ以上、汚い手でクマリに触らないで貰いたい」
「私はクマリを家に帰せば、再びお前を嬲る輪に戻ってくるぞ。
せいぜい私が戻るまでに、出来る限り敵の数を減らしておくことだな」
アンズも感知している厳しい現実だ。
対峙する黒鬼のみならず、前後左右はおろか木々の茂る上方まで、人ならざる気配でいっぱい。
いよいよ巫女を喰える時が迫り、殺意をぎらつかせ始めた存在は、先程まで以上にその気配を濃くしているから尚更わかる。
仮に今、アンズを中心に、周囲の敵が位置する場所を地図のように点で記せば、点の集合体だけで塗り潰したように真っ黒になるだろう。
百をも超える妖魔に包囲されたと見て、きっと、恐らく誇張無い。
今は激甚な怒りに胸を焼くアンズであるが、冷静な頭でこの状況にあれば、さしもの戦い慣れた彼女とて背筋が凍るような局面に違いない。
『飛べば逃げ切れるという状況ではないぞ。
私の声を聞き逃すなよ。必ずお前を救ってみせる』
(……ええ。
恐れ入りますが、お力を御貸し下さい)
これまでの人生で間違いなく、最大級の窮地だろう。
孤立無援、敵は無数、敵が仕立てた領域内。
頼れるものは、いかなる時もそばにいてくれる神様と、それが授けてくれるなけなしの神力のみ。
「それでは、始めよう。
キドウマル、よもや逃がすなよ?」
「ちっ……!
糞生意気な雷神巫女!
てめえのせいで俺はここしばらく恥をかかされっぱなしだ!
楽に死ねると思うなよ!!」
構えるアンズ、地を蹴り桑原村に駆けだすカムロ、吠えるキドウマル。
ほぼ同時の三者の様相は開戦の旗をばさりと振り抜いた音のようでいて、それに呼応するかのように森がざわめく。
カムロが潜ませていた無数の悪意が、人の声ではない雄叫びをあげ、妖の脅威たる巫女を狩る祭に歓喜するざわめきだ。
切って落とされた戦いの火蓋、その中心には輝く雷神太鼓を背負ったアンズが、特異点のように燦然と煌めいている。
一対多。いや、もはや多ではなく無数。
その人ならざる豪脚を蹴り、凄まじい速度で迫る黒鬼と対峙するアンズもまた、地を蹴り死闘の幕開けの第一手へと移っていく。
殺し合いではなく、一方的な嬲り殺しの場として整えられた戦場。
まさにカムロの言うとおりに似て、絶大な殺意をアンズの培った力が退けられるか否か、巫女の命運が確かめられる宵だ。




