第十五話 ~桑原村の夜~
「それでは、また明日の朝」
「はい、おやすみなさい。
ほらクマリ、ちゃんとご挨拶して」
「んぅ……おやすみなさい、カムロしゃん……」
クマリの家へと向かう方向に進み、道半ばでアンズ達とカムロはお別れだ。
村の旅籠へと足先を曲げるカムロに、アンズと、彼女の腕から地面に降ろされて立ったクマリが、小さく手を振ってご挨拶。
単なる眠いを通り越して、もはや寝起きで目をこすりながらのクマリである。完全にすやすや寝ていた模様。
もう十歳にもなるというのにまだ、大好きなアンズお姉ちゃんに抱っこされては、布団の中より気持ち良く熟睡できてしまうらしい。
大人顔負けの体力と年の程以上の利発さを既に垣間見せているクマリなのに、アンズが絡むと赤子のようですらある。
「こらこら、家に着くまでにはちゃんと目を覚ましてね。
ご飯作って、食べて寝るんだから」
「もう今日いらないかも……そのまま寝たい……」
「だーめ、食べないとおっきくなれないよ。
お姉ちゃんみたいになりたいって言ってくれたのは嘘だったの?」
「んむぅ……わたし嘘なんかつかない……
がんばる……」
よほど深く心地良い眠りだったのか、目をこすりながら歩くクマリは、アンズに手を引いて貰っていなければ、ふらふら横に歩みが逸れそうなほど。
未だ夢心地のようだ。ちょっとぐらいぺちんと叩いて眠気を飛ばしてあげた方がいいんじゃないかと、アンズもやや真面目に推察する。
結局、手を出すことは出来ないのだが。躾ける時は必要とあらば案外容赦なく手を出せるアンズだが、やっぱり可愛い妹のようなこの子を痛がらせたくはない。
灯り無く月明かりだけが頼りの静かな夜の村を、地元の足取りと通い慣れた村の感覚で、二人は迷うこともなく真っ直ぐクマリの家へ。
父や母という家主のいない、普段はクマリが一人で暮らす小さな茅葺き屋根の家だが、一人暮らしの小さなクマリには余す大きさとも言える。
今宵のように、アンズのようにしばし一緒に過ごしてくれる人がいて、丁度いい広さである。
家を目前にして、そうだ今日はお姉ちゃんもいるんだ、と少し元気が出たのか、クマリは小さな口であくびを挟みつつ、少しは目が冴えたようだ。
「お野菜切る~。
お姉ちゃん、お米炊いてくれる?」
「大丈夫?
寝ぼけて手を切っちゃったりしない?」
「しな~い」
少し心配になるねぼすけさんだが、クマリは親のいる普通の子供とは違い、もっと幼い頃から自炊してきた身。
そりゃあ幼少の頃は、アンズや近隣の大人が包丁の使い方などを指導してくれたものだが、七歳になる頃にはもう自分一人で自分のご飯ぐらいは作れていた。
眠い目でも包丁の扱いを失敗することなどあるまい、というアンズからの信頼もあるほどには、クマリも正しく自信をつけているのだ。
楽観ではなく当たり前のように怪我しないと即答するクマリをまな板の方へと見送ると、アンズは米を炊き始めた。
アンズが水を汲んできて、米を研ぎ始める頃にはもう、クマリは野菜を切る作業は半分ほど終えている。
二人分の夕食の具材など少量であり、それが出来たらクマリの方がアンズよりも先に竈に火をつけている。
お鍋に水を汲んできて、煮干しを入れて出汁を取る準備を始め、アンズが米を炊く火にかけるのとほぼ同時に並ぶ。
毎日やっている手慣れたことなので、多少眠くても勝手に体が動くのだ。
多少、眠気のせいで手順が前後している程度である。
放っておいても調理が進むような形になれば、二人で適当にお喋りして時間を潰しつつ、進み具合に合わせて火を調整するだけ。
そうしてやがて、ご飯とおすましが出来たらそれを椀に移す。
あとは囲炉裏のそばにそれを持って行って、薪を節約した小さな火の前でいただきます。
暗い家の中での食事であるが、ほの暗さの向こう側に、今日は一人じゃない相手がいる光景は、見ずともわかるクマリの無邪気に嬉しそうな顔に表れていた。
「ごちそうさま。
美味しかったよ、クマリ」
「私、お姉ちゃんみたいにお料理上手になれる?」
「もう上手だよ。
いつか旦那さんが出来たとしても、きっと、クマリの旦那さんは幸せ者だよ」
「うへへ~」
農民の食事は、基本的に味が薄い。
塩だの味噌だの酒だの出汁だの、舌を喜ばせる美味しさをもつ調味料と呼べるものは、並の農民にとっては贅沢品と認識される。
野菜から沁み出す味ぐらいしか彩りを付けるものがなく、普段使いでも食べられるようなものの味など、楽しむ余地無く飽き飽きなのである。
たまに葱やら山葵やら、個性的な味を出す植物を採ってきて使えば普段と違う味を楽しめるが、群生地は限られているし採り尽くしたくもない遠慮もある。
個性的な味を出す食材に触れる機会が少ないため、普通に暮らしていては料理の腕も上がらない。
意識して美味しいものを作ろうと、それも物が無い上で毎日試行錯誤を繰り返さなくては、いわゆる美味しいご飯は作れるようにならないのだ。
花嫁修業という言葉があるが、家族にとっての代わりのきかない台所の主になろうとするなら、言葉通りの長い修行が必要だということである。
男性が重視されがちで、貴ばれる地位に立つのも男達ばかりという時代ながら、実は料理の上手い女性というものはかなり重宝されるのも事実だったりする。
嫁は強い。社会的地位のある男ですら、女房の尻に敷かれていることが多いという話をしばしば聞くが、実はなかなか頷ける話なのだ。
「お姉ちゃんは、どうしてお料理上手なの?
私はお姉ちゃんに教えて貰えたからだけど」
「私はね~、神様に教えて貰ったんだよ。
ナルミ様はお料理あんまり得意じゃないか……あ、ごめん、これは内緒で」
「わかった、ないしょ……あっ。
お姉ちゃんが今日いっしょに寝てくれたら内緒にする」
「勘弁してよクマリ~。
そういう人質作戦はずるいぞ」
今日ぐらいはアンズも、せっかくなのでと夕食までは一緒にしてくれたが、この家で泊まることはあまり多くない。
本業は巫女だ。私情を交えず、毎日神社で寝起きして、主神のお膝元で一日を始め、終える。これを当然の習慣とする。
アンズは神力で生み出した雲に乗って、ぴゅんと神社に帰ることも出来るのだから、"今日は遅いからもう泊まろう"という発想には定まらない。
流石に今日は桑原村への滞在が長く、神社に帰り着く頃には夜遅く、そこから身を清めて寝るとなれば就寝も遅くなりそうではあるが。
それで明日の寝不足を覚悟しなくてはならぬのも、とうに織り込み済みである。
「久しぶりにお姉ちゃんと寝たいよ~」
「だめだめ、クマリももう十歳でしょ? もうすぐ大人なんだから。
お姉ちゃんと一緒に寝るなんて子供だよ?」
「うぐぐ」
何歳からが大人というのは曖昧だが、農民は少なくとも十五歳にもなれば大人扱いである。
家事なり畑仕事なり俵運びなり、農民として出来なくてはならないことなんて、十五歳までには出来るようになり独り立ちして当たり前。
逆に言えば、全部出来るようになって一人でも生きていけるようになれば、もう大人扱いされるということでもある。
ちなみにアンズは、十二歳の時点で全部出来ていた。女の子がその年で俵運びが出来たのは流石に凄いのだが。
クマリは発育が遅いため、流石に俵運びが出来ないのだが、持ち前の元気さを裏切らぬ足腰の強さはあるので、じきにそれも出来るようになるだろう。
力仕事は男の仕事と言われるが、女性だって最終的には俵ぐらいは必ず運べるようになるのだ。だって出来なきゃ主食も運べないでしょと。
家事も畑仕事も一人暮らしでとうに出来るようになっているクマリというのは、十歳ながら、もうすぐ大人でしょと言われて妥当である。
そして農民、半人前のままでは生存していけないことを本能的にわかっているので、早く大人になろうという意識はみな高いのだ。クマリも例外ではない。
「一緒にお昼寝するぐらいならいいけどね。
夜はやっぱり一人で寝なきゃ。
クマリ、おねしょっ子だし」
「もう~! それはもう治ったの!
いつの話してるの!」
クマリがもっと幼い頃は、親を喪い孤独な彼女を慮り、アンズも床を共にした頃があった。当時はアンズも正式に巫女になる前であったから自由さもあった。
ただ、それで一回クマリがおねしょしてしまい、一緒に寝ていたアンズも苦笑いしきりな夜明けを迎えたこともある。
幼かった当時のクマリの悪びれなさも含め、今となっては笑い話だが。
それはアンズ目線の話で、もちろんクマリとしては今になって蒸し返されるのは勘弁。
そんな二人だけの思い出が他にも山ほどあるわけで、そんな風に手を繋いで育ってくれば、そりゃあお互い無二なる姉妹のような間柄になるというものだ。
「ほら、もう寝なきゃ。
明日も畑仕事あるでしょ? 夜更かしは良くないよ」
「む~、わかってるけど。
よく寝ないと胸おっきくならないし」
「女の子同士でもそういうすけべなこと言わないで欲しいなぁ。
クマリ、その物欲しげな目やめない?」
「……吸ったら出る?
お姉ちゃんの大人力を吸収できたりしない?」
「出るかぁ~!!」
子供ってたまに突拍子も無いこと言い出すから困る。
本当に、大人には思いつきもしないような馬鹿馬鹿しいことを、大真面目な顔で言ってくるから始末に負えぬことも多々。
それが稀に大人達すらはっとさせる、子供だけの天才的発想であることもあるので、一概に悪いことばかりでもないのだが。
これがそうでないのもまた明らかなので、きつめに突っ込んでおいてよい。
「馬鹿なこと言ってないで寝る寝る。
食器は片付けておくから、クマリは寝床をちゃんと整えて」
「おしっこ行ってくる」
「ま~自由だこと。
いいよいいよ、いってらっしゃいませ」
寝なさいというアンズの促しを受け入れたのはいいが、しれっと場をはずし、食器の片付けも寝床の整理も全部アンズに押し付ける魂胆がありそう。
白々しいなぁと苦笑いしながら、アンズもクマリを見送るのみ。
幼い頃におねしょした嫌な思い出が残っていると、寝る"直前"に用を足さないと落ち着かないという人は結構いるらしい。
それに執拗に拘る人がいたら、あぁもしかしたら小さい頃にそういう思い出があるのかな、なんて勝手に想像してもいいかもしれない。口にはしないように。
「……まだまだ子供だなぁ。
私も人のことは言えないけど」
『私から見ればお前は本当に子供だぞ。
親から見た我が子はずっと子に過ぎぬ、という次元では無くな』
(もう~、わかってますからわざわざ詰めてこないで下さいよ。
自覚あるんですから)
『くふふ、言い訳のようにあらかじめ口にしておけば突っ込まれぬとでも思ったか?
そんな予防線は認められんなぁ』
(いいじゃないですか別にっ!
そういう子供の浅知恵を敢えて見過ごしてあげるのも大人だと思いますよっ!)
家の外へと、離れに向かって用を足しに行くクマリを見送りながら、無音で脳裏でテンジン様と騒がしく、わやくちゃ。
一人になっても、こうして話せるひとがずっとそばにいてくれるからこそ、自分は孤独でなかった自覚もまたアンズにもある。
クマリはそうじゃなかったから。両親がいなくなってから、本当に一人ぼっちで夜を過ごす寂しさを幾度となく味わってきたはず。
アンズも私情で言えば、わがままに付き合って、寂しくない一夜を共に過ごしてあげたいとも思う。
一方で、仮に自分に巫女の使命が無かったとしても、大人の階段を上らせるために甘やかさない対応をすべきだったはずだとも考える。
そんなことを短い時間で逡巡する程度には、アンズはクマリの姉である以上に、親のような目線で見ているふしもある。
だって、可愛いんだもの。お姉ちゃんお姉ちゃんと、ずっと後ろをついてきて甘えてくれる子。
一人で夜の家の外に出ていく姿を見送るだけでも、ちょっと心配になるぐらいだ。万一のことなんて絶対に起こって欲しくないほど大切。
そんな自覚があるがゆえ、私もあの子が好き過ぎて甘やかしちゃってるんだろうなと改めて思い直す。
慈母敗子。過ぎたる情は育て子を駄目にすると、テンジン様に耳が痛くなるほど聞かされていることである。
流石に神様、アンズがどういう子なのかはよくご存じだ。
今は亡き実の両親の愛を心のどこかで懐かしむアンズが、自分が愛を注ぐ側になれば惜しみないことぐらい。
(あ~、クマリも山波神社の巫女になってくれればいいのに。
そしたら堂々と一生面倒見られるようになるのに)
『認めぬとは言わんが、そうなるように誘導することはしないようにな。
操られた神職者にろくな者はおらぬのだから』
(ですよね~)
テンジンとの会話に気を紛らわせながら、クマリを心配してしまう自分の過保護精神に蓋をするアンズ。
桑原村は平穏な村である。
村の中にある限り、夜に出歩いても危険なことなど起こり得ない。
山波村のそれと比較してそこまで強い者達ではないにせよ、村を夜警してくれる力自慢もいる。
たかだか家の裏に用を足しに行っただけのクマリの身に、そんな短時間で何かが起こるはずもない。
そんな当たり前のことを思い直し、アンズは心配性が過ぎる自分のことを軽く反省するのであった。
「…………?」
ただ、ちょっとおかしいな、とは思った。
用を足しに行っただけにしては、クマリが帰ってくるのが遅い気がする。
何度も通ったクマリの家だから、クマリがどの場所で用を足すのか、行って帰ってくるまでどれぐらいかかるかなんて感覚でわかる。
食器の片付けも寝床の整理もとうに終わっている。なんならそれが全部終わった頃合いに、既にクマリが帰ってくるぐらいで妥当なはずなのだ。
クマリはまだ戻らない。
全部片づけて、少し待っても、未だ帰ってこないというのは、流石に少々かかり過ぎだと断定できる域に入っている。
「……テンジン様?」
『確かに遅いな。
獣や妖の気配は無いのだが』
流石にそわっとしてくるので、アンズもつい声を出してまでテンジンに問うてしまったが、テンジンからは不穏の気配無しとの回答。
いかに信仰薄きこの世にあって力が弱まっていても、人の世に災いをもたらす最たる神様、妖の接近には敏感だ。
そんなテンジンが妖の気配無しという仰るなら、この村ないしこの家の周りに、そんな存在が無いことは信頼していいはず。
獣の気配が無いことは、アンズにだって自分で確信できることだ。
何年も夜の護送仕事をしてきた身、この静寂な夜に獣が近付きつつあるなら気付けるようでないと、そんな仕事をここまで生きて続けられてはいまい。
帰りの遅いクマリを心配しようにも、彼女を脅かすような存在が近くにいないことは断定していいはずなのだ。
なのに、遅い。
正しく認識できているはずの実状と、現実が噛み合っていない。
「……………………」
そういった不可思議さこそが、一番ぞわぞわするのだが。
この時、アンズの背筋を襲った悪寒とは、そうした理に合わぬ現実に対する些細な気持ち悪さだろうか。
あるいは荒事に慣れた巫女の、理屈を超越して危機の接近を過敏に感じ取れてしまう勘の賜物なのだろうか。
何だろう、この落ち着かなさは。
過保護なほど可愛がりたい子の帰りが遅いから?
いや、それだけではない気が――決して暑くもない春の夜、アンズの頬を冷や汗が、つ、と流れたまさにその時のこと。
「まだ確信には至れんか?
あまり遅いようであれば、この少女は好きにさせて貰うがね」
ばくん、とアンズの胸が破裂しそうになる。
テンジンのものではない。何者かが、家の裏から語りかけてきたような声。
しかし静か過ぎる夜ゆえに、その声は確かにアンズの耳にも届いた。
無論、テンジンの耳にもだ。
居ても立っても居られなくなったアンズが立ち上がり、放たれた矢のように家を飛び出すのは速かった。
静寂な夜は一転、戦慄の闇へ。
クマリの身に訪れた危機に、アンズの眼差しは一瞬で戦う巫女のものへと変貌していた。
「この状況はわかるな?
残念な結末を望まないのであれば、賢明な言動を心がけて貰おう」
今の状況を理解するのに、時間もかからなければ相手方からの説明も必要ない。
顔すら隠した黒装束の人物が、クマリを自分の前に立たせ、その喉元に小刀を添えた姿。
猿轡で口を塞がれ、涙目で震えるクマリの両手が、腰の後ろにある姿を見れば、とうにその手首も後ろ手に縛られているのかもしれない。
静かな夜の村の片隅、クマリの家の裏でそんな光景と少し離れたアンズは、とうに据わった眼差しで相手を睨みつけている。
声から聴く限り、黒装束の人物は男性だろうか。
男はクマリの口元に指を立てる仕草を見せ、しっ、とアンズとクマリに声を出さないよう命じてくる。
見るからに人質とされたクマリの命が惜しければ、これには従うしかない。
その気になれば大人相手にも喧嘩が通じるアンズであるが、近付くことすら出来ないのは、この状況を理解しているからだ。
「仮に、だ」
黒装束の男の声は小さい。アンズの耳にかろうじて届く程度の大きさだ。
静かなる村の中にあって、隣家や夜警の耳に届かせぬ、アンズと自分のやり取りをこの場以外に悟らせぬことを重視したもの。
それはアンズからしても、下手に声を出せばその瞬間、この男の望まない展開となってしまい、クマリの身が危ないということの裏付けだ。
「この少女の命が惜しくば、その場で喉を掻きむしって死ねと私が命ずれば、お前はそれに従うかね?」
「~~~~……っ!
っ、っ~~~~~……!」
その言葉に真っ先に反応したのがクマリであり、ふるふる小さく首を振る。
そんなことは絶対にしないで欲しいと、今の自分の状況を理解した上で必死に訴えるクマリの喉元に、今一度黒装束の男が小刀を当てる。
刃ではない方をぐっと柔らかい肌に沈ませる冷たさは、動くなという無言の圧力で以って、再びクマリを凍り付かせる。
そうした挙動一度ごとに、アンズから滲み出る怒りが激増していくことをも見届けながら、黒装束の男は怯みもしない。
「尋ねているのだ、口を開いてくれて構わんぞ。
ただし、声の大きさには気を付けることだ。
感情に任せて声が大きくなる性分は、今は控えて貰いたい」
不気味なことに、黒装束の男はアンズのことをある程度知っているようですらあった。
顔を隠した相手であるが、もしやあの装束を剥げば顔見知りなのだろうか?
答えの出ない推察を一瞬で諦めながらも、アンズは大きく息を吸って、辛うじての冷静さを取り戻すべく静かに息を吐く。
「…………出来ませんね。
私の身体も、心も、命も、私のものではなく神様のもの。
天神様に私の全てを捧げる巫女として、如何なる卑怯な交渉を持ち掛けられようが、私が私の意志でこの命を捨てることはない」
「それはたとえ、仮に、私が山波村に住まう村人すべての命を、盾にしたとしてもか?」
「……ええ」
巫女として即答すべき模範解答を、アンズはすぐに発することは出来なかった。
場合によってはクマリの命を見捨てるにも等しい回答を、クマリの前ではっきり口にすることはこの上ない苦渋。
たとえこの局面を奇跡的に切り抜け、彼女の命を救えたとしても、もはやクマリとの関係も終わりだと覚悟せざるを得ない。
ましてアンズの心をいっそう苦しめるのが、そんなアンズの返答を聞いて、クマリはほっとしたように目を細めた表情だ。
自分なんかのためにアンズが命を失うなんて、そんなことは絶対に嫌。
両親の死に触れているクマリだからこそ、死というものの取り返しのつかなさと、大切な人にそれが訪れることの恐ろしさはよく知っている。
見捨てられたと失望するクマリを覚悟していたアンズにとって、自分よりもアンズの方が大事だと微笑むクマリの表情が、何よりも胸を引き裂いてくる。
こんなクマリを、今こんなにも怖い状況から救い出せない己の無力が、今は何よりも憎らしい。
「まあ、今のは冗談だと思ってくれ。気を悪くはするな。
こちらもお前に、なかなかきつい交渉をさせて貰おうとしているんだ。
お前の線引きを一度確かめたかったのでな」
この状況で何が冗談だとはらわたが煮えくり返りそうになるが、ぐっと堪えてアンズは唇を噛む。
黒装束の男が言ったとおり、いくらでも声を出してもいいならば、この瞬間に怒号を発しているであろう性分だ。
「こうした手段を取らせて貰っているが、正直なところ私は、この少女を傷つけるつもりはない。
重要なのは、お前と私の間にある交渉のみだ。
こうでもしなければ、お前はそもそも話も聞いてくれないであろうからな。
やむを得ず、このような凶行に出ていると言える」
「……凶行、ですか」
「自覚はある。
だが、無用な犠牲までは望まぬというのが私の本音でもある。
手段を選ぶにも限度がある私の目的ゆえに、しばしばこうした手に出ることもあるがな」
人質を取るようなことをしておきながら今さらとは思うものの、どうも声色に嘘の気配は無いとも聞こえる。
淡々とした声である上に表情すら伺えぬ相手でありながら、その言葉に嘘臭さが無いというのも不可思議極まりないことではあるのだが。
そうした底知れなさもまた、今のこの緊迫状況を抜きにしても、アンズが相手を改めて強く警戒する要素になる。
「ひとまず、私についてきて貰おうか。
まずは遠慮なく話せる場へ移ろう。
それぐらいであれば構うまい?」
「……いいでしょう」
そうして黒装束の男はアンズに背を向け、村を出ていく方へと歩みを進め始める。
アンズのことを知っている口ぶりである以上、彼女が離れた場所から敵を攻撃する手段を持つことも知っているはずだ。
その上でアンズに背中という大きな隙を見せてしまうのは、はっきり言ってかなりの不用心であるはず。
クマリというアンズの急所を押さえているとはいえ、それを取り返されてしまえば一転、容赦の無くなった雷神巫女と敵対する窮地だともわかっているはずだ。
(……隙なんてありませんよね)
『無い。
只者ではないぞ』
だが、アンズには手が出しようがない。
彼女は直感的に、テンジンは確信的に、背後からであろうとも奇襲でクマリを取り戻せる相手ではないと感じ取っている。
それだけの禍々しい気が、このような修羅場を幾度もくぐってきた人物の気迫が、後ろ姿からでも嫌というほど匂うのだ。
ナルミに仕える四人の武者、人類の中でも強豪の部類に属する人物に毎日のように接してきたアンズは、そのような気配にも敏感だ。
やむなく静かに黒装束の男の後を追うアンズ。
村の外へと足を踏み出すまで、夜警の誰一人の視界に入ることもなく、この異変をほんの僅かも誰かに伝えること能わず。
何気ない足取りに見えて、間違いなく黒装束の男は、自分に望ましい状況を手放さない歩みを誤らない。
夜目はおろか、気まぐれに歩く夜警の遠き位置取りまで理解しているかのような、そんな黒装束の男の周到さを実感するにつれてアンズも鳥肌が立つ。
私は、こんな奴からクマリを助け出すことが出来るのだろうか。
山賊も、狼も、妖すらも撃退してきた実績を持つアンズが、今までの相手とは格が違うと感じられてならない敵。
不安を握り潰すかのように、服の胸元をぎゅうっと握りしめたアンズは、過去一番の危機に生唾を呑むほどであった。




