第十一話 ~注目度の高い巫女~
イナリ姫を倉鎌の地へと護送する旅の初日、近滋国への到達は、差し支えなく完遂された。
国境へと到達し、アンズとコナツは護送団をそこで見送り、イナリ姫は選りすぐりの兵らと共にさらに東へと進んでいく。
倉鎌国はまだ遠い。今宵は近滋国の中心地にあたる近滋村にて宿を取り、イナリ姫はそこからも数日かけて、倉鎌の地へと里帰りする運びである。
国境に到達したのは夕暮れ前であり、想定よりも遅れたということもなく、襲撃一つあった上でそれなら上々というところだ。
アンズもコナツも立派に仕事を果たしたと言えるだろう。屍人襲撃時の活躍ぶりからしても、それは胸を張って良い。
あらかじめ用意されていた賃金がユキタダからコナツに支払われ、アンズにも少額のお布施が与えられた。
神職者は、誰のために何をするにしてもあくまで"御奉仕"でしかないので、神事以外の仕事に対して支払われる賃金が少なくなりがち。
アンズもその辺りは根っから理解しており、むしろ報酬をお断りした程であるが、支払いがコガラシとユキタダの個人的な私財からと聞けば却って断れない。
気持ちだから、と親しげある言葉と共に与えられた賃金を、アンズは深々と頭を下げて受け取った形だ。
部下には厳しいコガラシと、初対面では付き合いづらさを感じる鉄面皮のユキタダだが、やはり人を率いる立場にあるだけありよく出来た人物である。
そして、屍人相手によく頑張ってくれた二人に対する、武士と陰陽師らが二人に対する目もまた温かかった。
やはり姫君の護送を担うほどの方々は良い大人だ。仕事と実績を認める目と心意気があり、若者を可愛がることに何一つ躊躇いが無い。
五十余りの護送団の面々、それらの名前を一人一人覚えることは叶わぬものの、アンズとコナツも近しい場所で何度も見た顔だけはもう忘れない。
短い時間ではあったものの、ともに歩き敬えるようになった大人達のことを、可能な限り覚えて帰ることを自ずとせずにはいられなかったというものだ。
最後に別れの一礼を挟み、アンズとコナツは西の山波国へと帰り、イナリ姫とそれを守る護送団は東への旅を再開する。
一時のお別れ。だけど、機会があればまた会いたい人達。
アンズもコナツも、しばらく大きく手を振ることを続け、遥かなる幕府への旅路へと赴く皆々様を見送っていたものである。
護送はここまでだ。
ひとまず大きな仕事を終え、ふうと息を吐くコナツと、はぁと一息つくアンズの息遣いは、不思議とまったく同時だった。
まさしく、息ぴったり。慣用句の文字通り、というのは実際に目にすると面白いものである。
同時に息を吐いたことに見合って、くすっと小さく笑い合うアンズとコナツはもう、すっかり仲良しのお友達であった。
「すげえな、もうすっかり乾いてんじゃん。
目のやり場に困らなくて助かる」
「そんなこと言って、実は濡れたままの方がよかったんじゃないの。
コナツも男の子だもんね~、気持ちだけはわかってあげなくもないけど」
「遠回しなすけべ呼ばわりは御免被りたい」
イナリ姫らを国境で見送ったアンズとコナツは、しばらく山近街道を共に行く帰路を並び歩いていた。
今は陽も沈みつつあり、間もなく暗くなってくれば、アンズも雲に乗って神社への帰り道を急ぐのだが、少しは一緒に歩いてお喋りがしたかったようだ。
初めて会った日に友達同士になれたと思ったら、それ以降に会えた今日なんてもう、アンズにとってはもっと仲良くなりたい日である。
人懐っこい奴だなぁとコナツも思う。山波村では頼れる巫女さん、お姉さんの側であるアンズと聞いても、お前はどっちかといえば妹だろとも思う。
コナツにとっては話しやすくてありがたいのだが、先の雨でずぶ濡れになっていたアンズの服は、もう殆ど乾ききっていた。
生地が薄く、濡れるとすぐ肌に張り付くアンズの巫女服だが、雨のやんだ曇天の下、既にぱりっとして肌にひっつく気配もない。
「それも神様の力?
流石に普通にしててもそんな早くは乾かないもんな」
「実は雨が上がってから、服に雷ずーっと走らせてた。
その間はずっと体ぴりぴりして痛いんだけどね。
乾かす方が大事だから我慢してた」
「雷を流すと乾くのか?
火で炙ったら服が早く乾くんだったらわかるけど」
「知らない。でも実際乾いてるもん。
だから神様の力と見て間違いなし。凄いんだぞうちの神様は」
「隙あらばそれだよな、お前は」
「癖にはなってるね。
神様の凄さを広く知らしめるのが私の本業だぜぇ」
雷を流すことで濡れた服が乾く理屈を、説明できる者はまずいまい。
説明できないことは、神様のおかげか妖の仕業でいいのである。
実際、アンズにしてみればテンジン様の力のおかげで服が早く乾き、こうして恥ずかしい想いをすることなくコナツと一緒に帰れている。
通り雨のせいで友達と過ごす時間も我慢しなければならなかったところを、神様の力で今楽しいのだから、テンジン様への素直な感謝は片時も忘れ得ない。
布教が本業だとは言うものの、大好きな神様の魅力を語りたい、凄い神様だねって言葉を欲しがっているだけでもある。
「色々できて凄いからな、お前の信じる神様は。
屍人に囲まれた時も、その力は頼もしかったしな」
「でへへ~、そうでしょそうでしょ。
もっと褒めて」
察しの良いコナツだから、アンズが一番嬉しい言葉もちゃんと言ってくれる。
自分が褒められるよりずっと嬉しそうではないか。
こういう子なんだな、と周りに理解されやすいのもまた、アンズが人付き合いを得意とする遠因と言えるのだろう。
何を考えているのかわからない相手との付き合いは、どう接するべきかを考慮する必要があって若干の手間が増す。
わかりやすいアンズというのは、相手方からしてもどのように付き合えばいいかが簡単であるため、未知を敬遠する人からの足切りには遭いづらい。
「でもコナツも頼もしかったよ。
あんなに強かったら、別にこないだ桑原村に行く時だって、私の護衛なんて要らなかったんじゃないかなって思うぐらい」
「まあ、本当のこと言うと要らなかったよ。
白状するけど、手の目ぐらいなら何回もぶっ飛ばしてるし」
「え、ほんと?
屍人への対処も完璧だったし、もしかしたらある程度は妖にも対応できるのかなとは思ったけど……
コナツもしかして、実は陰陽術が使えたりするの?」
「そうではないけどな。
でもまあ、やりようはあるんだよ」
屍人は厄介な妖魔だが、極論生身の人間でも対処しきれぬことはない。
一対一なら腕の立つ武士が、もはや機能不全になるまで細切れに斬り刻み、火をつけてしまえばそれで誅滅できる。
手の目はそうでなく、その手の瞳から人の生気を奪う力があるため、相手に触れねばその脅威が表れない屍人よりも対処に困る相手だ。
完全に滅するには、いかに腕の立つ武士であっても一対一では厳しい。
一人でそれを為せる者がいるとすれば、妖魔を滅する手段に特化した力を持つ陰陽師の方であろう。
コナツが実は陰陽術の使い手なのではと推察するアンズの発想は最も自然で、かつ、それしか思い浮かばないほどである。
「……それ、生きていくためだけに得た強さじゃないよね?」
「そう思うか?」
「妖を恐れるなら人里から出ないだけでいいじゃん。
それに、コガラシさんですら唸るほどの実力なんて、普通にしてても培えるわけないもん。それも、その歳でさ。
コナツ、普通じゃ足りない程の強さを意図的に培ってるよね」
「ん~……」
思えば、山波国に潜伏する賊を積極的に狩り、京に何度も突き出してきたというコナツの実績も、別の目的ありしのようにすらアンズには思えてくる。
正義感と道理のしっかりしたコナツだとは元々思っているとも。
だが、正義感だけで、積極的に探さねば成し遂げられぬほどの頻度で賊を狩るのは、いくらなんでも流れ者の所業ではない。
本気で人の世に仇名す者を殲滅したいと思うなら、それこそ京の山狩り武士らの傭兵に志願した方がいいし、その方が食い扶持だって安定して稼げる。
アンズには、コナツが実戦を重ねることそのものを目的に動いており、賊を狩る形で秩序に貢献していることは副産物に過ぎぬように感じられてならない。
「まあ、そうだな。
友達だし話してもいいや。
俺はわけあって、どんな妖にも負けない力を求めて流れ者やってるよ」
「どうして、ってとこまでは聞かせて貰える?」
「長くなるから今日はもういいかなって思ってる。
でも、俺が大奈国の生まれだっていうのも併せて考えて貰えたら、まあだいたい想像ついてくれるんじゃねえかな」
「…………うん。
そっか、コナツはそうなんだ」
そこまで話して貰えたら、アンズは殆どを察することが出来た。
大奈国に跋扈する、悪名高き妖の話。そして、故郷を離れてでも妖の多い山波国を流れ、妖にも負けぬ力を培わんとするコナツ。
コナツが何のために、命を危ぶめるほどの旅を続け、力をつけようとしているかなど、これだけ情報が揃えば答えは一つしか無いのだ。
さっきまでお友達と楽しく話していたアンズの表情も、コナツの覚悟を察して神妙に曇る。
「だから、アンズには謝っておかなきゃいけねえんだよな」
コナツは気まずそうに頭をかくが、アンズは何を謝られるのかも想像がつく。
元々疑問には思っていたこと、こんなに強いのに私の護衛が必要だったのかな、という謎も、今すべて解けた気がする。
大奈国に跋扈する、恐ろしき妖魔の名も知る身からすれば尚更に。
「アンズに護衛を頼んだのは、お前の力を見せて貰いたかったからだ。
頼りになりそうなら、いつか力を貸して欲しいと思ってな。
ごめんな、試すようなことして」
「ううん、全然。
私にしてみれば、いつか頼りにして貰えるきっかけが出来ただけだよ」
「お前、根っからいい奴だよな」
「こんなことでいい奴だって思われるようじゃ世も末でしょう。
困った時はお互い様なんだから」
気風良く笑うアンズの表情は、若干の気後れがあったコナツの心をも軽くする。
売った恩を忘れ、買った恩は忘れない、そんな奴の顔だと見ればわかる。
そうした相手に果たすべき義があるとするなら、同じ心意気で応えればいいだけで、そうだとわかればコナツも己の為すべき振る舞いをもう迷わない。
だから、わかりやすい相手との人間関係はやりやすく、心地良い。
「よし、お前も何かあったら絶対俺に言えよ。
貸し借りなんてせず、必ず助けてやるからさ」
「んふふ、いいの?
私けっこう人に頼るくちだよ? めちゃくちゃ甘えるぞ?
昨日も今日もきっと明日も、優しい皆様に寄っかかって生きておりまする」
「んなの誰だってそうだろよ。
独りで生きていけるわけねえんだからさ」
「んふふふ、仰るとおりで」
秩序は不安定、妖と賊に溢れる世、災い起これば人は死ぬ。
人は、助け合わねば生きていけない世。
自分一人で生きていけるような気になれる時代など、千年経っても果たして訪れるのだろうか。反語でそう言えるほど、山波国は激動の時代の中にある。
「あぁ、でも、それにしても」
アンズは腰の後ろで手を組んで、感慨深そうに雲を見上げる。
雨を含んだ黒い雲は、雷神信仰のアンズにとって、身近に神様を視認できるもののの一つだ。
ごろごろ鳴らぬ雲でもいい。晴れた日は心地良いが、曇り空もまたアンズだけにとっては良い眺めである。
「大奈国のコナツにも、私やテンジン様の話が聞き届いてるんだなぁ。
私それだけで感無量だよ」
「苦労してるんだな、お前も」
「もっともっと、色んな人にテンジン様のこと知って欲しいんだ。
強くて、頼もしくて、何より優しい神様だよ。
私がこんな恰好すること我慢してでも、心身ともに捧げたいと思うぐらいにはね」
「ああ、そりゃもう苦労してんなぁ」
「巫女服だけは変えて欲しいです!
テンジン様~! お聞きですか~!」
脳裏で語れる相手に対し、わざとらしく空に大声出して語りかけるアンズ。
テンジンからの返事は無かった。しかし、くくっと笑う声はアンズにだけは聞こえた。
やっぱり色々と生意気なことを言う巫女だけど、それは神職者としてあるまじきことだけど、主神への篤き信心だけはやはり本物だ。
巫女服を変えることはないがお前のその悪乗りは甘受しよう、という含み笑いもまた、アンズにとっては嬉しかった。
山波神社の巫女になりて二年余り。
望むようには信仰を集められないが、山波神社の巫女の名が、隣国にまで届くほどには結果が出ている。
今のアンズにとっては、ただそれだけで報われた想いである。
「かー! 辛気臭い!
気を取り直してそなたらしい歌を詠まぬか!」
「ははは……不甲斐ないですなぁ」
「もーよい、もーよいわ!
酌をせい! 飲んで寝る!」
近滋国の最大の村、近滋村。
里帰りする旅中の姫君が休む宿ともなれば、その村の中でも最も良いものが選ばれるのが常である。
大将軍様の親族が泊まったというだけでも、宿にとっては一生の自慢になるのだ。
平時より最高のもてなしと料理を振る舞って来た高級宿が、日々の意識高さが最高の形で報われたと言って相違無い。
イナリ姫の寝室に招かれたコガラシとユキタダは、姫君と歌詠みに付き合わされていた。
歌を詠める教養があるコガラシとユキタダは、しばしばこうしてイナリ姫に夜遊び相手に選ばれることも多い。
特に、武士でありながら趣ある歌を詠めるコガラシというのは、京においても稀有な人物である。
「コガラシどの、少しは気が晴れましたかな」
「多少はな。
主君に気を遣わせてしまったことは、未だ歯痒くもあるが。
すまんな、ユキタダどのにも気を遣わせて」
「コガラシの責任感の強さは見ていて窮屈じゃ。
あのやんちゃ巫女のように、使命だけは果たしながらもある程度は能天気でいるぐらいで丁度よい。
死して詫びるより、長寿で以って妾を長く支えんか」
「身命に刻み、お応え奉ります」
「あ~もう、その堅苦しさも嫌じゃ」
御猪口に注がれた酒をくいと飲むイナリ姫と、耳が痛いと苦笑いするコガラシと、酌をするコガラシの顔に生気が戻ったことを静かに嬉しむユキタダ。
そもそもイナリ姫が、今宵二人を部屋に招いたのは、暇潰しの相手を求めた以上に、滅入っていたコガラシを元気付ける目的があったのが明白であった。
長らく連れ添った愛馬を喪い、あまつさえその愛馬は姫君を狙うならず者として利用されてしまった現実、そしてその愛馬を選んだコガラシ。
失ったものの大きさと、あわや主君をという自責から、自ら腹を斬りかねなかったコガラシに、イナリ姫はこんこんとそうはしないよう説教済みだ。
コガラシは京にとって、イナリ姫にとって喪いたくない人物。
ここまで言われては腹も斬れまい、と微笑ましくコガラシを見守るユキタダも、胸の内はイナリ姫と同じということである。
若年十五歳のイナリ姫の飲酒は、時代やお国柄によっては槍玉に上げられる行為だが、酒はそもそも百薬の長と言われるものである。
アンズだって、御神酒を呑めぬ巫女など話にならぬということで、十二歳の頃から飲酒には慣れるよう努めてきた身だ。
品質と適正量を守る限りであれば、酒はそもそも健康飲料とさえ言われるのも確かである。
ちなみに、百薬の長という話における適正量というのは、一日に一合。
かつ、品質が信頼できる酒に限った話である。
大酒飲みや安酒好きには関係ない話なのでお忘れなく。
言うまでもなく個々の体質にもよるので、万人に対して百薬の長たる保証もあるはずなし。
それに、イナリ姫の身体の成長があまりに遅く、彼女の悩みの種になっていることも、若すぎるうちからの飲酒も一因かもしれない。
故事や金言を思考停止しての鵜呑みは危ない。お忘れなく。
「……イナリ姫様は、あの巫女を悪しからず評価されているのですか?」
「あ~? 何を今さら言うておる。
妖魔調伏の実績も、神職者としての気構えも上々であろう。
ナルミ様が躾けられた身で不出来になるわけがあるまいが」
ぐでぇと頬杖をつくだらしない姿勢で、吐き捨てるように言う表情は不機嫌そうであり、貴き皇家の姫君とは思えぬ態度である。
酒を御猪口一杯飲んですぐの程度で酔いが回るはずもなく、これは信頼できる相手を前にした時限りのイナリ姫の素の振る舞いだ。
アンズを一定評価していることに嘘はつかないが、嫌いなあれを認める言葉を口にするのが面白くない顔でもあり、総じて彼女の本心がよく表れている。
ナルミのことを誰より敬い、大好きなことを、聞かれてもいない文脈で自然に口をついて出る辺りも含めて。
「でも、お嫌いなんですよね」
「それはもうな!
人道が許すなら、徹底的に辱めた上で妾の足を舐めさせ、その屈辱を万人の前に晒してやりたいほどじゃ!
妾があやつを好きにしてよいのであれば尊厳なぞ絶対に与えんわ!」
まあ怖い。おっかなくてコガラシもユキタダも苦笑い。
見方によっては、この気性であれほど蛇蝎の如く嫌っている割に、殺したいだとか消えて欲しいだとか、そこまでは言わないとも取れるが。
育ちが良くて一線を越えぬ分別があるというのもあるが、こういう端々の態度を見るにつけ、ユキタダ目線では不思議さも感じる。
「僭越なことを申し上げますが……
イナリ姫様は、真の意味でかの巫女を憎まれてはおらぬ?」
「……まあ、あ奴を嫌う妾の感情は、あ奴のせいではないからな。
はっきり言って、アンズに非などないしな……儘ならぬがのう」
「そうなのですか?
てっきり、過去にアンズどのがイナリ姫に、取り返しのつかぬ粗相でもしたのかと想像しておりましたが」
「いや、あれはアンズが悪いのではなくてな。
あれはぶっちゃけた話、旦那様が悪いのじゃ」
「だ、旦那様と仰られると、皇殿ですか?
これは、我々が聞いてよい話なのでしょうか……?」
「よいよい、旦那様も重々承知されておる。
あれはどう考えても旦那様が悪いのじゃ。
とはいえ、わざわざ他言するではないぞ。
皇家にもあらざるそなた達が、旦那様を貶めるような話を軽々しく流すようであれば、妾も容赦はせんからな」
イナリ姫があれほどアンズを嫌う理由は、実のところ殆ど周知されていない。
皇家の皆様と、イナリ姫本人と、あとはナルミや、京でも特別な仕え人であるミツサダなど、ごく一部である。
で、真相のところを聞けば、確かに悪いのはアンズでもイナリ姫でもなく、発端はイナリ姫の旦那様である皇殿なのだ。
これは揺るぎない事実である。旦那様を心から愛し、感情的には皇殿を贔屓したいイナリ姫でさえ、その事実だけは否定しないほど間違いないのだから。
ご本人も認めるところであるが、その真相とやらは当然公には極秘である。
次期帝とも言われる皇殿の過去の過ちなど、秘匿される機密であってまあ妥当。
「あくまでアンズは被害者であるし、妾があ奴を嫌うのも本来は筋違いなんじゃがな。
とはいえ、この嫉妬は抑えられぬしなぁ……」
二人に聞かせている前提とはいえ、遠い目をして独り言のように語るイナリ姫は、今に限ってはアンズを哀れんでいるようにも見える。
それも、筋違いな怒りをぶつけられる不幸を、すなわち未熟な自分のせいで彼女が不幸な身にあることを認めた上でだ。
そこまでわかっていながら、きっと明日もイナリ姫は、アンズに対する嫌悪と態度を改めることはない。
彼女の言う"儘ならぬ"は、正しくないとわかっている自分の心が、正しい方へと正せぬことへの嘆きでもあろう。
「…………あ~、もうよい!
どうして妾までこんな嫌な気分にならねばならんのじゃ!
アンズの話などするな! そなた達でなければ鞭を打っておるぞ!」
「お、おぉ……も、申し訳ありません……」
イナリ姫の耳にアンズという単語が禁句であると知りながら、思わず問うてしまったユキタダは、しまったなと悔いながら深々と謝罪する。
優秀で要領が良いユキタダだが、こうして好奇心からの失言が出てしまう程度には、まだ若さも残っているようである。
「コガラシ! 酌をユキタダに譲って布団を敷けぃ!
ユキタダももう少し付き合え! その軽口を咎めねばならぬからのう!」
「はは……かしこまりました」
「ど、どうかお手柔らかに……」
怒ってしまったイナリ姫と、長い説教を覚悟して平伏するユキタダ。
貴ばれるべき姫君に凄まれては、平民はもう逆らいようがない。
だが、地位を笠に着た姫様による平民いじめのような空気は、この場において一切無い。
癇癪を起こしたように声を荒げるイナリ姫だが、その目は害意無き柔らかい微笑みを僅かに含んでいたように見えたからだ。
まあ、ユキタダもコガラシもそう見定めた自分の目に驕り、大丈夫だろうと楽観視することも出来ないが。皇家の姫様相手に傲慢でなどいられまい。
姫様が身をお休めになる布団を敷くなど、平民でしかない武士が賜れる仕事としてはあり得ぬほどの光栄だ。
今の流れを上手く利用し、そんな仕事を気落ちしたコガラシに与え、忠臣としての励みの足しにせよとするのもまたイナリ姫。
見過ごせぬコガラシの過失を赦すにせよ、露骨に甘くは出来ぬ中、それでもなんとか趣を縫って慰めてくれるイナリ姫の気遣いなど二人ともわかっている。
口やかましく癇癪も起こす姫君だが、こうした器の持ち主であるのも確かだから、やはりコガラシもユキタダも彼女への忠誠は一切揺らがない。
京仕えゆえ主君に絶対の忠誠など当然だが、二人にとってはそんな使命をも抜きにして、イナリ姫は心から仕えられる主君として存分に値する。
「よいかユキタダ!
妾は決してアンズのことを認め好いておるわけではないからな!
断じて勘違いをせぬよう肝に銘じて――」
要約するところ"あんな奴のこと好きでもなんでもないんだからね"を熱弁するイナリ姫の話を、額を畳に着けて聞くユキタダ。
その顔はちょっと緩んでいた。気高いが、幼い。そんな未熟さの割に、話がわかる人物でもある。
もっと気難しい貴人など山ほどいる京において、イナリ姫に仕えられることは部下としても心地が良い。
誉れある京仕えかつ、上司にさえ恵まれていることは、この上なく幸福だ。
月と星が厚い曇天に隠れた宵、明かり一つ無き漆黒の世界。
まして、山林ともなれば尚更だ。そこに輝くものといえば、闇に潜む獣や山賊の瞳ぐらいのもの。
闇夜の木々から垣間見える光があるとすれば、迷い込んだ人間を屠るものとして、一目見ただけでも死を覚悟すべきとさえ形容される。
ゆえにこそ、お天道様の下で生きる真っ当な者はみな、夜の山に立ち入るなど、命が惜しくば言語道断と胸に誓っている。
かような山に潜む人間がいるとすれば、発見されればお縄の後ろ暗い経歴を持つ、野盗や落ち武者ぐらいのものだ。
草木の茂る夜の森を、枝と草を踏み音を立てて歩くその存在は、牙ある存在の目に留まることを恐れてなどいない。
野犬でも、山賊でも、妖魔でさえも、仮にそれが己に襲いかかってきたとて、容易に返り討ちに出来るという自信を正しく持ち合わせているからだ。
そもそも、"鬼"を襲撃する妖魔はいない。動物らですら、野生的な直感で手を出してはならぬ相手だと、自ら道を譲り逃げる。
それだけ鬼と呼ばれる妖魔とは、あらゆる存在の中でも食物連鎖の上位に立つ、大妖魔の一角として名高い。
「負けたなぁ」
「うるせぇぞ、第一声がそれか……!」
あてもなきかのように夜の森を歩んでいた鬼――塗れていた血を拭った肌黒きそれは、宵闇に響く嗤い声めいたものを耳にして足を止める。
癇に障った言葉に腹を立て、そばにあった木の幹を殴りつけ、静かな山林に大きな音を立てる。
強者の怒気を感じ取った山の獣達が、息を殺してがさがさと逃げていく音が続く中、鬼に語りかけた声の主は樹上から舞い降りてきた。
「銘を持つ鬼がそう短気ではいかんぞ。
怖いもの無しの誇り高き鬼族に生まれた以上、もっと堂々としておいた方が良い。
なあ、"鬼道丸"どの?」
「馴れ馴れしく呼ぶんじゃねえ。
鬼の怒りを買った者らしく、形を失った末路を迎えさせてやろうか」
「おお、怖い怖い。
わかった、わかったからそう怒るな。
非礼は詫びる、済まなかったな」
鬼道丸と呼ばれた黒鬼の前に降りてきた者もまた、全身を黒ずくめの装束に包む人物。
目元だけを晒した姿ゆえ、背丈こそやや長身の人らしいものの、この場において人間であるかどうかも確信し難き存在だ。
ただの人間が、鬼を目の前にしてこのように堂々と語らっていることなどそうある話ではない。人の形をとった妖などごまんといる。
現に両手を前に出し、怒れるキドウマルに対して謝罪の言葉こそ述べつつも、どうどうと牛馬を宥めるような手ぶりもまた、人が鬼に対する態度らしからず。
舐めた態度で接すれば、人など鬼の膂力で一撃。命が惜しくば人類にあるまじき挙動だ。
謝りながらも余裕のありそうな態度、そして気の短いキドウマルが舌打ちしつつも手を出さぬ程だから尚更である。
客観的に、これは人の子と鬼の対話で成り立ち得ない絵図。
「まずは感謝させてくれ。
巫女アンズの全力というものを、一旦見極めることが出来た。
それはお前のような、強き妖が相手取ってくれなくては果たせぬことだったからな。
礼を言う、本当に助かった」
「おい、"ミノヤマ"。
てめえはそんな下らねぇことを話すために、俺にこんな場所で落ち合うよう求めたのか。
そんなことはどうでもいい、次のことを聞かせろ」
「重要なことではないか、私はお前のことを頼りにしているんだ。
お前が上、私が下だ。はっきりさせておかねばお前もつまらんだろう」
「そんな初めからわかってることを確かめる必要なんざねえんだよ」
「ふふ、そうだったな。
改めて、申し訳なかった」
ミノヤマと呼ばれた黒装束の存在は、思わず笑ってしまったことを誤魔化すように、一礼と謝罪の言葉を以って話を流す。
未熟な鬼は頭が悪くて本当に扱いやすい。嗤うなという方が酷だとさえ思う。
親分子分の上下関係を訴えて立てておけばその自尊心を満たせ、ある程度の失言さえも忘れて貰えるのだから。
その気になればこんな黒鬼など一捻りのミノヤマをして、キドウマルの尊大さは可笑しくて仕方なく、ミノヤマはそれを態度に出さぬことに一番苦労するほど。
黒装束で表情を隠せている自分の周到さを誇りたいぐらいである。
「これまでも山波国の妖や流れ者を随所にけしかけ、巫女アンズの力量を推し量ってきたのだが、いずれの時も奴は底を見せんでな。
やはり神の力を宿す巫女は厄介だ。
妖にとっては天敵ともなり得る存在だと、お前も痛感したのではないか?」
「確かにあんなに痛いと思ったのは初めてだな。
あんな稲妻を食らえば、並の妖なら一撃で調伏されてしまうんだろうよ。
俺とて幾度も受ければわからねえ」
「ほお、お前がそこまで言うほどか。
鬼族様の仰ることは重く受け止めねばならんな」
やめてくれ、いちいち笑わせにかかってくるのは。
並の妖なら即死、俺なら一撃ぐらいは耐えられる、と、俺は雑魚とは違うんだといちいち主張してくるその小物ぶりがたまらん。
お前も鬼族の中では下っ端の粕だろうに何を粋がっているんだと、ミノヤマは腹を抱えて笑うのを我慢するのに必死である。
立ててやる言葉を一切笑わず言い切れたことを、いつか誰かに自慢したい。
「だが、今回のことで、奴のある程度の底を見極められた。
屍人の襲撃、それを迎え撃つ快刀乱麻の活躍、その中で周囲から注がれる神威に対する並ならぬ敬意、言い換えれば一時的な信心。
奴にとって、この日ほど最高の力を振るえた日は過去にあるまい。
つまり、他に要素が加わらぬ限り、今日の奴の姿が神威を振るえる最高の環境であったと断じられるだろう。
奴の底を見極められたというのはそういうことだ」
「必要なことか?
巫女だかなんだか知らねえが、力量なんぞぶつかり合えばわかることだろうによ」
「ひ……っ、必要な、ことなんだよ……
屍人を率いる将として、あの場を演出してくれたお前のおかげだ。
今後に向けて、極めて重要な情報を手にすることが出来たと言える」
駄目だ駄目だ、笑いを堪えられなくなりそう。
やがて討たんとする相手の力量を、失うものなく予め見極められるのであればどれだけ利になるか、こいつはまったくわかっていない。
馬鹿すぎて、しかも謙虚なら可愛いものだが、偉そう。
目の前の相手に心の底では見下げ果てられているのも一切わかっていないであろうことが、いっそう可笑しくて息をも止めたくなる。
「お前は鬼族としての格を上げたいのだろう?
妖に仇為すあの巫女を仕留められれば、大奈の鬼の長衆とて評価しよう。
それに値する巫女だと確かめられたのもまた、利ではないか」
「……ふん、そうか。
なら、悪くねえな」
「私にとっても、奴は目障りな邪魔な存在だ。
お前にも共通の目標として、巫女アンズを滅することを強く意識して貰えるなら、私にとっては願ってもないことだよ」
ミノヤマは一度、明確ににっこりと目を緩ませた。
どうでもいいことで納得させられる雑魚鬼のおつむの緩さにもそろそろ飽きてきた。
意図して笑顔を作れる程度には。
「それよりだ。
お前、さっきから俺のことを"お前"呼ばわりするが……」
「京は滅ばねばならぬ。すべて、死に絶えて。
アンズは私がそれを為さんとした時、必ず立ちはだかるだろう。
あの忌々しい巫女を葬ることは、私の宿願における第一歩に過ぎぬ」
この時、不意にミノヤマが匂わせた凄まじき負の感情には、己の呼称が勘に障りかけていたキドウマルをも息が詰まりかけ、言葉がそれ以上続かなかった。
憤慨、憎悪、そして殺意。真っ黒な感情の煮凝りだ。
人を蟻のように蹂躙することに何の感慨も抱かぬ非情な鬼でさえ、底知れぬその深き怨念には背筋に寒さを覚える。
本能が訴えるものだ。この深き闇を心に持つ者を、決して敵にすべきではない。
「――とまあ、お前と目的が一致していることが頼もしいんだよ。
良き協力者であってくれ。敵対することなどあるまい?
この縁が良きものであることは、私も確信しているのだからな」
「…………そう思ってるなら別にいいさ。
だが忘れるなよ、俺が上、お前が下だ」
「承知しているとも。
さて、いよいよあの巫女をどのように料理するか、その話をしようか」
つくづくミノヤマは、キドウマルを利用しやすい力持ちだと感じる。
少し気魄を見せてやれば――それも、心の底から溢れる真の感情ではなく、意識して発せられる程度のものを見せただけでこれだ。
この程度の気魄に怯み、なけなしの安っぽい誇りを頼りに、優位性だけは保とうとする。
使えるうちは使ってやろうとも。出し抜かれる恐れも無い。
頭がいいつもりの馬鹿との縁は確かに良縁だ。
山波神社の巫女アンズ。
多くの人の助けとなり、今や名も高くなりつつある頃合いだ。
彼女を頼りにする者も、支持する者も多くはある。人類には。
そして、敵も多い。彼女が何も成し遂げていなかった頃は、その存在に対して見向きもしなかった巨悪ですら、今や彼女を敵視し始めている。
地道に築き上げた成功の道筋には、いつか必ず茨道がつきものだ。
謂れ無き誹りと、その成功によって目的を阻まれる敵の発生。
何千年の時が流れようと、きっと覆されることのない真理である。
人の世の泰平を願い、妖にさえも立ち向かうという大きな使命であるからこそに、いっそうその例外にはなり得ない。




