話を終えて
「それは…決まってるじゃありませんか。この世の誰よりも…誰よりも私を一番に理解し、慈しんでくれる最高の存在です!今まで私がしでかした悪戯を一点も咎める事なくいつも味方になって対処してくれたんですもの。でも、もう先生も還暦を過ぎた事だし、身体の自由が効かなくなったと最近まで仰っていました。私だって…今日で三十になります。いつまでも甘えてばかりもいられないので、四月から夏まで一人で駆け抜けて来ました。でも、出来る事ならもう一度会いたかった…。初めの予定ではあなたと寝た後に先生に会って…あの人の所へ行く…。」
「わかった。もういいぞ。」
天谷はすすり泣きながら洗面所へ入って行く遥を見送った。
(今ここで話すのはよそう。さて、呼ぶか。)
またも天谷は唇を指で撫でると、自分のスマートフォンを操作して、かつての部下達を呼び出した。
―数分後
ガチャン。
遥の両手首から金属音が響いた。
「城戸遥、T化学工業からの薬品窃盗及び業務上横領の容疑で逮捕する。午後八時十五分。」
捜査一課の名嶋班の刑事達が取り囲む中、部屋の出入口のドアの前で後藤が手錠を掛けたのだ。
「一つだけ腑に落ちない事があるの…。どうしてあの人、刑事さん達と協力してこんな事を…元々のきっかけはマッチングアプリで…。」
確かに遥が疑問を持つのは無理もなかった。これは後藤達の間でも予期していた反応だった。
「その話なら署の方で…。」
園谷が静かに、低い声でなだめようとしたが奥の席から大きな声が聞こえて来た。
「いいんだ、いいんだ。俺の方から話す。」
天谷が居間から歩み寄って遥の前に立った。
「簡単に言うと、替わってもらったんだ。君がアプリでやり取りしていたのは俺ではなくて話の件とは全く無関係の男だった。ちなみにこの場所を指定したのもその人なんだ。君と会う数時間前に彼に話をしてこっちの目的と君と会う事に拠る身の危険を知ってもらって俺に委ねてもらった。何せ君は人一人殺しているわけだからな。それだけじゃなく、黒霧医科大の長年の不祥事や君も遠からず関わっている横領などの大きなお釣りもついている。本当なら俺も現役時代にきれいに精算したかったのだが、今回はかつての上司達に特例でこんな形での捜査を認めてもらったってわけだ。向かいのビルの一室から監視してもらいながら君と話をしたんだ。」
天谷は窓の向こうのビルの方を見やった。
「じゃぁ、あの時私が抱こうとして電話が鳴ったのは偶然ではなかったってこと?」
遥は信じられないと言う気持ちで天谷を見た。
「言っただろう。『君の話を聞いているのは俺一人だけではない。』と。」
天谷はポケットにあるペンを指さした。正確にはペン型のレコーダーだったのだ。
「じゃぁ、何もかも図っていたのね。私、実を言うと喜んでいたのよ。叱られたと思えば私が洗面所から出て来た時、お茶を勧めて優しくしてくれたし、まるで父…」
「勘違いするな。」
遥に目もくれず、天谷は言った。
「俺は最初っから自分の娘の様に接したつもりはない。君と特別な関係になるなどまっぴら御免だ。今の君は果てしなく歪んでいる。ムショの中で省みるんだな、朝霧瞳は言うまでもないがそれ以外の君の行いを。」
厳しい言葉を浴びた遥は、初めて、本当に生まれて初めてガラスが割れたような心地がした。自分が心から欲しい、愛されたい、それよりも優しく尽くしたいと求めた男に拒絶されたのは初めてだったのだ。遥と同じ世代の人間のほとんどは十代の時に経験したであろう「初恋」と言うものを、彼女は30にして経験したのだ。普通に振られるよりもかなり酷な結果となってしまったが。
「天谷さん、大丈夫ですか。」
後藤がかつての上司を気遣った。室内にはエアコンがついていたにも関わらず、天谷は顔に相当な量の汗をかいていた。
「あ、あぁ。大丈夫だ、俺に構うな。あの婆さんは?」
「名嶋班長に連行されて行きました。」
「そうか。名嶋に手柄取られるとは俺も鈍ったもんだな。ところで頼みがあるんだが…。」
「何でしょう。」
「まず、あそこの棚に城戸遥が持っていた瓶がある。毒かもしれない事をほのめかしていたから、鑑識にまわしてくれ。」
「もちろんです。」
後藤は白手袋をはめて、棚から透明の瓶を押収した。
「それから…これは俺の個人的な頼みだが。」
「はい。」
後藤は前よりも天谷に近付いて耳を傾けた。天谷に少し異変を感じたからだ。
「あくまで一市民の請願として聞いてくれ。今時やらないとは思うがくれぐれも遥に対してキツい聴取はするな。こっちが熱くなればなるほど彼女は…ガハッ…失礼、遥は冷笑して上手いこと切り抜けるだろう…。たとえ寺西が付いてなくても、だ。それにあいつも…ゴホッ…寺西の…ひが……い……。」
天谷の中で何かが弾けた。
それと同時に彼の目線が意図せぬまま後藤を離れて上向きになり、まぶたが降ろされた。
180cm以上ある長身の元警察官は、重力に圧されるまま、不格好に膝を折り曲げて地に落ち、続いて上半身も同様に落下して床に這いつくばる形となった。
ドサッ
天谷桂吾は意識を完全に失い、ホテルのスイートルームの床にうつ伏せで倒れた。
後藤は「天谷さん!」と叫ぶなり、ベッドの枕元にある電話に飛びついて119番通報をした。
遥の肩を押さえながら部屋を出ようとしていた園谷はすぐに部屋に引き返し、天谷の身体を横向きにした。そしてしきりに彼の名を呼び、意識を取り戻させようとした。
そして…
拘束から解放された遥は、その気になれば早々と立ち去る事が可能だった。ただ、正面玄関にも裏口付近にも数人の警察官が張っていたので、手錠を掛けられた状態で上手く切り抜けられるのは難しい。
しかし、遥は去らなかった。
薬剤師として、予め察知していた天谷の症状への処置について後藤と園谷に助言したわけでもなかった。
そんな事をするほど、彼女は冷静ではなかった。
城戸遥は、叫んでいた。秀一が死んだ時でさえ冷静に墓掘りと接していたのに。その叫び声は三歳の夏の日に初めて朝霧の別邸に来た時と同じような憚り知らずのボリュームだった。あの頃も母親恋しさにこうして叫んでいたのか。
せっかく化粧した遥の頬は、既に涙の流れ道となってしまっていた。




