その夜の出来事①
遥は話を始めた。その内容は彼女にとって言葉にすることはもちろん脳裏を掠めるだけでも辛過ぎる出来事だったのは間違いない事だった。本当は天谷に打ち明ける前にここで果てる気でいたのだけど、毒を彼に没収された以上もはや逃げ道はなかった。
一方で天谷から「話せたら…解放してやる。」と聞いた時、遥は愕然としたのも事実だった。あのドアを開けると言う事は、彼とは再び赤の他人同士になると言う事。もう二度と会える保証はない。お互い生きているのに。これまで誰にも話さなかった秘密を教え、怒られながらも落ち着いた姿勢でこちらの話を聞き、そして彼に生かされた。遥にとって初めて素顔を見せられた男、それが天谷桂吾だった。天谷とあと少しで今後一切交わらなくなるのが彼女には口惜しかった。
(この人の娘か姪になりたかった。そうすれば後に離ればなれになっても、何かの拍子でまた会えるかもしれないもの。どうして天谷さんと私は何の関係もないの?どうして私は朝霧家から憎まれなくてはいけなかったの?)
物心ついた時から周りから冷遇され、自身も「そう言うものなのだ」としていた「当たり前の事」にようやく遥も疑問を抱き始めた。
かなりの長い時間がかかった。しかし、天谷と会わなければずっと分からずじまいだったに違いない。遥はそう考えた。
だが、顔を上げて相手に向き直った遥はなぜか不吉な予感がした。それと同時に寒気がしてきた。室内のエアコンが効きすぎてるの?と、遥はカーディガンをしっかりと羽織り直した。
「もうお分かりでしょうが、秀一さんは先週の夜に…京都の別邸で息を引き取りました。彼が生まれた年に私の処遇について話し合いが行われたあの家で……うっ、その時…私もその場にいたのです…前もって約束して…本当なのかどうか不明ですが彼の二度目の京都出張でまた再会したその日の夕方にあの…家へ一緒に行きました。でも、おかしいと思いましたよ。朝霧家の長男である彼が出張したついでにあの家へ泊まると言うのに世話をする家政婦は誰一人いなかったんですからね…まさにあの大きな家で秀一さんと私の二人きりだったのです。私を応接間に通して、冷たい物をと言ってアイスティーを出してくれました。暑がりの私は何の疑いもなくそれを飲み干して、彼も同じ物を飲みました。そこまでは何も起きませんでした。そして一休みした後、私に庭園を案内してくれたのです。ただ、あの例の池のほとりに来た時、私は寺西先生からの話を思い出して震えてしまいましたが、その理由を知ってか知らないだか、秀一さんは私を労わってくれたのです。彼は私を池から離れさせ、庭園に咲いていた花を教えてくれました。『夾竹桃』と言う、よく道路沿いなどで植えられているあの背の高い赤い花です。私もよく知っていました。秀一さんの話では、皇室の侍従医だった彼の高祖父がこの夾竹桃を調合して狭心症の治療薬を作っていたそうです。
午後六時半頃、元の応接間に戻った私達は夕食を共にしました。秀一さんが予め仕出し弁当を注文していたのです。『もう今後こうして御一緒することはありませんから。』と言って。てっきり彼が家庭を持ったから一緒に食事する事はないのだと言う意味だと私は疑いませんでした、それ以外に何があります?食事の後、私達は雑談をしました。この間の口論の後引きは一切なく、楽しいものでした。何にも知らなかった私は心から笑う事が出来ました。秀一さんはこれから明るい未来が待っている。彼は今が一番楽しい時なのだと信じて疑いませんでした。今から考えるとあんな広過ぎる邸宅に私達二人だけで食事と言うのも奇妙な事だったんです。京都にはお座敷個室の店がいくらでもあったのに。
談笑が一段落した後、しばらく沈黙が流れました。今日と同じような陽の沈みきらない黄昏の空でした。ほのかな草の匂いとどこかから蝉の低い鳴き声が聞こえて来たのをよく覚えています。まるで普段の日常とは別世界のようでした。その同じ場所に秀一さんと過ごした事が嬉しかったのは言うまでもありません。私は縁側に掛けて庭を眺めていた秀一さんの横顔を見ました。その時の彼は…暗くてはっきりとは分かりませんが、さっきまで話していた時とは別人のようでした。無表情で、まるで抜け殻のように感情を失っていました。今から考えると、自分のこれからすべき行為について考えていたに違いありません。
彼は私に見られているのに気付くと、びっくりする訳でもなく、『温かいお茶を入れて来ます。』と言って再び部屋を出て行きました。私は手伝いを申し出ましたが、断られました。日が暮れて空気が少し冷えて来たからと言うのが理由らしかったのですが、その日の京都は猛暑日で私には夜になっても蒸し暑く感じていました。7月下旬でしたから。
言われるがまま、私は部屋で待っていました。愚かにもその時まで私はあの時自分の置かれていた状況を全くと言って良いくらい理解していなかったのです。秀一さんがどんな心境でいたのかも。
彼がお茶を入れに出てから三十分以上戻って来ないので、私も様子を見に部屋を出ました。業を煮やしたからではなく、普段東京に住んでいる彼が久しぶりに京都の家に来たものだからお茶を切らしてしまって途方に暮れているのだろうと…その時でさえ呑気な事を考えていたのです。秀一さんに会いに厨房へ行こうとしたものの…私が別邸に来たのは三つの時以来だったので…少し迷ってしまいました。何とかして厨房にたどり着いて暖簾の隙間からガス台の前に立っている彼の背中に声を掛けようとすると…見つけてしまったのです。流しの横に、「マイタキシン」のラベルが貼られた茶色の瓶を!そのラベルはK大特有の記載のしかただったため、すぐにK大の薬品倉庫から持ち出したものだと分かりました。そして瓶の横には、何と書いてあったのか分かりませんが剥がした後の別のラベルシールがありました。断定したくはありませんでしたが、私の頭の中では否が応でも仮説が成り立って行きました。山垣教授は私を消すために自らマイタキシンを入手して、自分がやったと言う証拠を残さないために、薬剤師でも医師でもない秀一さんにラベルを替えさせた。そしてそれを比較的危険性の低い薬を所蔵している薬品倉庫に戻し、今度は山田主任に私にマイタキシンの入った偽装ラベルの薬を取りに行かせるよう指示した。私からそれを受け取った山田主任は再び山垣教授に手渡して、山垣教授から秀一さんに手渡したのではないか?と。」
遥は言葉を切った。引きつった表情だった。
(正解。やはりそう言う点は鋭いんだな。それにしても山垣は死んだ秀長を彷彿とさせるな。)
天谷は心の中で感想を述べた。
「ねぇ、天谷…さん……私はあの時どうすれば良かったのでしょうか?私、今でも全然分からないの。いっその事素早くガス台まで走って私があの瓶を仰げば良かったんじゃないかって。」
「仮の話は聞きたくない。本当に起こった事だけを話すんだ。」
天谷は険しい表情でそう言い放った。




