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滅ぼしの醸成  作者: 藤野彩月
第六部
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その夜の出来事②

気が進まないまま、遥は話を続けた。

「情けない話ですが、私は暖簾の向こうへ行く気が起きませんでした。何故か秀一さんに刺激を与えてはいけないと思ってしまったのです。今となっては言い訳に聞こえるでしょうが、彼の背中からも『近寄るな』と言われている気がしたのです。私は厨房に背を向けて、元来た道を辿りながら応接間へ戻りました。

秀一さんが部屋へ戻って来るまでの僅かな間、様々な事が私の頭の中を駆け巡って行きましたが、逃げようとは一ミリも思いませんでした。漠然と彼の苦しみの元々の原因は私なのだと分かっていましたし、たとえ彼の背後に朝霧家や山垣教授らの思惑が絡んでいようとも、最終的に私に手を掛けるのが秀一さんならこれほど光栄な事はない。……自分が芯から愛した(ひと)に人生の幕を降ろしてもらえるなら…生まれて来たのも…間違いではなかったと…言う事です。」

遥はこれ以上涙を出すまいと堪えた。泣こうが喚こうが話を中断すれば天谷が容赦なく問いただして来る事を学んだためだ。

すると、遥の目の前に二、三枚のティッシュが差し出されて来た。

「一旦拭け。落ち着いたら続きを話せ。」

思いがけない天谷の行動に遥は一瞬戸惑ったが、素直にティッシュを受け取り目元を拭き取ると、間を置くことなく話を続けた。なるべく一息で話してしまいたかった。

「秀一さんはお盆に二つのお茶を乗せて部屋に運んで来ました。些細な点かもしれませんが、そのお茶はいずれも同じ形をした耐熱性の透明なグラスに入れられていました。柄はなく、単体だと見分けがつかないのですが、コースターの色は赤と青で異なっていました。そして秀一さんは着けていたはずのネクタイをその時は外していたのです。私は縁側に掛けたまま秀一さんの方へ振り向き、何も知らないふりをして『随分時間がかかったのね。お茶を切らしてしまったのかと思ったわ。』と努めて明るく話し掛けました。

はっきりと言ったつもりなのに、何故か彼は黙ったままでした。お盆を食事の後のテーブルの上に置き、私の座っていた席に赤いコースターに乗ったお茶を、自分の席には青いコースターのお茶を置きました。

(さぁ、私の人生は残り僅か。今すぐにでもあのお茶を飲めばたちまちこの世とさよならするのね。)

私は覚悟を決めると、このように結んでいた髪を解き、黙って元いた席に正座して秀一さんにお茶の礼を述べました。そして飲む前に最後の言葉のつもりでこう言いました。

『秀一さん、今までいろいろあったけど本当にありがとうね。私、実を言うと昔から他人から嫌われる様な事をしてきて、一時は死にたいと本気で考えた事もあったけど、あなたと出会った事でこの世もそんなに悪くないものだわと考えられるようになってきたの。それに…うっ…あなたのお陰で朝霧家の偉大さも知る事が出来たし…本当に感謝してる…ううっ…どうか、どうかお父様達にもよろしく伝えてね…何と言っても…グスッ…あなたは…ごめんなさい……あなたはお祖父様に…愛された人……なのだから。…早速、頂くわね。』

……そう言った後、私は目の前のグラスの持ち手に触れようとすると―

『ダメだ!!』

秀一さんの叫びと共に持ち手に触れる間もなく、彼の手によってグラスが払い除けられ、中身が畳一面に溢れました。

『あっ……すみません。入れ直して来ます!あと…拭くものも。』

慌てた様子で転がったグラスと自分の飲むはずだったグラスをお盆に戻すと、秀一さんは部屋を出て行きました。今度はさっきより早めに戻って来て、応接間で呆然としている私に部屋を移るように言いました。移動した部屋の畳の上にはまた元のようにお茶が入れ直されていました。しかし今度はお茶は一つだけでした。

『先程は失礼しました。さぁ、飲んでください。僕はここにいて様子を見ますから。』

残酷なほど冷静に彼は言いました。私だって冷静でいたかったのに、自分に迫り来る運命の重さに耐え切れず泣いてしまったのに、やはり秀一さんもそちら側の人間だったのだと思ってしまいました。

言われた通りに私は飲みました。入れたてで熱かったので休み休み全て飲み干しました。その時の私の心は完全に無の状態で、どれくらいの量を入れたのか分かりませんが、マイタキシンの致死量を考えれば五分とも掛からないうちに死ぬのですからグラスに口を付けた瞬間に死んだも同然なのです。

『……?』

すぐには何の異変も感じませんでした。ですが何故か秀一さんの表情はホッとした様子でした。まだ私が目を開けてしっかりと正座していたのに、ですよ。そして何より奇妙だったのは…その時の秀一さんの…私が聞いた最後のこの言葉でした。

『気分は落ち着きました?急にあんな事してしまってごめんなさい。実を言うと、俺、遥さんの事ずっと前から知ってました。六年前に家で両親と寺西弁護士が話しているのを聞いて、その後家の外にいるあなたを見たんです。でも、遥さんがウチの事どう思っているのか分からなかったから職場に会ってもあえて何も言わなかったんです。あの後寺西先生にあなたの事を聞こうとしたけど、何も教えてくれませんでした。最大の秘密事項だからと言って。でも、もうこれ以上あなたを酷い目に合わせたくない。何の罪もなく生まれて来た遥さんをこれ以上苦しめたくないんです。だから…遥さんお願いです、もう周りと自分自身を傷付けるのはやめてください。何の関係もない赤の他人の家を引っ掻き回す様な事はしないと誓ってください。家族に愛されなかったかもしれませんが…いいえ撤回します。だいぶ遠回りになってしまいましたが俺がいます。朝霧秀一と言う甥が。芯から悪い人間なんてこの世には存在しません。現にあなただって今まで俺に弱さを見せていたじゃありませんか。だから、安心して眠ってください。もたれかかってくれて全然大丈夫ですから…。』

……一息にお茶を飲み干したため、この頃に私は意識を失くしました。微かに覚えているのは、秀一さんは私の手を包むようにして握りながら話していたのと、私の頭がボーッとして来た時、子どもみたいに彼の胸に抱き寄せられていたと言う事ぐらいです。

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