閑話 ルイシーク
自分を取り巻く状況は、常に不安定だった。
母上が亡くなり、兄上の母親が王妃に即位すると、俺は命を狙われるようになった。
貴族達は兄上を支持する者と俺を支持する者に分かれ、派閥が生まれた。
父上は能力主義を掲げる方だから後継者になりたければ、自分で何とかしろと口を挟まない。
正直、王になることなどに興味は無かった。
ただ、兄上の母親が嫌いだった。
母上を侮辱し、陥れようとしたあの女。
あれに大きな顔をされるのが嫌で、俺は自分の派閥の貴族達に対して特に働きかけるようなことはしなかった。
食事には、側近達が細心の注意を払っていたので何ともないが、毒が混入されていることも多々あった。
だから俺は日ごろから毒に対する抵抗力を付けるために、少量ずつ毒を口にするようになった。
いつ暗殺者に狙われるかも分からないので、武術の稽古は日ごとに増えていった。
人の良い顔をして、腹の中では何を考えているのか分からない貴族達との交渉術も、身につけなければならなかった。
安らぎのないそんな生活は、子どもの俺にはとても厳しいもので。
姉上が心配をしてくれていたが、あまり自分に関わっていらぬ火の粉がかかってはいけないと、自重した。
そんなある時、母上の墓参りに出かけて、襲われた。
俺が少数の護衛と共に出かけるということは内密にされていた筈だった。
もちろん、護衛達は王子付きに選ばれるくらいなので、手練の者ばかりだ。
だが、敵の数が多すぎた。
必死に応戦したが、適わず護衛に守られ俺は逃げた。
死ぬわけにはいかない。
自分が死んだら、自分と同じ目に遭うのは弟のレイだ。
ただ必死に逃げた。
満身創痍の状態で、森に逃げ込みもう一歩も動けないという所で意識を手放した。
気づいた時、目の前にあったのは黒曜石のような瞳。
その瞳はとても心配気に自分を見ていた。
その瞳になぜか酷く安心したのを覚えている。
次に意識が戻った時、その瞳はとても優し気に自分を見つめていた。
珍しい髪の色をしている人だと、思った。
襲われた衝撃で、悪夢を見て目覚めると彼女は必ず自分の手を握っていてくれた。
女は嫌いだ。
王宮では王妃の息がかかった女達が、まだ子どもである自分に近寄ってきていたから。
化粧と香水の匂いをさせて、綺麗な顔の下に貴族達に負けるとも劣らない感情を隠している。
嫌な生き物。
だが、その時の自分は、そんなことはすっかり忘れてその女性の優しい瞳にただ癒されていた。
ユキは初めから特別だった。
何の損得勘定もなく、自分を心配してくれるユキに。
心からの笑顔を自分に向けてくれるユキに。
気づけば。
恋をしていた。
彼女が異世界から来たという話も。
名付けを許した翼竜を連れていることも。
自分にとっては不思議なことではなかった。
なぜなら、初めからユキは特別だったから。
ユキと一緒に過ごした日々は本当に楽しくて。
本来ならば、すぐに自分の無事を王宮に報せなければならないのに、フェイが探るだろうとそれをしなかった。
少しでも、彼女と一緒にいたかったから。
生まれて初めて働き、賃金を得るということがどういうことなのかを知った。
平民の暮らしを知ることができた。
王宮の机上の勉学では得られない体験だった。
「おはよう」とユキは微笑み、「おやすみ」と微笑む。
ユキの笑顔で始まり、笑顔で終わる一日が何よりも貴重だった。
王宮になど帰りたくはなかった。
ユキを王宮の問題に巻き込みたくはなかった。
だが、それは自分には許されぬことであったし、常にユキの側にいるクウの存在も懸念材料だった。
クウが自分が考えている通りの翼竜なら。
ユキは確実にこの世界の事情に巻き込まれる。
ならば、一緒にいようと決意した。
自分がユキの力になろうと。
王宮に帰ってからは、やはりクウはディールの可能性が高く。
ユキはそのディール使いの姫として、滞在することになった。
そして、やはり王妃が動いた。
ここまでは想定内。
しかし、兄上が本気でユキに惚れ込むとは思わなかった。
穏やかな表情をしているが、何を考えているのか読み取れぬ兄上は昔から苦手だった。
王妃の子どもということもあったし、自分と対立する立場であるということも大きい。
その兄上が、今まで見たこともない程余裕のない様子でユキへ近づこうとする。
自分はまだ子どもだ。
ユキに男として認めてもらえていないことはよく分かっていた。
ユキが自分に向ける感情は、友愛。
それが、よく分かっていた。
自分が大人なら。
兄上くらいの年齢だったなら。
男として見てもらえるだろうか。
成人の儀を迎えるまで、後6年。
その時まで、ユキを誰の手にも渡さずにいることは可能だろうか。
外堀を埋めることならば、できる。
今まで口を出すことをしなかった自分が、貴族達の派閥に多少なりとも関与すればいい。
ユキを兄上の手に渡さないためなら。
対立することも構わない。
だが、ユキがその間に誰かを好きになってしまったら?
あの笑顔を自分ではない誰かに向けるようになってしまったら?
自分には向けたことのない、熱い瞳で誰かを見るようになってしまったら?
兄上とユキが一緒にいる姿を見ると、心が痛んだ。
彼らを目にした侍女達の言葉が胸に刺さる。
『似合いの男女』
今の自分では、そうはならない。
何とも言えない、焦燥感が自分を襲う。
どれだけ稽古をしようと。
どれだけ勉学に励もうと。
年齢という差は埋められない。
そして、その焦燥感のせいで状況判断を誤った。
大好きと、その呟きを最後にユキは目を閉じた。
兄上の妃、マリーシュレルの様子がここ数日おかしいことは気付いていた。
それなのに、手を打たなかった。
まさか、彼女がユキに何かするとは考えていなかった。
色を失くしていく顔。
悲しそうに微笑んで。
大好きな黒曜石の瞳は閉じられた。
「ユキッ!!嫌だ!目を開けて!」
必死で叫んだ。
ユキがいなくなってしまうことなんて、考えられない。
もう自分は、彼女無しでは生きていけない。
そう思っていた。
すると、すぅっと体の輪郭があやふやになり、ユキの姿が薄くなっていく。
「ユキッ!?」
そして、ふっとユキの姿が消えた。
止めどなく流れていた彼女の血も。
その血に濡れていた自分の手もきれいに。
彼女に関するもの全てが消えた。
グルルルルルル…
もはや、何も考えられず自分の側で低く唸るクウに、危機感も持たずに瞳を向ける。
父上や兄上の声がする。
側近が自分に向かって何か叫んでいるのは分かったが、何も聞こえていなかった。
クウの瞳と目が合う。
ーーーー未熟
そう言われた気がした。
次の瞬間、クウの姿は消えていた。
ユキと同じように。
数日後、ユキは亡くなった訳ではないと、彼女の気を探ったフェイが報告にきた。
だが、どこにいるのか分からないということだった。
恐らくは、異世界。
ユキは元いた世界に戻ったのではないかということだった。
もう、彼女と会うことは叶わないのだろうか。
ユキのいない王宮に、価値など見出せなくて。
ユキを自分の側に置くために、兄上と対立することを決めたのだから。
後継の話も、もうどうでもよくて。
クウは竜の里へ行ったという情報が入った。
主人であるユキにあんなことがあって、報復としてセリンガムの王宮など破壊することは容易いのに、そうはせずにいなくなったクウ。
クウはユキを待っているのではないかということだった。
そうでなければ、ディールがこんなに大人しくしているとは思えない。
連日、抜け殻のようになっている自分の元へ来て、そんな話をするのはルドルフ。
父上もやって来た。
思い切り殴られて、気を失った。
それからも、人々が入れ替わり立ち替わり、自分の前に現れては諭すように話していく。
どうでもよかった。
「あなたが心配だわ…」
嫁ぐ前日に、俺を見てそう呟いた姉上。
ユキがいなくなり、自分がこんな風になることを、姉上は予想できていたのだろうか。
それからしばらくして。
夢をみた。
ユキが微笑んでいる夢。
ユキがいなくなってから、初めてみた彼女の夢。
嬉しくて涙がこぼれた。
ーー悲しまないで。
ーー泣かないで。
ーー笑っていて。
ユキはそう言って自分の頭を撫でた。
子ども扱いされているようで、嫌だったそれ。
でも、ユキに触れられることは嬉しくて、手を振り払えなかったそれに、恋しさと切なさが込み上げて、また涙がこぼれた。
ーーまた、会える?
尋ねたそれに、ユキは困ったように首を傾げる。
嘘をつかないユキ。
出来ないことは約束しないユキ。
その仕草に絶望的な気分になる。
ーー会いたいんだ。
頭を撫でるその手を取って、必死で願う。
ーーうん。
そんな自分に、ユキはそっと頷いた。
ーー会いに行くよ…。
これは、自分に都合の良い夢。
分かっている。
分かっているけれど、胸に光が宿る。
ーー約束してくれる?
俺の言葉にユキは頷く。
ーー約束…ね。
そうして、目が覚めた。
ユキ。
もう一度会えると。
希望を持ってもいいのだろうか。
幸せで残酷な夢。
でも、今はそれに縋りたい。
俺は本当に未熟者だ。
自分のことしか考えられず、そして一番大切なものを傷つけた。
こんな人間が王になろうなどと、よくもまぁ大それたことを考えたものだ。
あなたに会えないのなら、生きていく意味がない。
けれど。
けれど。
あなたにまた会える可能性があるのなら。
俺は生きていく。
そして、二度とあなたを傷つけさせない。
ユキ。
ユキ。
どうか、無事で。
そして。
どうか、どうか。
もう一度、会いたい。
もう一度、あなたの声を。
笑顔を。
見せて欲しい。
夢での約束を。
現実に。




