第9話 その名前を知っている客
雪はまた降り始めていた。
細かくて、音のしない雪だ。
こういう夜は、時間の感覚が曖昧になる。
外と中の境界が、少しだけぼやける。
店の中は静かだった。
カウンターに立ちながら、昨日のことを思い出す。
「美咲」
ちゃんと呼べた。
あの感覚は、まだ残っている。
今も、名前は消えていない。
だが——
それが、いつまで持つのかは分からない。
ドアが開く。
顔を上げる。
見覚えのない男だった。
三十代くらいか。
コートを着たまま、少しだけ周りを見てから入ってくる。
初めての客だ。
少なくとも、そう見える。
「いらっしゃい」
声をかける。
男は軽く頷いて、カウンターに座る。
端の席。
少し距離を取る位置だ。
「何にしますか」
「おすすめで」
短く言う。
少し考える。
こういう客には、強すぎないものがいい。
ウイスキーを選ぶ。
軽めのものをストレートで。
グラスに注ぐ。
差し出す。
男はそれを受け取り、一口飲む。
それから、ゆっくりと頷く。
「いいですね」
「ありがとうございます」
それ以上の会話はない。
静かな時間が流れる。
時計の音と、雪の気配だけがある。
こういう客は嫌いじゃない。
無理に話さない。
だが、どこかで何かを見ている。
そんな感じがある。
男がグラスを少し回す。
それから、不意に口を開く。
「ここ、長いんですか」
どこかで聞いたような質問だ。
「そこそこです」
いつもの答えを返す。
男は頷く。
「変わらない感じがしますね」
その言い方に、わずかな違和感がある。
「そうか?」
「ええ」
店内を見渡す。
「昔と同じだ」
その一言で、空気が変わる。
「来たことがあるのか」
聞く。
男は少し考える。
それから、曖昧に笑う。
「どうでしょう」
はっきりしない答え。
だが、完全な否定でもない。
グラスに口をつける。
静かな動作。
その仕草に、妙な既視感がある。
だが、思い出せない。
「この席、よく座ってましたよね」
男が言う。
手が止まる。
「……誰がだ」
「彼女ですよ」
あっさりと言う。
心臓が、わずかに強く打つ。
「どの」
言いかけて、やめる。
一人しかいない。
「美咲さん」
男は、はっきりと言った。
空気が、わずかに歪む。
「……知ってるのか」
声が少し低くなる。
男は頷く。
「ええ」
それ以上は言わない。
「いつからだ」
「いつから、というより」
グラスを見つめる。
「ずっと見てました」
その言い方が、妙に引っかかる。
「見てた?」
「ええ」
男は軽く頷く。
「この店で」
背中が冷える。
「何を言ってる」
思わず言う。
男は少しだけ笑う。
「あなたと彼女のやり取り」
淡々と続ける。
「毎回、少し違う」
その言葉で、すべてが繋がる。
順番。
ズレ。
繰り返し。
「……何者だ」
男は答えない。
代わりに、こう言う。
「昨日は、ちゃんと名前を呼んでましたね」
その一言で、息が詰まる。
「見てたのか」
「ええ」
あっさりと答える。
「珍しかったです」
珍しい。
その言葉が重い。
「普段は?」
聞く。
男は少し考える。
「ほとんど呼ばない」
静かに言う。
「というより、思い出せてない」
その通りだ。
否定できない。
「でも」
続ける。
「たまに、ちゃんと繋がる」
第8話の感覚と同じだ。
「そのときだけ、少し変わる」
「何がだ」
男は少しだけ視線を上げる。
「順番が」
その言葉に、背筋が伸びる。
「どういう意味だ」
「分かりません」
男は首を振る。
「ただ、そう見えるだけです」
曖昧な答え。
だが、ここまでの中で一番現実味がある。
グラスが空になる。
男は静かにそれを置く。
「もう一杯、いきますか」
聞く。
男は少し迷う。
それから首を横に振る。
「今日はこれで」
立ち上がる。
会計をする。
金額を告げる。
ぴったりの現金。
これも、変わらない。
ドアに向かう。
その前で、少しだけ止まる。
「また来ます」
振り返らずに言う。
「ちゃんと呼べた日に」
ドアが開く。
雪が静かに舞い込む。
そのまま外に出る。
ドアが閉まる。
静けさが戻る。
しばらく動けない。
カウンターに手をつく。
「……見てた」
小さく呟く。
誰かが、この繰り返しを見ている。
しかも、覚えている。
自分よりもはっきりと。
グラスを見る。
そこに残ったわずかな跡。
それが、今だけのものなのか。
それとも、何度も繰り返された中の一つなのか。
分からない。
だが——
一つだけ確かなことがある。
この店の中で起きていることは、
自分の中だけの問題ではない。
誰かが見ている。
誰かが知っている。
そして、その誰かは——
また来る。
ドアの方を見る。
次に来るとき、自分は何を覚えているのか。
それとも——
すでに、何かを見落としているのか。
答えは出ない。
ただ、静かな夜だけが続いていた。




