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同期しない夜― ススキノの小さなバーでの記憶―  作者: akira


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第8話 名前を呼べた夜

その日は、雪が降っていなかった。


だが、空気は妙に澄んでいた。


こういう夜は、何かがはっきりする。


理由はないが、そういう感覚がある。


店の中も、いつもより静かだった。


グラスを拭きながら、考える。


名前のことだ。


あの女の名前。


何度も聞いているはずなのに、思い出せない。


だが、第7話の最後の言葉が残っている。


“次に会ったとき、名前を呼べたら、それが本当かもしれない”


本当、とは何か。


その意味は分からない。


だが、試すしかない。


ドアが開く。


音は小さい。


だが、はっきりと分かる。


顔を上げる。


あの女だった。


コートを脱ぐ。


雪はついていない。


カウンターに座る。


いつもの席。


「こんばんは」


「こんばんは」


その一言で、空気が整う。


いつも通りだ。


だが、今日は少し違う。


何かが、決まっている気がする。


「何にしますか」


「任せます」


女は言う。


少しだけ笑う。


その笑い方も、見慣れている。


「分かった」


ボトルを取る。


迷いはなかった。


ギムレットだ。


最初に飲んだものではないかもしれない。


だが、今の自分にとっては、それが一番しっくりくる。


ライムを切る。


香りが立つ。


ジンを注ぐ。


シェイカーを振る。


氷の音が、いつもよりはっきり聞こえる。


その音を聞きながら、頭の中で言葉を探す。


名前。


どこかにあるはずだ。


グラスに注ぐ。


差し出す。


女はそれを受け取る。


一口飲む。


目を閉じる。


その瞬間——


ふと、ある場面が浮かぶ。


今ではない。


昔の店でもない。


この店だ。


開けて間もない頃。


まだ今より明るくて、客も少なかった時期。


同じ席に、同じ女が座っている。


今より少し若い。


グラスを持って、こちらを見ている。


そして——


名前を言う。


はっきりと。


その音が、今と重なる。


「……美咲」


口に出ていた。


女の手が止まる。


グラスを持ったまま、こちらを見る。


時間が、わずかに止まる。


「……覚えてたんですね」


静かに言う。


その声は、これまでと少し違う。


少しだけ、深い。


「今、思い出した」


正直に言う。


女——美咲は、小さく笑う。


その笑い方は、これまで見たどの表情よりも自然だった。


「それでいいです」


そう言う。


それだけで、何かが繋がる。


「最初に来た日も」


思わず言う。


「少しだけ、思い出した」


断片だ。


はっきりしたものではない。


だが、確かにあった。


美咲は頷く。


「毎回、少しずつ違うんですけどね」


その言葉は、もう驚かない。


「それでも」


グラスを見る。


「繋がるときはある」


美咲は、少しだけ目を細める。


「ええ」


静かに言う。


「たまに、ちゃんと繋がる」


その言い方が、妙に現実的だった。


完全ではない。


だが、ゼロでもない。


その間のどこか。


「じゃあ、これは」


聞く。


「今は、正しいのか」


美咲は少し考える。


それから、ゆっくりと首を傾げる。


「たぶん」


曖昧だ。


だが、否定ではない。


「でも」


続ける。


「ずっと同じではないと思います」


その言葉に、少しだけ安心する。


固定されない。


変わる余地がある。


「それでいい」


自然にそう言っていた。


美咲は少し驚いた顔をする。


それから、笑う。


「そうですね」


グラスを飲み干す。


その動作が、少しだけ軽い。


「もう一杯、いきますか」


聞く。


美咲は少し迷う。


それから頷く。


「今日は、もう一杯」


それは初めてだった。


これまで、必ず一杯で終わっていた。


「分かった」


グラスを用意する。


今度は、さっきと少しだけ分量を変える。


ライムをほんの少しだけ多くする。


理由はない。


ただ、そうしたくなった。


グラスを差し出す。


美咲はそれを飲む。


少しだけ驚いた顔をする。


「……少し違いますね」


「分かるか」


「ええ」


頷く。


「でも、いいです」


その一言で、胸の奥が少し軽くなる。


違ってもいい。


同じでなくてもいい。


その感覚が、初めてはっきりした。


会計をする。


今日は、少しだけ金額が違う。


二杯分だ。


美咲はそれを見て、少しだけ笑う。


「こういうの、初めてですね」


「ああ」


頷く。


「たぶん、な」


ドアに向かう。


その前で、振り返る。


「また来ます」


「またな」


自然に言葉が出る。


名前を呼ぶ必要はない。


もう分かっている。


ドアが閉まる。


静けさが戻る。


カウンターに手をつく。


深く息を吐く。


「……美咲」


もう一度、口に出す。


消えない。


今は、ちゃんと残っている。


だが——


明日も同じかは分からない。


また忘れるかもしれない。


別の名前になるかもしれない。


それでもいい、と思う。


少なくとも今は、繋がっている。


それだけで、十分だった。


グラスを片付ける。


氷が静かに溶ける。


その音が、いつもより柔らかく聞こえる。


ドアの方を見る。


また来るだろう。


同じ夜か、違う順番かは分からない。


だが——


次も、呼べる気がした。


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