第7話 思い出せないはずの名前
雪は止んでいたが、空気はまだ冷たかった。
こういう夜は、音がよく通る。
遠くの車の音や、誰かの足音が、やけに近く感じる。
店の中は静かだった。
グラスを並べ直す。
同じ形、同じ間隔。
少しでもズレると、気になる。
最近は特にそうだ。
“同じ”であることに、妙に意識がいく。
ドアが開く。
顔を上げる。
あの女だった。
コートを脱ぐ動作も、もう見慣れてきた。
カウンターに座る。
いつもの席。
「こんばんは」
「こんばんは」
短いやり取り。
だが、それだけで十分だった。
「何にしますか」
「今日は……」
少し考える。
「最初に飲んだやつ、覚えてますか」
手が止まる。
「最初?」
「ええ」
女は頷く。
「ここで、初めて飲んだもの」
記憶を探る。
だが——
出てこない。
「……覚えてないな」
正直に言う。
女は少しだけ目を伏せる。
「そうですか」
その一言が、思ったより重い。
「すまない」
「いいんです」
すぐに言う。
だが、その“いいんです”が、少しだけ遠い。
「じゃあ、同じのをください」
女が続ける。
「覚えてないなら、それでいいです」
その言い方が、どこか引っかかる。
覚えていないことを、前提にしている。
「分かった」
そう言って、ボトルに手を伸ばす。
だが——
どれを選べばいいか、分からない。
直感で選ぶしかない。
一本取る。
グラスに注ぐ。
差し出す。
女はそれを見る。
ほんの一瞬だけ、表情が動く。
「……違いますね」
静かに言う。
「ああ」
否定しない。
「すまない」
女は首を振る。
「いいんです」
また、その言葉だ。
だが、今度は少し違う。
どこか、諦めに近い。
グラスを手に取る。
一口飲む。
「これも好きですよ」
そう言う。
だが、それは本音ではない気がする。
しばらく、静かな時間が流れる。
時計の音が、やけに大きい。
カチ、カチと規則的に進む。
その音を聞きながら、ふと思う。
“最初に来た日”
それは確かにあったはずだ。
この店に来る客には、全員に最初がある。
だが——
その“最初”が、思い出せない客がいる。
目の前の女が、そうだ。
「……いつだった」
思わず口に出る。
女が顔を上げる。
「何がですか」
「最初に来た日」
女は少し考える。
それから、ゆっくりと言う。
「覚えてないですか」
「覚えてない」
正直に答える。
女は小さく息をつく。
「そうですか」
それだけ言う。
だが、その声に、わずかな揺れがある。
「覚えてるのか」
聞く。
女は頷く。
「ええ」
少し間を置く。
「でも、たぶん」
グラスを見つめる。
「その記憶も、毎回少し違うんです」
その言葉に、またあの感覚が来る。
ズレ。
順番。
繰り返し。
「どう違う」
女は少し考える。
「最初に話したこととか」
指でグラスの縁をなぞる。
「あなたが言った言葉とか」
目を細める。
「毎回、少しずつ違う」
「同じじゃないのか」
「同じ部分もあります」
女は言う。
「でも、全部じゃない」
その説明は曖昧だ。
だが、理解できてしまう。
ここまでの出来事と、繋がる。
「……名前は」
ふと聞く。
「名前、教えてくれたか」
女は一瞬だけ止まる。
それから、ゆっくりと笑う。
「何度も」
その答えに、息が詰まる。
「何度も、言ってます」
その声は静かだった。
責めているわけではない。
ただ、事実を言っているだけだ。
「……思い出せない」
言葉が重い。
女は頷く。
「知ってます」
あっさりと言う。
「でも」
少しだけ前に身を乗り出す。
「一回だけ、ちゃんと呼んでくれたことがあります」
その言葉に、心臓がわずかに強く打つ。
「……いつだ」
「分からないです」
女は笑う。
「でも、ありました」
確信を持っている。
その感じが、妙に現実的だ。
「なんて呼んだ」
聞く。
女は少し考える。
「それは」
首を横に振る。
「言わない方がいい気がします」
「どうして」
「たぶん」
視線を落とす。
「またズレるから」
その言葉が、静かに刺さる。
グラスが空になる。
「もう一杯、いきますか」
聞く。
女は少し迷う。
それから、首を横に振る。
「今日はいいです」
立ち上がる。
会計をする。
ぴったりの金額。
これも変わらない。
ドアに向かう。
その前で、少しだけ止まる。
「もし」
振り返らずに言う。
「次に会ったとき、名前を呼べたら」
少し間を置く。
「それが、本当かもしれません」
ドアが開く。
冷たい空気が入る。
「また来ます」
そのまま出ていく。
ドアが閉まる。
静けさが戻る。
しばらく動けない。
カウンターに手をつく。
「……本当、か」
小さく呟く。
本当の名前。
本当の記憶。
本当の順番。
そのどれもが、曖昧だ。
だが——
一つだけ、確かなことがある。
自分は、この女を知っている。
それは間違いない。
問題は、
“いつの、どの記憶で知っているのか”
それが分からないだけだ。
グラスを片付ける。
指先が、わずかに震える。
気づかないふりをする。
ドアの方を見る。
次に来たとき、自分は名前を呼べるのか。
それとも——
また、別の誰かとして迎えるのか。
その答えは、まだ分からない。
ただ、
“何度も繰り返している”
その感覚だけが、はっきりと残っていた。




