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同期しない夜― ススキノの小さなバーでの記憶―  作者: akira


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第6話 この店を始めた理由

店を始めた理由を、ちゃんと話したことはない。


聞かれることも少ないし、自分から話すことでもないと思っている。


それでも、長くやっていると、たまに思い出す。


どうしてここにいるのか、ということを。


その夜も、そんな感じだった。


客はいない。


雪は止んでいたが、外はまだ冷えている。


グラスを拭く手を止めて、カウンターに肘をつく。


昔のことを考える。


若い頃は、今より少しだけ騒がしい場所で働いていた。


音楽が大きくて、客の回転も早い店だ。


ああいう場所は嫌いじゃなかったが、長くいる気にはならなかった。


落ち着かない。


理由は簡単だ。


“話が残らない”


その場の会話はある。


笑いもある。


だが、次の日には何も残っていない。


それが、少しだけ物足りなかった。


この店を始めたのは、その反動みたいなものだ。


静かで、少し暗くて、同じ顔が来る場所。


時間がゆっくり流れるような店。


そういうものが欲しかった。


ドアが開く。


顔を上げる。


あの女だった。


コートを脱いで、いつもの席に座る。


「こんばんは」


「こんばんは」


短い挨拶。


それだけで、十分だった。


「何にしますか」


「今日は……」


少し考える。


「任せます」


珍しい。


「珍しいな」


そう言うと、女は少し笑う。


「たまには」


頷く。


少しだけ考える。


それから、ボトルを一本取る。


「これにするか」


軽めのウイスキーだ。


グラスに注ぐ。


氷は入れない。


そのまま差し出す。


女はそれを見て、少しだけ驚く。


「これ、前にも」


「出したか?」


「ええ」


女は頷く。


「そのときも、同じこと言ってました」


何をだ。


そう聞こうとして、やめる。


どうせ、覚えていない。


女は一口飲む。


それから、少しだけ目を細める。


「……やっぱり、この味」


「どうだ」


「好きです」


その言い方が、少しだけ柔らかい。


前よりも、距離が近い気がする。


「この店、どうして始めたんですか」


女が聞く。


不意を突かれる。


「急だな」


「気になっただけです」


そう言って、グラスを回す。


氷はないが、癖のように動かしている。


少し考える。


さっきまで思い出していたことだ。


「静かな店をやりたかった」


それが一番近い。


「前は違ったんですか」


「ああ」


頷く。


「もっと騒がしいところにいた」


「似合わないですね」


女が言う。


「そうか?」


「ええ」


はっきり言う。


その言い方が、どこか懐かしい。


「自分でもそう思う」


正直に言う。


「じゃあ、どうして」


女が続ける。


少し間を置く。


理由は一つではない。


だが、思い出すのは一つの場面だ。


「昔、よく来てた客がいてな」


自然に口に出る。


「女の人だ」


女は何も言わずに聞いている。


「毎回、同じ時間に来て、同じ席に座って」


ふと、既視感を覚える。


どこかで似たようなことを言った気がする。


「ほとんど話さないんだが、長くいる」


グラスを拭く手が、少しだけ遅くなる。


「ある日、急に来なくなった」


それだけだ。


特別なことはない。


だが——


「それが、妙に残ってな」


女は静かに頷く。


「理由も聞いてないし、名前も知らない」


そこまで言って、手が止まる。


名前。


また、その感覚が出る。


思い出せない、というより——


最初から定まっていないような感じ。


「それで、この店を?」


女が聞く。


「ああ」


頷く。


「また来ても、分かるように」


自分でも、少し不思議な理由だと思う。


だが、それが本音だった。


「来ましたか」


女が聞く。


「……来てない」


少なくとも、覚えている限りでは。


女はグラスを見つめる。


その表情が、少しだけ変わる。


「そうですか」


小さく言う。


その声に、わずかな違和感がある。


残念とも、納得とも違う。


もっと曖昧な何か。


「どうした」


思わず聞く。


女は顔を上げる。


「いえ」


軽く首を振る。


「ただ——」


少し考える。


「来てるかもしれませんよ」


その一言に、空気が止まる。


「どういう意味だ」


「分からないです」


女は笑う。


「でも、そういう感じがするだけ」


また、その言い方だ。


曖昧で、だが否定できない。


グラスが空になる。


「もう一杯、いきますか」


聞く。


女は首を横に振る。


「今日はいいです」


立ち上がる。


会計をする。


ぴったりの金額。


これも変わらない。


ドアに向かう。


その前で、少しだけ止まる。


「その人」


振り返らずに言う。


「どんな人でした?」


少し考える。


顔は——


思い出せない。


声も、仕草も。


残っているのは、感覚だけだ。


「静かな人だった」


それだけ言う。


女は小さく頷く。


「じゃあ」


ドアが開く。


冷たい空気が入る。


「また来ます」


そのまま出ていく。


ドアが閉まる。


静けさが戻る。


しばらく動けない。


カウンターに手をつく。


「……来てる、かもしれない」


さっきの言葉が残る。


もし、あの客が。


昔の、名前も知らない女が。


何度もここに来ているとしたら。


自分が気づいていないだけだとしたら。


グラスを見る。


今使ったものと、並んでいるもの。


その中に、見覚えのある形がある気がする。


だが、確信はない。


時計を見る。


時間は進んでいる。


それは変わらない。


だが——


来ていない、と思っているだけで。


本当は、何度もここに座っていたのかもしれない。


名前も残さずに。


記憶にも残らずに。


ただ、同じ時間に。


同じ席に。


ドアの方を見る。


また来る気がする。


それが誰なのかは、分からない。


だが——


もし来ても、自分は気づけるのか。


それだけが、少し怖かった。


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