第10話 名前を呼べなかった夜
雪は、昨日よりも強く降っていた。
街の音が、完全に吸い込まれている。
こういう夜は、時間の流れが遅く感じる。
店の中も、静かだった。
グラスを磨く手を止めて、少しだけ考える。
「美咲」
昨日は、ちゃんと呼べた。
あの感覚は、はっきり覚えている。
口に出したとき、何かが繋がった。
確かに、あの名前だった。
今も、頭の中では残っている。
……はずだった。
ふと、不安になる。
「……」
もう一度、思い出そうとする。
だが——
輪郭が、ぼやけている。
確かに呼んだ。
だが、その音が、少し遠い。
「……違うか?」
小さく呟く。
違和感がある。
完全に消えたわけではない。
だが、“確信”が薄れている。
ドアが開く。
顔を上げる。
あの女だった。
コートに雪をまとっている。
それを軽く払って、カウンターに座る。
いつもの席。
「こんばんは」
「こんばんは」
いつも通りのやり取り。
だが、胸の奥が少しだけ重い。
試されている気がする。
「何にしますか」
「任せます」
女は言う。
少しだけ微笑む。
その顔を見て、強く思う。
知っている。
間違いなく、知っている。
「分かった」
ボトルを取る。
手は迷わない。
ギムレットだ。
ライムを切る。
ジンを注ぐ。
シェイカーを振る。
氷の音が、やけに響く。
その音の中で、名前を探す。
あったはずだ。
昨日、確かに。
はっきりと。
グラスに注ぐ。
差し出す。
女は受け取る。
一口飲む。
それから、こちらを見る。
何も言わない。
ただ、待っている。
その視線で分かる。
——名前だ。
今、呼ぶべきだ。
昨日は呼べた。
なら、今日も。
「……」
口を開く。
だが、音が出ない。
違う。
違う名前が浮かぶ。
いくつも。
どれも、しっくりこない。
「……」
もう一度、試す。
「——」
出ない。
完全に、掴めない。
昨日、確かにあったはずのものが、
手の中から抜け落ちている。
女は、何も言わない。
ただ、静かにこちらを見ている。
その目が、少しだけ優しい。
それが、余計に苦しい。
「……すまない」
やっと言葉が出る。
女は、小さく首を振る。
「いいんです」
その言い方は、前と同じだ。
だが——
今は、少し違って聞こえる。
「昨日は」
言いかけて、止まる。
「呼んでましたよ」
女が静かに言う。
心臓が、強く打つ。
「……やっぱり」
「ええ」
頷く。
「ちゃんと」
その言葉が、少し遠く感じる。
現実感が薄い。
「でも」
女は続ける。
「それも、たまにです」
グラスを回す。
氷が静かに鳴る。
「ずっとじゃない」
その一言で、すべてが落ちる。
昨日の“繋がり”は、
特別なものではなかった。
ただの一つの“順番”だった。
「……そうか」
それしか言えない。
女は一口飲む。
少しだけ目を細める。
「でも」
また続ける。
「呼べたことは、消えないですよ」
その言葉に、少しだけ救われる。
「今は覚えてなくても」
こちらを見る。
「どこかには残ってる」
曖昧な言い方。
だが、不思議と納得できる。
「だから」
少しだけ笑う。
「また呼べると思います」
その言葉が、静かに染みる。
グラスが空になる。
「もう一杯、いきますか」
聞く。
女は少しだけ考える。
それから、首を横に振る。
「今日はこれで」
立ち上がる。
会計をする。
ぴったりの金額。
これも変わらない。
ドアに向かう。
その前で、少しだけ止まる。
「昨日のこと」
振り返らずに言う。
「私は覚えてますよ」
その一言で、胸が締まる。
「だから、大丈夫です」
ドアが開く。
雪が静かに流れ込む。
そのまま外に出る。
ドアが閉まる。
静けさが戻る。
しばらく動けない。
カウンターに手をつく。
「……呼べたのに」
小さく呟く。
昨日は、確かに繋がっていた。
今は、もうない。
だが、完全に消えたわけでもない。
どこかに残っている。
そう思うしかない。
グラスを片付ける。
指先が、わずかに冷たい。
ドアの方を見る。
また来るだろう。
そのとき、自分はどうなるのか。
また呼べるのか。
それとも——
ずっと、このままなのか。
答えは分からない。
ただ、
一度でも繋がったという事実だけが、
かろうじて残っていた。




