第11話 店の外で会った女
その日は、珍しく早く店を閉めた。
理由はない。
ただ、これ以上開けていても客は来ない気がした。
雪は降っていないが、風が冷たい。
こういう夜は、人の流れが止まる。
カウンターを拭き、グラスを片付ける。
照明を落とす。
ドアに鍵をかける。
いつもより少しだけ早い時間。
外に出る。
すすきののネオンが、やけに明るく見える。
店の中にいると分からないが、外はこんなに光が多い。
少し歩く。
特に行き先はない。
ただ、歩きたいだけだ。
こうして外を歩くのは、いつぶりだろうか。
店を始めてからは、ほとんど夜の外を歩かなくなった。
店の中が、自分の時間のすべてになっていた。
交差点で足を止める。
信号待ち。
人はまばらだ。
観光客らしきグループが通り過ぎる。
笑い声が遠ざかる。
そのとき——
ふと、視界に入る。
向こう側の歩道。
街灯の下に、女が立っている。
見覚えがある。
というより——
間違いなく、あの女だ。
心臓が、わずかに強く打つ。
信号が変わる。
歩き出す。
自然と、そちらに向かっている。
距離が縮まる。
やはりそうだ。
美咲。
コートの形も、立ち方も、間違いない。
だが——
何かが違う。
こちらを見る気配がない。
店では、入ってきた瞬間に目が合う。
それが当たり前だった。
だが今は、違う。
ただ、立っている。
スマートフォンを見ている。
普通の、街の中の人間として。
数歩手前で止まる。
声をかけるべきか、迷う。
だが、ここまで来て引くのもおかしい。
「……美咲」
名前を呼ぶ。
今度は、はっきり出た。
女が顔を上げる。
こちらを見る。
その目に——
見覚えがない。
「……はい?」
わずかに首を傾げる。
その反応で、分かる。
知らない。
「……」
言葉が出ない。
女は少しだけ警戒したような顔をする。
「すみません、どちら様ですか」
丁寧な言い方。
だが、距離がある。
店でのあの距離ではない。
完全に、初対面のそれだ。
「……いや」
言葉を探す。
うまく繋がらない。
「間違えたかもしれない」
そう言うしかない。
女は少しだけ安心したように笑う。
「よくありますよね」
その笑い方も——
似ているが、違う。
「すみません」
軽く頭を下げる。
女も小さく会釈をする。
それだけだ。
それ以上、何もない。
ただの通りすがりのやり取り。
信号が変わる。
人の流れが動く。
女はスマートフォンに目を落とし、そのまま歩き出す。
雑踏に紛れる。
すぐに見えなくなる。
立ち尽くす。
寒さが、急に強くなる。
「……なんだ」
小さく呟く。
今のは何だ。
見間違いか。
いや、違う。
顔は同じだった。
声も、仕草も。
だが——
中身が違う。
あの店で見ている“美咲”ではない。
「……別人か」
そう言いかけて、止まる。
違う。
それも、しっくりこない。
同じだ。
だが、繋がっていない。
その感覚。
店での出来事が、すべて頭をよぎる。
順番。
ズレ。
繰り返し。
もし——
あの店の中だけで、何かが起きているのだとしたら。
外の世界は、別なのか。
それとも——
自分の見ているものが、限定されているだけか。
振り返る。
もう、女の姿はない。
ネオンと人の流れだけがある。
どこにでもいる、普通の街の風景。
ポケットに手を入れる。
指先が冷たい。
しばらくそのまま立っている。
何も整理できない。
ただ一つ、はっきりしているのは——
店で会っている“美咲”と、
今、外で会った女は、
同じであって、同じではない、ということだ。
ゆっくりと歩き出す。
店の方向に戻る。
あそこに戻れば、何か分かる気がする。
あるいは、何も分からないままかもしれない。
ドアの前に立つ。
鍵は閉まっている。
当然だ。
自分で閉めた。
だが——
一瞬だけ、違和感がよぎる。
中に、誰かいる気がする。
耳を澄ます。
音はない。
静かだ。
ゆっくりと鍵を開ける。
ドアを開く。
店の中は、暗い。
誰もいない。
いつも通りの、閉店後の空間。
だが——
カウンターの上に、グラスが一つだけ置かれている。
見覚えのある形。
そして、その中には、
わずかに溶けかけた氷と、
透明な液体が残っている。
「……」
言葉が出ない。
さっきまで、ここに誰かがいた。
そう思うのが自然だ。
だが——
自分は確かに、すべて片付けた。
そのはずだ。
グラスに近づく。
指で触れる。
まだ、わずかに冷たい。
「……美咲」
名前を口にする。
返事はない。
ただ、
店の中の空気だけが、静かにそこにあった。




