第12話 もう一人の美咲
店に入ったあとも、しばらく動けなかった。
カウンターの上のグラス。
さっき触れた冷たさが、指先に残っている。
誰かがいた。
それは間違いない。
だが、自分はここにいなかった。
そのズレが、うまく飲み込めない。
照明をつける。
店の中が、ゆっくりと浮かび上がる。
いつもと同じ景色。
だが、どこかだけが違う。
グラスを持ち上げる。
透明な液体が、わずかに揺れる。
匂いを確かめる。
——ジン。
そして、かすかにライム。
ギムレットだ。
「……」
息を吐く。
美咲しか飲まない。
少なくとも、自分の中ではそうだ。
だが——
さっき外で会った美咲は、
この店を知らなかった。
グラスを見つめる。
答えは出ない。
そのとき、
ドアが開く。
反射的に顔を上げる。
そこに立っていたのは——
美咲だった。
さっきと同じコート。
同じ顔。
同じ立ち方。
だが——
目が違う。
店に入ってきたときの、あの“知っている目”だ。
「こんばんは」
いつもの声。
距離の近い、あの声。
「……」
言葉が出ない。
美咲は少しだけ首を傾げる。
「どうしました?」
その仕草も、知っている。
完全に、店の中の美咲だ。
「……来たのか」
やっと言う。
「ええ」
美咲は頷く。
「さっきまで、いましたけど」
その一言で、背中が冷える。
「……いつだ」
「ついさっきです」
あっさり言う。
「一杯だけ飲んで」
カウンターに目をやる。
さっきのグラス。
「そのあと、少し外に出ました」
その言葉で、時間が歪む。
「外に……」
繰り返す。
「ええ」
美咲は自然に答える。
「そこで、あなたに会いましたよね」
心臓が止まりかける。
「……何を言ってる」
思わず言う。
美咲は不思議そうな顔をする。
「さっき、声かけてくれたじゃないですか」
少し笑う。
「名前も呼んで」
違う。
あれは——
「……覚えてないのか?」
思わず聞く。
美咲は少し考える。
それから、ゆっくりと首を振る。
「少し、変でしたけど」
曖昧に言う。
「でも、あなたでしたよ」
その言葉が、理解を拒む。
外で会った女は、自分を知らなかった。
だが今の美咲は、それを“覚えている”。
矛盾している。
「……もう一人いた」
口に出る。
「外に」
美咲は少しだけ目を細める。
「ええ」
あっさりと認める。
「いましたね」
その反応が、逆に怖い。
「どういうことだ」
声が低くなる。
美咲は少しだけ考える。
「分からないです」
いつもの答え。
だが、その続きがあった。
「でも」
カウンターに近づく。
ゆっくりと、さっきのグラスに目をやる。
「重なってる気がします」
その言葉が、静かに落ちる。
「重なってる?」
「ええ」
頷く。
「同じ人が、少しずつズレて」
グラスに指を触れる。
「別の場所にいる」
その説明は曖昧だ。
だが、妙に納得してしまう。
外の美咲。
店の中の美咲。
同じで、違う。
「じゃあ、お前は」
言いかけて止まる。
どちらが本物か。
その問いは、意味がない気がする。
美咲は小さく笑う。
「どっちでもいいと思います」
また、その言い方だ。
軽いが、核心に触れている。
「何にしますか」
いつもの言葉を口にする。
少しだけ、落ち着く。
美咲は考える。
「ギムレット」
迷いなく言う。
頷く。
ライムを切る。
ジンを注ぐ。
シェイカーを振る。
音が、いつもよりはっきり響く。
グラスに注ぐ。
差し出す。
美咲はそれを受け取る。
一口飲む。
それから、ゆっくりと言う。
「……同じですね」
その言葉が、少し救いになる。
全部がズレているわけではない。
同じ部分もある。
それが、まだ残っている。
「外の私」
美咲が言う。
「たぶん、何も知らないです」
「だろうな」
「でも」
少し間を置く。
「こっちは、覚えてる」
その言葉に、わずかな安心がある。
「全部じゃないですけど」
付け加える。
それでもいい。
今は、それでいい。
グラスを置く。
氷が静かに鳴る。
「もう一人、来るかもしれませんね」
美咲がぽつりと言う。
「……もう一人?」
「ええ」
視線をドアに向ける。
「順番がズレてるなら」
小さく笑う。
「同時に来ても、おかしくない」
その言葉が、現実を揺らす。
ドアを見る。
静かだ。
だが——
確かに、何かが近づいている気がする。
時間なのか。
記憶なのか。
それとも——
別の“美咲”なのか。
答えは分からない。
ただ、
この店の中で起きていることは、
もう一つの段階に入っている。
それだけは、はっきりしていた。




