第13話 二人同時に来た夜
その夜は、やけに静かだった。
雪は降っていない。
風もない。
だが、音が少ない。
まるで、何かを待っているみたいに。
カウンターの中で、手を動かす。
グラスを並べる。
同じ間隔。
同じ向き。
少しでもズレると、気になる。
最近は特にそうだ。
「もう一人、来るかもしれませんね」
さっきの言葉が、頭に残っている。
目の前には、美咲がいる。
いつもの席。
ギムレットを飲んでいる。
「静かですね」
美咲が言う。
「ああ」
短く答える。
それ以上の言葉はいらない。
だが、意識はドアに向いている。
来るのか。
本当に。
そんなことがあるのか。
考えても、答えは出ない。
そのとき——
ドアが開く。
音は、いつも通りだ。
だが、空気が少しだけ変わる。
視線を向ける。
そこに立っていたのは——
美咲だった。
同じコート。
同じ顔。
同じ立ち方。
完全に、同じだ。
時間が止まる。
「……こんばんは」
入ってきた方の美咲が言う。
声も同じだ。
カウンターの美咲が、ゆっくりと振り返る。
視線がぶつかる。
沈黙。
数秒。
だが、やけに長く感じる。
「……」
どちらも、何も言わない。
ただ、お互いを見ている。
驚いているのか。
それとも、理解しているのか。
分からない。
「……どういうことですか」
入ってきた方が、先に口を開く。
少しだけ警戒した声。
カウンターの美咲は、グラスを持ったまま言う。
「たぶん、同じ人です」
あっさりと。
その言い方が、逆に現実味を失わせる。
「同じ……?」
入ってきた方が、少し眉をひそめる。
こちらを見る。
「知り合いですか」
その質問に、言葉が詰まる。
どちらを指しているのか。
いや、どちらも同じなのか。
答えが定まらない。
「……座るか」
とりあえず言う。
それしかできない。
入ってきた美咲は、少し迷う。
だが、ゆっくりと歩いてくる。
カウンターに座る。
もう一人の、美咲の隣に。
並ぶ。
同じ顔が、二つ。
同じ距離で。
同じ方向を向いている。
現実感が、薄れる。
「何にしますか」
いつもの言葉を口にする。
声が、少しだけ硬い。
「……同じので」
入ってきた美咲が言う。
隣を見る。
「それ、何ですか」
「ギムレットです」
カウンターの美咲が答える。
そのやり取りも、自然だ。
不自然なのは、状況だけだ。
頷く。
ライムを切る。
ジンを注ぐ。
シェイカーを振る。
音が、やけに響く。
視線を感じる。
二人分。
グラスに注ぐ。
差し出す。
新しく来た美咲が受け取る。
一口飲む。
目を少しだけ見開く。
「……同じ」
ぽつりと言う。
隣の美咲が、小さく笑う。
「ですよね」
その会話が、成立している。
それが一番おかしい。
「……あなた」
新しく来た方が、隣を見る。
「私ですよね」
「たぶん」
カウンターの美咲はあっさり言う。
「少しズレてるだけ」
その言葉に、新しい方は黙る。
理解しようとしている。
だが、追いついていない。
「……外で」
ふと思い出したように言う。
「さっき、会いましたよね」
こちらを見る。
「声、かけてくれて」
その言葉で、すべてが繋がる。
外の美咲。
店の中の美咲。
そして、今ここにいる二人。
「ええ」
カウンターの美咲が答える。
「それも、私です」
静かに言う。
新しい方は、何も言えない。
グラスを見つめる。
「……おかしい」
小さく呟く。
その感覚は正しい。
だが——
ここでは、それが普通になりつつある。
「おかしくていいと思います」
カウンターの美咲が言う。
「たぶん、そういう場所だから」
その言葉に、反論できない。
この店は、もう普通ではない。
それは分かっている。
二人が、同時にグラスを持つ。
同じ動き。
同じタイミング。
だが、微妙にズレている。
完全に一致しない。
そのズレが、逆に現実を感じさせる。
「……どっちが本当なんですか」
新しい方が聞く。
その問いは、自然だ。
カウンターの美咲は少し考える。
それから、こう言う。
「どっちも違うと思います」
静かな答え。
だが、重い。
「本当は、たぶん」
少し間を置く。
「一つです」
その言葉が、空気に落ちる。
誰も動かない。
時間だけが、ゆっくりと流れる。
時計の音が、やけに大きい。
カチ、カチと進む。
その音に合わせて、
何かが揃いそうで、揃わない。
ドアの方を見る。
もう一人、来るのか。
そんな考えが浮かぶ。
否定できない。
ここでは、何でも起きる。
「……帰ります」
新しい方が、ぽつりと言う。
立ち上がる。
まだ整理できていない顔。
当然だ。
「また来ます」
その言葉だけ残す。
ドアに向かう。
開く。
外の空気が入る。
一瞬、振り返る。
もう一人の自分を見る。
何か言いかけて、やめる。
そのまま出ていく。
ドアが閉まる。
静けさが戻る。
カウンターの美咲が、ゆっくりと息を吐く。
「……増えましたね」
冗談みたいに言う。
だが、笑えない。
「……ああ」
それしか言えない。
グラスを見る。
一つは空。
一つは、まだ半分残っている。
その違いが、やけに大きく感じる。
「まだ来るかもしれません」
美咲が言う。
「順番、全部揃うまで」
その言葉に、寒気が走る。
どれだけあるのか。
何が揃うのか。
分からない。
ただ——
この夜は、まだ終わっていない気がした。




