第4話 名前を呼び間違えた夜
雪が降る前の夜は、空気が妙に静かになる。
音が遠くに逃げていくような、そんな感じだ。
店の外も、人通りは少なかった。
時計は二十二時を少し回ったところ。
今日は、あの男も、雨の日の女も来ていない。
珍しいことではない。
だが、どこか落ち着かない。
理由は分かっている。
思い出そうとしているからだ。
第3話の、あの男のこと。
顔は分かる。
声も、仕草も。
だが、名前が出てこない。
それだけが、妙に引っかかっていた。
ドアが開く。
冷たい空気と一緒に、女が入ってくる。
一瞬で分かった。
「……久しぶりだな」
思わず口に出る。
女は立ち止まり、こちらを見る。
少しだけ驚いた顔をして、それから笑った。
「久しぶり、ですね」
その笑い方を見て、確信する。
知っている。
かなり前から。
カウンターに座る。
昔と同じ席だ。
「変わってないな」
そう言うと、女は少し肩をすくめる。
「そうですか?」
「いや、変わったか」
言い直す。
どちらも正しい気がした。
「何にしますか」
「じゃあ……」
少し考える。
この間が、懐かしい。
「ギムレット、まだありますか」
その一言で、記憶が一気に近づく。
「あるよ」
すぐに答える。
昔、よく作っていた。
ライムを切る。
香りが立つ。
ジンを注ぐ。
シェイカーを振る。
この手順も、覚えている。
グラスに注ぐ。
女はそれを見て、小さく息をつく。
「変わらないですね」
「そうか?」
「ええ」
グラスを手に取る。
一口飲む。
目を閉じる。
その仕草を見て、胸の奥が少しだけ動く。
「……やっぱり」
女が呟く。
「何が」
「同じ味」
そう言って、笑う。
その笑顔を見て、ようやく名前が浮かびかける。
——あれは、確か。
「……佐伯、だったか?」
口に出す。
その瞬間、空気が止まる。
女の表情が、わずかに変わる。
ほんの一瞬。
だが、はっきりと分かる。
「違いますよ」
静かに言う。
「そうか」
すぐに答える。
だが、違和感が残る。
違う。
確かに違う。
だが——
“間違えた感覚”が、どこか弱い。
まるで、本当はどちらでもいいような。
「すまない、名前が」
「いいんです」
女は軽く首を振る。
「そういうこと、ありますから」
そう言って、またグラスに口をつける。
その横顔を見ながら、記憶を探る。
昔、この店に来ていた。
それは確かだ。
よく話もした。
長い時間、ここにいたこともある。
だが——
それ以上が出てこない。
「久しぶり、って言ってくれたじゃないですか」
女が言う。
「覚えてるんですよね」
「顔はな」
正直に言う。
女は少し笑う。
「それで十分です」
その言葉が、妙に引っかかる。
十分、なのか。
「今は、どうしてる」
話題を変える。
女は少し考える。
「普通ですよ」
曖昧な答えだ。
昔も、こういう言い方をしていた気がする。
「仕事は」
「してます」
「どんな」
「いろいろ」
会話が続かない。
昔は、もっと話していたはずだ。
そう思うのに、その内容が思い出せない。
グラスの氷が、静かに鳴る。
その音が、やけに大きく聞こえる。
「この店、変わりましたね」
女が言う。
「そうか?」
「ええ」
店内を見渡す。
「前は、もう少し……」
言いかけて、止まる。
「いや、いいです」
続けない。
その感じも、どこかで見た気がする。
「前は、どうだった」
あえて聞く。
女は少し考える。
「明るかった、気がします」
その言葉に、軽い寒気が走る。
第3話の男と、同じことを言った。
「照明は変えてない」
そう言う。
女は小さく頷く。
「そうですよね」
納得しているのか、していないのか分からない。
グラスが空になる。
「もう一杯、いきますか」
聞く。
女は少し迷ってから、首を横に振る。
「今日はこれで」
立ち上がる。
会計をする。
金額を告げる。
ぴったりの現金。
これも、どこか既視感がある。
ドアに向かう。
その途中で、ふと振り返る。
「さっきの名前」
「ん?」
「たぶん、それでもいいんだと思います」
そう言って、少し笑う。
「どういう意味だ」
聞く前に、ドアが開く。
冷たい空気が入る。
女は振り返らずに出ていく。
ドアが閉まる。
静けさが戻る。
カウンターに手をつく。
「……誰だ」
今度は、はっきりと口に出る。
顔は覚えている。
声も、仕草も。
だが、名前が定まらない。
佐伯ではない。
だが、完全に違うとも言い切れない。
まるで——
いくつかの名前が重なっているような感覚。
グラスを片付ける。
指先に、わずかに震えがある。
気づかないふりをする。
時計を見る。
二十二時四十五分。
時間は進んでいる。
少なくとも、それだけは。
だが——
今日という日は、本当に一つなのか。
あの女は、本当に一人だったのか。
名前を間違えたのは、ただの記憶違いか。
それとも——
そもそも、正しい名前が存在しないのか。
考えが、まとまらない。
カウンターを拭く。
いつも通りの動作。
だが、その“いつも”が、少しずつ曖昧になっている気がする。
ドアの方を見る。
次に来る客の名前を、自分は正しく呼べるのか。
それが、少し怖かった。




