第3話 思い出せない常連
冬が近づくと、すすきのの空気は少しだけ重くなる。
雪の前の、あの独特の湿り気だ。
外のネオンも、どこかぼやけて見える。
こういう夜は、なぜか昔のことを思い出す。
思い出そうとしているわけじゃない。
勝手に浮かんでくる。
若い頃のことや、店を始めたばかりの頃のこと。細かいことは忘れているのに、妙な場面だけが残っている。
記憶というのは、都合よくできている。
そう思う。
ドアが開く。
風と一緒に、少し冷たい空気が入ってくる。
「……こんばんは」
男が入ってきた。
五十代くらいか。
いや、六十に近いかもしれない。
少し猫背で、コートの襟を立てている。
顔に見覚えがある。
だが——
名前が出てこない。
「いらっしゃい」
とりあえず、そう言う。
男はカウンターに座る。
いつもの席、というほどではないが、迷いなくその位置を選んだ。
「久しぶりですね」
男が言う。
その言い方に、引っかかる。
「……そうでしたか」
曖昧に返す。
本当に久しぶりなのか、そもそも常連なのか、その判断がつかない。
だが、男は自然に続ける。
「相変わらず、静かでいい」
店内を見渡すように言う。
その仕草は、初めての客のものではない。
「ありがとうございます」
それしか言えない。
「同じのでいいです」
注文が来る。
「同じ、というと」
聞き返す。
男は一瞬だけ不思議そうな顔をする。
「前と同じですよ」
それが分からない。
だが、適当に外すわけにもいかない。
少し考える。
この手の客は、大抵決まったものを飲む。
見た目から判断するしかない。
「……バーボンでよろしいですか」
半分、賭けだった。
男は少しだけ驚いた顔をする。
それから、ゆっくりと頷く。
「そう、それだ」
当たったらしい。
グラスを用意する。
氷を入れ、静かに注ぐ。
手はいつも通り動くが、頭の中は落ち着かない。
この男を、知っている気がする。
だが、どこで、どれくらいの頻度で会っていたのかが思い出せない。
グラスを置く。
男は満足そうに頷く。
「やっぱりこれだな」
一口飲む。
その仕草を見て、さらに違和感が強くなる。
“見たことがある”
確信に近い感覚だった。
「最近はどうですか」
話を振る。
男は少し考える。
「最近……ね」
グラスを見つめる。
「来てないからな」
その言葉に、思わず手が止まる。
「来てない?」
「そうだよ」
男はあっさりと言う。
「しばらく来てなかった」
それは分かる。
だが——
「でも、さっき“久しぶり”って」
「言ったよ」
男は頷く。
「久しぶりだ」
会話としては成立している。
だが、どこかズレている。
「前に来たのは、いつ頃でしたか」
思い切って聞く。
男は少し笑う。
「それ、覚えてないのか」
軽い調子だった。
だが、その一言が妙に重く響く。
「……すみません、ちょっと」
正直に言う。
無理に知っているふりをするのは、逆に不自然だ。
男は気にした様子もなく、肩をすくめる。
「まあ、そういうこともあるか」
そう言って、またグラスに口をつける。
静かな時間が流れる。
時計の針が進む音が、やけに気になる。
カチ、カチと、小さな音。
そのリズムに合わせるように、記憶を辿る。
だが、出てこない。
顔は分かる。
声も分かる。
だが、それだけだ。
まるで——
“途中から存在している人間”のような感じがする。
「ここ、長いよな」
男が言う。
「ええ」
「俺が初めて来た頃は、もっと明るかった」
その言葉に、さらに引っかかる。
「明るかった、ですか」
「今よりな」
男は店内を見渡す。
「もう少し、照明が強かった気がする」
カウンターを見る。
照明は、開店当初から変えていない。
少なくとも、自分の記憶では。
「変えてませんよ」
そう言う。
男は少しだけ眉を上げる。
「そうか?」
それ以上は言わない。
だが、その表情は納得していないようだった。
「まあいい」
男は小さく笑う。
「俺の記憶も、あてにならないからな」
その言葉に、妙な重なりを感じる。
あてにならないのは、どちらの記憶なのか。
男のグラスが空になる。
「もう一杯、いきますか」
聞く。
男は少し考えてから、首を横に振る。
「今日はいい」
これも、どこか既視感がある。
会計をする。
金額を告げると、男はポケットから金を出す。
ぴったりではない。
少し多い。
「これで」
「お釣りを」
「いい」
短く言う。
そのやり取りも、どこかで見た気がする。
男が立ち上がる。
コートを整える。
ドアに向かう。
その途中で、ふと振り返る。
「また来るよ」
軽く言う。
その言葉は、普通のものだ。
だが、なぜか強く残る。
ドアが閉まる。
静けさが戻る。
しばらくそのまま立っている。
カウンターに手をつく。
「……誰だよ」
小さく呟く。
答えはない。
だが、確かなことが一つある。
あの男は、ここに来ている。
何度も。
そして、自分はそれを“知っている”。
なのに、思い出せない。
グラスを片付ける。
氷が溶ける音が、小さく響く。
時計を見る。
二十三時。
針は正確に進んでいる。
少なくとも、それだけは間違いない。
——本当にそうか?
ふと、そんな考えがよぎる。
時間は正しいのか。
記憶は正しいのか。
この店は、同じ場所にあるのか。
考えすぎだ。
そう自分に言い聞かせる。
だが、その言葉もどこか頼りない。
カウンターを拭く。
いつも通りの動作。
だが、その“いつも”が、本当に同じものなのかは分からない。
ドアの方を見る。
また誰かが来る気がする。
それが誰なのかは分からない。
ただ——
来たときに、自分はその人を思い出せるのか。
それだけが、少し不安だった。




