第2話 少し先を知っている客
雨の夜は、客の入りが読めない。
すすきのは天気に左右される街だ。雪よりも雨の方が人の足を鈍らせる。濡れるのを嫌うのか、それとも単に気分の問題か、そのあたりはよく分からない。
ただ、店としては静かな夜になることが多い。
その日もそうだった。
二十二時を回っても、カウンターは空いたまま。奥のテーブルも使われていない。グラスを磨く音だけが、やけに大きく響く。
こういう日は、早めに閉めてもいいのだが、なぜかその日はその気にならなかった。
理由はない。
ただ、もう少し開けていた方がいい気がした。
二十二時二十分。
ドアが開く。
見覚えのある顔だった。
「こんばんは」
女が入ってくる。
三十代後半くらいか。派手ではないが、目に残る顔をしている。化粧は薄い。髪は肩にかかる程度で、きちんと整えられている。
何度か来ている客だ。
常連というほどではないが、忘れることはない。
「珍しいですね、こんな日に」
そう言うと、女は少し笑った。
「雨の日は、ここに来ることにしてるんです」
初めて聞いた。
「そうでしたか」
「ええ」
それ以上は説明しない。
こういう客は、無理に聞かない方がいい。
「何にしますか」
「ジントニックを」
グラスを出す。
氷を入れ、ジンを注ぎ、トニックで満たす。ライムを軽く絞る。
いつも通りの手順。
だが、その間、女の視線が気になった。
こちらを見ている。
というより、手元をじっと見ている。
「何か?」
思わず聞く。
「あ、いえ」
女は少しだけ目を逸らす。
「丁寧だなと思って」
「普通ですよ」
そう答える。
実際、特別なことはしていない。
ただ、雑にやらないだけだ。
グラスを置く。
女は軽く礼を言い、一口飲む。
それから、少しだけ考えるような顔をする。
「……やっぱり」
小さく呟く。
「何か違いますか」
「いえ」
女は首を振る。
「同じです」
その言い方が、少し気になった。
“変わらない”ではなく、“同じ”。
微妙な違いだが、引っかかる。
「前にも飲まれてますよね」
確認するように言う。
「ええ」
女は頷く。
「何度か」
そこまではいい。
問題は、その後だった。
「この後、もう一人来ますよね」
さらりと言った。
手が止まる。
「……誰がですか」
「男性の方」
女はグラスを傾けながら言う。
「四十代くらいで、スーツの」
その特徴に、思い当たる客は一人しかいない。
第1話の、あの男だ。
「来るかどうかは分かりません」
そう答える。
当然だ。
予約もしていないし、毎日必ず来るわけでもない。
だが、女は小さく首を傾げる。
「でも、来ますよね」
断定に近い言い方だった。
「……どうしてそう思うんですか」
聞かずにはいられなかった。
女は少し考える。
それから、曖昧に笑う。
「なんとなくです」
その答えは、信用できない。
だが、それ以上追及するのも野暮だ。
「そうですか」
それだけ言って、作業に戻る。
店の中は静かだった。
雨音が、遠くに聞こえる。
女はゆっくりとグラスを空けていく。
時計を見る。
二十二時三十分。
そのとき——
ドアが開く。
風が入る。
見なくても分かる。
「こんばんは」
あの男だった。
スーツ姿。
少しだけ濡れている。
カウンターのいつもの席に座る。
女の隣だ。
二人は、互いに視線を合わせない。
初対面のように見える。
「いつもの、でいいですか」
男に聞く。
「ああ」
短く答える。
グラスを用意する。
その間、女は何も言わない。
ただ、静かにグラスを持っている。
ジンの香りが、わずかに漂う。
ウイスキーを注ぐ。
グラスを置く。
男は一口飲む。
そして——
「雨、嫌ですね」
そう言った。
その言葉に、女の指が止まる。
ほんの一瞬。
だが、はっきりと分かる。
「そうですね」
女が答える。
自然なやり取りだ。
だが——
どこか、予定されていたようにも見える。
「濡れるのは、好きじゃない」
男が続ける。
女は少しだけ笑う。
「私もです」
その会話は、初めてのものに見える。
だが、女の反応がわずかに早い。
まるで、次に何が来るか分かっているように。
二人の間に、妙な空気が流れる。
知っているはずのない会話を、知っているような。
そんな違和感。
しばらくして、女が立ち上がる。
「お先に」
会計を済ませる。
ぴったりの金額。
これも、どこか既視感がある。
ドアの前で、女が一瞬だけ振り返る。
こちらを見る。
それから、小さく言う。
「また、同じ日になりますね」
意味が分からない。
聞き返す前に、ドアが閉まる。
静けさが戻る。
男は何も言わない。
ただ、グラスを傾けている。
時計を見る。
二十二時四十分。
針の進み方が、妙に気になる。
いつもと同じなのに、どこか違う。
カウンターを拭きながら、ふと思う。
あの女は、何を知っていたのか。
そして——
何を“繰り返している”のか。
雨は、まだ降り続いている。
止む気配はない。
まるで、この夜そのものが、どこかで止まっているみたいに。




