伸びる真田
矢沢源之助が砥石城を奪った早朝、佐久内山城から軍勢を率いて出たのは小山田出羽守信有と真田源太左衛門幸綱であった。
佐久に不穏な動きがあった際には対処できるよう、内山城には小山田備中守虎満がそのまま居残ることとなった。虎満は日頃から敵対的な国人をもぐら叩きのようにして叩きのめすことで従えており、この地を守り抜く術をよく知っていたからである。
ただ、それを高く評価してくれるのは武田晴信くらいなものだったので、誰にでも分かる大きな戦功とは到底いえなかった。
もちろん屋形が評価してくれるのだから、臣下としてはこれ以上のことはないのだが、武人としては別である。
二人を送り出す際、虎満は少し愚痴を言った。
「某もあなた方のように派手な手柄を挙げる機会があれば良いのだがなあ」
出羽守はそれに反論した。
「今回、俺は初夏に甲斐の府中を出てからというもの、ほとんど戦っていない。山伏と法螺貝を吹いて遊んで過ごしておったのは、小山田もよく知っているだろう?」
実際、出羽守はほとんど戦っていない。
山伏の行範が法螺貝を吹く音がやたら大きかったので、他の従軍僧にもやり方を教えてやってほしいと頼んでみたところ、なんでか出羽守も興味が出てきた。一緒になって自分も吹いてみたりして、暇を潰していた。
戦場はだいたい暇だし、城に入っていれば更に暇である。
幸綱は出羽守に少しの助言をした。
「遊んで過ごす日々は、もう少し続きますよ」
酒も飲まない踊りも歌も大して興味がない出羽守にとって、戦場で暇なのは一番悪い。
さっさと勝って帰るのが一番良いから、基本的に彼のいる場所は常に一番の激戦地となった。いつも大きく派手な手柄を上げている理由はこれに尽きる。
だから塩尻峠の戦い以来ずっと我慢の日々が続いていた出羽守にとって、幸綱が下した宣告はなかなか厳しいものだった。
◆◆◆
出発してからずっと一緒に動いていたのだが話すこともあまりなかったので、出羽守は幸綱に見通しを尋ねていた。
「真田殿の弟は上手くやっているのかねえ」
「どうでしょうな。砥石は小県に打ち込まれた楔のようなものですから、村上も簡単には手放そうとしないでしょう。まあ、上手くいかなければ、そのまま軍勢を収容して引き上げるだけのことですから」
上手くいくかどうかについて明言を避けるのとは裏腹に、出羽守は幸綱の態度から自信が溢れ出ているのを感じ取った。
直感的に、矢沢はやってのけるだろうと出羽守は思った。
「屋形もここに出てくるのには一度失敗しているから、あまり簡単に落ちてしまったら拗ねてしまいそうだな」
「出羽守様も、あれは失敗であると考えられますか」
「慎み深い真田殿の言葉とは到底思えんな。あまり先走ったことを言わない方がいいだろう。あれはあれで後悔することがないわけではないと、俺は思う」
幸綱を非難しながら晴信を「あれ」呼ばわりする矛盾に、幸綱は失笑してしまった。
「左様ですか」
「左様だ」
笑いをこらえながら幸綱が言うのを鼻で笑いながら、出羽守は言葉を繰り返した。
問題は道のりの中で襲撃されたりしないかであったのだが、これも全く円滑で幸綱が言った通りになっていた。
さっさと戦ってさっさと帰ることを普段は望んでいる出羽守も、今年で一番楽しそうにしていた。進んでいく度に自分たちが戦わなくても既に勝っているから何もする必要がないことを感じ取っていける。
それが一番早くて楽な道のりだから、出羽守は楽しそうだったのである。
源之助たちが撃ちまくった種子島に驚いた周辺の人々は、砥石城が焼けるのをみた。源之助たちは砥石城にいた人質を放って走らせた。人質たちは何が起きたのかを帰って報せていた。だから、ここでは誰もが未明のうちに何が起きたのかを全て悟っていた。
「よっぽど大きな音がしたのだろうな。戦わずに済むならそれ以上のことはない」
それを聞いて幸綱は意外に思った。
幸綱は出羽守が本来どういう性質かを知らなかったから、戦功を求めて松本平から移って佐久にやってきたと思っていたのである。
実際には、松本平の村々が焼けていく状況に嫌気が差したのもあるし、小笠原の城をじっと囲んで待っているのも嫌だったし、穴山信友は出払っていたから話し相手になりそうなのが虎満くらいしかいなかったというのが理由である。
出羽守はそれくらい軽い気持ちで軍を動かしている男だった。
◆◆◆
「まるで馬揃えだなあ。えらい行列じゃあないか。村も砥石の城みたいに焼かれると思って逃げてきたのが馬鹿らしいや」
「武田の殿様が来たのかねえ」
「ありゃあ海野だよ。海野の子に真田ってのがおったらしくて、武田に仕えてるんだとよ」
小高い丘からその様子を見物している百姓たちは息を呑んでその列を眺めていた。その列は砥石城へと向かうのだが、道のりは全く急ぐことがなく、しばしば止まっている。
『合図があり次第、進出せよ』との命を諏訪にいる晴信から受けたとき、「できるだけ着飾って向かうべし」という文言もあったので、小山田の郡内勢もそれぞれに商人から沢山の美しい武具やその飾りを買い付けて掲げ、彼らは人生で最も大きく胸を張っていた。
逆にみすぼらしいのが道から見える限りの田の荒れ具合である。百姓がぎりぎり生きていく程度の収穫であろう。耕作する者が去ってしまい放置された田があまりにも多かった。
その対比がますます軍勢を輝かせていた。
幸綱が荒れた田に心を痛めながら道を進んでいくと、要所要所で近くの国人たちが馬や太刀を献上するためにやってくる。先頭に掲げられた真っ更の六文銭の紋が風にはためく度に、事前の調略によって降ってきた国人たちはそのまま行軍の列に加わっていった。
行軍はその度に少しずつ遅れていくが、幸綱は自らがこの小県における武田の取次役であるとして、用意しておいた晴信直筆の安堵状をこの場で受け渡すことを欠かさなかった。
この時の幸綱は全ての合点がいったつもりになっていた。
『土地は動かんのですから、お家が続く限りにおいて本領を取り返すことができる。血はなるたけ広く撒かれると良い。境に棲む者にとっての命綱となりましょう』
これは幸綱に向けられた言葉ではないことに、幸綱はようやっと辿り着いたと考えたのである。
真田源太左衛門幸綱が武田の下で戻ってくるやいなや、小県の統治者として君臨することができる理由は何か。
それは滋野氏の先人がそうしてきたからこそだ。
軍を引き連れてきただけで、真田の支配を正統であり当然であると受け止める理由は他にない。今や滋野三家でも嫡流といえる海野が上野に逃げてから何年もの日々が過ぎ去っている。今や海野だからといって大きな顔をできるわけではない。
だが、その血はあまりにも多くこの地に撒かれていて、染み込んで人々を離すことがない。
ここの国人の棟梁は武田でも村上でもない。滋野氏なのである。
綱をためらって掴むと、先祖が幸綱を引き上げた。
合点がいっているのは幸綱だけであって、言い出した本人はそこまで考えて言ったわけではない。
一般論を述べただけなのだが、源之助が「まるで釈尊」と言った通りである。その言葉を、幸綱は人が真言を読むように勝手な解釈を付け加えていた。




