跳ねる矢沢
この秋の小県には大きな衝撃が走った。
武田晴信が大門峠を越えようとしているという報が入ったのが、その始まりである。
このとき、砥石城で城番にあったのは楽巌寺雅方という人物であった。この楽巌寺という人物は名前で分かる通り元々は僧だったらしく、形式的には望月氏の被官である。
被官関係にあるといっても、楽巌寺が望月の言うことを聞くかどうかは別の話である。話の筋からいえば武田晴信は関東管領上杉氏の言うことを聞くべきだし、上杉も公方の言うことを聞くべきだが、それはそれ、これはこれである。世の中みんな公方の言うことを聞くなら世は太平だ。
楽巌寺は本来の君主である望月遠江守盛時から離れて、実質的に村上義清に臣従していた。望月は小県にも影響力はあったが、本貫地は佐久の山の中だったから、あまり当てにはできなかった。
同じような立場の人物が矢沢源之助だ。
彼の領地は砥石城の目と鼻の先だったから、人質になっていた妻子を甲府に残して村上方に臣従することになった。人質は殺されたという風聞が甲信では流れていた。
真田が預かった後に沙汰止みとなったのは、あえて晴信が真田に殺させたからであるという。哀れな最期であったとも聞いた。
実際、源之助の下に妻子が帰ってくることはなかったし、矢沢はこのことについて何も言わなかったから、その話はますます説得力を増していた。
しかも武田に虐殺された笠原の残党が、ここ砥石城には多く入っている。これらは地獄から這い上がった人々だった。
◆◆◆
この報が入る前日、源之助はフラっと独り身で砥石城に入って楽巌寺と話をした。
「なあ楽巌寺、お前はそもそも望月の被官だろう?」
「そうだが」
「主家は武田に降っているということだよな。だったら、もしこの城が落ちたら、お前はどこまで戦うつもりだ?越後や上野にまで逃げてでも戦う覚悟はあるのか?」
「城が落ちそうになったら考えるだろうな。そもそも一度ここで手酷く追っ払ってやったのだから二度と来ないと思うし、戦う前から負けることを考えるべきではないだろう?」
楽巌寺は上田原の戦いで大活躍したことで、村上方でも重く取り立てられていた。実体験としてあれほど勝ったのだから、晴信が来ることは二度とないと考えたのである。
「どうにせよ俺は最後まで戦おうと思うから、考える必要がないと答えるべきだと思うが」
「恨みが深いなあ。中々それでは生きてはいけんぞ。必要とあれば降るべきだ」
楽巌寺は頬をかきながら、常識を説いた。降るべきだなんてことは本来言うべきではないのだが、矢沢と楽巌寺は滋野一族とその臣下だったから、普段に気を許していた。
◆◆◆
深夜、矢沢は突然に怒鳴り散らしながら砥石城の門の前にやってきた。
「おいっ!武田の連中が大門峠を越えてくるらしいぞ!合図の烽火が焚かれてるのが見えないのか!」
門兵も普段は緩んでいるものだから碌に確認していなかったけれど、確かにそれを報せる烽火が南の方で焚かれているのが見えた。
「早く城に入れろ!」
再び催促すると慌てて門を開けたのだが、矢沢勢はやたら大人数で門を通過していく。矢沢郷の女子供老人まで連れてきてもこんな人数にはならないだろう。
「ほれ、さっさと門を閉じろ」
みんな通過してしまうと、源之助は門兵たちにそう命じた。鉄砲と槍が彼らには向けられていた。
源之助は門兵たちには従えば命があることを言って聞かせてから、これからは武田方として働くことを誓わせた。
入ってきたのは矢沢勢だけではなく、望月や禰津の兵も堂々と入っていた。
それに皆が気付いた時にはもう遅かった。
突然打ち鳴らされた太鼓や法螺貝による轟音もさることながら、方々で種子島が放たれた大きな音があって、建物のいくつかには火がついている。最初から砥石城に入り込んだ透波たちが火をつけて回っているのだ。
火の光と薬の音は何よりも雄弁にこの城の行く末を物語っていた。
本城では深夜の突然の襲撃に対し、何の武装もしないままに次々と名のある将が討ち取られ、一か所に首が集められていく。
動乱に気付いた支城から駆けつけてきた連中は、門に二十丁ほど並べた種子島の試し撃ちの標的となった。かなりの数の鉄砲が同時に炸裂する音が耳を威嚇して鼓膜を悲しませた。
このとき源之助と一緒に砥石城へと乗り込んだ望月遠江守盛時は、発砲音の中でその有様をよく眺めながらキンキン響く耳を抑えて源之助に言った。
「大きな音がするのに弾が見えないのが恐ろしいのだろうな。身体がいきなり吹き飛ぶわ甲冑も抜けちまうわ、身を守る方法がない。種子島も一つ二つではなく集めて使えばえらいことになるんだなぁ。源之助、これは戦が変わるぞ。俺も買い集めようか」
「ただなァ、これが高いんだ。今のところ俺たちには手が出る品じゃあないし、ここいらじゃ作れる鍛冶がいない。それに、これは武田からの借り物だから終わったら返さなきゃならないんだ」
「そりゃ勿体無い話だな。城と交換出来ないのか?」
「この城は兄貴にあげちまうから出来ないだろうな。もし武田の屋形が太っ腹で、この種子島を俺にくれたら、望月の兄さんとこにも一丁やるよ。あと、禰津の兄さんにもやらなきゃいけないな」
「そりゃ有難い話だ。期待しておくかな」
二人が話をしている最中にも死体は出続けた。近付いた敵を撃っているだけで引き下がっていくのを源之助と盛時の二人は眺めていた。あとは葛尾城の村上が早いか、大門峠を越えてくる武田が早いかである。
本城の方でも鳴っていた連続した発砲音は、上田原の住人たちは飛び起きるほど激しかったが、それも半刻しないうちに止んでしまった。いくらかの透波や伝令たちが本城の状況を報せた。
そっちを指揮している禰津元直は上手くやったらしい。
「どうやら禰津は上手くやったようだな」
「中に入ってしまえば呆気ないものなんだなあ。源之助はずっとこれの準備をしていたんだろう?俺は源太左衛門から話を聞くまで、すっかり源之助は村上方だと思ってたよ」
「まあ、人を騙すってことはそういうことだからな。しっかし戦ってのは数や士気じゃねえな」
「流れだな、流れ」
望月盛時は適当な男である。なんでも適当に相槌を打つ。
◆◆◆
奥の曲輪には楽巌寺雅方が何も持たず具足も付けず矢沢の兵に囲まれながら、呆然と焼けていく城を眺めていた。源之助は楽巌寺を捕えた透波にいくらかの銭を渡し、昨日と同じ質問を楽巌寺にぶつけた。
「なあ楽巌寺、お前はそもそも望月の被官だろう?」
「そうだが」
「望月の兄さんは門の方にいるから、言うべきことがあるだろう。行ってくるといい。こいつが終わったら村上と一戦あるかもしれんから、頼りにしておくぞ。あんたが戦ったら強いのはよく知っているからな」
楽巌寺はどうやら自分の命が助かったということを理解して、安堵の笑みを浮かべた。




