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餌を配る

 天文十七年(1548年)秋


 真田源太左衛門幸綱は佐久の内山城にいた。

ここにいる将は真田を含めて三人で、残りの二人は、佐久を平定せんがために意気込んで松本平からやってきた小山田出羽守信有と、もともと内山城代である小山田備中守虎満だった。


 虎満は真田が武田に降ってくる際の取次も務めていたのだが、今でも真田は虎満を取次として命を受けることになっている。

透波の扱い等に関しては虎満ではなく駒井高白斎と協議していたが、その情報も基本的に共有していた。

虎満は幸綱個人にとって最も信頼できる武田家中の人物であった。高白斎も悪い人物ではないのだが、ちょっと遠慮がある。

国衆たるもの、取次との関係は一生物だ。もし自らが本領を奪還することが叶ったならば、虎満の武田家中での立場は良くなるだろう。それは武田の成功も意味しているのだから。幸綱にとって幸便である。


 また、晴信にとっても虎満は十分に信頼できる重臣だった。

晴信の虎満に対する強い信頼は、内山城という信濃侵攻の最重要拠点には配していることからも分かる。もう一つの重要拠点である諏訪上原城の城代は晴信の弟である武田信繁で、それと同等だというのだから、晴信の虎満に対する信頼は人物に対してだけではない。能力に対しても高い評価があったということである。

虎満の父である昌辰についても同じである。昌辰も内山城代を務めていた。昌辰と虎満の親子は晴信たちが信虎を追い出した計画を事後に知ったのだが、えらい剣幕で晴信に対して怒っていたという。

それをもって処罰せよとの声もあった。だが、そこが良いところだとと評価する度量が晴信にはあったし、そもそも晴信はあんまり父を追放するのは気が進んでいなかった。

なので、それはそれで情状を酌んでいると考え、かえって二人を重用することになった。


 さて、この小山田虎満は小山田信有とは別系統の小山田家である。全く親戚でもなんでもない。虎満が生まれたとき、上原という苗字だった。ただ、なんでか分からんが内山城代という地位は小山田氏を名乗るという決まりがあるので、武田信虎と晴信がそう名乗れというから父の代から名乗っている。

これが紛らわしいから、虎満は自分よりも立場が上の出羽守らに慮っていた。

出羽守ら郡内の小山田氏の前では自分のことを「上原」とか所領から「石田」とか名乗るのである。

ただ、出羽守はあんまり気にしていないどころか、逆にそれを面白がっていた。


「よっ小山田様!小山田備中守!小山田備中守虎満!」


 毎回こうやって二度も三度も小山田小山田というのである。

武田の家臣と呼ばれる人々は、そのほとんどが子分なんだけれども、二つの例外があった。それが小山田家と穴山家である。彼らは子分ではなく弟分なので、武田の言うことは絶対ではない。

出羽守はとんと人間関係に興味がなかったし、特に趣味というものもなくて戦と女のことしか考えることがなかった。だから仕事をあまり一緒にすることもなければ、意外と文人が多い武田家中には友人と呼べる人がほとんどいない。

甲府では専ら同じ境遇の穴山信友とつるんでいたが、信友もどちらかというと文の人だったし、出羽守よりも年上だったから少し遠慮があった。


 逆に出羽守にとって虎満は年下だったし、内山城で守りの切り札といえる存在だったから攻め切り札である自らとは役割的に対となる存在だった。そして苗字が同じであることを梃子とできた。付き合いやすかったのである。信濃に来ないと会えないのが残念だったが。

一方、虎満にとって出羽守はちょっとばかり面倒な人だが、嫌味なところが全くないところに好感を持っていた。


 ただ、苗字の件については虎満も苦笑して会釈するしかできない。虎満が微妙な表情でいると、出羽守は声を小さくして畳みかけた。


「そこいらに金(きん)を撒いているらしいな。真田が高白斎から引っ張ってきた金(きん)だそうだな。佐久に来たら何もせんでも国人どもが降ってきたぞ。お前ら、何を考えている?」


「出羽守殿の武勇に恐れをなしたのではありませんか?」


 虎満は躱したのだが、運が悪いことに碁石ほどの甲州金を空中に投げて弄んでいる幸綱が入ってきた。幸綱は出羽守の姿をみて普段より深く挨拶すると、出羽守は満足そうであり逆に虎満は不満そうであった。


「源太左衛門殿、あなたは間が悪い人だなあ」


「ええ?」


 幸綱は理由もなく自分が責められたと感じて、少し顔をしかめた。


◆◆◆


 虎満は出羽守に自分たちが何をしているかについて釈明する必要があった。出羽守はこうなると引き下がらないだろうし、下手をすればそこいらの地侍を吊るし上げて聞き出すこともしそうだったから、迷惑なことにならんように、そうした。


「調略の一環ですな。それほど大きく撒いているわけではない」


「その割に効果があるように思うのだが。調略は普段からだろうし、兵を佐久に入れることも頻繁だろう。普通、あんなに降ってくることはないだろう」


「そこの真田殿が撒く相手を変えたそうで」


虎満がさらっと説明すると幸綱はそれを補足した。


「某が取次となって、当主ではなく家臣でも下の方の連中に撒いたのですよ。備中守殿や駒井殿が直接にやると、御二方の名に傷がつきかねないような相手にまでね。それに、当主を買うには大きな銭がいるけれども、下の連中ならそれほどでもない。しかも今回のように兵が入ってくると、下にいるほど強く反応する」


「戦で手柄を立てる必要があるからな」


出羽守は「ちょうど真田殿のように」という言葉を飲み込んだ。本人がそれを一番理解していることくらい、分かる。


「ええ、ええ。ですから、銭でそれを満たしてやれば、家中の議に於いてこちら側に簡単につくでしょう?」


「家が割れたらどうするのだ、割れずとも誅されることはあるだろう」


「良い事ではありませんか?」


 幸綱はシニカルに笑った。彼は自身の調略において、基本的に下の階層から狙うことにしていた。

それがまずい形で表に出たとしても、敵の家中に内訌を作り出せるのならば、それは構わないという考えの下でである。

狙いは単に転ばせるという甘っちょろいものではなくなっていた。実は去年まではそういう考えでやっていたのだが、ちっとも上手くはいかなかった。

いくら信頼を得たとしても土地と血統は国人を魅惑して離すことがない。血は水よりも濃いから、時間が経てば元に戻ってしまう。

それは誰かが言った「主家は道具に過ぎん」という水の言葉とは相反するようで、それが常に頭をもたげていた。

失敗が続くと、考えを変え始めた。


 武家としての縁をいかに切り離すことで、いかに主家を道具と考えさせるかが重要だ。

あそこでは、言葉そのものではなく行われたことの意味を考えるべきだった。

あれはあれで調略なのである。知らず知らずに調略されかけていたことに気付いた。というか、されている。

主と臣、土地と人の紐帯を完全に破壊することがなければ、本当の意味での調略とはいえないという発見があった。

それでも残るのが血である。


 小県郡はそもそも滋野氏の地だ。

滋野三氏のうち、自らと最も近かった海野は上野に行って帰ってこないが、望月と禰津は自分の縁者で、小県に武田方として留まっていた。

そして、多くの小さな国人たちは三氏の縁者であった。多くは矢沢源之助同様に村上方に行ってしまったが、村上との紐帯は破壊し尽くせる程度のものだった。血はすぐに作れない。

だから徹底的に紐帯を破壊することで郡全体が荒れることがあっても、最後には必ず勝てるという確信が幸綱にはあった。


 一方、出羽守は信州の深層での情報戦に手を付けているわけではないから、シニカルで露悪的な幸綱には苦笑せざるを得ない。

出羽守も外交はいくらかするけれども、水面下というよりは戦場での外交や北条と武田の間での取次という大雑把な仕事が多く、あまり自らには向いてない話であると感じたのだ。

ただ、甲州人としての感想だけは言った。


「全くわけが分からんな。甲斐からの棟別銭が元手のようなものだろう。棟別銭の出処は百姓その他だが、奴らは雑兵として信濃で乱捕りをする。それが棟別銭の元手となるわけだろう?」


「そうですな」


「なら、信濃で略奪した分だけ返していると考えれば、これは循環しているな。しかも屋形だけが得をしている」


「そうですか?」


幸綱は自分も得をしていると言いたげだったし、そうなれば一緒にいる虎満にとっても得があるだろうとも言いたげだった。

出羽守は表情だけでそれを察する。


「まあ、甲斐ではな」


「某も甲斐の人ですが」


「小山田は少し佐久が長すぎたな。信州は人を獣に変えるだろう。だから諏訪みたいな社が必要になる」


虎満に対して出羽守は淡々と言い放った。

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