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御宝鈴

―――ガラゴロガラン

諏訪社の神長官である守矢頼真が鉄の鐸を鳴らすと、それは古代からきた歪で不格好な音がした。

信繁はその音を聴いてから、今しがた受けた兄からの報せを伝えた。


「兄上は夜に進む」


「どこまで進まれるのですか」


 千野靫負尉は苛立ちながら訊ねた。

信繁にも千野の苛立ちは十分に理解できるものであった。兄の晴信は諏訪の救援に来るといって、甲信の国境辺りをノロノロとあえて時間をかけるように歩いていたからである。

思えば兄は上田原と同様に進まなかった。そして、その結果は惨憺たるもので、この諏訪の郡代であった板垣信方を失ったのである。

そうであるが故にいくらかの者は晴信の動きに失望して小笠原方に降っていることを、信繁は知っていた。

ただ、今回の晴信からの報せは性質が異なる。彼は進むと言った。それも確実に進むだろう。


「松本平まで進む」


「それはいつ頃ですか」


「考えずとも、明日の朝にはそこまで進んでいるだろうと兄は言っているようだ」


 信繁はあえて何も考えることがなくそのまま兄の言葉を諏訪衆に伝えた。上からやってくる命にはとりあえず従っておくのが信繁なりの処世術である。兄はしばしば信繁に諮ることもあったけれども、そうでないことの方がよっぽど多かった。


 ここにいる守屋や千野は諏訪の社人であるのだが、先月また下社にちょっかいを出した小勢の小笠原勢を完膚なきまでに撃退していた。対して小笠原が過剰反応するようにして松本平の兵を引き連れて進出の動きを見せると、諏訪西方の衆が悉く逆心し小笠原方に与したという報せが飛び交った。守屋や千野らは自城のみでは防戦ままならんと、女子供を山野に逃がし、戦える者は引き連れて、武田信繁のいる上原城に入った。


 彼らは武人でもあり社人でもあるという性質上、この時にも武具の他に占具や神具を持っていた。

その一つが御宝鈴という、鉄の鐸を六つ束ねた代物である。古来からこの鐸の前での誓約は絶対であったから、今回も武田晴信が進むと言ったのは絶対なのである。なにせ信繁に対する指示には、鐸の前でそれを誓うようにと書かれていたのだから間違いなく進むだろう。これを裏切れば、諏訪で味方する者は誰もいなくなる。


 だから鐸の前では諏訪衆の温度が上がった。鐸の音によって増幅された彼らの殺気を、信繁は獣の臭いとして感じ取った。

甲州兵と信州兵は何が違うのか?

晴信の考えでは、甲州兵が犬ならば信州兵は狼である。狼であるが故に群れることができない。

信繁はその言葉を思い出して言った。


「俺も狼だ」


◆◆◆


 行範は小山田出羽守が率いる郡内勢の後ろにくっついて廻っていた。僧や医師が従軍することはよくあったのだが、彼はその両方を兼ねていた。たづは小山田の屋敷に預けることにしていた。絵解きなんぞしながら弥三郎と弥五郎に諸国のことを教えている。

郡内勢は上田原と同じく、武田勢の左翼を担っていた。先鋒を任されたのは諏訪衆である。行範はこれを諏訪人同士で殺し合わせるのだろうと、捉えていた。実際に小山田出羽守はそう考えているようだったし、晴信もそうであった。

だが、当人たちはそんなことを一切考えていなかったであろうということは、塩尻峠に達したところで気付いた。


 武田勢はその日、昼から急速に速度を上げて上原城に入ると夜にそこを出立して塩尻峠の辺りに布陣していた小笠原勢を襲撃した。

小笠原勢は晴信のノロノロとした動きに対して大変に油断していた。安曇の仁科勢がくだらない内輪もめを理由として陣払いし帰国したのがその象徴である。


 行範は未明から峠に近付くにしたがって血の匂いが強くなることを察した。

郡内勢と一緒に塩尻峠を登っていくと、そこには人体だったものの破片が大量に散らばっていた。牙を突き立てたような刺傷によって殺害され、食い千切られたような切創によって部位に分解されていた。まるで御頭祭の供物のようだと、行範は思った。

出羽守は行範に声をかけた。


「こりゃあ、ひどいな。まるで神罰でもあったかのようだ」


少し遠目で諏訪衆が戦っている様が行範と出羽守からは見えた。出羽守が千野の手勢の社人だろうとした者たちは、ろくな武装もできずに散り散りになった将を捕まえていた。そして刺し殺してから滅多切りにして部位を全て松本平の側に放り投げた。あたかも諏訪が清浄な地であり、松本平が血の海、地獄の窯であるかのように、そうした。


「松本平はみな焼けるでしょうな。ただでは済まんでしょう」


行範はそういって、彼らの行為を肯定も否定もしなかった。


◆◆◆


 その後、信繁や千野らが率いる諏訪勢は松本平にある村は全て徹底的に焼き、執拗に刈田を行ってから山も焼いてしまい、松本平の人々が生きる道を全て絶った。

小山田の郡内勢は見たこともないような略奪と虐殺の光景に際して、それに積極的に加わることを良しとせず、そのまま晴信の了解を取ってから佐久の平定へと向かった。

塩尻峠の戦いについてはそれほど変わっていません。


間違えて先のプロットを投下しましたが致命傷で済みました。

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