呪いの祓い方
結局、出羽守は二刻しても目を覚ますことがなかった。
目を覚まさないとはいえ、ずっと立てているいびきの音は静かではある。つい今日の朝までは眠っていても常にうなされている状態だったから、これはこれで健康的な眠り方ではある。
それでも行範が期限を切った一刻経っても起き上がらないことに、弥三郎は不安を隠せなくなりはじめた。
その視線を感じた行範は「仕方ない」と言い、出羽守の足首裏を押した。
出羽守は飛び上がって叫んだ。
「痛い痛い痛い痛いっ!何をする!」
飛び上がると同時にたまたま部屋へと入ってきた弥三郎の弟である弥五郎は、父の剣幕に驚いて足を滑らせた。
そのまま尻餅をついてしまうと、その際に手に持っていた器をひっくり返して落としてしまったので、ガシャーンという大きな音が響いた。
出羽守は辺りをキョロキョロと周りを見回すと「なんだなんだ、どうした」といって弥五郎を引っ張り上げた。
「お元気そうで何よりで」
虎綱はちょっと皮肉っぽく言ったのだが、実際に出羽守は元気そうに見えた。
しばらく動いていなかったから身体の方はイマイチ関節が思うように動かなかったのだが、その眼には確かな力があって焦点もしっかりしていた。
◆◆◆
「何が起きたのかよく分からんが、やたら調子がいい。腹が減った。ついさっきまでは死ぬことしか考えていなかったのだが、今は生きることしか考えていない。これは屋形に呪われていたな」
「それは穏やかではありませんが」
虎綱は苦笑しながら返答したのだけれども、弥三郎は静電気が走ったような反応をした。
虎綱は屋形の側近である。その前で屋形が自分を呪ったなどと言ってしまうのは、逆心を明らかにしたに等しい。
だが、出羽守はなんとも思わない素振りであった。従兄弟である武田家の当主はともかくとして、その家来の人間関係にまでは、わざわざ頓着しないのが彼のやり方である。
武田家を除けば甲斐で最も有力な家である小山田家の当主なのに大層がさつな男なのだ。虎綱は逆に百姓の出の割に神経質だったから、そういう人物とは付き合いやすかったらしい。神経質同士だと心をすり減らす。
「よう魔を祓ってくれた。やはり飯綱の天狗ともなると、祈祷がよく効くのだなあ」
弥五郎が持ってきた粟粥を口に運び、行範とたづの方に向き直って礼ともつかない感想を言った。
この感想に、たづはあんまり気分が良くなさそうな顔をして反論する。
「祓うようなことは何もしておりません。外法も大概になされませ」
「外法?現に祓われたではないか」
たづは少し怒った雰囲気で法句経の一節を日本語で読み下した。
「不実を実と言い、また実を不実と見る人は、実を了解せずして邪思惟に住す」
法句経というのは釈迦自身の言葉だというのに、小乗の経とされて無視されていた。小乗というのは今でいう上座部仏教を蔑視する言い方である。当時は劣ったものと看做されていた。
そのような理由でほとんど誰も読む者がなかったから、学僧でもない誰もが経であることに気づかなかないのも当然である。
たづを諫めるように行範は後段を読んで、話を引き取った。
「実を実と知り、不実を不実と知る人は、実を了解して正思惟に住す」
皆がちんぷんかんぷんという顔をしていたので、付け足した。
「出羽守様も実を知ったということですよ。呪いが外法であることを知ったことで祓われたのです。お渡しになった文にはなんと書かれておりますか」
出羽守は自らが受け取った文を示したのだが、そこには「遣わした二人は飯綱の天狗」とだけ書かれていた。それが証拠だと言わんばかりに文を二人に押し付けて言う。
「あの方も信じておられるではないか」
それを読んだ行範とたづ、そして虎綱までもが呆れて声を揃えた。
「方便でしょう」
◆◆◆
行範はそのまま説法を始めた。弥三郎と弥五郎は目の前で父が生き返ったのをみたからか、これを神妙に聞くことにしたらしく、珍しいことに正座までしていた。
「いいですか、呪いというのは自らの口から出るものです。屋形様が出羽守様を呪ったとして、それを出羽守様はどのようにお確かめになったというのですか?」
「そのようなことを確かめられるはずがないだろう」
「そうでしょうな。屋形様が本当に出羽守様を呪ったとしても、出羽守様がそれを知ることなどないからこそ呪いが意味を持つのです。なぜなら屋形様としても出羽守様に呪ったことを知らせるくらいなら、最初から出羽守様を斬って捨てるなり戦を始めるなりを考えるからです」
「うむ、だから確かめられんのだ」
出羽守はそんなことは分っているというように話を催促したので、行範は身振り手振りを交えながら話をした。
「確かに出羽守様は呪われておりました。呪われたから、心を悪くして身体をも悪くされた。出羽守様は不実の呪いを実のあることと見て、自らが呪われていると口に出した。ここでようやく出羽守様は呪われたのです。自らが造り出した不実を、屋形様が造り出した実と思い込むことが呪いなのです」
「そうかな?」
「大元には傷の件があると見ますが」
確かに上田原で板垣と甘利が死んだことから、自らも呪われていると考えていた。それを言い当てられると出羽守としても反論できなかった。
そもそも、あまり家では戦のことを話したくないのもある。悪事が多いからである。
そこで少しばかり話を逸らした。
「だが、その方らの祈祷は効いたではないか」
「確かに魔を祓うかのような祈祷はしましたが、決してそれが何かを浄めたりすることはありませぬ。このように現世の利益を求める祈祷は邪法でしかありません」
「山伏がそのようなことを口にして良いのか?」
「我らのまじないは方便です。禅の言葉に『機を以て機を奪い、毒を以て毒を制す』とあります。強い毒を以てこそ強い毒を制する。そのためには胡散臭くてはいけないから山に登って荒行をこなす」
「話がようやく分かった。この文も毒を強くするための方便で、俺は愚かだったからこそ身体を悪くし、愚かだからこそ治ったのだな」
出羽守が少し気を落として言うと、行範は深く頷いて、たづは横から口を挟んだ。
「愚かだから呪いにかかるわけではありませぬ。聡明であればこそ、理に連環を見出して道に迷う。それを卑下なさるべきではない」
すぐに出羽守は気を取り直した。単純な男である。
◆◆◆
説法が終わったところで、行範は最近流れている噂についての世間話をはじめた。
「ところで、あの方は噂通りでしたな」
「噂?」
これを聞いた出羽守は息子たちに少しの間だけ外に出ているように命じ、虎綱はピーンと耳を立てた。行範とたずは怪訝な顔をして「何かまずいことを言ったかな?」と互いの顔をみた。
「して、噂とは?」
「甲斐の東光寺におわす虎の子は聡明にして勇壮果敢、しかも母が近衛家の縁者だとか」
出羽守が虎綱の方を見ると、虎綱は「それは知らない」と首を横に振った。
「ここに来る前、諏訪におった頃に昔馴染みの修験者とすれ違いになった際に聞き及びました。聖護院門跡の道増様とも親しく交わっておった者で、甲斐から聖護院へと文を持っていくところだと話しておりましたよ」
出羽守が「早すぎる」と呟いたが、それを無視した虎綱は、行範に訊ねた。
「その者の主は?」
「そこまでは聞き及んでおりませぬが、えらく口の軽い者に大仕事を任せたものだなと。道増様は公方様の遣いとして立てられることが多い方ですから、それなりに意味のある文でしょうに」
虎綱と出羽守は一緒に溜息をついた。
「駒井殿でしょうな。しかも、あえて口の軽い者を使った」
「春日、あの方の母はそうなのか?」
「いいえ。違うでしょう」
「御当人は何一つ思うところはないと仰っていましたよ」
またしてもたづが口を挟んだ。「あの家の連中は何を考えているのやら」と出羽守はまた口の悪いことを言ったのだが、虎綱も今度ばかりは頷いてしまった。
タイトルが変わりました。良いものが思いつかなかったもので。
法句経自体は輸入されていたようですが、近代に入るまであまり読まれませんでした。日本の在来仏教にとってあまり良いことが書かれておらず、小乗の経として扱われた歴史が長かったようです。
なので在来仏教の極北ともいえる修験道の人が読むようなものではありません。
小山田出羽守は砥石崩れの傷から病んで亡くなってしまったようです。ここでは上田原になっており、しかも治癒していますから、史実通りではありません。ここでは出羽守は心因性の病となっています。




