真言の捉え方
この夫妻は二日ほど逗留した。
夫妻が笈の中から不動明王像を取り出して経を唱えるのをみて気付いたのだが、彼らは剣を笈の中に持っていた。
唱えるのが終わるのを待ち、笈の中に明王像を仕舞うところで尋ねた。
「あの時、それを使おうとは思わんかったのか」
「殺めれば殺めるほど目が悪くなりましてな」
たづは行範の言葉に合わせるようにして、自らの懐から刀を出した。一尺ほどと短いとはいえ、そんな凶器を持っているようには全く見えなかった。
了承を得てから抜いてみると、結構な業物である。
彼らは修験者のみならず忍びの者でもあるのだろう、当然に戦闘技術を持っているのだと今さら気づいた。
「目が悪いとは、物が見えんようになったか。盲目ではないだろう?」
「喩え話です」
流石に盲目ではないことくらいは分かる。けれども所作があまりにも洗練されていたから、そういうことも有り得るかと思ったのだ。そんなはずはなかった。夫妻は苦笑していた。
「如何ほど斬った」
「十から先は数えておりませんが」
「よう数えたな。わしは愚かだから二三を数えたら、その先は数えられん」
別に彼らは一騎当千というわけではないことくらい分かる。当たり前だ。二対五や十で勝負になるはずもないし、合戦で十も斬ったというのなら大英雄だ。
すれ違いざまに刺すとか寝込みを襲うとか、そういう類の殺生をしてきたのだろう。
あの隙だらけだった荒らし子の若者たちくらい、行範もたづも殺そうと思えばいつでも徒手だったとしても殺せただろう。
自分らのいた坊が焼けたというのも、今考えてみれば薬か何かで殺して坊ごと死体を焼いて逃げてきたのかな、なんてことを想像した。
あまり詮索するのはやめた。気分も良くないだろう。
ところで、彼らとの会話はなかなか面白い。
夫妻は西国は備前の児島五流というところの出身らしく、後鳥羽天皇の皇子である冷泉宮頼仁親王の末裔を自称していた。
親王の血脈はともかく、児島五流の出身というのは修験者としては名門中の名門である。
もともと山伏は僧侶とは限らないのだが、この頃の修験道は「仏教のアイテムを扱うまじない師」というのが適切だろう。
だから天台の山伏なら法華経、真言の山伏なら般若心経を少しでも唱えられれば上等である。
彼らが名門であることがよく分かるのは、この二人は教学にうるさそうだと最初に思った通り、山伏と巫女の割には天台の教学隅々まで大変に明るいことだ。
まあ、わしは仏学は全然わからんから、ここまでのことは全て珍しい者がいると顔を出した、いつもの師の受け売りである。
この師はフニャフニャした人間性はともかく、学の深さはどこに出しても一流であると評価されていた人物だ。なので言うことには間違いないだろう。
ただし、師は途中までは目を輝かせて話していたのに、急にぼんやりとして言った。
「山伏にしておくには惜しいなあ」
「貴人と話す機会が多かったものですから、よく学んでおく必要があったのですよ。今もそうでしょう?」
たづはそう言って謙遜しなかった一方、師家の出身階層をすぐに見抜いている。そういうところの受けがいいのだと思う。
ただ、所作がいい理由は分かった。たぶん熊野先達として位の高い人々に教えることが多かったからだろう。
「うちの子も中々の者だろう?」
「お前の子ではない」
指摘してやると師はクスクスと笑っていた。
行範は言った。
「仏法の敵かも知れませんが。普化を見たら無礼と言ってすぐに討つでしょう」
師は「自分もそう思う」と更に笑ったのだが、そのようなことがあれば師は既に生きていない。
◆◆◆
三日目に虎綱がやってきて、夫妻を小山田の屋敷に連れて行くという。
虎綱に出羽守への手紙を託すと、門前まで三人を見送りに向かう。
去り際に行範はわしの頭に手を当てて真言を唱えた。
「オン アボキャ ベイロシャノウ マカボダラ マニ ハンドマ ジンバラ ハラバリタヤ ウン」
たぶん、この真言の意味を尋ねれば行範は答えただろう。だが、尋ねなかった。
この山伏が唱える短い真言は、複数で複雑な波が組み合わさることで有機的な面を意識の中に形作っていて、それが物の見方と捉え方によって意味を多様に反射していた。
経験でしか生まれない直観の乱反射だから問答は無用どころか害がある。
多くの場合、真言の意味を見失う。
真言は迷路だ。
迷路の行く手を探すのが修験である。
だから行範の真言には通常の僧侶たちが持っていないエネルギーがあった。
指で契印を結ぶと、真言のエネルギーがフッと宙に消えた。
「行範、そなたは目が見えるか」
「たった今、見えるようになりましたが」
「そうか。わしは未だ見ない」
「如何しますか」
「出羽守をたすけてやってくれ。わしが光を見るのに必要な男と思うから」
山伏と巫女は東光寺を去った。
臨済宗というのは山伏にとって居心地が少し悪かったかもしれない。
後々考えたことだが、教理の食い合わせがかなり悪いと思う。
◆◆◆
三人は府中の小山田屋敷に到着すると、長男の弥三郎に案内されて中に入った。
そこで床に臥せっている小山田出羽守信有は眠りについていたが、顔色は青ざめていて非常に悪いのが見てとれた。
弥三郎は、修験の医師ともみえる行範に、出羽守の病状を説明した。
「上田原で受けた傷が少々深かったようですが、そこから熱を出してもう三週ほど経ちます」
「傷はどちらに」
「左の腕です」
たづが出羽守の袖をまくって見ると、確かに痛々しい跡は残っているのだが、明らかに治ってしまっている。
なのに、身体中の器官が痛みを訴えているらしい。弥三郎によると、介添なしでは立ち上がることもできず、自らの死を毎夜のように夢に見るほどだともいう。
出羽守が少し目を覚ましたところ、虎綱が出羽守に手紙を見せた。
すると出羽守は怪訝な顔をしてから、何かを決意した顔に変わった。
行範は護摩の灰を出羽守に差し出した。
それを出羽守が湯で飲むのだが、このときの乳木と抹香の灰は味はなく、生木の香りだけが残っていた。
たづが指で視線を誘導すると、出羽守はそれに従って眼球を運動させる。行範が真言をいくつか唱えると、出羽守がこと切れたようにバタッと倒れてそのまま眠り込んだ。
弥三郎は叫んだ。
「何事か?!」
行範は何事もなかったように答えた。
「大事ではないでしょう。弥三郎様、一刻でもしたら粥でも用意なされませ。多分それくらいで目を覚ますでしょう。覚めなければ覚ましますが」
虎綱は興味津々という表情でその様子を眺めていたが、出羽守がいびきをかき始めたのを聞いて笑い始めた。
「なかなか元気ですな」
弥三郎は、不断に誇りに思っている父のことを、少しだけ恥じた。
出羽守の尊厳を傷付けない範囲ではあるが。
「行範」は熊野別当十九代の名です。
単に筆者が良い名前を思い付かなかったからで、物語上の意味はとくにありません。
「たづ」も同様で、元ネタが理解できる方はお察し下さい。
児島五流というのは修験道的には中々の名門でしょう。
この頃の修験者はよく貴人や高位の武人の話し相手になっていたようです。
また、修験者は熊野先達として旦那たちに作法を叩きこむという仕事もありました。
経がほとんど分からず学がないのは本当にそうだったようです。実践派なので。
戸隠は忍者がいたというのですが、実際はよくわかりません。
修験者は忍びの者として活動していたようで、忍者の里と修験の拠点はそれなりに一致します。
戦国期には関も多く諸国を廻ることができる人々は限られていました。
諜報員として優秀だったのでしょう。




