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外法

 わしの坊に到着すると、虎綱の背からひょいと飛び降りて戸を開けた。

すると虎綱は我が物顔で勝手に入っていった。


「いつからここの主人になった」


「ここまで誰ぞを運んだ老人をいたわりなされ。孫子曰くナントカ」


「孔子ではないのか?」


「さあ?」


 最近はこういう冗談を虎綱と言い合うようになった。

わしが同時代人に比べて礼節を気にしないことを理解してくれたのかもしれない。

そもそも彼の上に立っているとも思わない。頭も腕も彼の方が上なのに、あまり偉そうにしても格好が良くない。


 一方の山伏と巫女の夫婦は、坊に入るのに少し躊躇していた。

小さい塔頭の子坊なのだが、割と外見は立派で綺麗な造りだったからだろう、少なくとも掘っ立て小屋という感じではない。

腕の立つ武人を連れて歩き回り偉そうなことをしているところをみると、どこぞの貴人の子とも考えられなくもない。

彼らは知らないだろうが、甲斐国守護家が貴人というほどかは微妙なところだ。


「ここの主はわしだから気にする必要はない。それに、わしは小綺麗なのは好かん。あまり遠慮をされるのも好かん。はよう入れ」


◆◆◆


 この夫妻はそれぞれ『行範』と『たづ』と名乗った。


 夫妻は元々は西国に土着した修験者の家の出で、熊野の先達をやっていたのだが霞や檀那の取り合いで揉めて相論となりかかったらしい。

霞というのは要するに先達の縄張りのことであり、檀那というのは客のことである。

熊野三山検校であり本山修験道の聖護院は全国各地の荘園が次々と押領されていく中、新たな利権を作り出す必要に迫られた。

そこで聖護院は自らの宗教的権威を活かして、全国の先達に対して影響力を強めた。

現代的にいえば、代理店業の権利を売り始めたのである。

その沙汰に反すると熊野詣のために各地の関所を通れなくなるから、相論は夫妻にとって死活問題だった。


 だが争いを嫌った彼らは、家を相論ごと行範の弟に譲って遊行を始めた。

白山などを回峰をしながら数年前に戸隠の坊に移ったらしい。そこで隠遁と称して飯綱で山に籠っていたのだという。

戸隠と飯綱は隣の山であり、麓にある善光寺も著名だろう。

現代では蕎麦の方が有名になってしまったけれども、この頃の戸隠は三千坊三山とも謳われている仏教の聖地だった。

この三山の他二つは比叡山や高野山だったから、並ではない。その影響力たるや同じ信州でも諏訪以上のものがある。

だが、この時代の戸隠は最盛期を過ぎていたようだ。あまり良い噂は聞かなかった。


「戸隠というと今は荒れておると聞いたが」


「天台と真言では実際のところ教学に大きな違いはないのですが、やはり相容れぬ部分もあり争いがありました。我等の坊も巻き込まれて焼かれました。それで、この際なら甲斐を遊行しながら富士へ向かおうと」


「富士かぁ」


 修験者というのは現代の登山家に似ている。

普段は山に入って隠遁しているのだが、山にいるだけでは衣食にも困ってくる。だから暫くすると平地の人々を相手として遊行し勧進を行うのだが、これが終わるとまた山へ隠遁する生活に戻る。

これは平地でスポンサーを集めたりトレーニングをしたりして、条件が整うと山に登る現代の登山家の生活と同じ構造を持っていると思う。


 もちろん違いもある。

現代の登山家たちも好き好きで色々な山に登るのだろうと思うのだが、修験者たちは単に山にとり憑かれているだけではない。

修験者たちにとっての回峰とは安住の地を探し求める旅でもあるのだと、わしは思う。多くの修験者と巫女はそれを夢見て各地を廻っているようにみえる。

しばしば怪しいまじない師として食いつなぐこともあるだろうし、多くが野垂れ死んでしまう。山だけではなく平地でも。

むしろ平地に居場所がないから山に逃げ込んでいるのである。

その切迫感たるや尋常ではない。ある山にいられなくなれば、すぐに次の山を探さなければならない。


 ところで、飯綱といえば飯綱の法である。狐だの鼬だのを使ってなんぞ儀式をするというのだ。


「飯綱では狐を使える修験者がよーけおると聞くのだが、本当なのか?」


「管狐の事ですか。あれは外法でしょう」


 たづは意識的に感情を込めないで、殺した感情が怒りなのか悲しみなのかは分からないほど淡々と答えた。

表情が豊かな人物がこれほどとは、教学については思うところがあるということか。

外法とまで言い切ったのは、腹に据えかねる事があったのかもしれない。


「武家はみな怨敵調伏というて飯綱の法で祈祷してもらい、札だのなんだの貰っておるのに邪法というのは如何か。太平記にも、文観上人に荼吉尼天の法を用いて鎌倉を調伏させた帝がおると書いてあったぞ。天狗や狐の法にも意味があるのではないか」


「結果、南帝の血統は滅しましたが」


今度はもう俗信へのシニカルさを隠さなかった。

彼らが甲斐での遊行で失敗してしまった理由は、はっきりと物を言い過ぎるところにあったのか。それで若者たちを怒らせてしまったのではないか。

そういう性格だからこそ相論を避けなければならなかった。一度始まってしまえば徹底的に戦ってしまう自分たちを怖れてである。

あまり追及しても仕方のないところだから、こちらからは尋ねなかったが。


◆◆◆


いくらか世間話などするうちに、良い事を思いついた。


「数日ここにおると良い。富士へ行くのはいいが、あの辺りは国境が近くて安全とも限らん。じきに小山田のとこに行って、何か関を通れるような状をもらってくるといいだろう」


「それですが、小山田の出羽守殿は先の戦の傷の具合が良くないようで」


「それは隠さなくていいのか?」と目線を送ると、虎綱は「さあ?」という笑顔をくれた。もしかすると正月に会っていたことを把握しているのかもしれない。


「二人は薬は分かるか?」


 夫妻は頷いた。

この頃に西洋医学など無かったから、修験者たちは民間薬でもって呪術医的な治療を行っているようだ。


「上手くいけば小山田の家は郡内の主だから、そなたらを護ってくれるだろう。"七つ前なら神のうち"とも言うらしいが、出羽守殿は七つ前のわしのことを神だ女だと言っておるらしく、外法に目を曇らせている。そういうわけで、わしの名前を出せば必ず会うだろうから、そのうちそこの春日様に連れて行ってもらいなされ」


虎綱は『女』とわしが言ったところで少し笑っていた。夫妻はきょとんとした。

この頃の修験者は巫女と一緒に夫婦で活動していることが多かったのではないかと思います。

飯綱の法は実際に上杉謙信と武田信玄の双方に用いられたようで、荼枳尼天の法はそれの下敷きになった信仰の一つです。

通説によると後醍醐天皇と文観上人が荼枳尼天法を用いたとされ、外法を用いたと非難される原因ともなりましたが、実際には南朝方についた文観を追い落とすための難癖だったようです。


修験者とか山伏とか表記のゆれがありますが、だいたい同じ意味です。なんとなくここはこっちかなという程度で書き分けていますが、特に基準を以て書き分けているわけではありません。出羽守の名前等についても同様です。悪しからず。

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