後退
板垣信方という老将には三つの思い違いがあった。
一つ目は信濃の国人たちの士気の高さを甘く見ていたことである。
志賀城での厳しい戦後処理は、敵対する信濃の国人たちの団結力を高めていた。志賀城の籠城勢には多くの縁者がいて、その数は実際に籠城していた者たちの何倍もいることを軽視していた。
また、海野平以降の東信の国人たちは結集核を持たなかったが、今回は村上義清という明確な首領がいた。
今回は今までとは異なって、単なる寄せ集めではなかったのである。
一方で武田勢の矢沢源之助は合戦中に帰郷してしまった。
あまりにも堂々とした態度で出ていくものだから、引き留めようが無かったのもあるのだが、こんな普通では考えられないことが起きてしまうほど緩んでいた。
この差は大きすぎた。
二つ目は産川を村上勢が再び渡って攻撃することを予期していなかった。
一般に、冬は水が冷たいこともあって橋でもなければ渡渉時には進軍の速度が大幅に落ちる。だが、この時期の産川はあまりにも浅すぎて流れもほとんどなく、簡単に渡渉することができてしまった。
板垣勢は産川がどのような状態であるかを確認しなかったし、村上勢は地の利があってそのことをよく知っていた。
三つ目に信方は勝つことに麻痺していた。
晴信が家督を継承して以来、諏訪や佐久での武田軍は常に優勢な状況で戦っていた。晴信は少しでも不利を悟ると、さっさと撤退して戦うことをやめていたのである。
負けそうだったら戦わないのだから勝つに決まっていた。勝つか負けるかの読みに優れている大将がいてこその連戦連勝だった。兵が強かったわけでもなく将たちが優れていたのでもなかったのである。
実はこのことを晴信はあえて軍議で説明することがなかった。武田の強さを神話に変えて思い込ませることで、実際に強い兵を作り出そうと考えたからだろう。
思い込みは何よりも切れる刃になるが、自らも切れてしまう刃でもある。
もちろん信方にも敗北の苦い経験がないわけではない。
信虎に付き従っていた時代の甲斐では今川の頻繁な介入を受けて不利な状況に陥ることもあった。
だが、それはもう遠い過去の記憶になっていた。
◆◆◆
板垣勢は上田原の低い場所に陣を置いて、緒戦で得た戦利品などを交換などし始めたのであるが、ここで揉め事や喧嘩が発生し始めた。
敵前でそのようなことが起きること自体、完全に緊張感が抜けている証左であった。
今までの経験から言えば、信濃の国人は少し負けるとすぐに城へと逃げ込む。今回も山に引っ込んでしまったから、しばらく出てくることはないと思い込んでいた。
そこに突如として村上勢が押し寄せてきたのである。
わずかな地形の起伏を陰として利用し浅い産川に身体を濡らすことなく渡渉した。そのまま奇襲効果を得て、それを全く予期していなかった板垣勢の正面に出ていたのだ。
信方はある面で正しかった。
突如として鳴り響いた村上勢の法螺と陣太鼓の大音響に圧倒されて、勝ち目がないとみた雑兵たちは戦わずして逃げ出してしまった。先程までは勇ましく身内同士で喧嘩をしていたのに、いざ敵が出てくると我先にと逃げ始める。
あまりにも早いスピードで軍勢が崩れてしまったが故に逃げ遅れてしまった信方は、撤退の準備を始める前に討たれてしまった。
この風を読む力こそが武将たちに対して雑兵が持ち得た唯一の武器であった。
自らの命の価値が著しく低いことを知っており、それが故に生き残るために逃げることを辞さないのである。命の他に失う者がない者であるが故の"したたかさ"であった。
余談であるが、春日虎綱が後に『逃げ弾正』と呼ばれる秘訣はここにある。
武家に生まれては名誉を欲する必要があった。だから、飯富虎昌の赤備えのように領地を持たない武家の次男坊三男坊を集めれば、兵としては勇猛果敢で確かに強い。
だがそれは、逃げるタイミングを上手く読むことができず敗北と死が直結していることの裏返しでもある。しばしば、彼らは前線で使い捨てという立場に甘んじることになってしまった。
一方、百姓出身である虎綱はこの風向きの読み方に優れていた。兵の心を読んで撤退戦を上手に組み立てて生きて帰ってくることができた理由はこれである。
最終的に彼は戦場で死ぬことはなかったし、誰よりも晴信にとって役に立った。
閑話休題。軍勢が崩れるといっても、一気に全滅して終わりというわけではない。散り散りになって逃亡するのだ。しかもこれの性質が悪いのは、パニックが連鎖するところである。
次陣にいた武田信繁も逃亡してきた板垣の兵を収容したまでは良かった。だけれども、兵が更に後ろに逃げ出すものだから勢いに乗る村上勢を迎撃する態勢がとれないのである。
結局は信繁も含めて皆が本陣まで後退せざるを得なくなった。
これを執拗に追撃した村上勢の先鋒は晴信の旗本までをも追い散らし、晴信に迫った。旗本というのは晴信の親衛隊のようなものだから、絶対絶命であるかのように思えた。
そこを晴信陣の脇で郡内衆を率いていた小山田出羽守有信がこれをなんとか横から入ってきて食い止めると、慌てて駆け付けた脇備や後備が敵の先鋒を排除するのを援けた。
このとき晴信は本陣で微動だにしなかった。息も絶え絶えになって帰ってくる兵を、最後まで立ち尽くして待っていたのである。
出羽は晴信に声をかけた。
「屋形、そこに留まっていると危うい。これ以上は守れんやも知れんぞ。更に後ろへ引かれた方が良い」
晴信は淡々と答えた。
「出羽が来たのなら、儂は死なんだろう」
親同士は敵であった時期もあったはずなのだが、大した信頼を得たものである。
これ以上の攻撃は被害が増えるだけだと悟った村上勢は、伸びきった戦線を整えるために自陣に引き返していった。
出羽が率いる郡内衆の真横からの一撃は、村上勢先鋒の敢闘精神を見事にへし折った。戦況を見て出羽は言った。
「屋形の考えた通りになりそうだ」
晴信はぽつりと言った。
「板垣と甘利が死んだそうだ」
出羽はここで「それも屋形の考えた通りだろう」と皮肉ろうとしたが、やめた。晴信の目から涙が流れているのが見えたからである。
「呪いだな」
出羽は自分の身体にだけ響くように、声帯を震わせた。
◆◆◆
戦後、矢沢源之助は村上に帰参した。彼が甲府に人質として置いていた家族は兄の真田源太左衛門が預かることになった。
このことについて信虎時代からの家臣には周囲に文句を言う者もいたが、晴信がそれを認めていたから沙汰止みとなった。
ところで、板垣や甘利が信州で使っていた透波たちが宙に浮いてしまった。彼らは板垣や甘利の家中の者ではなく、晴信が貸し与えていた者たちだったからである。
真田はそれを任されたという。このことを知るのは晴信の他には駒井高白斎くらいで、他に知る者はなかったともいう。
プロット的には、ようやく甲斐編も半分くらいになってきました。もう一人の主人公は次編どころか次次編くらいにようやく登場させる予定なので、少なくともそこまでは絶対に書き続けたいと思います。




