本領帰還
天文十七年(1548年)春
矢沢源之助は矢沢郷にいた。まるでトートロジーのようであるが、この時代の姓というのは地名からとることが多い。武田氏だって武田庄にきた源氏だから武田氏なのである。逆に姓から地名になることもあり得るから紛らわしいのだが。
矢沢郷というのは浅間山の麓に位置していて、村上義清がこの小県郡という地域を支配する一大拠点としていた砥石城にも近く、真田本領の南側にある。
海野平の戦い以降、真田本領というのは村上支配の下にあって、矢沢郷も同様の運命を辿るかと思われたのだが、源之助は上手いこと立ち回って矢沢郷に帰還して支配を回復した。
源之助が村上方を抜けて武田方の下に入ることになってからは、武田が村上に突き付けた刃の切先となっていた。
これまで小県という地域の国人はほとんどが国外に出たか村上に帰参していた。だが小田井原の戦いで武田が圧勝してからというもの、武田方につく国人がぽつぽつと出始めた。
もちろん小田井原の戦いの結果として滅ぼされた笠原と仲の良かった国人も大勢いたから、それが大きな勢力となることはなかったが、この頃の信州人にはよくあるフラ付きが始まったのである。
そもそも村上と武田は、武田信虎時代から仲が悪かった。それでも両者は海野平で共同して滋野氏と戦うことで、小県と佐久を分け合おうとした。
ただ、晴信が信虎を追放すると諏訪と佐久の支配を固めて小県を窺うようになり、逆に義清は埴科から進出して小県の国人勢をまとめる事業が終わると、東信は緩衝の地から決戦の地へと姿を変えた。
妥協できるところがなくなったのである。共通の敵はもういないのだから互いに敵として戦うしかなかった。
矢沢郷の近隣でも小競り合いがいくらかあった。また、砥石からほど近い場所にある武田方の領地なのだから、村上が兵を出すことも考えられた。
だが、郷が荒れることはなかった。それどころか暗黙のうちに禁制が出たような場所になっていたのである。
それは村上方を抜ける際、源之助が義清に話を通していたからだろう。
源之助は兄の真田源太左衛門幸綱から仕入れた武田家中の情報を義清に直接流していて、それは義清にとって重要な情報だった。
また、源之助は兄の真田をどうにか説得して村上方に引き入れたいのだと申し出ていた。
真田の本領は村上の手元にあってそれを明け渡すつもりなど更々なかった義清は、ここで矢沢を無理に引き留めようとして、逆に逃げられても面倒だと考えた。だから失敗したら帰参するという約束でそれを認めた。
それはもう深い兄弟愛からきているのだろうと考えて、その熱意に押されて認めたというのもある。
義清はそういう部分で熱い男でもあった。名族だったからというだけで一大勢力を築くことができるほど、信州は楽な土地ではない。
血統ではなく、強さと熱さが義清の武器である。
ただ、あまりにも熱すぎたこの兄弟によって、数年後には全身火だるまとなって越後に逃げる羽目となる。
武田と村上と緊張状態を破る出来事があったのは年明けのことだった。
千曲川の左岸で起きたその出来事は、上田原の戦いと呼ばれている。矢沢郷があるのは右岸だったから、ちょうど対岸の火事ならぬ対岸の合戦が行われた。
対岸とはいえど、源之助はこの合戦を見ていたのみではなく、武田方で参戦している。ただ、あまり働くこともなく途中で帰ってきたのだが。
◆◆◆
村上義清が兵を集め始めたという一報を受けると、武田晴信はすぐに兵をまとめて甲府を出発し諏訪を経由して小県へと進んだ。
村上勢が兵を集めたのは、小山田出羽守信有が正月も早々に甲斐国郡内の兵を率いて諏訪の上原城に入ったからだ。彼が三郎と会ったのはこの合間を縫ってのことだった。つまり村上勢は武田勢が攻勢の準備を始めたのに反応したのだから、事実上は武田から仕掛けたということである。
この地域の大河である千曲川には産川という支流があって、この産川の西にある山に村上勢が陣取り、東側の山には武田勢が陣取った。
武田勢の先陣を切っていたのは板垣信方であった。板垣信方は武田氏の信濃支配の拠点である諏訪郡代であり、筆頭家老でもあった家中で最も強い権勢を誇る重鎮として知られていた。
実は真田幸綱と源之助の兄弟が武田晴信に先陣を願い出た方が先だったのである。この兄弟にとって真田本領を取り返す好機だったから、ここで手柄を上げたいと考えるのは当然だ。
それを信方は横から入ってきて奪い取ろうとした。
信方の言うことも分からないでもない。重臣である自分を差し置いて、最近降ったばかりの信濃の国人に大事な役目を任せるわけにはいかないのである。
晴信はこれを認めて信方に先陣を任せると、その言葉には何の思い入れもなさそうに信方に一つだけ言付けた。
「あまり逸るな」
幸綱には、信方に先陣を任せたことが晴信にとって明らかな失策となるように見えた。
最近の信方は明らかに勝ち過ぎており、小田井原はたまたま勝ったから良かったものの、彼は突出していて非常に危うい位置にいたのだ。
第一、晴信がそのように言ったからといって聞くはずもないように思えた。むしろ意地を張ってさらに前に出る可能性の方が高い。というか、信方は晴信の言うことを鼻で笑って本陣から出て行ったから、そうなるに決まっている。
晴信は本陣を出ていく信方の姿を見届けてから、兄弟に小さな声で話しかけた。
幸綱がそれにいくつか質問を加えると、晴信は答えて源之助の方を向いた。
そして源之助が頷き、話は終わった。
結局、幸綱は後陣にいたままとなり、源之助はこの板垣勢の脇にくっついて進むことになった。
信方はこれについても源之助に文句をつけたのだが、源之助は「これは晴信の命だ」といって意に介さないので、見なかったことにして突き進んでいった。
ここで村上勢は橋頭保が築こうと産川を渡っているのが見えた。板垣勢は勢いをつけてこれを追い散らして、いくらかの首を取った。
源之助は信方のところに出向いた。
「此度の戦は板垣様がおられます故、拙者の出番はなさそうでございますな。村上も勢いに飲み込まれておりますから産川を渡ろうとは考えないでしょう。むしろ、もう撤収の準備を始めているようにも見えます。追撃の好機が待っておるかもしれませんが、板垣様がおっては大した槍働きもできんでしょうな。このまま先陣にいても意味がないので、本領の矢沢郷に戻って防備を固めることにします。屋形様には宜しくお伝えください」
源之助はこう言って勝手に矢沢郷に帰ってしまった。
この際、源之助がいた位置はそのままにされて板垣勢の陣形にはぽっかりと穴が開いていたのだが、矢沢の手勢の数などたかが知れていると気に留めるものはなかった。
板垣信方は言った。
「信州の戦はあのような臆病者ばかりだから楽でよいな。先代が甲州を統一する際の戦はこんな程度ではなかった。信州に強兵を見たことがない。あそこにいる連中も同じだろう、逃げる準備ばかりしているのだ」
こうして源之助の態度を謗り、対岸を指して村上勢を嘲った。板垣の陣中ではどっと笑いが起きた。
また、第二陣となる武田信繁勢はなかなか動き出さないことにも気付いた。
信繁は動かなかったのではなく動けなかった。晴信の本陣がなかなか動き出そうとしないのだから当然である。
これをみて信方はまた言った。
「あれだから先代は典厩殿に家督を譲ろうなどと考えたのだ。この板垣がおらんかったら駿河にいるのは屋形だったろうな」
信方の言う通り、先代当主の信虎は晴信よりも信繁を可愛がった。それはともかく、結果からみるとこれは驕りだったのだが、これを指して信方が前に出るばかりの能無しだったというわけもいかない。
源之助がへりくだった態度をとっていたのは慇懃無礼だと考えて少し怒っていたのは勿論だが、戦勝の勢いを殺したくなかったというのも大きい。
この頃の兵に重要なのは"勝っている"という事実だった。勝つから戦うのであって、負けるなら最初から戦わない。
足軽や雑兵なんてものに義理も人情もなく、武士道なんてものは影も形もない。
だからこそ勝っているというアピールを常に行わなくてはならない。
ただ、信方は少しやりすぎていた。
いくらなんでも当主を謗ってはならないし、自身それに飲み込まれるのは以ての外だからである。




