御先
わしはまた素朴な疑問が浮かんだ。
「認知されておるのか?」
「ええ、まあ」
「顔も見ることなく、よくそんなことが出来るものだな。驚いた」
「お産まれになってすぐに一度だけ見ておると春日に伺いましたが。覚えがありませんか?」
「あるはずないだろう」
呆れた父親である。出羽は沸かした湯を器に入れ、こちらに突き出して問うた。
「驚かれないのですか?」
口をつけて喉をしめらせてから、息継ぎもなしに早口で一気に答えた。
「父が誰であるかは推測していたから全く驚かないが、誰もそのことは口には出したことがない。そのことを口に出して明らかにしたのは出羽殿、そなたが初めてである。それについては驚いている。屋形の子について人々の口を噤ませ得る人物は、結局のところ屋形しかおらん。出羽殿は屋形の許しを得てそのような話をしているとは思えんのだが、そこが分からん」
自分でも何かが乗り移ったような話し方だなとは思ったが、この身体の癖なのだろう。自分で話していて気味が悪かった。
ところで、わしの父について口にする者は僧の中でも誰一人としてなかった。知っていて話さなかった者もいただろうし、単に知らなかっただけという者もいるだろう。
初めて直接的に指摘したのは矢沢源之助である。矢沢が武田に臣従したのは、屈したわけでもなければ主君にふさわしいと選んだのでもなく、単に兄が呼ぶから来ただけではある。だから、矢沢はわしを「虎の子」と呼べた。
しかし、外様とはいえ武田に従う兄を持つ矢沢にとって、当主晴信の名は簡単に出すわけにいかないのも事実だった。わしのことを「虎の子」と呼ぶのは、彼なりの兄弟愛からくる限界を示していた。
このように、誰もがあからさまに事実を指摘することを避けていた。
後継者の長男が家督を継承する階段を登っている。何もなければ太郎は武田の次の当主になるだろう。
どこに養子に出すわけでもなく、所業が悪いことだけが噂になっているような、どのような理由で幽閉され、どのような人物か分らない庶子の三男坊。これが邪魔者なのは明らかである。
こういう子は良ければ坊主、悪ければ死ぬのが相場だ。巻き添えにならないようにしておく程度の処世術がなければ、この時代は生き抜いてはいけない。
そういう意味で真田と矢沢は蛮勇の持ち主である。
出羽はわしの話し方がおかしかったのか少し苦笑した後、少し芝居がかって言った。
「ほーお、感心しましたな。春日は本当に話しておりませんでしたか。それに、真田という信濃の人ともお会いになっていたのに、やはりそのことを話すことがなかった?」
「よう知っておるな」
「このところの春日は屋形に最も近い人物でしょう」
「しかしなあ、それ以外にほとんど誰も来なかったし、来た者は父について何も言わなかった。よほど皆から忌まれておるのだろうな」
「そうでもありますまい、春日は百姓の出で何を考えているのかが全く読めん。それが怖いから誰もが避けるだけのことかと」
出羽は少し励ますように言った。
ただ、来た者たちですら「父」であることには言及せずに済むように話していたのは、かなりまずい。決定的なところで踏ん切りがつかない程度には、わしに親近感を持っていないことを意味しているからだ。
こうも孤立しているのは自分の行いに原因がある。
僧たちが畏れているのをいいことに遊び惚けていたから虎綱は呆れていただろうし、真田についても今考えてみれば嫌われておったのは自業自得かなという気がする。
わしは敵意を持ったつもりがなかったのに「会いたくなかった」と言われてしまうのは、初めて顔を合わせた際にわしが調子に乗りすぎていたからだろう。
自分としてはちょっかいを出して情報でも引き出せればいいなんて軽い考えだったけれど、あの振る舞いは良くなかった。矢沢がいなければ二度と来なかっただろう。没交渉とならなかったのは単なる幸運であった。
孤立しているのが悪いことだとは限らない。要らぬ友人は危険に近付けようとするだろう。
そういう強がりはいくらでも思いつくのだが、やはり弱気になってきた。
彼らが畏れていたのはわしではなく、その背景にある血筋でしかないということを軽視していたと思う。
自らの神性に溺れて他人を馬鹿にするようなことばかりしているから嫌われて痛い目に遭うのだ。これでは虎の子というよりも鬼の子だ。しかし因果応報である。
あまり悪いことを考えないよう気を取り直すことにした。扇子で頬をペタペタと叩く。こうすると、とりあえずは気分が落ち着く。
「それで結局何用で参ったのか」
「これから如何なさる?家督は争われるおつもりで?」
「そのようなことが出来るはずないだろう。太郎殿は"正統"で"正当"だ。わしは坊主でもいいから駿河か相模にでも出してほしいかと思う。ただし、屋形がそれを認めても太郎殿に代替わりとなれば、それを続けて認めてくれるかは分からんな。どうしたものか」
「典厩殿という例もありますが」
典厩というのは武田信繁のことである。彼は晴信の弟なのだが、能力も教養はもちろんのこと、人柄も高く評価されていた。要するにわしにとっては例にならない。
「わしは今のところ坊主にして外に出せと喚いている狐憑きだが、典厩殿はそのような御人柄だったのか?」
「違いますな」
出羽はわしの混ぜっ返しをまともに相手しなかった。こちらに視線を据え、大きく口から息を吸って鼻から吐いた。そしてまた口から吸い込んでから、ゆっくり確かめるように言った。
「晴信にかけられた呪いを破ってやってくれ」
このときの出羽は晴信の家臣として言ったのではなく、晴信の従兄弟として言ったのだと思う。呼び捨てにするというのは、そういうことだろう。
「そうすれば三郎様が欲する物は手に入るでしょう」
出羽は言い切ると、静かに炎に視線を落とした。烏の鳴き声が外から響いてきた。数の大きな群れだったようで鳴き声が止むことがない。二人して天井を見上げた。
「承知した」
「成りますか」
「どうだろうな。だが、成せる者はわしの他にないだろう」
◆◆◆
酒折宮へ戻ってへべれけとなった師家を迎えた。彼はやたらと酒に弱いようで足取りも確かではなかったが、なんとか帰ることができそうだった。
道のりも半分くらいのところで、預かった餅を宮に納めるという使命を思い出した。だが、もう一度向かうには少し遠すぎた。
餅を道に置いて少し待った。先程からわしを追い回すように上空を回っていた烏の大群が一挙に集って、あっという間に餅は姿を消した。
「からーすからす」
「みさーぎみさぎ」
烏の群れは灰色の雲を払う儀式を行うように円を描くと雲に隠れていた太陽が姿を現した。それを見届けると烏の一群は南西へ飛び去った。
小山田出羽守の母は武田信虎の妹です




